つぶやき断想集
世紀の終わりのつぶやき断想集




    理想とは軽蔑のことである     00/12/17.


 理想は、軽蔑からはじき出される。軽蔑の海にたっぷり満たされないと、理想という建造物は立ちあがらない。

 私は十代のころ愚かにもDCブランドにのめりこんでいた。DCブランドにイカれるとそのほかの安い商品やふつうの価格帯の商品が目に入らなくなる。DCブランドのみにしか価値が認められなくなるのである。

 安い、センスのよくない商品を軽蔑していたのだと思う。品質の違いとかデザインの違いとかほとんどわからないにも関わらず、ブランドというだけで価値あるものになっていた。

 こういうブランドによる世界観というのはほかのいろいろなことにも波及した。軽蔑する職業にはつきたくないだの、お茶を飲むのもセンスのよい店だの、インテリアはお洒落にしたいだの、いろんなものを軽蔑したうえで、ひじょうに狭くて偏った選択をうながしていたように思う。

 自分自身の価値はなにひとつ変ったわけではないのに、高級品のブランド品というファッションをまとっただけで、そこまで高慢ちきな自己意識をつくりあげてしまったのである。

 たぶんそのころの私はいろんなものを軽蔑ばかりしていたと思う。イヤミったらしい人間ではなかったと思うが、判断の選択の幅はひじょうに狭く限られたものになっていたと思う。

 思い出せば、ブランド品を着る前から私はいろいろなものを軽蔑していた。サラリーマンや野球やゴルフやアイドル歌手や画一的な流行や慣習などさまざまなものを。とくにオヤジや上の世代のすることなすことに反発を抱いていた。

 性格もあると思うが、商業主義とか消費社会の性質によるものもあると思う。つまり新商品が売れたり流行がおこったりするためには古いものや過去のものは否定しなければならない。そういうコマーシャリズムのシャワーを強く受けて、マジメに古いものや過去を軽蔑してきたのだと思う。

 月日は流れて、そういう高慢ちきな自意識は現実とのキビシイ相克のなかでどんどん丸められ、角を削がれ、うちのめされてゆき、かつてのこだわりもすっかり昔のことになった。いまはファッションなんかユニクロでてんで気にならないし、時計も千円のやつでじゅうぶんだし、軽蔑していた事柄ももうどうでもいいと達観するようになった。

 そういう角がとれるまで、ずいぶんと時間がかかった気がする。軽蔑が強かったり、理想が高いというのは、多くの代償を要求するものなのである。苦しい目にあうのは、現実との着地点を見出せない自分のみである。そして軽蔑しているのは、外部ではなく、内部の自分自身であることに気づくべきなのだろう。広告とか消費に高飛車な自意識をそそのかされないよう、よっぽど強い警戒心をもたなければならないと思うこのごろである。

 ところでこのようなことを思い出したのは、ファッションに強いこだわりをもつ若い子が職場に新しく入ってきたからである。こだわりというか、頑なな軽蔑が感じられたのである。それで昔の私が思い出されたのだった。ブランド品には警戒しろよ。





  カネより愛よの『やまとなでしこ』評    00/12/18.


 ドラマ『やまとなでしこ』はよかった。カネか愛かというひじょうに単純なテーマで、ラストもわかりきっていているわけだが、松嶋菜々子のきれいな顔を拝めるのがよかったし、愛というのは障害とか抵抗があればこそ切なくなったり、焦がれたりするもので、そういう気持ちをいくらか味わえてよかった。

 「カネより愛よ」というドラマはくり返しつくられる。打算とか損得だけでオトコ選びをするなというメッセージは何度もくり返さなければならないほどゲンジツはそういうものであるという事実をうきぼりにするものであり、また愛というのは、打算と損得が脇を固めて、しっかりと「悪役」をはってくれないことには、そのすばらしさと至福は立ちあがらないということである。「報われない愛」はカネで報われた例をみせつけられると、その崇高性も意味もゴミになる。

 カネより愛のテーマは、女性たちの上昇志向をやめなさいというメッセージなのか、それとも競争を降りてラクにしたほうがいいというメッセージなのだろうか。あるいは分相応に、高望みせずに自分の立場をわきまえなさいということなのだろうか。手近なオトコで間に合わせようということである。これは上昇志向者に効くメッセージなのか、それとも低い階層のオトコに閉じ込められたオンナの慰めなのか。

