タイトルイメージ
本文へジャンプ
▼テーマはセックスの交換関係 

 


つぶやき断想集
終身愛と「有料セックス資本主義」




   企業が子どもを減らした     00/8/16.


 森永卓郎の『非婚のすすめ』(講談社現代新書)をいま読んでいる。これによると、戦後の核家族化は企業の政策やマインドコントロールになされたということだ。

 子どもがいっぱいいると子育てに手間をとられ、生産性の向上がのぞめない。また企業は家族手当や配偶者の生活保証まで約束したから、とうぜん少子のほうがいい。

 ということで戦後の家族は企業によって核家族化された。1955年には117万件という人工中絶数の犠牲をはらみながら。

 われわれの生まれ育った家族のかたちというのは企業によってつくられたものであったのである。企業の子どもみたいなものである。

 戦後の核家族は戦前の大家族の因習やくびきからの解放と理想化して語られているが、なんのことはない、企業の生産性向上のため、家族は解体・変形させられたのである。

 ちなみに戦前の大家族は日中戦争から太平洋戦争にかけて、兵力と労働力確保のために結婚を三年早め、子どもを五人生めという政府の政策によるものである。

 われわれの家族というのは政府や企業のそのときの事情により、殖やされたり、減らされたりして、管理統制されてきたわけだ。そういえば戦前生まれの私の母の兄弟は国策どおりの5、6人である。

 企業がわれわれの家族の数まで管理統制していたというのはちょっと恐ろしい気がする。われわれはほんと、企業によってかたちづくられ、育まれたともいえるからだ。企業の手のひらでわれわれはもてあそばれているというわけだ。

 離婚などの家庭崩壊が騒がれてひさしいが、じつは明治初期には四割近い離婚率があったそうである。転職率も世界一高かったそうである。ストイックに企業への忠誠とかダンナへの生涯の愛というのは、戦後のバカなサラリーマン家庭だけに通用したイデオロギーにしかすぎない。

 げんざいの家族のすがたを普遍化したり、不変のものと思ってはならない。それは国や企業の要請や時代の要求によってかたちづくられてきたものである。

 企業が終身雇用を捨て去り、市場主義や消費の自由を追求してゆけば、家族はますます解体してゆき、個人はばらばらになってゆくことだろう。よいか悪いかは別にして、確実にそういう方向に進んでゆくことだろう。

 これらの問題を倫理や道徳の角度ばかりから捉えるのではなくて、経済の要請や状況によってかたちづくられると考えるほうがより客観的で妥当である。





    終身恋愛観と終身雇用        00/8/17.


 戦後の核家族が企業の生産性向上のためにかたちづくられたのとするのなら、結婚にいたる恋愛観もとうぜん企業の効率のためにかたちづくられたと見てよいだろう。

 企業の終身雇用は、夫婦の終身結婚制につながり、恋愛の終身愛へとつながってゆく。われわれの世代が奉ずる終身愛というのは、企業の終身雇用のコインの表裏である。

 企業や経済の要請や効率により従ったのだが、げんざいの恋愛観である。ひとりの人を一生涯愛するという恋愛観はすばらしいものかもしれないが、これは終身雇用という企業の戦略によって支えられているものである。

 終身愛というのはかならずしもいつの時代もどんな地域でも普遍的に存在し、絶対的なものであるというわけではない。あくまでも企業の終身雇用思想の産物である。もうすこしいえば、社会主義的な産物である。

 会社に一生尽くすことにより社員は生涯を保障される。終身結婚制や終身愛というのはその約束の信念である。終身保障の約束にたいする宗教的・神格化にまで高められた信念である。

 しかし90年代に入って聖域だった終身雇用も崩れだしたのに、そのコインの裏だった終身愛を誓う恋愛の唄は恐ろしいほどミュージック・シーンを席巻している。だれもかれもが甘い愛の唄ばかり唄うこの現状は異常ではないか、もしくはだれもそう思わないのだろうか。

