タイトルイメージ
本文へジャンプ  

 


ツブヤキ断想集
時代とサブ・カルチャー



 70年代が抱えていた貧困/栄光といつわりの自分/全共闘の反動としてのポップ・カルチャー/アンチ労働主義はジェンダー問題でもある/男を労働機械にしたもの/悪役とはだれのことだったのだろう/




   '70年代が抱えていた貧困       01/1/18.


 子どものころに見ていたTVやアニメを、オトナになった自分の目からなにが語られていたのか改めて知りたいと思っているのだが、なかなかそういう趣向のよい本は見かけない。

 たまたま芸文社から出ている岩佐陽一『なつかしのTV青春アルバム―清貧編―』という本を見つけることができた。この中から驚嘆される出来事をいくつかピック・アップしたいと思うのだが、ほとんど書き写すだけになると思うが、ごカンベンのほどを。

 著者がいうには70年代のサブカル作品が支持されるのは、70年代がいちばん貧乏な時代だったからだという。60年代はみんな貧乏、80年代はみんな裕福、だからこそ貧乏が際立って見えたというわけだ。

 『あしたのジョー』(69年)も『巨人の星』(69年)もみんな貧乏だった。星飛雄馬の父は日雇い人夫で、四畳半ふた間の長屋暮らし。ひざとおしりに継ぎ当てをしている。ジョーのジムは川辺に建てられている。貧乏ゆえにすさまじいハングリー根性をもっている。しかしいずれも成功の頂点で燃え尽きるように消えてゆく。高度成長時代のひずみと矛盾の顕在化と重ねることができる。

 そのあとヒットしたのが『子連れ狼』だ。父と子が乳母車ひとつでさすらう話だが、いかにも悲哀と貧乏にあふれている情景だ。『シルバー仮面』(71年)という怪獣モノは兄弟が帰る家もなし、親もなしといって日本中をさすらう設定になっている。ヒーローがである。

 『タイガーマスク』(69年)なんてみなし児を救うためにプロレスで稼いだお金を匿名で寄付する話である。日本の子どもはそんなみなし児のような貧乏な気持ちで暮らしていたのだろう。

 『アパッチ野球軍』(72年)も『てんとう虫の歌』(75年)も見覚えがあるが、前者は四国の離れ小島でのケモノのような田舎少年の野球物語、後者は孤児たちがバイトをしながら小学生の兄弟だけでたくましく生きてゆくという話である。東京でない地方の話や生活苦をのりこえる話などが成立していたというのは時代を感じさせる。

 カラーの『ゲゲゲの鬼太郎』(71年)は、貧乏や怨念が妖怪というかたちをとったと読むことができるが、やはり企業批判や科学文明批判、公害問題など大人顔負けの問題をとりあつかっていたようだ。ねずみ男は貪欲に儲けを追究する人間のモデルとして描かれているが、そのバツとしてか、いつも貧乏から脱け出せない。

 少年マンガとかTVというのはけっこう深刻な社会派のテーマをもっていたりする。いぜん夜中にやっていた『キャシャーン』を見ていたら、これは完全に機械文明批判ではないかと驚いたことがある。思い出せば『仮面の忍者赤影』なんて金目教とか出てきて、宗教批判とか盲従する民衆への批判とかがくり広げられていたように思う。ほんとオトナ顔負けの社会批判である。

 時代はすこしさかのぼるが、『砂の器』『飢餓海峡』『人間の証明』といった映画には成功間近になって貧困時代の過ちのせいで没落する話が出てくる。日本人は戦後の貧困をくぐりぬけるなかでこのような重荷を背負わなければならなかったのである。

 そして80年代に入るとトレンディ・ドラマの走りである『ふぞろいの林檎たち』(83年)がはじまる。もうこの時代には貧乏という言葉は死滅しつつあったのだが、「モノはたくさんあるのに、なにか物足りない」ことを若者たちは感じはじめる。「なにが物足りないのだろう?」

 「つまんねえよ。仕事ばっかりなんてよう。つまんねえよ」―これは団塊の世代のひとりがいうセリフである

 このとき発せられた「物足りなさ」はいまだに解決を見ずにいまもずっとつづいている。いったいわれわれはなにを求めたらいいのだろう……?