 カネと愛の対比は、利己主義と利他主義の対比でもある。道徳や利他主義も説いているわけである。

 利他主義のススメは男が主役のドラマでもくり返しとりあげられていて、上昇志向でヒトをヒトとも思わない功利的ビジネスを批判するドラマというのもよくある。ドラマを見ているときは「あ〜、そーだなー」という気持ちになるのだが、ゲンジツのビジネス社会ではひとたまりもない空想事に思えるのは、いつものことである。

 ちょっと前のイデオロギー図式では市場原理主義と社会主義の対比である。社会主義には貧富の差をなくしたり平等を達成するという利他主義・博愛主義的な理想があったが、これは達成されたあとの夢が残らないし、そのあとの経済成長がみこめない。ということでいまは人を蹴落とす市場原理主義がのろしをあげている。

 そんな時代だから、カネより愛よはいくども唱えられるのだろう。どうなんだろうか、やっぱり生活する上でカネは欠かせないし、金欠は良好な関係も崩してしまうし、愛というのは不変のものではない。消費と生活レベルを落したくないという女性は愛よりカネをとるべきなのだろうか。でも、すべて「いまの自分」はどうにでも変わるものである。利己的な人になりたいのか、利他的な人になりたいのか、その基準によって、カネと愛のかねあいや配分を賢明に考量すべきではないかと私は思う。





   2000年 ことしの読書の流れとベスト本    00/12/26.


 ことしは収入的に安定していて、八ヶ月ものバケーションをとった去年と違って、比較的本はたくさん読めた。お金がなかったら、単行本を買うのを控えるし、文庫本や新書がメイン、はては古本ばかりとなって深くテーマを掘り下げられない。

 読書のおおまかな流れとして、98年後半から99年前半にかけては漂泊とか隠遁、老荘などの東洋思想にハマっていた。中野孝次の『清貧の思想』(文春文庫)の影響である。そのあとはべつにテーマもなしに宮本常一『生業の歴史』(未来社)とか櫻木健古『捨てて強くなる』(ワニ文庫)などがヒットした。

 ことしに入って横森理香の『恋愛は少女マンガで教わった』(集英社文庫)はよかった。われわれマンガで育った世代にはマンガの影響なしに自身を語れない。マンガをオトナの言葉で読み解いたこの本はひじょうにベンキョーになった。

 森真一の『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)は衝撃だった。感情のコントロールというのは「良い知識」だと私は思っていたが、社会の管理や支配としての道具であるという指摘にはたいへん考えさせられた。

 それからこの感情社会学の本ばかりを読んだ。岡原正幸他『感情の社会学』(世界思想社)、岡原正幸『ホモ・アフェクトス』(世界思想社)などだ。感情というのは統御不能だから自分らしさだと思われているが、そのため社会が人を支配するための有効な道具となっている。

 「自分の感情は純真なもの、自然発露的なもの」という思いこみは捨てた方がいい。感情は客観的に見るべきだ。そういう訓練をしてくれる、つまり感情を「客体化」する感情社会学をもっと深く知りたいと思ったが、いまのところ、主著の翻訳はまだまだだ。

 小此木啓吾の『秘密の心理』(講談社現代新書)もなかなか重要な本だ。隠すことによって、自他の境界、自分という感覚が生まれてくる。家族や仲の良い集団も秘密を共有することによって境界が生まれる。隠すことが自分だとしたら、自分とはなんなのだろうか。自分の境界とはなにか、自分とはなにかと考えさせられた。

 そのあとに可藤豊文『瞑想の心理学』(法蔵館)に出会った。これはひじょうに名著だ。われわれの見ている世界が虚妄であるという『大乗起信論』のことばをわかりやすく説明してくれていて、ひじょうに感激した本だ。

 岡野守也の『唯識のすすめ』(NHKライブラリー)では、われわれにはこの世界はモノや人がばらばらにあるように見えるが、ほんとうはすべて「ひとつながり」の世界であるとのべられていて、ひじょうに興味をもった。仏教でそれをいっているのは「一瞬の時間に永遠があり、一雫のなかに全宇宙がある」という華厳経である。この華厳経を理解しようとして、現代物理学とか量子論とかのサイエンスからそれを探ろうとしたが、ほとんど失敗に終わった。

 そのあと性愛の交換関係にこだわっているうちに民主制や平等も総力戦の交換条件であるということに気づき、カイヨワの『聖なる社会学』(ちくま学芸文庫)や『戦争論』(法政大学出版局)、猪口郁子『戦争と平和』(東京大学出版会)などにその指摘を見出すことができた。民主制は国民総力戦という交換条件でしか得られない悲劇的な事実をどう考えるか。