 恋愛の唄というのは異性にたいする愛を唄っていながら、おそらく心情的には企業にたいする忠誠や愛をも含有しているのだと思う。サラリーマンの男は終身愛を誓った女の安定のために企業への終身忠誠を誓う。すべてパラレルである。

 願望なのかもしれない。変わる経済情勢、市場化してゆく経済にたいする過去の終身雇用の郷愁、過去への逆行を願っているのだろうか。呪術的なものともいえる。

 土地神話が崩壊する前、土地は最後にバブルによって猛烈な高値をつけた。終身愛や終身結婚制にたいする最後の幻想的なバブルがいま起こっているのだろうか。

 終身愛や終身雇用というのは高度成長以降のひじょうに短いあいだの奇妙なまでにストイックな制度や慣習であったといえるかもしれない。

 明治初期の離婚率の高さや転職率の高さを知れば、思わず笑ってしまう。現代のわれわれのほうが自由で進歩していると思いこむのが常であるのに、明治の時代の人のほうがよっぽど自由で先進的だった。これはどういうことだ?

 女性の晩婚化が進んでいる。ストイックな終身結婚制はもうたまらないということだ。男だって企業の終身刑なんてまっぴらだと思っている。企業も重過ぎる終身保障に音をあげている。

 雇用者が市場化してゆくということは、結婚や恋愛も終身契約のくびきから解放されてゆくということだ。恋愛観や結婚観もそれによって変わってゆく。

 終身結婚や終身愛が崩壊してゆくのを嘆くのではなく、それがあくまでも終身雇用の時代の産物だと冷静に見なすことだ。経済的背景が変われば、人の関係も変わり、人々の意識や常識も変わるだけのことだ。

 私は終身拘束なんてまっぴらだ。(恋愛に関しては終身愛のほうがよいが)





     終身まで面倒をみて!      00/8/18.


 あまりにもニヒリスティックなので正直な心情は吐露したくないのだが、女の「終身まで面倒をみて」という結婚観はあまりにも虫がよすぎるのではないかと私は思っている。

 重過ぎるし、安定や生活のために支払わなければならない労働量や犠牲があまりにも多すぎると思うのだ。人生をそこまで投げ捨ててまで、女性の存在は価値ある崇高なものなのかと思う。

 女性はだいたいは終身の保障や生活の安定を男に求める。女は愛やからだ、家事育児をささげるかわりに、男は生涯その女性の生活の保障をする。

 結婚や愛には終身保障という約束が最終的にはある。生涯の安定をもとめて、男女は結婚という誓いをたてる。

 人は終身保障という願いをもとめるのはいつの時代もそうだったと思う。多くの宗教はその先の死後の世界まで安定や幸福を約束してきたくらいだ。

 その世俗的なヴァージョンが現代企業や社会主義思想の終身雇用や老齢年金の考え方である。サラリーマンの男たちは終身保障の約束をする国家と企業にしがみつき、女たたちもその終身保障男にぶらさがる。

 終身保障というのはたいそうすばらしい、夢のような世界である。しかしゲンジツは違う。終身保障のために男たちは好きでもない、やめたくてたまらない仕事に生涯縛られつづけなければならないし、女たちも顔もみたくないダンナや暴力をふるうダンナであっても、終身保障のために生涯家庭をともにしなければならない。

 終身保障という夢を願うあまり、一種の監獄であり、終身刑であり、この世の地獄といってもよいものをこの地上につくりだしたのである。

 アンビバレンツな感情である。一方では経済的な終身保障はほしくてたまらないが、生涯同じ企業、夫婦に拘束・束縛しつづけられるのも死ぬほど苦しい。両方をいっしょに得ることなんてできるのか。もし片方を捨てなければならないとするのなら、どちらを捨てるべきなのだろうか。

 やっぱり毎日の日常を生きる人間の心情としては何十年も先の絵空事より、日常のいまの問題の解決をとるだろう。そうして離婚件数は増え、結婚を遅らせる若者や非婚の人、定職に就かないフリーターや転職する若者が増えることになる。