 このような時代にいたって、あらためて70年代や戦後の貧乏とはいったいなんだったんだろうと考えたくなる。貧乏とは絶対に脱出されるべき何かであり、金持ちとはだれもが目指さなければならなかった何かであったのだろうか……。





    栄光といつわりの自分     01/01/22.


 小此木啓吾『「本当の自分」をどうみつけるか』(講談社+α文庫)は、サブタイトルにあるように名作映画を精神分析で読み解く本である。十年分の映画をまとめて観終わった気分だ。この本は電車で読んでいたのだが、思わず感極まって何度も涙がこみあげてきて困った。

 どれも名ストーリーぞろいなのだが、個人的に感動した作品を何作かとりあげる。

 まずは『太陽は夜も輝く』、イタリアの90年の作品だ。原作はトルストイの『神父セルギイ』。貴族で挫折した男が、こんどは聖者として祭り上げられるが、栄光や賞賛を捨てられない自分が潜んでいた。その対比として、ともに死ぬことを願った無名の老夫婦の素朴な生き方が描かれ、栄光をもとめた男の欲望が浮き彫りにされる。

 『トト・ザ・ヒーロー』(91年フランス)の愛称トトは隣近所の裕福な家庭にあこがれ、自分はそこの子どもなのだと思いこむ。生涯ずっとこの羨望と復讐心を抱えたまま老年まで生きてゆくのだが、その相手からじつは君が羨ましくて仕方がなかったと告げられる。生きがいを失った主人公は殺し屋に狙われる相手の身代わりになって殺される。

 『黒い瞳』(87年イタリア)はマルチェロ・マストロヤンニ主演、チェーホフ『小犬を連れた奥さん』などが原作の映画である。富豪と結婚した男が中年になってロシア女性に恋するが、彼女への想いもとげられず、家庭も失って、定期船のウェイターとなってしまう話である。皮肉なことにこの思い出話をつげる相手の妻になる女性がその愛したロシア女性だった。

 人は中年になると、それまでの成功や地位、家庭などの意味がゆらぐことになるようである。社会的体裁や世間体のためにつちかってきたこれまでの自分が偽りであり、愚かしく、欺瞞的に感じられるようになる。人生をやり直したい、偽りの仮面をはぎとって、本当の自分になりたい。もうチャンスがないと思う。これは中年の「上昇停止症候群」や「里帰り願望」とよばれるそうである。

 同じ主題をあつかったものとして、30年ドイツの『嘆きの天使』は教師が踊り子に魅せられ、破滅の道をたどり、55年フランスの『ヘッド・ライト』では生活に疲れ切った中年男ジャン・ギャバンが冷え切った家庭と人生半ばを過ぎて希望のない日々に戻らざるを得ない結末を迎えている。

 しかし69年アメリカの『アレジメント』(カーク・ダグラス主演)は成功した広告業と大会社令嬢の妻を捨てでも、愛した女性といっしょになり、もとの貧しいギリシャ移民にもどったことで、このうえもない心の安らぎを得ることが描かれるようになる。そのあとの84年『恋におちて』や95年『マディソン郡の橋』では離婚社会を背景にして第二の恋が肯定的に描かれている。

 いずれも「ほんとうの自分」とはなにか、青年期にめざした社会的成功や栄光とはなんだったのかと深く考えさせられる物語である。人は金持ちや栄光に憧れる。がむしゃらに走りつづけ、そしてそれを手に入れる。しかしふとした瞬間にぽっかりと心に空隙が空いていることに気づく。

 ほんとうに自分がほしかったものはなにか、自分はなにを求めているのだろうか。『黒い瞳』はそれに気づいたあとでも、すべてを失ってしまう物語であったから、強く印象に残った。あるいはすべてを失ってでも、貧しい自分に戻りたかっただけなのかもしれない。それこそが、ほんとうの自分が求めていたものかもしれない。

 これらの物語は戦後日本の姿に重ねられることもできる。がむしゃらに追い求めてきた富や栄光を目の前にしていいようのない閉塞感や虚無感にむしばまれている。われわれはこれらの映画のどの主人公のような道をたどることになるのだろうか。





   全共闘の反動としてのポップ・カルチャー     01/1/23.