 ことしのおおまかな読書のおもなテーマは「感情社会学」と「華厳経」、「民主制と総力戦」にくくることができる。てんで系統立ったテーマにならなかったのは残念に思えるが、私の読書は自分のいま興味あることを追究してゆくやり方なので、まあ、いつかはなんらかの成果に結びついてゆくと考えることにしよう。

 いまはちょっとメディア分析、サブカルチャー分析に興味をもっている。自分が見てきたTVやマンガ、音楽などをあらためてどのような意味やメッセージがこめられていたのか考えてみたいと思う。自分をつくってきたものを再検討してみたい。社会学的な分析がいまいち充実していないのが残念だが、どこまで切り開けることだろうか。





   20世紀ライブラリー      00/12/29.


 世紀の変わり目なんてただの数字の上でのとりきめとしか思っていないから、20世紀がどーのこーのなんてどーでもいいが、まあ、かんたんな概括だけでもしておこう。

 私が生きたのは20世紀も後半の33年間でしかない。生まれたのは67年、世界的に対抗文化や学生運動が盛んなときだ。このときのムードはたぶん熱血学園ものやスポ根もののドラマやマンガにひきつがれたのだろう。

 それが一転、シラケの時代になる。「シラケ鳥、飛んでゆく〜、東の空へ〜♪」という唄が流行った。たぶん73年と77年のオイル・ショックによる高度成長の終焉の影響によるものだろう。この断続は私にぬぐいがたいニヒリスティックな性格をもたらしたように思う。

 80年代前後はアイドルの時代だった。キャンディーズ、ピンクレディー、山口百恵、松田聖子、田原俊彦、バカみたいな時代だが、アイドルとマスメディアが異常にパワーをもった時代だった。私はやっぱりアホらしくて洋楽に走った。映画では『猿の惑星』や『ジョーズ』、『スターウォーズ』なんかがとりわけ流行った。私は手塚治虫の影響でSF映画ばかり見ていた。

 バブル時代は日本人の自尊心と優越感が絶好調に達した時代だった。アメリカをいまにも追い抜きそうな経済大国にのしあがりかけた。レジャーとか高級品にイカレ狂った集団ヒステリーの時代はとても不快だった。このころアメリカから「エコノミック・アニマル」と揶揄された影響か、私はともかく仕事とか会社に身を捧げるような一生なんか大キライになった。

 90年代はバブル崩壊によって大不況の「失われた10年」になった。銀行とか大企業がばたばたと倒れて既成社会に憤りを感じていた私は大喜び。もっと崩れればいい。うひひ。

 不況時代にはつぎの時代を切り開く新ビジネスが生まれるといわれるが、インターネットや携帯電話がこの時代に大躍進した。

 この現在できあがった戦後の経済システムというのは戦中1940年代の国民総動員体制に端を発している。国家総力戦の経済システムが、戦後を通じてこの国を経済大国にのしあげたのである。その端緒は明治の近代化からはじまっており、民主制と平等の達成というのは国民総力戦との交換によって与えられたものであり、その御褒美ありがたさに国民は戦争や経済にばたばたと倒れていったのである。

 私の中にはすでに戦争の影響はない。悲惨で壮絶な戦争体験を同じ日本人が過去に経験したという実感が希薄である。父は空襲の体験をしているが、リアルさは感じられない。そういえば、私には父母方両方の祖母は知っているが、祖父の記憶はない。やはり戦争なのだろうか。

 20世紀は自動車と家電の時代だった。これらを国民に行き渡らせるためにあらゆる仕組みやインフラが整えられた時代だ。車のために全国に道路がはりめぐらされ、家電の物流のためにその道路網が利用された。19世紀にはそれが鉄道だったのだろう。

 イデオロギー的には社会主義の時代だった。ソ連は1917年に誕生した。日本は資本主義圏だが、国家が国民の老後や生活を保証するという社会主義的発想は社会主義国以上に浸透したという事実はしっかりと認識しておくべきだろう。

 そして20世紀は大量殺戮の時代だった。そしてそれが生まれたのは皮肉なことに民主主義と平等と人権によるものである。つまりそれらを与えられ、「国民」になった人々は国家は自分自身でもあるため命を賭してまで守らなければならないし、そのためには他国をも平気で蹂躪しなければならない。こうして貴族や武士などの専門職による戦争以上の膨大な殺戮と犠牲がもたらされたのである。

