つぶやき断想集
「私」も「世界」も虚構?




   言葉の次元、存在の次元     2000/5/15.


 言葉で「わかる」ということは、頭の中の「想像」や「虚構」のうえでのことである。いくら言葉でわかったとしても、「解釈」や「捉え方」が変わるだけで、それが「虚構」という認識の上に立つことには変わりがない。

 「真理」だとか「事実」だとかの区別を問題にしているのではない。われわれは物事や出来事を捉えるさい、「想像」や「虚構」という頭の中でしか捉えられない。

 認識というのはたんに頭の中の「思い描き」にしか過ぎない。しかし人はそれを「実体化」したり、「現実化」したりして、それがあくまでも「想像」や「虚構」にしか過ぎない、頭の中の「絵空事」だという「大前提」をすっかり忘れてしまう。

 「人間の言語において、言葉は長い間――そして民衆には今もってそうなのだが――記号ではなく、それによって示される事物の真理であると思われた」――とニーチェはいっている。(榎並重行『ニーチェって何?』新泉社から)

 言葉や認識によって「わかる」ことはできるが、われわれが存在したり、世界が存在したりする流れとかありようとはまた別の話である。いくら言葉で「わかった」としても、存在していること自体を言葉でかみくだくことはできない。

 われわれは勝手に存在して、世界は勝手に存在している。言葉で「わかる」という次元とはまた別のありよう、存在の仕方をしている。

 言葉や科学で自然現象や生命現象をいくら説明できるとしても、われわれや世界が存在している次元とはまたべつのものである。説明し尽くしたとしても、存在や世界はそういう言葉や説明でなりたっているわけではない。

 「われわれに認識するよう命じるのは、恐怖の本能ではなかろうか?」とニーチェはいっている。「認識を求めるわれわれの欲求は、まさに知られているものを求める欲求、すべての見慣れぬもの、普通でないもの、疑わしいもののなかに、もはやわれわれを不安にさせることのない何かをあばこうとする意志ではないのか?」

 言葉で「わかろう」としてもそれは頭の中の「虚構」という性質から一歩も抜け出るものではない。しかもわれわれはそれの「実体化」「現実化」の世界に囚われている。

 知ろうと欲することは頭の中での「世界」をつくってしまうこと、そしてそこには抜きんがたくその世界の「実体化」「現実化」が絡んでいるのが問題である。

 「虚構世界」の実体化という作業には気をつけなければならない。言葉の認識をすべて「虚構」だとあきらめたとき、新しい認識は開けてくるのだろうか。





    風景が「感情的」になるとき      2000/5/16.


 風景や景色といったものにはもちろん「感情」はないはずである。世界は「私」の外に「客観的」に存在していると見なしているのなら、世界にはもちろん感情がないといえる。

 しかし風景というのは私の感情や気分によってさまざまな相貌を現わしている。

 いくつも思い出すことはできないのだが、私の経験では、夜の街や街並みがいかにもさみしそうや寒々しそうに見えたり、好きな人と歩いた世の街並みがぼんやりと変わって見えたり、病気のときに見た街の風景が異様に見えたり、といった体験をあげることができる。

 もっとたくさんあげられればいいのだが、風景というのは私の感情や気分によってその見え方や現われ方が変わっている。私の「心」や「感情」がそう見せているといえばかんたんだが、「客観的世界」が「私」の中の感情や気分によって変わるといえるだろうか。

 世界は私の外に、私と関わりなく存在しているはずである。私の見ている風景も私の心や気分の外側にあり、私の感情と無関係なはずである。しかし風景は私の気分によってその見え方を変えるのである。

 小説やドラマには主人公の気持ちが天候や風景に描かれることが多い。気分が沈んでいるときにはくもりや雨、気分が明るいときにはすかっと晴れた空といったように。

 われわれの日常体験は小説やドラマほど極端ではないが、場面場面では風景にわれわれの感情や気分が現れるのである。

 もし私の心や感情によって見え方が変わっているとするのなら、そのとき客観的世界はもとの姿のまま存在しているのだろうか。もちろん違うだろう。われわれはこの風景しか見ることができないのだから。

 風景や景色というのは私の感情や気分によって見え方が変わる。私の「心」の中だけの感情が変わったというよりか、風景「そのもの」、風景それ「自体」が、感情的、情動的な現れや姿をしているのである。

 風景「そのもの」が感情や情動を帯びたものとして現われているのである。

 私の「内」に閉じ込められた「心」や「感情」といった分け方が、いかに怪しいものか考えさせられる例である。





    「虚構」のバカヤローっ!      2000/5/16.


