消える私と時間についての断想集


新規更新を上から下にならべる方法に変えました。順番どおりにならんでます。




    消える私と消える時間     2000/4/23.


 「私自身と呼ぶものに最も奥深く入り込んでも、私が出会うのは、いつも、熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である」

 「人間とは、思いもつかぬ速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合にほかならぬ」――ヒュームはいっている。(『人性論』中公バックス)

 ではそれに同一性を与えるものはなにかと問うている。それは記憶であるといっている。継続し、持続する私を保証しているのは記憶だけなのである。

 ある分裂病者はいう。「「自分というものから一刻も目を離すことができないのです。すこしでも目を離したら自分がバラバラにこわれてしまいます。」 彼は美しいもの、自分をうっとりさせるものを極端に怖れる。それに夢中になると自分が消えてなくなるからである。」(木村敏『時間と自己』(中公新書))

 またある離人症者はいう。「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行かない。てんでばらばらでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いま、いま、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない」

 このような時間の異常を訴える離人症者は同時にかならず自己の非存在感、自己の喪失感にも悩んでいるという。時間の感覚というのは同時に自己の存在感もつちかっているのである。

 もしかして病者の感じる感覚のほうが正しいのかもしれない。「我を忘れる」と自分はどこかに行ってしまっているし、過去も未来も地球上のどこにも存在しないといえるからだ。それらをしっかりと同一性の塊としてつなげているのは、記憶だけである。

 記憶が私の同一性を固め、時間の存在を保証しているといえる。もし記憶が抜け落ち、自己と時間のつながりをばらばらにひきはなしてしまったとしたら――。

 過去はなくなり、いまだけが現出し、記憶が保証していた私の同一性は砕け散ってしまうだろう。時間も私もばらばらに溶解してしまうのである。

 逆にいえば、同一性や時間の存在をたちあげているものは、記憶や言葉、思考であるということだ。これらのものは実在のものとしてどこにも存在しない。もはや頭の中の「虚構」や「フィクション」としか存在しない。

 しかしわれわれふつうの人間は時間や自己の実在性の感覚にまったく違和感を抱かずに生活している。なぜなんだろうか。自明性を疑うことがないからだろうか。自分の足元を見極めようとしないからだろうか。

 いちど、時間や自己の実在感から脱け出してみたい気もするが、ちょっとコワ過ぎるかもしれないな。もとの世界に帰れなくなったらどうしよう〜とか思ったりするのかな。





   消えてしまった私の時間的実体化    2000/4/24.


 時間について問うことはむつかしい。私の頭の中ではまだぜんぜん考えがまとまっていない。

 だけど仏教や神秘主義でいわれているような「時間はない」とか「いま」しか感じることがないといった考察の材料はもっている。ここから時間の非存在性を導き出したいと思っているのだが、いまいちその解き方がわからない。

 「いま」しか感じられないのはわかる。過去というのは記憶――つまり頭の中の虚構という性質としか現われてこないものであり、われわれは過去を経験したのではなく、記憶のなかでも「いま」だけしか体験していないということはなんとかわかる。

 つまりわれわれはいつも「いま」しか体験できないのだが、頭の中の想起ではそれは過去の「ひもつけ」をなされているということだ。過去の光景や風景のどこを探しても「過去」や「以前」という時間の刻印は押されていないと大森荘蔵はいっている。

 われわれは過去や昔なんか経験できず、いつも「いま」しか経験することができない。

 「いま」は一瞬ごとに消え去ってゆく。さっきの私はもういないし、すこし前の私はどこにも存在しないし、昨日会った友人は地球上のどこを探しても存在しない。いるわけなどないのだ。われわれの存在や経験というのはそういうものである。

 しかし記憶が存在しない先ほどの私を「補強」させる。「過去に私はいた」、「過去に私はたしかに〜をした」、「何時何分にこれこれのことをした」といったふうに過去の私を詳細に銘記しておこうとする。

 つまり記憶の「補強」であり、「増強」であり、ということは過去の私の「実在化」「実体化」をせっせとおこなうということである。「消えてしまった私」を記憶や過去の想起という頭のなかの作業をとおして、「実在化」「実体化」させるのである。