 80年代、ワケもわからなく「ネアカがよい、ネクラは悪い」といった風潮に、中学生だった私は巻き込まれた。思索や文学することはネクラなことで、ブームだった漫才師のようなネアカな人間にならなければならないという強迫観念が押し寄せてきた。

 このころの私はそんなに思索好きでも、深刻な人間でもない、マンガとかSF映画とかを好むちゃらんぽらんな人間だったのだが、このネアカ・ブームにはやっぱり腹を立てた。なんでマジメに考えたり、思索することが悪なのか、歴史を知らない、時代に閉じ込められていた私は思っていた。

 のちになって60年代後半の学生運動や全共闘などの経過や挫折の結果であることを知るようになるのだが、これは書物や活字などからの情報によるもので、どうも時代や歴史の流れとしての実感がとぼしい。その当時の雰囲気や人々の意識といったものをもう直に感じることはできないからだ。

 このときの挫折とショックがよほど激しかったのだろう、当の団塊世代たちはばりばりの順応主義と現状維持主義、会社中心主義や消費社会の世の中をつくっていった。政治とか思索とか、権威とかをぜんぶ捨て去っていって、現在のカネだけの世の中をつくった。

 変革思想の失敗や反省から、のちに育った世代はファッションやポップ・カルチャーの奔流のなかにもまれることになる。もう政治や変革に希望をかけるのはよそう、小市民的な幸福を断固として求める、という時代になってゆく。TVやマンガ、映画、音楽、ファッションといった享楽的なサブ・カルチャーがのちの世代に、ラディカルな思想を排斥したかたちで、押し寄せることになる。

 現在の自閉的で自家消費的なサブ・カルチャーの奔流というのは、変革思想に希望をもった世代の反省や挫折、反動としてもたらされたものなのである。政治や社会との関わりを断ったその流れは必然として、自閉的なオタク・カルチャーにゆきつく。

 この社会は極端から極端に走ったワケだ。社会や政治を変えられると世界相手に闘った時代から、それらをすべて排斥したうえで、マンガや音楽のみにある夢想的な幸福を追い求める時代になった。ネクラ排斥はそのミニマムな幸福が完成する過程においておこったというわけだ。

 さて、そのような狭く閉じ込められた幸福の流れは現在もずっとつづいている。変革もほかの可能性も失われたポップ・カルチャーの幸福のみがひたすら追求されている。人々はかつて抱いたような変革や改革といった発想を一向に持たないまま、この狭い世界のなかで息苦しさや虚無感を感じながら、家庭や学校などの狭い閉鎖的な空間で暴力をふるったりして、なんとか計画人生をやり過ごそうともがいている。

 なにが必要なのか。もう世界相手の変革の思想はとうぶん生まれないだろう。息苦しさや閉塞感はどのようにしたら、払拭できるのだろうか。極端にゆれすぎた針をもう少し中間のところにもってゆく必要があるのだろう。ポップ・カルチャーはたしかに魅力的であり、楽しいものであるが、自閉的な慰めだけを楽しみに人生を生きてゆくというのは少々情けなさ過ぎると私は感じるのだが。






    アンチ労働主義は、ジェンダー問題でもある    01/1/27.


 仕事と会社だけの人生を送りたくないとずっと私は思ってきたのだが、これってジェンダー問題からも光を当てなければならないと改めて思う。つまり男が稼ぎ、女が家庭を守るといったしくみである。

 私はとにかく仕事と会社だけに終わる人生なんてまっぴらだとずっと思ってきた。そんな人生なんて生きがいも、生きている意味も価値もないと思ってきた。こういう価値観をもっていると、必然的に男に食わしてもらおうと思っている女性たちのジョーシキとぶつかることになる。

 女は当たり前のように男が稼ぎ、男からプレゼントをもらったり、食わせてもらえるものだと思いこんでいる。私のアンチ労働主義の気分には、そういう女性たちにたいする反逆や拒絶の気持ちが潜んでいるのかもしれない。

 なんで男だからといって馬車馬のように働き、女や家庭のための「人柱」のような生き方をしなければならないのかと思っている。しかしこういう考え方は、あまりにも自分主義すぎたり、利己主義的すぎたりするので、あまり明確に意識したことはないまま、あいまいにしてきたけど、やっぱり心の奥底にはそういう漠然とした不満をもちつづけていたように思う。