 なんだ、思考も過去も「虚構」だった。どうして思考や過去を「実体化」したり、「現実」のものと思い込んできたのだろう。

 だれも教えてくれなかったし、心の中の習慣まで他人は入ってこないということもあるだろう。他人は心の中の習慣までは立ち入らない。

 ちまたでは「虚構」と「現実」の違いは、フィクションと実生活で分けられているが、その実生活のほとんどは――思考や過去の思い出しというのは「虚構」であるということをだれも教えてくれない。

 「虚構」であることがわかれば都合が悪いのだろうか。だから「隠蔽」しようとするのだろうか。商取引や犯罪、人間関係というのは過去の実体化や絶対化がないとなりたたないものだから、という理由もあるのだろうか。

 大きな理由はやはり自然な習慣につちかわれるとこういうことになるのだろう。虚構であるという知識を与えられないと、人は思考や過去の実体化や現実化という悪夢に追われつづけ、ともに育たざるを得ないのである。

 過去を反省し、よりよい生き方や行為をめざすのが理想やよいことであったり、ものを考えたり、理性的にふるまうのがよいことであるから、いつまでも過去を反芻する習慣ができあがったということもあるだろう。

 そのおかげで過去に責め立てられたり、思考によって感情をめちゃくちゃにされたりと、いくたもの責め苦もいっしょに味わわなければならなかったわけだが。

 過去も思考も虚構であり、捨てることができるとわかれば、心は安らかになれる。

 ただ、思考と過去の虚構を知っただけでは終わりにはならない。仏教ではこの世界も心も存在しないといっているからである。この世界も思考や過去と同様、「虚構」にしか過ぎないのだろうか。

 そうだとすると、どのように「虚構」なのだろうか。知覚や世界が「虚構」であるというのはいまの私にはどうも突破できないナゾである。

 まあ、とりあえずは過去と思考の「実体化」というあやまちからは解放された。とりあえず、心安らかである。つぎにむかってガムバロウ!





    世界や私は心がつくりだした幻……?       2000/5/18.


 『大乗起信論』という仏教書はほんと理解を絶する。今回は可藤豊文『瞑想の心理学』(法蔵館)を読んでさらにナゾが深まったので、解くべき問題として抜書きしておく。

   

 「この世界はわれわれ自身の心が作り出した虚妄の世界である」

 「われわれが主客の認識構造の中で何かを見るという場合、実は自分自身の心を見ているのだ」

 「見るということは心があって初めて可能になったのであるから、心が消え去れば、見られる物(形相)もない」

 「心が生ずるとあらゆるもの(法)が現われてくるが、逆に心が消えると、すべてのものが消えてゆく」

 「われわれは不覚不明によって妄りに起こってくる心(念)を自分の心と見誤っている」

 「あなたの真の自己とあなたの肉体はまるで別なのだ」

 「我々の肉体は思考そのものであって、それ以外の何ものでもない。それ(肉体)は目に見える形をとった君たちの思考そのものにすぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる――リチャード・バック『かもめのジョナサン』)

 「われわれが執着してやまない肉体がほかでもないわれわれ自身の転倒した心(妄心)から生じてくるという認識は、逆に言えば、心が消え去るならば、果たして肉体(生死)などあるだろうか」


 『大乗起信論』(岩波文庫)では「一切の現象は心が妄りにはたらくことから生じる」、「一切の形あるものは本来、心にほかならないから、外界の物質的存在は真実には存在しない」、瞑想の方法では「一切の見たり、聞いたり、感じたり、認識したりするところに気をとめてはならない」という日常の経験では理解できないことがいわれている。

 「世界は存在しない」とか「心を見るな」とかいわれても、絶句ものである。世界はちゃんと私の目の前に広がっているし、意識をなくしたらそのほかにどんな認識方法があるというのだろうか。

 心も肉体も自分ではないというのもわからない。『起信論』がいうように、自分と思っていた心や肉体は自分ではないのだろうか。というと、どういうことなのだ? 肉体や心のほかに自分がどこにあるというのか?

 われわれが見ている世界そのものが存在しないのか、それとも「私」と「対象世界」を分けてしまう心が実体のないものといっているのか、それもわからない。





     私の中の二人の「私」       2000/5/20.