 民主制と平等は大衆市場も生み出した。最大の利益をあげる大量生産は階層社会ではマーケットが分断されてしまう。階層や不平等の垣根があるかぎり、市場は広がらないというわけだ。ヒューマニズムや進歩から平等や民主制は達成されたのではなく、市場や企業の要請であり、また国民総力戦のために必要な交換条件であったということだ。

 大量生産と大量消費は画一的で均質な大衆を生み出した。20世紀は大衆の時代である。そして画一性と均質化をなんの疑問もなく他者に圧しつける自由のない時代である。

 画一化した大衆を生み出したのは大量生産と大衆市場である。大衆市場ができあがるためにはどの部品にも合う規格品が必要になる。人間も同様だ。われわれは大衆市場における大量規格品として育てられる。それを生み出す企業は鉄道によって生み出された。鉄道が従業員を遠方からも一ヶ所に集めるという仕組みを可能にした。そして20世紀は企業の時代になった。企業が人間の人生や生き方、性格や嗜好などを決定づけた。悪夢のような企業支配の時代である。

 まあ、20世紀とはざっとこんな時代だと認識している。21世紀というのはこのような時代のシステムがばたばたと倒れてゆく時代になると予測される。崩壊の時代に希望を見出せるだろうか。あるいはどのような希望なのだろうか。






 選択可能性の時代のどうにもならないもの     00/12/31.


 これまで消費によってわれわれは「選べる幸福」というものをどんどん広げていった。「選択不可能性」や「どうにもならないもの」、「宿命性」といったものを排除してゆくのがこれまでの歴史だった。消費や科学はそういう夢を達成するに足るものだと信じられていた。

 消費の「選べる幸福」はそれ以外の世界のものの見方も決定する。これまで選択不可能であった家族や夫婦、親子、恋人、職場というものも「選択可能性」のリストのなかにつけ加えられてゆこうとしている。

 これが家族の崩壊やプラトニック・ラブの崩壊、企業忠誠心の崩壊と写る。これまでこれらは選択不可能で、選べない宿命性を背負ったものであったが、どんどん選択できる、選択されるものになっていった。

 しかし世の中、どんどん選べるものになっていってハッピーでおしまい、という話にはならない。どこまでも選べるということは、選べない自分の無能さや不幸とじかに向き合うことになるし、どこまでも選べるものを広げても選べないものは絶対に残る。容姿や生まれや育ち、才能、性格、親子など、自然や環境に属していたと思われているものだ。

 むかしの人は宿命性やどうにもならないものに順応し、あきらめたり、正当化したりする生き方や技術といったものをしっかりともっていた。しかし選択可能性が増えていったわれわれに、宿命性やどうにもならないものに対する忍耐力や順応力がどんどん失われてゆくのは当然のことだ。選択可能性の広がりは選べない不幸をも倍加するのである。選べるがゆえの、選べない不幸である。

 われわれは人生のどこかでなんども「選べるはず」の「選べない壁」にブチ当たることを経験することだろう。「選べるはずなのにこれはオカシイ」とパニックをおこし、なんどもなんどもリセット・ボタンを押して人生や人間関係をやり直そうとする。しかし選択可能性がどんなに増えた世の中でも、絶対に選べない、変えようのない宿命といったものは深淵のごとくわれわれの人生に待ちかまえているはずだ。人生にはどうしようもないことが山のようにある。

 だから選択可能性がどんどん広がってゆく世の中でも、われわれはどこかで選択不可能性やどうにもならないものを受け入れて、順応してゆく心理的機能も考える以上に強化する必要がある。どうしようもないものを我慢したり、容認する技術は、選択可能性の時代だからこそ、それを上回るほどのパワーを必要とするのである。

 選択できる、やり直されるはずだと思いこむから、人生はなまじ不安定で、もがきまわるものになり、心をさいなんでしまう結果におちいる。

 選択できる可能性ばかり夢想するのではなく、選択できない、変えようのない局面もたくさんあることを容認する必要がある。選択不可能性を受け入れて、そこで生きてゆく覚悟と自覚が、時には――いいや、考える以上に必要だということだ。

 選択不可能、どうにもならならもの、宿命性といったものをもういちど引き受けて、そこで幸福を養ってゆく技能と知恵がわれわれに必要だということだ。どこかでわれわれはこの重い現実を引き受けなければならない。選択可能性がどんどん広がる時代の重要な知恵である。



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  まえの断想集「冬の散歩道」

  2000年冬の書評「戦争論、自然風景」

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