 なぜそんなことをするのか。記憶が「虚構性」をもつ性質であるということを忘れていたり、言語も虚構なのだがその実体化にともなっていたり、また人間社会は市場取引社会だから過去の実体化・確実化が必要だったということも考えられる。

 われわれは一瞬一瞬ごとに消えちゃうんだな〜。記憶や過去を「実体化」させてしまうのは人間社会の必要や言語の性質であったりする。そうして「ありもしない」時間や過去、およびその私の「実体化」がおこなわれることになる。頭の中の私なんかもはや「虚構」と寸分たがわない。

 時間は流れるのでも、経つのでもない。私もろとも一瞬に砕け散り、消えてなくなってしまうものである。時間を流れさせ、過去の私を実在化させるものは、頭の中の記憶や想起、言語が展開・展望させるものである。

 一瞬ごとに消え去る私は記憶や過去に注目することによってその持続性や継続性がたもたれる。もしそれに注目せずにつぎつぎに消え去る自分のみに注目したとするのなら、自己や時間がばらばらに感じられるという精神病者の世界(あるいはこれがほんらいの時間の感じ方かもしれないが)に近づくことになるのだろう。





    過去の「実体化」   2000/4/25.


 私は一瞬ごとに消え去っている。さっきの私も一時間前の私も、昨日の私もどこにも存在しない。同じようにさっきの他者もあなたも消え去っているし、昨日やおとついのあなたも世界も消え去ってしまっている。

 われわれは歩くごとにうしろの階段が奈落の底へ崩れ去ってゆくような世界に生きている。一瞬ごとに私は消え去っている。

 時間は流れるというよりか、時間は「ない」といったほうがふさわしいのかもしれない。

 しかし記憶は残る。ここから「過去」という概念が発生することになるのだろうけど、もはやこれは頭の中の「虚構」や「空想」と同じようなものになる。

 実体や実在としてはどこにも存在しなくなる。たしかに過去になにかのモノをつくったり、描いたりしたら、その創造物はのこる。だけどこれは過去や時間の存在を証明づけるものではなく、過去や時間とかということと違った別の状態かもしれないのである。

 消えてしまう私は記憶によってかつていた私を思い描く。また自分が一瞬ごとに消え去ることに疑問を感じた私は、あるいは恐れをなした私は過去のありようを想像したり、思い描くことになる。

 子どものころには自分がいない前の世界にひじょうに興味をもったりするものである。歴史や古生物、宇宙の起源などに興味がもたれるのは、自分がいない前の世界、私が消えてしまう無の状態をなんとか埋めようとするからなのだろう。

 消えてしまう私は記憶や写真、書き物や制作物などによって過去を思い描こうとする。しかしこれらはモノとしては残るが、その行為をおこなった私はもう消えてなくなってしまっている。もはや「実体」としてはどこにも存在しない頭の中だけの「虚構」や「幻想」となり果てている。

 しかしわれわれは過去の私を「実体化」させてしまう。私は消えたのではなく、過去にちゃんと実在したのだと。消えたり、虚構の産物としてあったのではなく、あたかも「実体」のようなとりあつかいを受けることになる。

 たとえば信長や秀吉のような歴史上の人物はたしかに存在したのだろうが、われわれにはもはや「虚構」や「空想」としか捉えられない。「実体」として存在しないのである。しかしわれわれはこの虚構をあたかも「実体」のように捉え勝ちである。われわれはえてして「虚構」と「実体」の区別を往々にしてなさない。

 自分に対する「虚構」と「実体」の区別も同様である。私は一瞬ごとに消え去ってしまっている。しかし「過去」の私をあたかも実体であるかのように見なしている。

 私は過去にいたのではない。消えて、なくなってしまったのである。記憶や虚構として残るのみである。なくなってしまうのはどうも了解できないし、具合も悪い。記憶では私はたしかに存在したのだからということで、過去や時間という容れ物が「発明」「創造」されることになる。

 こうして記憶は言語や概念という虚構や創造の助けを借りて過去や過去の私は実体あるものとして、時間が存在するということが観念されることになるのである。

 過去や時間というのは「壮大なフィクション」なのかもしれない。時間は流れるのではなく、「いま」だけが存在するものであり、ほかは消えたり消滅したりするものである。記憶や言語はそれを過去や時間という創造物のなかに収めてしまう。

 消滅を忘却させたのは、人間社会の取り引きや経済のためだったのだろう。経済の「帳簿」のために過去は「創造」されなくてはならなかったのである。そして自己の同一性も自明のものとして疑われることもなくなっていったのだろう。

 時間というのはみんながハマってしまった壮大なフィクションなのだろうか。虚構を実体化させてしまう言葉や想像力というのは恐ろしいものである。






    時間は存在しない     2000/4/27.