 終身保障なんてものはとんでもない地獄だったのである。それに気づくにはだいたい社会主義の崩壊(80年)くらいの期間が必要だったのだろう。

 だけど恋愛においてはまだ終身愛が賛美されているし、職業にかんしても終身雇用的な正社員をもとめるというのがいまのゲンジツである。人間というのはどうしても終身の保障をもとめてしまうものである。

 終身保障というのはわれわれにとってすばらしい夢なのか、それとも悪夢なのだろうか。それを巡っての迷いはこれからもつづくことだろう。







     終身保障のご破算       00/8/19.


 人類の願ってやめない終身保障の夢は音を立てて崩れ去ろうとしている。国民年金や健康保険、企業年金といったものは崩壊寸前だし、終身雇用はリストラや早期退職制度などによって崩されようとしている。

 長い夢だった。終身保障の起源というのはだいたいルソーあたりにはじまるのか。マルクスがそれをしあげ、レーニンが社会主義国をつくり、ドイツではビスマルクによって養老年金がつくられたということである。

 日本では政府が企業を強力にバックアップすることによって終身保障の約束をしてきた。大企業と公務員、安定が親たちの願い、あるいは女たちの憧れの的になった。

 終身保障を約束する企業の生産性向上のためには子どもの数を中絶によって削減し、核家族を形成し、男たちは身を粉にして企業につくした。女たちは終身愛を誓い、その子どもたちも終身保障の恩恵に浴せるようにと教育に熱をいれた。

 終身保障というのがこんにちの社会のすべての根本になっているのだろう。しかし社会主義がそうであったようにそのしくみは内部崩壊をじょじょにきたし、制度的にも崩壊しようとしている。

 終身保障のために今日の問題を先送りしたり、我慢することが耐えられなくなった人が増加した。会社勤めの父、家庭に縛りつけられた母、こんな我慢に我慢を重ねるような生涯は耐えられないと思ったその子どもたちは晩婚やフリーターなどに逃げ込む。

 ついには外部的にも制度の崩壊一歩手前である。沈みかけの終身保障の監獄船からねずみはつぎつぎに逃げ出したというわけである。

 でも終身保障の夢というのはあいかわらず根強いものがある。女は安定企業のダンナを探すし、男もやっぱりそうである。恋愛においてもパラレルな終身愛をもとめる。

 終身保障によってわれわれはどんなに歪められたかもしれないのにである。おそらく終身保障によってわれわれは老後や将来から現在を捉えるという視点に拘束されるようになったし、それらをいつも心配して気にかけなければならなくなってしまった。すぐに壊れやすいものを頭にぶらさげている人生がどんなに危うく、それに支配されるか、想像に難くないというものだ。

 終身保障というものをもう一度深く顧みる必要があるのだろう。われわれはどこまでこれを願い、どこまで捨て去るか、その線引きが必要なのかもしれない。

 いっそすべて捨て去ってしまえば人生はがらりと軽いものになるかもしれないが、われわれにはどれだけの度胸があるだろうか。しかしわれわれはそのうちひしがれた先例を目の前の親というすがたにたっぷりと見てきたのである。同じ轍を踏むしかないのだろうか。





    「終身楽園」を約束できない男         00/8/20.


 経済成長の鈍化、企業のリストラ、国民年金の崩壊などによって男たちは終身保障を約束できなくなってきた。男たちが女のために必死につくってきた終身の楽園はどうも守り通すことはできないようだ。

 終身の楽園は女たちが先にのぞんだのだろうか。それとも男たちが女にモテたいあまり、一大幻想を打ち上げてしまったのだろうか。

 しかしこれがもたらした歪みはあまりにも大きい。終身保障をのぞむあまり、企業が大切になり、企業活動のじゃまにならないように子どもの数は削減され、男も女も経済活動に精を出したのだが、おかげで少子高齢化による年金破綻というしっぺ返しを食らった。