 べつに多重人格の話をしようというのではない。ふつうの人の話であるが、ふつうの人の「私体験」というものこそが、二つの人格に分裂しているのではないかと思われるのである。

 可藤豊文の『瞑想の心理学』にこういう一節がある。ある人が怒りに駆られて怒りを抑えようとすることについて、「怒り(客)もその人なら、それを抑えようとしているのも(主)その人であり、……決してこれらの経験の背後に、私といわれるものが存在しているのではない。……実は一つの心が分裂しているだけなのだ」といっている。

 だいたいわれわれは腹を立てていたりしたら、怒りを抑えなければならないと思うわけだが、もし怒りを抑えようとするのが「私」だとしたら、はたして怒っているのは「だれ」なのだろうか。

 「私」が怒り、「私」がそれを抑えようとすることは、二重人格のようなものである。もちろんわれわれはそれを二重人格だと考えたりしないが、われわれはしょっちゅう二人の人間を自分のなかに登場させていることになる。

 緊張しているときには緊張しないように、悲しいときには悲しい顔を他人に見せないようにしたり、よからぬ考えをしたときにはその考えを打ち消そうとしたり。

 こうして「私」という存在はかたちづくられてゆくのだろうけど、じつは可藤豊文がいっているとおり、これは一つの心が二つに分裂しているだけなのである。

 われわれは心の状態をいつもどうにかしなければ、制御・コントロールしなければと思う。そして制御する主体が「私」になる。もともとあった怒りや悲しみなどの感情は「私」ではなくて、それを認識したり制御したりする主体が「私」のようである。

 つまりもともとあった怒りや悲しみなどの感情は、私の「外」のもの、「私でないもの」と思われているのである。私の心は二つに分裂し、二重人格のようなものになる。しかしこれがふつう一般の自分の心の経験なのである。

 じつはわれわれの心の経験というのは、怒りがあったり、悲しみがあったり、視界や光景があるだけであり、音やにおいが――「私」という存在を抜きにして、「ある」だけではないだろうか。

 しかし怒りや悲しみを不断に制御しようとしているうちに「私」という存在をかたちづくってしまうことになる。

 感情や視界というのは直接に経験されるものである。「私が見ている」のではなくて、ただ「視界」があるだけであり、「私が聞いている」のではなくて、「音」があるだけであり、怒っている「私」がいるのではなくて、「怒り」があるだけである。

 そのような世界経験に制御する主体としての「私」が存在するように思えるようになる。これは一つの心が二つに分裂しているだけのようである。このヌシは「思考」である。

 思考が心を制御しなくちゃと思う。そして「私」を生み出す。でもたとえば怒りと怒りの制御は身体のなかにふたつの命令系統をつくりだすことになり、怒りに向かう筋力と、それを解除しようとする筋力のおたがいの修羅場になるのがオチである。

 思考は意志や努力でそれをとりのぞこうとする。もともとはたらいている力にさらにべつの力でそれをやめさせようとするのである。「私」という存在が実在すると思われている人の心のなかではかならずこういう力の葛藤、心の葛藤がおこなわれることになるのだろう。

 これを解決する方法として先覚者たちがいってきたことは、それに手を加えず、ただ観察したり、ながめるままにまかせておれば、勝手にしぼんだり、消えてゆくといってきた。もうひとつの命令と筋力を働かせなかったら、それらは勝手に消えてゆくもののようである。

 どうやらわれわれは直接の世界経験のうえにもうひとりの「私体験」を重ね合わせるもののようである。う〜ん、気づいてみたら、まことにヘンな話だ。





     二つに分裂するひとつの心    2000/5/21.


 私の中には「怒る人」と「それを抑える人」の二人が同居している。じつは同じひとつの心がふたつに分裂している――一人二役をこなしているようなものといえるだろう。

 もともとあった感情や思考などがあまりにも透明であり、不確かであり、それが「私」であるとは明確に名指しされないため、それを改善したり制御したりするもうひとつの継続した「私」が生み出されることになる。

 「私経験」というのはじつに透明なものである。「私」がなにかを起こそうとする前に思考は思考され、感情はおこり、行為はおこなわれている。

 これではあまりにも「私」という存在が見えにくいし、まるで仏教のいうような「空」のようであり、「私」がいないも同然である。「私」の経験はあまりに透明なのである。

 もうひとりの「私」が生み出されるのは、私を改善しようとする親や社会の目、つまり他者の眼を内面化したり、または自己の空虚さや欠陥、劣等をおぎなうために生み出されるのだろう。