 過去があったのではない。過去の私は消えている。記憶だけがのこる。その記憶や心象をたよりに言語や想像力によってモノサシとしての時間が「仮構」される。

 時間があるのではない。記憶と現在の距離が時間という観念を編み出すのである。消えてしまった私は記憶としてのこり、それが過去となる。

 これは過去ではない。記憶である。頭のなかの心象や映像のみである。

 そしてその思い出された過去の心象も、現在の上でしか再生できない。つまり「いま」である。過去を思い出すことができるのは「いま」だけである。

 よってわれわれは「いま」しか生きることができないし、永遠に「いま」しか知らない。思い出された過去は心象のみである。過去「そのもの」ではない。

 問題は過去の「私」を実体化することである。過去の私があたかも「いる」ように、実体であるかのように思ってしまうことである。

 過去の私は消えてしまっているし、過去「そのもの」を体験することなどできないのに、あたかも過去の私が実体であるように思ったり、過去「そのもの」であると思ってしまうのである。

 いつだって過去を思い出す経験は「いま」の上でしかおこなわれない。これは過去ではない。過去を思い出している「いま」の自分におこっていることである。過去の私が苦しむことはもはやできないが、いまの私は苦しむことができる。

 勘違いしてはならない。過去が私を苦しめるのではなく、「いま」の私が苦しんでいるのである。過去「そのもの」が苦しんでいるのではない。過去ではなく、いまの自分である。

 われわれは過去や時間という観念をもつことによって、ずいぶん過去の出来事や思い出に苦しめられることになった。過去を実体化したり、過去そのものであると思いこむことによって、消えてしまった、幽霊のような記憶や心象に苦しめられることになった。

 過去や時間があったのではない。心象がのこるのみである。これは頭のなかだけの出来事である。そして過去や時間と呼ばれるものはその頭を出たところにはどこにも存在しない。消えてなくなってしまっている。

 われわれは一瞬一瞬に消えてなくなる存在である。過去も時間もない。過ちは過去の私を実体化したり、あたかも「現実」にあるかのように思うことである。

 消えてしまった私を頭のなかの心象は実体であるかのようにとりあつかい、そしてその心象がいまの上において私を苦しめる。

 私は消えてしまったのである。過去の私は幻であり、虚構であり、空想であり、頭のなかだけの心象である。消えてしまったものになぜ苦しめられる必要があるのだろうか。





    過去とは心象である   2000/4/28.


 過去とは心象である。過去「そのもの」ではない。しかも過去を思い出しているのは「いま」であって、いまの私はそれによって苦しんだり、喜んだり、嘆き悲しんだりする。

 心象に苦しめられるのである。心象はもはや現実に存在しない「幻想」や「虚構」と同じものである。

 しかそれを思い出すたびに私たちは苦しんだり、喜んだりする。もはや存在しない「夢」のようなものに一喜一憂するとはヘンな話である。

 過去とよばれるものは消えてなくなってしまった。かつての私もさっきも私もみんな消えてしまった。

 心象だけがよみがえるのである。そしてそれは過去の「よそおい」をもっているが、いま思い出し、いま一喜一憂するとするのなら、「いま」に属する事柄である。

 私たちが過去の心象や映像をあたかもいまここにあるかのように、まさに目の前にありありと存在するかのように思ったりするのは、「いま」のことだからである。

 過去を「実体化」してしまうのである。われわれは過去を思い出しているとき、それが過去や心象に過ぎないことを忘れてしまい、過去に没入し、感情的になる。それは「過去」のことではなく、「いま」思い出しているから可能な事柄である。