 終身保障と企業が大切にされすぎると、子孫という保障を支える社会生態が結果的に破壊されてしまうのである。終身保障という一世代の人間のあまりにも重い願いは、未来を逆に断ち切ってしまうとは皮肉なことだ。

 また重過ぎる未来は我慢と忍耐とつまらなさをこんにちの人生にもたらし、おかげで若者たちは結婚からのがれ、定職からのがれる。終身保障は鎖や監獄、積載過重になったわけだ。

 終身の楽園は制度的破綻のまえにすでに精神的崩壊をもたらしていたようだ。

 しかしいっぽうでは終身楽園はだれもがほしいものだ。そこでふたつの願望のあいだをいったりきたりしなければならなくなる。安定か、自由か、それは難しい問題だ。

 終身楽園をのぞむ者は鎖と監獄につながれ、自由をもとめる者は未来と保障を捨てる。

 もし終身楽園を捨てる方向に社会が進むとするのなら、仕事や恋愛、結婚にたいする考えもがらりと変わるだろう。男はころころととりかえられ、仕事も転々と変わり、いやになったらやめ、我慢もしないわがままな行動が当たり前になるだろう。なぜなら何十年も先の楽園計画を守す通り必要なんていっさいないからだ。

 自由化・市場化の社会とはそういう意識になってゆく社会である。長いスパンで我慢したり、耐えたりする必要がかなりなくなる。したがって仕事も恋愛も結婚もひじょうに即時的で、長続きせず、ひとむかし前の終身保障に魂を売った者には眉をひそめる世の中になるだろう。

 それが終身保障という悪魔の契約が崩れ去ったり、なくなったりする社会のごく当り前のすがたである。けっして不道徳でも非倫理的でもないだろう。長期的な利益や損失がそもそもないのだから。「Nothing Loose(失うものはなにもない)」というやつだ。





   「有料セックス資本主義」       00/8/22.


 資本主義というのは性の禁止によって継続していると岸田秀はいっている。(『性的唯幻論序説』文春新書)

 性の禁止というのは女とセックスは有料であるということである。女とのセックスはタダではできず、有料であるから(それも一生かかっても払い切れない超資産級である)、男たちは働きつづけなければなくなくなった――つまり資本主義の誕生というワケである。

 私もまったくそう思う。女というのは高すぎる。しかも一生かかっても払いきれず、一生働きつづけなければならない。資本主義の根幹、というかすべての大元は、ここに集結されると思う。

 これを岸田秀は買売春の普及と一般化だといっている。つまりすべてのセックスは有料になり、無料のセックスは禁止され、女の性欲はないものとされ(乙女や処女)、ために男は女の性を買うことになった。おかげで男は女のセックスのために一生働いていなければなくなった。資本主義が爆走するワケだ。

 キリスト教では性が罪となったため、愛という概念で分離する必要があった。愛というのは一人の男による女のセックスの有料独占化である。ひとりの愛人を囲うのが高くつくように、ひとりの女を妻帯するのもひじょうに高くつく。

 私は一生働きつづける人生なんていやだと思っているし、女にあまり金を出したいとは思わない。たぶん資本主義の男女のありかたに深い疑問をもっているからだと思う。なんで男は女のために奴隷労働をしなければならないのかと思っている。

 いまは性の禁止やタブーがかなりゆるくなっているから、よけいにそう思うのだろう。女の性というのは現在ではそんなに高い値がつくものではないものになっているのだ。

 それに愛や家族が、買い手と売り手の商取引のように金銭売買であるというのはあまりにも卑劣で汚い関係のように思う。平等であり、差別がなく、おたがいの人格を尊重するということは、そのような売買関係をなくすことではないのか。

 離婚する夫婦を見ればわかるように、あとには金銭トラブルだけがのこる。いくら払っただの、いくらしかもらっていないだの。これは愛ではなく、ただの商取引だ。

 性関係の歪みが暴走する資本主義をますます加熱させている。この歪みをなおすには男が稼ぎ、女がセックスを売るような関係をなおすべきなのだろうか。その前提には女には性欲がなく、男のみが欲するから男は稼げなければならないというおかしな捉え方があるから、このような旧い見方に疑問を投げかけることも必要なのかもしれない。