 つまり「いまの状態」や「あるがまま」では許せない、変えなければならないと思う思考が、改善したり、制御しようとするもうひとりの「私」を生み出すのである。

 自分の感情や性格、来歴などを改善・制御しようとする思考・意志がもうひとりの「私」を仮構するのである。

 じっと観察してみたら、私の世界経験や行為というのはひじょうに透明で、「私」という主体が関わらなくても自然におこなわれているある意味では「不気味」なものではないかと思える。

 「私」というのはそういう透明な「私体験」のうえを塗り重ねるように存在している。

 けっきょくそれは同じひとつの心がふたつに分裂して、一人二役をこなしているにすぎない。もともとの「私経験」はもうすでに思考され、感情され、行為されている透明なものだから、そのうえにそれを改善・制御しようとするもうひとりの「私」が塗り重ねられるのである。

 はじめの「私体験」があまりにも透明なものだから、思考によってもうひとりの「私」が生み出されるということは、「私」の経験というものがどれだけ透明で無自覚的なものかということだ。だからまんまともうひとりの「私」が記憶や思考によって生み出されるのではないだろうか。

 この過ちから脱け出すためには制御や改善という思考によって解決するのではなく、これは同じひとつの心がふたつに分裂していること、一人二役をこなしているということを知り、思考や感情がひとりでにやむまでなにも手を加えずにじっとながめればいいということになるのだろう。

 仮構した「私」が改善しようとすると、その対象は注目やあるいはエネルギーがそそがれることになり、ますます強化されることになる。自然にやむのを待つこと、もうひとりの「私」を生みださないためにはこの方法しか残されていないのだろう。



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    歯止めなき「暴力信仰」      00/5/22.


 暴力の力によってむりやり階層づけられ、従わされるような力の構造が、私の通った80年代の校内暴力盛んなころの中学にあった。「牧歌的」であった小学校に比べ、中学は暴力に支配される、それはホントーに戦々恐々なところだった。

 暴力がヒエラルキーや人々の順位を決めるのである。暴力的な価値で人を支配したり、優越したりするような価値観を私はもちあわせていなかったため、この中学社会というのはほんと信じられない世界だった。

 高校にあがるとそういう暴力秩序というものはなく、私はほっとしたし、会社での人間関係も暴力なんてみじんもなく、また人を平気で侮辱したり、傷つけたりするような風土(中学にはあった)はてんでなかったので安心した。

 いまの中学はどうなのだろうか。やっぱり暴力信仰とか暴力ヒエラルキーとかはあるのだろうか。さいきんの多発する少年犯罪とかを見ていると、やっぱりこの暴力信仰がその根にあるのではないかと思う。暴力で優越したり、勝とうとする価値観が肉体の発達する中学生のころに芽生えるのである。

 この社会は経済的な価値観の強い社会であり、そこでは将来や取引的な関係から暴力や騒乱はおトクではないから控えられているし、学校というのは知識の価値観あるいは権力によって抑えられているから、少年たちはいきおい暴力的な価値観で対抗もしくは優越の目印を勝ちとるほかない。

 落ちこぼれたり、経済や知識の価値観にさいしょから反抗している者たちは暴力的な価値観でみずからの優越性を誇示するのである。知識の価値観では従順なよい子になるしかないし、経済的な優越は学校では示せないし、したがって中学では暴力的な優越が伸長してくる。

 暴力のルールでは人を傷つけたり、暴力で人をどれだけ恐れさせ、服従させられるかということが勝者の印である。したがって暴力ゲーム上では平和ゲームとか友好ゲームといった方法やスキルをもった者には信じられない残酷さや非道さがあらわれてくることになる。

 人を傷つけたり、暴力で痛めつけることが、ゲームの主要な競技である。それがあってはじめて優越や支配は可能になるからだ。人を傷つけるのが平気な恐ろしい人ではなくて、それこそが優越や支配ゲームのための主要なツールなのである。

 そういう暴力ゲームが学校の垣根をこえてひろく一般社会の問題、犯罪へとひろがっていったのが昨今の状況のようである。

 問題の前哨としてもちろん経済的な夢の崩落や優等生的ないきかたの見返りのなさがあるし、ショーアップとイベント化された犯罪ニュース、そして人々の「有名願望」への胎動という土壌が重なっているわけであるが。

 大人たちは経済ゲームや知識ゲームにばりばりに縛られてすっかりおとなしく、弱く、無力な存在に訓化されてしまった。その弱さに暴力ゲームが入ってくると、われわれはまったく無力であることを思い知らされる。

 この暴力で優越・支配する暴力ゲームは、経済ゲームが弱まったいま、どれだけ進展してくることになるのか、もし社会一般にひろがることになれば、私にとってはあの恐ろしい中学社会の悪夢の再来になるということで、とてもたまらない。





   世界は「どのように」幻なのだろうか       00/5/25.