 過去やさっきの私はみんな消えてしまった。過去「そのもの」はなくなってしまったのである。

 それなのにわれわれはそれを実体化し、あたかも目の前にあるかのように見なして苦しめられることになる。

 消えてしまった過去の「亡霊」を実体化してしまうのである。過去やさっきの私を実体化してしまう愚かな過ちは抜きんがたくわれわれの毎日を支配している。

 それは終わった過去ではない。「いま」思い出している過去である。つまり過去ではなく、「いま」である。

 そして当の過去は一切合切、消えて、なくなってしまっているのである。消えてなくなってしまったものに、実体として存在しない心象に、なぜ苦しめられる必要があるのだろうか。

 過去の私は消えてなくなってしまったことを思うこと。そうすれば不必要な煩いも消えてなくなるということである。





    「実体化」という罠     2000/4/29.


 われわれはさまざまなものを「実体化」してしまう。どこにも存在しないものを、あたかも「現実」に存在するかのように、目の前にあるように思い違いしてしまう。

 過去もそうであるし、同様に未来もそうだし、言葉もそうだし、感情もそうである。それらはすべて「心象」や頭のなかだけ、および身体だけにあるものである。

 しかしそれが私の外部に、客観的に存在するかのようにカン違いしてしまうのが、多くの人間のおちいっている過ちである。

 それらはすべて「幽霊」や「亡霊」、「幻想」となんら変わりはないものである。幽霊が現実に存在するのだと思い込めばコワくてコワくて仕方がないものだが、信じなければ怖くもなんともなくなる。過去や未来、言葉や感情といったものもみんなそれと同じ性質のものである。

 なぜか人間は存在しないものを実体化してしまうんだな。それを消してしまうということができずに、実体化したそれらに苦しめられたり、追いつめられたりするのである。

 実体化の罠にハマるのはなぜか。心は存在しないものを現実のように見せかけるものだからだということになるだろうか。いちど心の対象にハマってしまうと、それがなまなましい現実のように感じられるからだろうか。

 もはやそれが頭の中の心象や思考であること、消すこともできるということを忘れてしまい、その世界にどっぷりと浸かってしまうのである。視野狭窄が圧倒的な力で起こるのである。

 実体化にハマってしまうと、それが「絵空事」であること、消すことができるといういちばん単純な逃げ道すら見つからなくなってしまう。心に「閉じ込められる」のである。

 実体化の「牢獄」にハマってしまった者は言葉や思考をやみくもに使ってそこから逃れようとする。しかしその方法はアリ地獄のようなものである。心象を心象で重ね、言葉で言葉を重ねても同じ過ちがくりかえされるだけで、壁がいくえにも塗り重ねられるだけである。

 脱出するいちばんかんたんな方法はそれを「消す」ことである。消してしまうという方法があることを知ることである。あっけにとられる方法だが、心の牢獄にハマった人間にはそれすら見えなくなってしまうのである。

 われわれはしょっちゅう、心を消しているのにである。なにかに没頭しているとき、運動や行動しているとき、ほかのことに気をとられているとき、といったさまざまな日常の合間にわれわれは心を消している。

 それなのに心の実体化がおこなわれると、そういう心を消すという逃げ道を見出せずに、映画館のなかで非常出口をさがしてパニックにおちいる。

 われわれはさまざまなものを「実体化」しているのである。心の中に映し出されるすべてがそうである。過去や未来、思考、言葉、感情といった心にあらわれるすべてである。

 これらは霧や蒸気のようにふっと消えてしまうものであること、このことを心にしっかりと銘記しておくことが肝要である。





    「過去」と「外界」という分け方の失敗   2000/4/30.


 「過去」と「現在」という分け方をしてしまうと、われわれは大いなる痛手を負ってしまう。なぜなら過去とは現在抱いている心象にほかならないからだ。

 つまりある時点の過去を嘆いたり、悔恨する自分はいまの自分であるということである。過去の問題を考えていると、傷つけているのは「いまの自分」ということが忘れられてしまう。「過去」の自分ではない。

 過去の自分が恥かしがったり、悲しい目に会ったのではない。過去という「概念」「分け方」のために、いまの自分が新たに、また継続して、そういう目に会っているということが見逃されてしまう。

 「過去」もクソもあるものか。そんな分け方をしてしまうためにいまの自分がおろそかにされてしまうのである。過去を思い出しているのはいまの自分である。そしていまの自分以外が思い出すことはできない。

