秋のつぶやき断想集




  専業主婦の憂うつ      00/11/3.


 たまたま朝日新聞の「どうする・あなたなら」で「専業主婦の憂うつ」という記事を読んだ。まあ、同窓のエリートの夫と差は開くばかりとか、夫が帰ってくるまでだれとも話さず、ベビーカーで2駅ほど歩いていたという身のつまされる話が載っている。

 2駅も歩いてたという話はなんだか涙が出そうになった。子育てや家事いがいにすることがなく、家にこもるか、散歩することしかやることがない。そういう生活は私自身も休みとか長い失業中には味わったことがあるので、ぼんやりとはわかる。

 専業主婦の憂うつというのは、たぶん男のなかにも共通したものがあるのだと思う。キャリアとか先端の仕事に憧れる気持ちは、そういう仕事についていない男の焦燥をかりたてるものである。

 要は、社会的に有用になったり、称賛されたり、社会の中心や表舞台に立ちたいという願望である。それと現実の落差が、私たちの憂うつや倦怠をうみだすのである。

 主婦は社会の中心から極端にぽつんと外れることになるから、先鋭的にその憂うつ感が強く現れるということだ。男も大なり小なり先端や中心の仕事についていないということで、幻滅や空虚感を味わっている。

 われわれの社会は社会的有用な人や社会的称賛の集まる人をとくに褒めたてる社会である。そして子どものときから男も女もそのような有用・称賛される人になるように教育される。成人したときにはすっかりそれがアイデンティティや自我の根底をなすようになっている。

 もしそれらのいずれの資格も得られないのなら、われわれは自我やアイデンティティの瓦解や崩壊を経験することになるだろう。それが専業主婦やルーティン・ワークにつく男たちの憂鬱につながるのである。

 わたしたちはこういう自我のなりたちやありかたといったものを、客観的に、冷静に分析して見つめなおしてみるべきなのだろう。そうすれば自我の崩壊感も防げ、そんな気持ちにも大らかで、距離をおいたものとしてながめられるようになるだろう。

 社会的有用や称賛にたいする欲望のひきさげや消去はいくらかの西洋哲学者や仏教僧、東洋思想家などが語ってきたものである。こういう人たちの本を参考にすることができるだろう。富、栄誉、権力についての名言集

 ただ社会的称賛の欲望は自我のかなり根本的なところに食い込んでいるのは、私自身にも実感できるもので、ひきさげや消去はなまやさしいものではない。自我の価値や意味自体がまったく無に帰すような怖れを味わわなければならない。

 褒められたり、羨ましがられたり、こういう他人の反応をもとに自我というものは構成されているのだろう。称賛や羨望が自我の形成の基底をどのようにつくりだしているのか、こういうことを考えてみることが、主婦や社会人の憂うつを解消する手がかりになるのだろう。





    吉野の風景      00/11/4.


 今日は吉野にいってきた。まあ、私は山々の壮大な展望や渓谷の清らかさを愛するので、べつに歴史史跡とか寺院にはほとんど興味はないし、吉野というところが歴史上どういうところなのかほとんど知識なしでいった。

 みやげ屋がたくさん並ぶ観光地はあまり好きでなくて、ひたすら人と遇わない山道が好きなので、市街地はさっさと通り過ぎたかった。

 吉野といえば桜であるが、いまは秋なので桜は見られなかったけど、吉野山や高城山あたりから一望できる蔵王堂をシンボルとする吉野の町並みや山々といったものはたしかにすばらしいものがある。感動する。葛城山と金剛山の見慣れた稜線も遠くにかすんで見える。桜が満開であれば、なおさらきれいであろうが、シーズンの観光客だらけは想像するだけでうんざりする。

 西行庵は民家からだいぶかけ離れた、登りのしんどい山林の奥にあった。貧相であった。ほんとうに四畳半一間くらいの、イメージでは歴史観光物であるからもうちょっと立派そうな気もしていたのだが、貧相そのもののつくりだった。葛城山のふもとの弘川寺の西行庵のほうはもう少しきれいだった気がするが。

 宮滝への万葉の道はすばらしかった。ここは地形的に谷の底にあって、いくつものせせらぎが何ヶ所も合流するところであり、そのさまは圧巻ものである。奥深い谷底にあらゆるところの小川がいっきょに集まったようなところで、万葉に詠まれただけのことはある。でもひとりも出会わなかったけど。すだれのような滝と高滝は気に入った。

 宮滝というところは目を疑うほどの渓谷である。アップルパイのような地層がいくえにも積み重なった巨大な岩石がどーんと中央に居座っていて、川のまわりもそういう地層が積み重なったむきだしの絶壁が覆っている。朝廷の別荘となっただけのことはある。

 いろいろ耳にすることの多かった吉野だけど、観光地が好きでない私は避けていたのだが、大阪の近くの山々の見所はだいぶ登ってしまったので、ここに来たというしだいである。もう少し歴史的知識や歴史に対する想像力といったものを養えればもっとロマンあふれるものになったかもしれないけど、政治屋の歴史より民衆の歴史が大事だと思っているし、即物的な人間なので、いたしかたがない。






     山里の営み      00/11/5.