 仏教ではこの世界は幻だという。どのような意味で幻というのだろうか。心を消し去れば世界も消滅するという考え方はどうも理解を絶する。

 思考とか過去とかが幻であるというのはわかる。これは捨てたり、消したりすれば、消滅してしまう性質のものであるからだ。

 仏教ではこの知覚世界すら幻であるといっているのだろうか。この世界が幻であるとは日常の感覚からは理解できない。

 視覚あるいは脳がつくった映像であるという意味で幻というのだろうか。しかしこの知覚世界の現実感とか実体感というのはなかなか拭えない。

 目に見える世界はどうしても実体あるものとして広がっているように思える。手でさわれば対象はちゃんとそこにあるし、ぶつかれば痛みなり衝撃を感じる。

 人間の視覚がつくった世界=映像という意味でたしかに幻だ。この視覚世界は人間という知覚主体にしか見えない世界である。コウモリやモグラには違った世界が見えるはずだ。

 この実体感をなくすにはどうしたらいいのだろう。触覚の感覚が世界の幻想感をはばむ。触覚と視覚のふたつの知覚がおぎないあって拭えない実体感をもたらしている。

 触覚がモノや世界の実体感の確実な根拠となっているようである。この実体感はたしかになかなか突破できない。

 しかし触覚というのは意外なことだが、長く触れているとその感覚がなくなってしまう。思考や心象に気をとられたり、ほかの感覚・触覚に気をとられたりして、いつの間にかその触感は忘れ去られてしまっている。

 という意味で幻ともいえなくはない。触覚というのは注意を向けたり、心を傾けたときだけ存在するという意味では幻だといえるかもしれない。

 視覚世界も幻といえる例としては、目をつむったときや考え事をしているときには視覚世界は見えなくなっているし、眠っているときには存在しなくなる。こういう例をクローズ・アップしてくるとたしかに幻想性があらわれる。

 意識もいつも厳然と確実にあるように思えるが、なにかに熱中していたり夢中になっているときには「我」を忘れているし、眠っているときには存在しなくなる。

 意識することが「私」が存在する確実な根拠とするのなら、眠っているときいったい「私」はどこに行ってしまったのか。当たり前すぎてバカらしいが、考えてみたら不思議である。

 ふだんの日常の意識では世界は確実に厳然と、現実感をもって存在しているように思える。しかしいくつかの例をもちだしてくると、おぼろげで、あやうい幻に近い性質もあらわれてくる。こういう意味で世界は幻なのだろうか。





     肉体や心が自己でないとするのなら。。。    00/5/26.


 仏教では、われわれが当たり前としている肉体や心が自己でないといっている。この世界も心がつくりだした虚妄であるといっている。心を消し去れば、この世界も消え去るということである。

 われわれの日常意識ではこの世界のほかに世界があるなんて信じられないし、心や肉体が自己でないとするなら、いったいほかにどこに自己があるというのか、想像すらもできない。

 もうこうなったら、あとはSFとか幻想小説の世界に迷い込むしかない。仏教やキリスト教では極楽地獄もしくは天国地獄という世界を設定しているが、わたしにはこれがたんに絵空事か、なんらかの比喩であると捉えているから、この世界は論外である。

 ただ日常意識とちがった意識、ほかの世界体験はあるとは思っている。人類が何千年もかけて一大ウソっぱちの宗教をやりつづけるとは思えないし、人々を支配するためだけにありもしないし、できもしない体験をずっと語りつづけるとはどうも思えない。

 この問題はこれでおいておくことにして、知覚の壁を消滅させるとどんな世界があらわれるのだろうか。スウェーデンボルグとかシュタイナーの霊的世界といったものがあらわれるのだろうか。こうなったら、これも極楽地獄同様かなり絵空事っぽくなってしまう。