 まあ、私は親の離婚問題で女側の功利的な視点ばかり与えられたから、男としてよけい反発する気持ちが強いのかもしれない。個人的な母への恨みなのだろうか。

 キャリア・ウーマンやフェミニズムなどで自立した、男に頼らない価値観もたしかに増えてきた。といってもまわりの現実はやっぱり男が稼ぎ、女は守られるといった常識が、恋愛や家族を基軸にしてまかり通っている。男と女の関係として、あらがたいがたい、あるいは当たり前すぎて問題にされることもない常識として、世を覆っている。

 一部の女性たちは女の差別や搾取を撤廃しろと声をあげている。女は差別されている、劣位におかれているといっているが、その見返りとして男に保護されてぬくぬくしている女性もたくさんいる。

 共犯関係である。女は差別される代わりに男の労働を搾取し、男はその見返りとして支配欲や権力を満足させられているのである。そういう関係を無視して、サベツだのサクシュだのだけを叫ぶのは、あまりにも一方的だと思う。

 私としては、女の差別や搾取をうんぬんする前に、仕事と会社に人生を奪われる男を救け出してほしいと思う。まずこっちの悲惨や疎外に焦点を当てるべきではないかと思う。男はほんとうに女を支配し搾取する立場ばかりなのだろうか。男はほんとうに強者で、女をかしずかせる権力者で、そして心から幸福だと思っているのだろうか。

 朝から晩まで会社に奪われ、そんな一生が間断もなくつづく男の一生がはたして幸福で、これが権力者の姿だといえるのだろうか。私はこんな一生にずっと疑問を抱いてきたが、そういう生涯に追い込む男女関係や社会のあり方をあらためて問い直さなければならないと思う。





    男を労働機械にしたもの      01/1/30.


 男の人生を仕事と会社だけに奪われる生涯にしたのは、ある意味では、女性である。あるいは女性との関係である。または男がソトで働き、女がイエを守るといった社会的常識である。

 こんな常識はだれが求め、だれが必要としたのだろうか。男だろうか、女だろうか。どちらが先に求めたのだろうか。どっちがトクをしたのだろうか。戦後の女性の言い分では男である。女性には選挙権や職業の平等がなかったからだ。

 トクをしたはずの男は働き尽くめの生涯を余儀なくされ、会社に生涯を縛られる。過労死の危険も男につきまとう。自由な時間や消費、娯楽の享受といった面では、男のどこがトクなのかと聞きたくなる。

 このような性別役割の分業をもくろんだのは、国家か企業のどちらだろうか。国家の税制は主婦のパートの105万円までの税控除と、専業主婦の年金・保険の控除といううしろだてによって女性の社会化を抑えてきた。

 出産や育児の仕事は国益だからだろうか。女性の育児一本化によって、男は家庭や育児から切断されて、さあ企業の前で丸裸である。24時間どう扱きつかおうが、国家の労働力は主婦によって再生産される。性役割分業は男の企業戦士化にじゅうぶんの効果をはたした。

 家庭や育児は男にとっても企業戦士化の防波堤ではなかったのか。専業主婦の登場によって男は言い訳を失ったのではないか。国家と企業は手をたずさえて、男の企業戦士化と労働力再生産の両方を手に入れたわけである。

 国家と企業のたくらみといっても、ではなぜ民衆はその役割を喜んで受け入れたのか。シンデレラ・ストーリーのプロパガンダが国家と企業によって流され、それが効を奏したというのだろうか。女は男に養われるのが幸福のゴールというのは政府と企業による洗脳なのか。

 でもそれは強制というよりか、一部の者をのぞき、みんなが喜んで受け入れているものである。恋愛至上主義はマスコミや娯楽産業の一大産業である。われわれは国家や企業にころりとだまされるほど、バカなのだろうか。

 企業のなかでは女性も適齢期を過ぎると、企業のリストラの対象にされることもあるし、ふつうのオッサンたちもいい目で見ないようになる。会社とふつうのオッサンがグルになって社会的圧力をかけて、女の居場所をなくすようにしている。首謀者はだれなのか。

 戦後のがむしゃら経済システムはもう絶対に見直すべきだ。性分業をもたらす税制は検討する必要があると思うし、性分業の社会的意識も改めてゆくべきだろう。

 女が政治や経済の分野で(タテマエの)平等を手に入れたのなら、こんどはぜひとも企業に囚われた男を救って!ほしいものだ。男の悲惨や不公平にも目を向けてくれということである。





   悪役とは、「だれ」のことだったのだろう     01/1/31.