 過去を思おうが未来を思おうが、その想起をおこなっているのは「いま」の自分しかありえない。過去や未来という分け方は必要ない。すべては「いま」の自分におこっていることだ。

 過去の自分が傷ついているのではない。思い出すごとにいまの自分が傷ついているというわけだ。過去も未来もない。想起するということはすべて「ひとつながり」である。

 「外界」と「内界」、あるいは「他人」と「私」という分け方もわれわれに大いなる過ちを与える。なぜなら外界や他人のことを思ったり、考えたりすることはすべて「私」の内部に属することだからだ。

 外界と内界が分かれているのではない。私が思うということはすべて私の内部におこることがらである。すべて「ひとつながり」である。

 しかし「私」と「他人」という分け方がされると、他人のことをあれこれ思って一喜一憂することが他人の「せい」や「責任」にされてしまう。つまり感情の原因は他人や外界のせいにされてしまうのである。

 私が思うことに「区切り」や「境界」は一切ない。他人について思うことはすべて私の内部でおこることがらであり、外界や他人のせいや責任からおこるのではない。

 他人や外界への考え方や解釈、思いや感情は自分がつくるものであり、そして消したり、忘れたりすることができるものである。これは全部、自分の支配下にあるものである。

 他人と私という分け方をしてしまうと、私の心の動きという囲いが区切られて、私の感情を乱したのは他人という「分けられた」ものに原因が帰せられてしまう。すべて「ひとつながり」の私の心に属するものである。

 われわれはすべて「ひとつながり」のものを分けてしまうから、愚かなる過ちを犯してしまうのだろう。「過去」や「他人」という分け方をしなかったら、すべて「いまの私の心象」という範囲に含まれるものが、奇妙な分け方をさせられて分断された自分自身のために苦しめられてしまう。

 言葉で分けられてあまりにも自明視されていて、実体化されているものにはよぼと注意しなければならないのだろう。





    「見ている私」と「見られているもの」   2000/5/3.


 われわれはなにかを見ているさい、「私」が見ていると思い込んでいる。しかしこういう日常の常識にたいしてたいていの仏教家は否をいっている。

 「私が見ている」のではなく、「見られているもの」があるだけだといっている。音を聞いているときも、「私」が音を聞いているのではなく、音を聞いている「体験」があるだけだといっている。

 「色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」

 その一瞬のあとに対象と「私」は分離・区別されるのだという。

 こういう思いこみは拭い難くわれわれに沈殿している。見ている「私」、聞いている「私」は絶対的に存在しているのだと思い込んでいる。この思い込みをひきはがすのはむずかしい。

 こころみに私は何冊かの本をひっぱりだす。クリシュナムルティの『自我の終焉』、鈴木大拙『禅』、ケン・ウィルバー『無境界』。それでもなかなか実感できない。

 「私」と「対象」という分離をさせるものは、おそらく視野にある私のからだの存在かもしれない。「見ている私」が継続し、実在化しているように、それは思わせる。

 肉体の感覚もそうだろう。その感覚と音や視野の対象は別個に存在するように思える。視覚の輪郭と空間も手伝って、私と対象の分断が思い込まれる。

 またわれわれはいつも「我を忘れる」体験をしている。音を聞くとき、ものを見るとき、考え事をしているとき、我を忘れている。こういう経験を忘れさせ、継続・持続した「私と対象」という区別をさせるものは、言葉や思考なのだろう。

 一瞬の忘我のあとに「私意識」を存続させる。帰ってくるといつも意識が手ぐすね引いて待っているというわけだ。

 「私意識」というのは強固なものである。対象と私を区別・分離する思い込みや自明性も強く持続しているものである。

 これを破るには、なにもしないことだとクリシュナムルティはいっている。解決したり、変革したりしようとすると、「観察者」や「思考者」という自我のはたらきをますます強めることになってしまうそうである。つまりまたもや「分離」・「分割」のワナにはまるわけだ。

 経験し、体験しているさまを、なにもせずに注意深く見守ること、そうすることによって私と対象の分離が見えてくることになるのだろう。

 「見ている私」と「見られているもの」、「音を聞いている私」と「聞こえる音」、「思考」と「思考している人」、これらはみなふたつの分断されたものではなく、同一のものである。「私」があるのではなく、ただそのひとつの「体験」があるだけである。

 そのことを実感できたとき、ひとつながりの世界が現われてくるのだろう。



                                         ▼新規更新分です


   私とは「内界」ではなく、「外界」ではないのか  2000/5/4.