 山に登る愉しみのひとつとして、山里の風景をながめるというものがある。山から降りた山里の風景には驚く。こんな山奥近くに人の暮らしがあり、営みがあるなんて思ってもみなかったからだ。

 とくに奈良の柳生街道の向こうにある山にとりかこまれた田園の風景は気に入っている。山のなかをえんえんと田んぼが広がっている風景は、まるでマンガの『日本昔ばなし』に出てくる昔の風景そのままに見えた。犬鳴山のふもとの田んぼの風景もとても大阪近郊とは思えないほど、素朴でよかった。

 風景の良さや感動といった気持ちを言葉にしたり、概念化したりすることは難しい。なんでこんなに気持ち良いのか、自分の気持ちを言葉でいいあらわすことはかなり困難である。

 たぶん驚きがあったのだろう。こんな山奥に人が住んでいるなんて思ってみなかったところに田んぼがえんえんと広がり、人の営みがあるということに驚いたし、山々に囲まれたそんな自然のある風景に囲まれた生活はさぞかし羨ましいことに思える。

 私の生まれ育った町というのは大阪郊外であり、やっぱりアスファルトの道路とコンクリートの家に囲まれた人工的な町である。どこまでいっても、そんな殺風景な町並みがつづいているところである。田んぼが多かったにしろ、住宅街にあるそれは美的でも素朴を感じさせるものでも、なんでもない。

 だから山奥にある田んぼやその暮らしといったものにとても魅かれるのである。まさかこんなところに人が住んでおり、生活を営んでいるなんて思いもしない山奥なのである。驚きのなにものでもない。

 こんな山奥の田園の生活ってどんなものなんだろうと思う。都会に住んでいる私には想像もできない生活である。自然の風景とか時間のリズム、空と天候など、都会の生活や仕事とまったく違った日々があるのだろうなと思う。

 また、そこが静かなんである。物音ひとつしなく、たまにカラスや鳥の鳴き声が聞こえ、動くものもほとんどない山々と田んぼの風景が広がるだけである。こういう静寂と沈黙のなかで暮らす自然の生活ってどんなものなんだろうなと思う。

 外から眺めているだけではわからないしがらみやいやなこと、苦しいことは、どんな田舎の暮らしにもあるに決まっている。高齢化や過疎化も吹き荒れたはずである。私の印象は都会の一住人が感じる手前勝手な判断でしかないだろう。

 「傍観者」としては、山里の風景はとてもいいものである。山里の風景写真を見るだけでも、「ふぁー」と癒され、感動する気持ちがわきあがってくる。わらぶき屋根の家があったりなんかしたらもっと最高だけど。

 こういう山里の風景に魅かれるのは、そういう山里に暮らしたかもしれない祖先の血が私の中にも流れているからなのだろうか。それともだれしもが感じる自然への郷愁や気持ち良さなのだろうか。また山に登ったら、お気に入りの山里の風景に出会えることを願いたいと思う。






     野田知佑の青春放浪       00/10/8.

    

 カヌーイスト野田知佑の『旅へ 新・放浪記T』(文春文庫)はとてつもなくよかった。世間のふつうの人のように就職するのを拒んで、あてもなく世界をさまよいつづけた青年の苦悩が綴られていて、ものすごく共感でき、感動し、羨ましくなった。

 「大人たちはたいていぼくの顔を見ると、「早く就職してマジメになれ」と説教した。馬鹿メ、とぼくは心から彼等を軽蔑した。マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張っているのではないか。不マジメならいい加減に妥協してとっくにそのあたりの会社に就職している」

 「ヨーロッパはいいぜ。あそこは大人の国だから、君がどんな生き方をしても、文句はいわない」 日本で会ったアメリカのヒッピーの青年がいった言葉が、外国に出るきっかけになったのだ」

 「北欧の人たちは「青年期とは滅茶苦茶な、狂乱の時期である」ことを判っているようだった。――「俺も若い時に世界を放浪したよ。そうやってもがいているうちに自分にぴったりの穴の中に落ちつくものだ。グッドラック」