 あるいは性の無料化が進むことが必要なのか。しかしこれには男がトクをし、男に好都合であり、女が損をする、という考え方もないわけではないから、かんたんには奨励できないが、いまの女性は自由に性を楽しむことも増えたので、そうなれば、資本主義の暴走は緩和されるかもしれない。

 高〜い有料セックスが資本主義の根幹とするのなら、性の自由化は資本主義をゆるがすことになるかもしれない。女がかんたんにヤラさせてくれるのなら、男は高〜い借金に苦しまずにすむかもしれない。でもそこには女の経済的自立がなければ、(旧いかもしれないが)女は結婚できないキズモノになるだけである。





    セックスしたいがための資本主義      00/8/23.


 ひきつづき岸田秀の『性的唯幻論序説』の影響下で考えたいと思うが、この本によれば、資本主義というのはセックスがその根底の原動力になっているということだ。

 女はタダでセックスをやらせてくれない。売春でもカネがかかるし、シロウト女性でもプレゼントとなり、あるいは結婚すれば一生養わなければならない。だから男は働きつづけ、どこまでも資本主義をつづけなければならないということだ。

 このようなしくみをつくるには、女自身には性欲がなく、タダでセックスをさせず、男のみがやりたい――つまり買い手となる必要がある。女の性は禁止され、隠され、男にとって崇められるものになり、そして「無料」でなくなり、すべて「有料」になったわけだ。

 女の性がすべて有料になり、セックスは男だけがほしがるものになれば、男は買い手としてどこまでも女のために働きつづけなければならない。資本主義の誕生というワケだ。

 性が禁止され、有料になって、男は稼ぐために資本主義を立ちあげたのである。そもそも性が禁止されたのはキリスト教においてである。禁止というのは有料であるということであり、その買い物をするには愛という一生をかけての生涯返済をしなければならないということになり、資本主義はどこまでも発展をつづけることになったのである。

 しかし禁止され、全面有料の性はとうぜん資本主義に食いつくされる。性の禁止は商売になるから、逆に性の禁止はどんどん解かれてゆくことになる。性の禁止やタブーは資本主義が発展するにつれ、ゆるやかなものになってゆく。

 もとの状態にもどってゆくわけだ。女の性は高価で、崇高なものではなくなり、ありふれた、あまり価値のあるものでなくなってゆく。有料のしくみはどんどん無料化してゆく。

 女の性が無料化してゆくと、男は女のために資本主義する必要がなくなってゆく。高価な買い物をしなくてもかんたんに手に入るからだ。そこで資本主義はその強大なる原動力を失効させてゆくことになる。

 ――と私には思われるのだが、シナリオどおりになるかはわからない。性規範がかなりゆるくなったいまでもやはり、男も女も安定した生活と経済を保ちたいと思っているし、男が稼ぎ、女が性を与えるという基本的しくみは変わっていないからだ。

 でも私には女が性の売り手で男が性の買い手という役割はどうもおかしいと思う。そういう役割は女が禁欲的に生きれるときだけに通用する神話だろう。性が解放された現在でも男はいぜん買い手に甘んじつづけなければならないのか。

 性の禁止が弱まったり、買い手と売り手の関係が変わると、資本主義というのは急速にパワーダウンするものだろうか。よいこっちゃである。男は働きつづけたり、あまりカネを稼ぐ必要がなくなるかもしれない。そういう世の中のほうがまともだと思う。

 性規範と性役割が男の奴隷労働を強制としているとするのなら、これらがやわらかい国はあまり働かない、ビンボーな国なのだろうか。性規範と性役割がこんにちのみじめな労働人生を導いているとするのなら、私はこのしくみを目の仇にする。





     愛と性の分離        00/8/24.