 われわれはだいたい自分のからだで「内」と「外」を分けている。「私」はからだの内に属するものであり、心や感情は自分の「内側」にあると思っている。

 しかしよく考察してみると、「私」というのは「外界」のことばかりでなりたっている。目に見えるものはすべて私の外界であり、聞いている音のほとんどは外界のものであり、他人について考えたり思ったりすることはほとんど「外界」に属するものである。

 私というのはほとんど「外界」で構成されているとはヘンなものだ。われわれはしじゅう、「私」というものに関わっており、「私」を愛し、「私」を守り、「私」をかわいがり、「私」に最大限の関心と愛情をそそぐのに、「私」というのはほとんど「外界」のことがらで構成されているのである。

 私の目で見える世界からすれば、私の身体すら「外界」である。私の身体はほかのモノと同じように対象として見える。けっして「内側」から見えるものではない。

 音も外界の音ばかり聞こえる。たまにお腹が鳴る音が聞こえるくらいで、心臓の音を聞こうと思えば聞こえるが、たいがいは私の身体の外側の音ばかり聞いているし、身体の内と外で聞こえ方が違っているというわけではない。

 私の「奥」にひそんでいるのが私の「心」である。これが内側の中心とメインを占める。

 しかし心が考えているほとんどのことは外界とつながっている。自分の内界ばかりを考えるということはそうないだろう。だいたいは外界の出来事を契機にものを考えている。

 自分の「内」と「外」というのは人に話さなければ心の秘密は知られることはないという考察から生まれたのだろうが、知覚するすべてのものが「私の世界」とするのなら、心に「内」と「外」という線引きを引くことはできないだろう。

 われわれは身体で「内」と「外」を分けている。でも「私」はほとんど「外界」で占められている。「私」というのはだいたい「外界」でなりたっているのである。

 私の「内側」というのはとても貧弱である。かなり貧相で、うすいものである。

 「私」を構成するほとんどが「外界」とするのなら、私とはいったい何なのだろう。外界は「私」なのだろうか、それとも私は外界に侵蝕・侵入されすぎてしまったのだろうか、それとも「内」と「外」という区別自体がおかしいのだろうか。

 心の中に「外界」と「内界」という分け方をもちこむことがおかしいのだろう。心にはそんな区分はない。見ている対象、聞いている対象があるだけである。そこには内と外の区分はない。

 対象に集中・没頭しているときには内と外の区分はないし、「私意識」というものすら消えている。「対象」があるだけである。対象に向かっているとき、「内」と「外」という区分は消えており、私の身体の外側ばかりではなく、内側も「対象」として現れてくる。





    心的経験は心だけに閉じ込められるか?    2000/5/8.


 心や意識は私の内に閉じ込められていると、ふつうわれわれは思っている。それに対しての「外界」や「客観的な世界」が私の外にあると思っている。

 しかし私に見られたり、考えられたりする世界は、私の外側にあるのではない。それは外界の経験ではない。

 たとえば伊藤勝彦『天地有情の哲学』(ちくま学芸文庫)に例があげられているのだが、恋人といっしょ見る風景や殺気立った人たちに監禁された部屋の雰囲気というのはかなり変容してしまっている。

 酔っぱらって見える町並みも変わってみえるし、病気のときもそういうときもあるし、孤独なときや曇りのときの世界もふだんとはいくぶん違った見え方をしている。

 風景や外界というのは私の感情や気分、まわりにいる人たちの雰囲気によってそのありようを変化させるのである。

 客観的世界や外界が私の意識や身体から離れてべつにあるのではない。「世界と私は地続きに直接に接続し、間を阻むものは何もない」と大森荘蔵はいっている。

 ただわからないのは、それは感情によって内界としての世界の見え方が変容しただけなのか、それとも感情によって世界「自体」が変容してしまったのか、どちらかはわからない。

 大森荘蔵や伊藤勝彦が「世界そのものが感情的である」というとき、世界も含まれる私の心的現象内を指していっているのか、世界「そのもの」のありようも変容するといっているのか、私には混乱してよくわからない。





   西成ワールドの変容      2000/5/8.