 「何をやってもいいのだ、人はどんな生き方をしてもいいのだ、という考えを持つ人々の間で生活するのは強い解放感があった」

 「日本では拾った車の持ち主とよく口論した。ぼくが何もしていないと知るや「マジメになれ」とか「世の中は甘くない」とかいって説教する馬鹿な大人たちには全く我慢がならなかった。こんな阿呆面をした人間でも妻子を食わせてやっていけるのだから日本という世の中は甘いもんだ、と思った」

 「あの下らない、愚かしい大人たちのいう「人生」とかいうものに食われて堪るか。俺はあいつらのすすめる退屈な、どんよりと淀んだ人生には決して入らないぞ。そんな反抗心だけが唯一の支えである。――あの俗世にまみれた、手垢だらけの志の低い輩ども。俺を非難し、白い目で見、得意な顔をして説教を垂れた馬鹿な大人たち。俺はただ「自由」でいたかっただけなのだ」

 「世の中はそんなに甘くないぞ、世の中はもっと厳しいぞ、といって脅したけど、実際に世の中に出てみたらぼくが思っていたより何倍も甘かったと思う。ぼくの希望や夢をあんな言葉で圧殺して邪魔した大人たちは許せまんね」

 「日本では大人たちが、自由に生きようとするぼくをダメだといい、非難し、憎み、ぼくは全然自信がなかった。しかし、ヨーロッパで出会った大人たちはぼくの生き方をよしとし、「自分だって若い時は君と同じことをした。がんばれ」といった」

 こういう気持ちというのはとてもよくわかる。日本ではだれもが「就職しろ」としかいわないで、青年に自由を生きさせようとしない。いまだって同じだから、野田知佑は1938年の生まれだから(私の親と同じくらいの世代だ)、もっと過酷な白い目にさらされたことだろう。

 海外放浪がとても羨ましくなった。私は海外旅行をしたことがなく、就職しないでさまざまなバイトを転々としてきた。一種の狭い圏内の放浪だ。この本と、さいきん読んでいたアラスカのカメラマン星野道夫の本を読んだ影響で、どこかを放浪して、気に入った土地に定着してやろうかと誇大な妄想を抱きたくなる。

 海外放浪をする若者はいまではかなりいるのだろう。かれらはなにかをつかんだのだろうか。それともなにも得られずにこのつまらない日本の世間に呑みこまれていったのだろうか。

 野田知佑はそういう青春の放浪と苦悩の時期をへて、いまではカヌーイストとエッセイストとしてすっかり自分だけの人生のスタイルを築きあげたようだ。だからこの青春の苦悩と惨めさは価値と意味をもつものになった。成功の陰には同じような道を選んで、ずっと青年時の苦悩をいまだに抱え込んだまま、生きている多くの人たちも存在するのだろう。

 もう少しこの国は就職だけを強要しない、自由に生きられる世の中になってほしいものだ。「何をやってもいいのだ、どんな生き方をしてもいいのだ」――そういった大人のセンスをもった日本人があふれる国になってほしいと思う。






    本はどう整理したらいいのか?     00/11/12.


 どんどん本は増えてゆく一方なのに、私の狭いワンルームには本棚がふたつしかない。これ以上、本棚を増やすのもスペース的にかなりキツイ。最近は本棚の前に何列も山積みになっており、ほこりも積もる一方だった。

 新しいダンボールが手に入ったので、むかし読んだ本を入れて押し入れにつっこんだ。これで7箱くらいだ。十年前に読んでいた世界文学から、哲学・現代思想、心理学・精神分析などの本が、おそらく読み返されることもなく眠りつづけることだろう。

 私はめったに本を読み返さない。興味がすぐに大幅に移り変わるからだ。感銘した本は本棚の手にとりやすいところに集めているのだが、それでもほとんど読み返さない。

 フロムにオルテガにニーチェ、堺屋太一にドラッカーに日下公人、ウィルバーにクリシュナムルティにラジニーシ、ケンピスに洪自誠に老荘、そのほかにもたくさんメインに置いておきたい本があるが、あまり読み返さない。

 じゃあ、なんで本棚に飾っているのだということになるが、やっぱり本を飾りたいという気持ちもあるし、感銘した本はいつかまた読みたくなる時もあるかもしれないし、役に立つかもしもしれないという思いがあるからだろう。ほかに習慣というのもある。

 著名人のずらりと並んだ本棚のようにびっしりと本を並べたいというのもある。でも私の本棚はだれかに見られることはないだろうし、スペース的にもムリである。そもそもそういうのは飾りやインテリアとしての本であって、または知識量の誇示であったりするわけだがら、それはやはり本来の読書から目的がズレた行為である。(でもこれは愉しみであったりするから全否定するわけではないが)

 私のような読書人は読み終えた本は古本屋に売ったり、捨てたりするのがベストなのだろうか。でもいつか役に立つかもしれないという思いがそれをせきとめる。壁一面に本を飾りたいという夢も断ち切れたわけではないし。また知識量の誇示としての物証もかんたんには手放せないし。