 愛や性などの人間関係は金銭取引として捉えなおすべきである。愛であるとか、善であるとか、倫理であるとか、そういったぼやけた認識で関係を捉えるのはあまりにもピンぼけで幼稚じみたポエムである。

 愛も性もほんとうのところはカネの関係である。愛はあまりにも高級品で、生涯をかけても払い切ることができないもので(結婚)、性というのは売春や援交などで安く、その場限りで買えるものである。

 もともとセックスには愛と性の区別なんかできない。あるのはセックスと性欲だけである。それをキリスト教文化圏では激しく性を嫌悪した。そのかわりに愛という概念をつくり、愛は崇高で、すばらしいものとして性から分離された。

 これを経済関係になおすと、短期的な金銭取引は激しく禁じられ、長期的な金銭取引が男女間に推奨されたということである。前者は売春であり、ときには無料のセックスであり、後者は結婚(終身婚)である。

 売春や無料のセックスは嫌悪され、日陰のものとなった。しかし長期関係、つまり専属の売春婦は正統で正しいものになった。

 医者やマッサージ師はたくさんの客を相手にするが(市場の関係)、セックスにおいてはそのような関係は売春婦や淫売、淫乱とおとしめられ、市場を遮断としてひとりの客だけを相手にする関係が結婚なり、愛と呼ばれ、崇高なものとされるようになった。

 セックスには子どもと養育がもれなくついてくる。したがって女のほうが愛という長期取引を必要としたといえるかもしれないが、男はセックスをそのつど買って高くつくより、長期的に購入したほうが安くつくという算段があったのかもしれない。

 性は嫌悪され、愛は崇められるという関係は、ヨーロッパが大好きな「理性」と「本能」という図式にもあてはまるし、「人間」と「動物」の関係にもあてはまる。しかしこれはいやらしい性と清らかな愛の分離を中心にして生まれた図式なのだろう。

 性の関係が人間の認識や世界観を下支えし、色づけているのである。さらにいえば無料セックスの嫌悪と有料・長期化セックスの推奨の図式が延長されたものである。世界というのは人間自身をみいだすことや自分自身のことだとしばしばいわれるのはこういうことだ。

 性が長期取引になったのはたとえば宿泊施設についていうと、ホテルのように客がいれかわる不安定さより、客がずっととどまりつづける賃貸住宅のほうがおトクであるというようなことなのだろう。

 しかし性は経済的合理性だけでは認識されることがない。愛や恋といったあやふやな感情で判断される。これはほかの人間関係においてもそうだ。怒りや悲しみ、贈与や復讐、刑罰や罰則といった人間関係は感情を起源にして行動される。

 感情というのは理由や説明ぬきでも行動や判断を即断できるものである。文化様式や社会規範というものは、そのように理由ぬきで感情として埋め込まれていて、個人を支配・制御するものである。

 性はきたなく、愛はすばらしいという感情は、もともとは経済関係が説明なしで「感情化」されたものである。漠然とした感情だけで性愛を捉えていると、ほんとうのすがたを見抜けないだけである。





     有料セックス資本主義からの脱却     00/8/25.


 性に罪悪感を感じたり、汚らしい、いやらしいものと感じるのは、性が有料化されているからである。性は個人の資産であり、所有物であり、商品であるから、ほかの人に侵犯されては困る。そういうルールは個人の感情として、罪悪感や汚らしさとして組み込まれているわけだ。

 有料セックスはOKだけど、できれば愛という長期契約の有料セックスのほうがおたがいの性から好ましいとされたから、短期契約の有料セックスは売春としておとしめられた。

 さらに無料セックスが氾濫すれば、女の性的資産の値打ちは下がり、女は男から養われることができるなくなるし、男は生涯働きつづけることがなくなり、資本主義は崩壊してしまうということで、無料セックスは「淫乱」や「売女」などと罵られるようになった。