 子どものころに観たTVマンガや特撮モノというのは必ず「悪役」が出てきて、「正義の味方」がかれらを倒してゆくという単純明快な空想物語だった。

 しかし空想物語だといっても、現実になんらかの脅威や怖れがないことには子どもが好むものとはならない。悪役とはいったいだれのことだったのだろうか。

 悪役はたいてい地球を支配しにきたり、侵略しにきたり、人類を殺しにきたり、悪の世界に変えるといったものだ。つまり国家戦争を教えられていたのだろうか。

 敗戦後まもなく力道山がヒーローになった。外人レスラーをばたばたと倒してゆくカタルシスに酔ったわけだ。子どものヒーローものも、あいかわらずそういった国家イデオロギーをくり返していたのだろうか。

 子どもに限らず大人も正義と悪がきっぱりと分けられた単純な図式が好きだ。目的や規範が明確になるうえ、人々の結集も得られる。そしていつも自分たちが正義である。イラクとアメリカがおたがいに正義だと信じたように。

 しかしヒーローものは戦争アレルギーの戦後社会においてずっと戦争プロパガンダをしていたとは考えにくい。あるいは政治レベルではない、商業ベースにおいて人間の本能たる闘争本能はずっと駆り立てられていたのか。

 ショービジネスの力道山のように満たされないカタルシスを空想物語で満たすのは無害なことである。虚構が現実にはみ出そうとしないかぎり、敵をたおす虚構は現実のいやな気分やつらい気分を吹き飛ばしてくれる。そういう機能なのだろうか。

 悪役とは、心理的にいえば、困難や逆境のことともいえるかもしれない。そういった境遇に追い込まれたときの心の持ちよう、脱出法、勇気や奮闘といったものを教える。励ましである。現実に敵国がいない以上、困難な状況での心理的な勇気を子どもマンガは教えていたのかもしれない。敵とは、われわれを脅威や困難に追い込むものの具象である。

 悪をやっつける単純なヒーローものでは、困難は絶対的な悪であり、力でねじ伏せなければならないものである。しかし子どもモノといっても、すべてが悪ばかりではない、グレーの部分もちゃんと描いている。『デビルマン』や『タイガーマスク』は悪からやってきたものであり、『キャシャーン』は悪の部分に入ってゆき、『キカイダー』は悪になったりした。必ずしも悪役をすべてやっつけ、困難に打ち克つだけのヒーローが描かれていたわけではない。

 困難や逆境と融和する、あるいは理解する方向も呈示されている。敵に打ち勝つだけのヒーローでは敵を悪一色に染める単純な認識レベルしかもちえないだろう。

 まあ、われわれは子どものころ敵や悪(家族や子どもがいるかもしれない者)を容赦なく倒してゆくヒーローものを見て興奮を覚えたわけだが、同時に悪役が全面的に悪でもないことも学んでいったはずである。それは現実のさまざまな人たちや世界の各国にも適用できることである。

 正義とか悪、上下とか優劣とか一面的な単純なものの見方しかできない人はもう一度TVマンガを復習する必要があるのかもしれませんね。あるいは一面的な悪しか提示できなかった作品も多かったかもれしないし、そういう作品こそもっとも胸がスカっとして人気が高かったかもしれないし、権力や成功を得るにはこちらのほうが有利なのかもしれないが、たぶんそんな単純な世界にだれひとりとして、いつまでも憩うことなどできやしないと思う。




ご意見ご感想お待ちしております!    ues@leo.interq.or.jp


 前の断想集 21世紀につぶやく断想集

 2001年冬の書評集「サブカルチャー分析ほか」

 |TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|






























『あしたのジョー』

『巨人の星』

『子連れ狼』










































『「本当の自分」をどうみつけるか』 小此木啓吾 講談社プラスアルファ文庫


























































































































































































































ショッカー
   
inserted by FC2 system