 今日、わたしはサイクリングのとちゅうに西成を通ってきて、ひとつ気づいたことがある。

 道ばたで露天商のようなところが増えたことである。いぜんはこういった道ばたでモノを売っているような光景はそんなに見かけなかった。おそらくリサイクル商品なのだろう。粗大ゴミのなかから集めてきたような商品が売られていた。

 あちこちの公園に青ビニールのテントを見かけるようになったのも平成不況が深刻になってからで、こういうリサイクルの露店があらわれてきたのも、もう雇ってくれるようなところがなくなったということと関係あるのだろう。もう雇用されることをあきらめて青テントや露店が増えたということである。

 ゴミのリサイクルというのはこういうところからはじまるのだと思った。戦後の経済社会というのは「新品崇拝」で、中古品を「キタナイ」だとか「だれがさわったかわからないから気持ち悪い」といって排斥してきた。

 環境問題からはリサイクル社会は根づかない。中古品「嫌悪」や「忌避」といった感情が戦後のわれわれに巣食っているからだ。それは同時に自分自身が社会に認められ、新品や商品ととして価値があると見せかけたい願望とパラレルである。

 だから平等社会ではリサイクルは根づかない。みんなと同じ新品を買わなければ、私は「落ちこぼれ」や「脱落者」になってさげずまれてしまうからだ。

 不況が深刻になり、平等社会が崩れ、新階級社会がやってこようとしているいま、資本主義の底辺とよばれるところからほんとうの意味でのリサイクルははじまる。生活に切羽つまる人が増え階級社会になってこそ、はじめてリサイクル市場はできあがるのである。階級社会が歴然としてあった江戸時代にはリサイクル市場がちゃんとできあがっていたように。

 この現象がトレンドとして社会全体に広まるか、それとも西成だけの一時的な現象でとどまるかはこれからの経済が人々にどれだけ夢を与えられ、新品を渇望させられるかにかかっているのだと思う。かれらは「落ちこぼれ」たのではなく、未来の経済に過大な希望をいだけなくなった人々の内面のひとつのあらわれである。




   過去のない安らかさ      2000/5/9.


 過去は消えてなくなる。われわれが思い出す過去は、いま頭に描く心象にしかすぎない。それが現実のように迫ってきたり、悲しんだり悔いたりするのは、「いま」に属する心象だからである。「過去」というより「いま」の心象といったほうがふさわしい。過去「そのもの」はまったく消えてなくなってしまうのである。

 心象は虚構であり、たんに頭の中の表象にしか過ぎないのだから、消すこともできるし、忘れ去ることもできる。このことを実感した私は過去の心象をぽいぽいと捨て去るようになったので、ひじょうに平穏で心安らかになったと思う。

 でも過去の心象というのは隙間隙間にしのびこんでくるものである。さっきのこと、一日前のこと、何年も前のこと、めまぐるしく私の頭のドアをたたく。

 過去の心象が顔をのぞかせると思考はたちまちそれに群がって「現実」や「実体」としてそれを立ちあげようとする。つまり現実にあるかのごとく私は悲しんだり怒ったりするわけである。

 ということは過去の心象や映像がなかったら、思考や言葉は立ち上がらないといえるかもしれない。ほんと、われわれは過去をひんぱんに思い出し、そこから思考と感情の「現実化」と「実体化」をひんぱんにおこなうのである。

 なぜ過去の上映会はこう盛んになったかというと、問題の検討や解決をおこなうとするからだろう。現在の状況というのはすこし前の過去の心象を手がかりに何度も上映され、検討され、思索されるのである。もはやそれは過去であるが、いまの問題を捉えるにはその過去に頼るほかない。

 固定化した過去を手がかりに問題の発見や解決がおこなわれるのである。いま、考えはじめるとその過去は「いま」に属することになってしまうので、あたかもいま目の前に進行中の現実のように思えるが、正確なところは、いまは不断に流動し、変化し、過去は瓦解してしまっているのである。