 しかしこういう有料セックス資本主義というしくみはあちこちから破壊ののろしがあがっている。窮屈であり、つまらないし、屈辱であり、人間の欲望や欲求からかけ離れており、忠実でないという気持ちが強くなったのだろう。

 性は資産ではなく、楽しむものといった性の解放や、非婚、晩婚、フリーター、離婚といった社会現象があちこちでおこっている。

 女性差別や社会的自立の障壁や、男の働くだけの生涯、いやでもつづけなければならない家庭と会社との関係など、いくつもの不満や怒りがたまりにたまっている。有料セックス資本主義というのはここにきて多くのほころびを見せている。

 この資本主義のみじめな性が崩れるには、女性の経済的自立と、男の経済的負担の削減、性の非資産化というしくみが三つ巴に進行することが必要なのだろう。ひとつが欠ければ、ひとつがうまくゆかなくなったり、損をするということになるからだ。

 私は男として働くだけの人生、会社の奴隷労働といったものから早く解放されたいと思っている。女性も性が解放されたり、経済的自立を果たしたいと思っているフェミニズム的な人も多いかもしれないが、どちらかといえば、これまでどおり男に保護される生き方を望む女性たちも大勢いるようだ。そうして性の歪みが生み出したこの資本主義はつづいてゆくことになる。

 男も女もこれまでの性関係と生き方でいいと思っているのだろうか。私は女と家庭のために「人柱」になる生き方、女の性を買う立場なんておかしくて、やるべきではないと思っている。この社会は変わってゆくのだろうか。






    なぜ愛は金銭売買ではないのだろう      00/8/28.


 性や結婚はあきらかに金銭売買といえるのに、なぜ「愛」というロマンティックな言葉で煙幕が張られるのだろうか。なぜビジネスや商売として主張されないのだろうか。

 性や結婚は金銭関係と捉えたほうがより現実を見すえられるし、現実のすがたはあくまでも金銭売買に忠実である。それなのに人はなぜカネではなく、「愛」といいたがるのだろうか。

 露骨すぎるとか、えげつなさすぎるとか、あまりにも利己主義的だからとか表面的にはいろいろいえるだろうが、ぎゃくにいうと、愛というロマンティックな煙幕は現実のありようを見事に隠してしまうし、現実にあざむかれることになってしまうので、真実のすがたを正直にいいあらわしたほうが親切だと思うのだが。

 たとえば性関係では商売としての売春は忌み嫌われるが、愛としての性や結婚は正しい、もしくは正統のものとされている。しかしどちらもカネの取引が根底にあるのは疑いようがない。愛ある家庭の住人は金銭取引の売春婦を非難することによって、愛の正統性を主張しているだけだ。

 性や愛、家族はビジネスや金銭取引にはなってはならないのである、もしくは一線を画さなければならないのである。そのために金銭による売春婦は反対項としての目印として必要なのである。

 カネや金銭取引は性愛の根底のかたちをしっかりと決定づけておりながら、しかしなぜ表面や表立ったところでは隠蔽されてしまうのだろうか。

 人は崇高で聖なるものを欲してしまうものである。カネであるとか、モノであるとか、そういう世俗的で卑近なものだけを目的にする生はあまりにも貧困である。崇高で聖なるものを、たとえ内実は皮相なものであっても、それを追っていると思いたいものである。

 おかげで愛は、性は、家族は、または企業や国家は、非現実的なまでの献身や犠牲を人々から得ることができるようになる。かくして愛や崇拝の対象は、人々から生命や人生、労働や献身を無際限に捧げられるのである。

 なぜ人はそういう対象を必要としてしまうのだろうか、生命や人生、すべての時間を捧げ尽くしてまで。

 もしかして自己の価値を貶めないために、人は崇高なものを欲してしまうのかもしれない。自分が存在するに値しない、ちっぽけで、劣った人間とは思いたくない。そこで崇高で、聖なるものに肩入れして、同じように自己の価値もあがったと思いたがるのかもしれない。

 劣った人間も、崇高なるものも、やっぱりいずれも人間の言葉や想像力がうみだした幻想である。われわれは価値の上下や聖俗という二元的な幻想をもったがゆえに、聖なる対象にみずからの人生を投げ打ち、捧げ尽くしてしまうのかもしれない。

 われわれは崇高なもの、聖なるもの、愛といった幻想から、目を醒ます必要があるのかもしれない。そしてその反対としての、またそれが生まれた土壌としての、人間の虚しさ、価値のなさ、劣ったありかたといった幻想を打ち消す必要があるのかもしれない。





   歴史に浸かりたくなった『百年の物語』   00/8/30.