 トランス・パーソナルのグロフは物理的境界や時間の境界を超えてさまざまな存在に一体化する体験ができると大マジメにいっているが、これも行き過ぎだなあ。。。

 われわれは日常の意識と知覚世界しか知らないし、体験もしたことがないので、これ以外の世界をいわれるとまったく信じようがないし、絵空事とか空想だとしか思えない。

 これ以上の追求は神秘的すぎて空想っぽくなりすぎてしまうなあ。日常意識しか知らない自分にとってはこれ以上の話はやっぱり絵空事にしか思えないから、考えても信じられないものである。

 ここでとめておいて、肉体や心が自己ではない、世界は幻であるという観察をつづけるしかないのだろう。これ以上の話は体験しない者が考えても、おとぎ話で終わりである。オソマツ。





    私が仏教に入ってきた道      00/5/28.


 さいきんはまたもや仏教書に帰ってきたが、私はてんで仏教徒ではない。お寺に講話を聞きに行ったり、参禅したということはまるでない。本を読むだけである。信者ではないが、仏教の知識というのはすごいものがあると思っている。

 そもそも信者とそうでないものの区別がわからない。科学観を信じることが「信者」とよばれないように、べつに仏教知識を奉ずるからといってひとくちに信者とはいえないというものだ。

 仏教書を読むときにはあえて無視する箇所もいっぱいある。道徳的な教えなんかは無視するし、釈迦への崇拝の言葉や空想的な絵巻きみたいなところなんかは飛ばし読みする。現代語訳の本が少ないのも抵抗をひじょうに大きくする。

 要は、心理学とか哲学的なことだけを吸収したいわけである。その点では仏教とは学ぶところがたくさんある。でも逆にそういった言説が少ないところは残念であるが。もうすこし心理学とか哲学的に集中するかたちで書かれていたらいいなと思うこともある。

 私が仏教書を読むようになったきっかけは、ウェイン・ダイアーとかノーマン・ピールなどの自己啓発書である。「思考が現実をつくる」という考え方にひじょうに興味をもったわけだ。

 そういうときにいまはベストセラーとなったリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』という「思考は捨てることができる」といった本に出会った。

 このことをもっと追究しようと思っても、西洋系の心理学ではあまりないのである。マルクス・アウレーリウスとかエピクテトスといった二千年前のローマ時代のストア哲学者だけである。

 「思考とはなにか」と現代でひじょうに鋭く追究したのはクリシュナムルティである。またバグワン・シュリ・ラジニーシなどがいる。トランスパーソナルのケン・ウィルバー『無境界』という本はいまだに読み返すことの多い名著である。

 「思考を捨てる」と古来いってきたのは仏教であり、そういう知恵をもとめて私は仏教書を読むことになった。中公バックスの『大乗経典』や『バラモン経典・原始経典』、岩波文庫の『般若心経』、『大乗起信論』などである。

 安く、現代語訳で手に入る仏教書というのはそんなに多くないのである。いまだに漢文読みくだしとか古文みたいなかたちで出回っているのは、腹立たしいというか、損失というか、旧態依然とした体質が抜けきっていないのだと思う。

 だからなかなか仏教書の多くにあたることはできないでいる。いまは『法華経』とか『浄土三部経』とかを読もうとしているが、どれだけうることがあるのかはちょっと怪しそうである。

 わたしがいちばん読みたいのは心理学とか哲学的な言葉で語った仏教書のようなもので、残念ながらそういう本も多くはない。「無念」である。





   知覚世界の「実体感」を崩すには?      00/5/29.


 知覚世界の「実体感」をとりのぞくにはどうしたらいいのだろうか。とくに視覚世界の「実体感」には拭いがたいものがある。

 どうしても私の目の前に「実体」として物や空間がひろがっているように見える。この思い込みとか実体感というものを拭い去るのは容易ではない。

 どうしたらこれを「幻」だとか「幻想」だとか、もしくは自分の心がつくりだしたもの、自分の心が投影されたものにすぎないといった「空観」を得ることができるのだろうか。

 かなりむずかしい。仏教ではあまり説明してくれないで舌足らずだし、西洋的な言説みたいに納得したり実感できるまで説明してくれるということはほとんどない。

 では西洋的な知識を探ろうと、知覚心理学とか認知心理学といった本を書店でぱらぱらとめくってみても、なんだかとってもとっつきにくく、興味もわきそうにもない。

 私はこれまで仏教で言っていることを、納得したり実感するために西洋的な知識や説明にたよってきた。仏教書だけではどうも心の底から実感したり、納得したりすることができないのだ。