 問題を捉えるためにはもはや死してしまった過去を再現し、死体を活かさなければならないというのはなんともヘンな話である。物事や出来事を捉えるというのは、過去でしかなせないのである。そうしてわれわれは死した過去に追われつづける。

 記憶や過去の心象というのは、もともとは快楽の記憶を反復したいがために頭の中に回線づけられたものだろう。それが問題を捉えたり、解決したりしようとしてその習慣を強力にし、そのハイウェー上に不安や怖れ、苦痛などの過去が反復することになったのだろう。

 神経症や恐怖症というのは快楽の見込みのない過去をどうしても反復してしまうものである。ここには過去の実体化や、過去の反復強迫がかかわっている。われわれがふだんおこなっている過去の呼び寄せが、悪いほうに転がるとこういう結果がもたらされるのである。

 過去というのは捨て去るのがよい。すてきですばらしい過去というものが過去反復をおこすとするのならそれも捨て去るしかないだろう。

 過去というのはたんに頭のなかの心象や表象にしか過ぎないということがわかれば、過去の反復や呪縛から解き放たれて、われわれは心安らかになれるのだろう。





    過去になぜ囚われつづけたのだろうか    2000/5/13.


 私はほんとうによく過去を反芻するタチだった。過去のことをあれこれ考えては不安になったり、悔やんだり、恥かしくなったり、こうでもないあーでもないと頭のなかをこねくりまわしていた。

 過去に囚われるのは、過去の心象が自分の意志とかかわりなく頭のなかにやってくるからである。それを捨てたり、消したりしてもよいという知恵や方法を知らないと、いつまでもその過去に囚われることになる。

 たしかに何度もくりかえされる過去の心象は重要であったり、問題があったり、解決しなければならない課題があったりするものかもしれない。

 しかしそういう過去というのは自分を脅かしたり、不安や恐怖におとしいれたり、悲しみや怒りを、とくにもよわせやすいものである。逆に自分がそういう感情を持続させているから、連想的にその過去が思い出されるということもあるのだろう。

 人間というのは苦痛な過去にかぎってよりひんぱんに思い出されるものである。恐怖症や神経症はこういう人間の性質が昂じたものだろう。

 そこには解決しなければならない問題があったり、あるいは苦痛や恐怖を避けるためには必要な記憶であるかもしれない。またはその過去は記憶か貯蔵かのなんらかの問題のためにその解釈を変更しなければならないということも考えられるだろう。

 苦痛な過去はわれわれに警報や警告を鳴らすものである。だからしょっちゅう頭のなかに襲いかかってくるのだろう。

 遠い過去だけではなく、ついさっきとか今しがたの過去もいつも思い出される。それは現在も進行中の問題の解釈や解決を図るものであったり、危険や不安を知らせるものでもある。

 しかし頭がさしだしてくる過去の心象に乗りつづけると、おそらくわれわれは苦痛や恐怖、怒りや悲しみなどの情緒にめちゃくちゃにされることだろう。よく思い出される過去が苦痛や恐怖の体験が多ければなおさらである。こうしてよりひんぱんに過去の心象に囚われやすい人は情緒の修羅場や戦場と化してしまう。

 われわれは知らなかったのである、過去は過去「そのもの」ではなく、たんに心象にすぎないこと、そしてそれは自分の意志で消したり、忘れたりすることもできるし、虚構や幻想となんら変わりはないということを。

 過去とのつきあいかたを知らないばかりにわれわれは頭が差し出してくる過去の心象にのり、苦痛な過去や恐怖をくりかえさざるをえなくなっているのである。過去の性質や過去の選択可能性などを知らないがためにわれわれは苦痛や恐怖をひきのばしてきたのである。

 過去を断ち切り、思い出す過去の量をより減らしていけば、われわれの心はより平穏で平和になる。自分を悩ませていたのはたんに「幻想」や「虚構」にしか過ぎなかったのである。こういうことがわかれば、過去の反芻という愚かな習慣に背を向けることができるだろう。



 ご意見ご感想お待ちしております!
 現在わたしが考えているテーマや問題にヒントやご意見を与えてくれれば、とてもありがたいです。
 ぜひいっしょに考えてください。
 
 
              ues@leo.interq.or.jp



 前のエッセイ集「自我と境界についての断想集」

 「00年夏の書評 自己と境界―私とは何か」

   |TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system