 大正からの女の三世代を描いたTBSドラマ『百年の物語』は、歴史のなかにどっぷりと浸かれてひさびさに感動した。さいきん、こういう親子三世代にわたって描くような歴史ものとか大河ものとかあまり見かけなくなったような気がするので、そういうつくりの長編というだけでもありがたかった。

 私のいま思い出せるだけでは、映画でベルトリッチの『1900』とかスタインベックの『エデンの東』くらいなのかな。親子を因果でつなげたような物語というのはそんなにないのかな。『バック・トゥ・ザ・ヒューチャー』も親子がそれぞれの世代で同じ関係をつくりだしていて、それがまたおもしろかったけど、そういう超世代的な視点から見る人生というのもすごく深みとせつなさがあるものだ。

 第一話は地主の娘と小作人の愛で、二話は日系人との愛、三話は偶然にも出会った一話の孫の関係の再生で終わっていた。

 この物語は基本的には女性のための物語である。女性の自由や自立、そして過去の不自由や抑圧などをうたっているから、男の私としては見るべき視聴者ではなかったのかもしれないが、やっぱり歴史の中の世代という視点の物語は私には外せない。

 女の現代の歴史は、女性の自由や自立というテーマで、歴史を物語りづけることができるということはある意味ではうらやましいというか、そういう歴史物語をつくれるということが、女性にとっては現代という時代は張合いのある時代といえるのかもしれないなと私は思う。

 男は現代に歴史の物語を描けるのだろうか。男の物語といえば、世界に肩を並べようとして戦争と経済にいれこんで二回とも敗戦、戦後もこぢんまりとした会社勤めのしがない人生。男の世代のロマンあふれる物語なんてちっとも描けない。出世物語とか成功物語とかで大河ドラマを描けるだろうか。描けたとしてもてんで楽しくないだろう。

 この物語は世代の因果をもっとつなげてほしかったのだけど、この物語ではちょっとそのつながりが薄かって残念だった。三話では地主と小作人の孫の偶然の恋が出てくるのだが、その因果がちょっと弱くて、世代ごとのつながりが物語ごとに切れている印象があった。つなげなきゃ三代の歴史はおもしろくないと思うのだが、このドラマは女性の自立がテーマだから、仕方がないのかな。

 歴史という視点は、その長い時間のなかで短く終わってゆく人の生というものを浮き彫りにする。登場する人物はどの人ももう死んでしまった人たちである。そういう視点から人々を見るからは、はかなさや悲しさがひとしお強くなる。

 何年か前にNHkで『映像の世紀』という今世紀の映像を見せるスペシャルをやっていたが、この番組もそういう視点でつい見てしまっていたから、涙ばかりがあふれ出てしまっていた。

 まあ世代の歴史を描く物語はとても感動するということである。『百年の物語』は世代の因果がちょっと弱くて残念だったけど、世代の歴史のなかにいっときの時間を忘れることができたので、こういう歴史物語にまたどっぷりと浸かりたいものである。



ご意見、ご感想お待ちしております。
    ues@leo.interq.or.jp




   前の断想集「天空と微小な世界」

   00年夏の書評2「華厳―仏教―量子力学」

    |TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|












『「非婚」のすすめ』 森永卓郎 講談社現代新書














































































































































































































































































『性的唯幻論序説』 岸田秀 文春新書

























































































































































































































































































『百年の物語 第一部』
   
inserted by FC2 system