 思考の虚構性や消去ということに関してはリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』におおいに学んだし、時間は存在しない心象であるということを学んだのは、中島義道の『時間を哲学する』や大森荘蔵の『時は流れず』であったりした。

 社会の常識や世界観の「共同幻想」については岸田秀とか竹田青嗣、ニーチェとかリオタールなんかに学ぶところがおおいにあった。

 仏教のいっていることでは実感できずに、西洋的な心理学や哲学の言説や説明を借りないとどうも納得できないのである。西洋的な言説というのはどこまでも言葉で言い尽くそうとするから、理解がひじょうに助かるのである。

 それにしても今回は認知心理学とか知覚心理学というのはなんだかさっぱりわからなそうである。実験とか図であるとかあまりにも「理工系」すぎて、私にはどれだけ理解できるか怪しそうだし、興味すらもてるかも怪しい。

 ということで視覚世界の実体感をとりのぞく知恵が見つけられない。う〜ん、どうしたらいいのだろう……? 色即是空、空即是色。





   言葉や観念を世界「そのもの」と思う過ち     00/5/30.


 私は長らく言葉や観念を世界「そのもの」であるという思いこみをもってきた。頭で思い描いたものにすぎないのに、それを世界「そのもの」であると混同してきた。

 これがたんに頭のなかの想像や虚構、あるいは観念にすぎないと気づくまで、岸田秀の「唯幻論」とかニーチェとかリオタールおよび言語学とかの本をたくさん読まなければならなかった。

 このことがわかるようになるのはかんたんそうであり、またひじょうにむずかしくもある。どっぷりと頭の世界につかり、それが「事実」や「実体」であると思いこむ生活を長らくつづけていると、なかなかそれを客観的に見たり、距離をおいて見るということができなくなるからだ。

 このことに関してだいたいは問題ない。生活はそれでできるし、社会生活は言葉の実体化によって成り立っているところがあるからだ。

 ただあまり実体化に追い立てられ過ぎると、恐怖や悲しみに襲われすぎたり、社会規範や社会常識にがっちりと捕えられて身動きできなくなってしまったりしてしまうこともある。

 でもたいがいの人はこういう思い込みをもったまま生きているのだろうか。学校で習ったことは頭のなかの虚構ですよと学校で教えてもらった記憶はないし、世間一般の人にそういうことを諭されたこともない。

 私は岸田秀などによって社会は「共同幻想」であるということを教えてもらったが、それを日常的な生活や毎日、または人間関係や自己についても応用できるということがまったくできていなかった。

 だからリチャード・カールソンが『楽天主義セラピー』で、思考や言葉自体が「虚構」であるといっているのを読んですごく衝撃をうけた。毎日いろんなことを考えているが、私はこれらのかなりの部分は「実体化」していたのである。だから悲しみや不安などの感情に支配されることが多くあったのである。

 感情は思考することによって起こるから、ゆえに思考を消すことによって感情は消え去る。つまりこれは言葉や思考の「虚構性」「幻想性」をいっているわけである。思考を消し去れば、感情に悩まされることはない。

 ただわれわれが多く悩むのは過去の出来事である。過去の想起から思考がつながり、感情が襲いかかってくる。過去の想起は勝手に頭のなかに出てきて、思考と手を携えて「実体化」と感情の荒波の落とし穴にわれわれを落とし込む。

 過去も思考同様、心象にすぎなく、消せばなくなるものであり、またこれは「過去」ではなく、「現在」の私が考えていることであり、現在の私がそれによって感情を荒らされることになる。ししかしそれはたんなる虚構であり、虚構は消し去ればいいのである。

 ここまでのことは自分にとってだいぶ「実感」できることになったが、仏教では「存在」や「知覚」も「空」や「無」であるといっている。このことがなかなか私には理解できないのである。

 もしかしてこれまでの「空観」してゆく経緯のなかになんらかのヒントがあると思って、もう一度過去をたどりなおしてみたが、どうだろうか? 

 存在や知覚は、言葉や思考のように頭のなかの虚構だというように「頭」の中に放り込んで事足れるわけではないのである。知覚は私の外にひろがっているように見える。心がつくりだしたものだといっても、容易に実感できるものではない。

 う〜ん、知覚世界や存在はどのように空や幻想、虚構なのだろうか……? だりか教えちくり〜。。。



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