 感銘した本は読み返すべきだと思うんだが、そうしてこそその本がもっと深く味わえるとよくいわれているが、どうも私は苦手だ。好きな映画とかマンガは何度も何度も飽きもせず見たものだが、活字の本はけっこう気負いがいったり、根気がいったりするから、どうも読み返す気がおこらない。

 興味もつぎつぎと移り変わってしまう。一時期あんなに好きだった現代思想も気がついてみたらほとんど読まず、かなりのところ興味が失せてしまっている。ビジネス書関連も薄く興味がつづいているようだが、ひところの熱は失せたように思われる。

 私は「読み捨て」が似合うのかもしれないな。いつか役に立つかもしれない、壁一面に本を飾りたいという気持ちで本はとりあえずとっておいたが、読み返すこともほとんどないし、本を貯めつづけるのもスペース的にムリだ。ブック・オフにまとめて売り払うほうがいいのだろうか。

 いやぁ〜、それにしても私は感銘した文章には赤線を引かないと気がすまないタイプだし、本棚に飾りつづけた本は煙草の煙で黄色く変色している。これじゃあ、売れないな。

 私の興味というのはごっそりと移り変わってしまう。一時期好きだったジャンルもその熱が醒めてしまったら、なかなかそこに戻ることもない。ずっと変りつづけないものは書物から知識や情報をむさぼり集めるというスタイルだけである。その内容やジャンルはたえず移り変わっているというわけだ。

 こういうのが良いのか悪いのかはわからない。興味の趣くままやってゆくだけだ。最終的には私は老子や仏教のいうように、知識欲そのものを捨てられる境地に達せられたのなら、バンバイザイだと思っている。それまではこれからも山積みの本の高さを積み重ねてゆくことだろう。





    小説はどうやって選びますか?      00/11/15.


 なんだか久々に小説を読んでみたくなったのだが、小説って選ぶのがむずかしい。すっかり小説から遠ざかっていたから、どの小説がおもしろいのか、読みたいのかがわからない。

 みなさんはどのように選ぶのだろうか。小説って中身をぱらぱらめくってみても、てんで中身が見えてこない。社会科学とかの本だったら、たいていは章ごとのタイトルがあるから、語られている内容はだいたいは推測できるが、小説はそういうわけにはゆかない。

 むかし私が世界文学を読んでいるときはかんたんだった。評価が高くて定評のある古典ばかり読んでいたから、おスミつきの本を選べばいいだけだった。ポスト・モダンのアメリカ小説もそれについて解説する本があったから、評価の高いおもしろそうな本を選べばよかった。

 それ以外の小説って選ぶのがたいそうむずかしいんだな。帯とかうしろの解説だけでは情報が少なすぎるんだな。評価で選ぶか、ストーリーや設定の興味、親近性で選ぶか。

 まあ、小説のガイド・ブックを探すのがよいのだろう。インターネットの書評HPもたくさんあるのだけれど、用途や目的別の本探しというのはけっこうしんどそうだ。

 書店でおもしろそうな本を見つけることができたのならいちばんいいのだが、帯や解説だけではリスクが大きすぎる。小説って選ぶのがむずかしい。

 前々から気になっていた『アルジャーノンに花束を』をやっと読んだ。みんなが絶賛しているようだけれど、ちょっと私にはそこまで感動する作品には思えなかった。たしかにかわいそうな話なんだが、深い感銘は味わえなかった。まあでも少なくともほかの小説を、この本のおかげで読みたくなったことのくらいはあるが。

 小説というのは、哲学書や社会学書みたいにメッセージやテーマをはっきりといわないから、私はしばらく遠ざかっていた。なにをいいたいのか汲みとれないし、自分の知りたいことや味わいたいと思っている情感とぴったりの本を見つけるのはかなりむずかしいし、前述のとおり、おもしろいかどうかは帯や解説だけではなかなか判断できないし、また作家のポーズとか物語ることへのナルシズムとか陶酔性というものがどうも気に食わなかったし。

 小説を読みたくなったのは、いままで考えていたテーマ――総力戦と民主制の関係がそろそろ興味を失ってきて(答えはしっかりと出たわけではないのだが)、その切れ目にいるからだ。いまは考えたいテーマも、読みたそうな本もない。

 新しく考えたいことがないときは気ままに小説でも読みたくなる。学術書の本のように価値ある知識を約束してくれる確率は低いのだが、まあつぎのテーマまでの小休止だ。





   マスメディアによる認知欲求      00/11/17.


 人間にとって認知欲求を問うことがいちばん重要なことだと思っている。認知欲求というのは人から認められたい、称賛されたいという欲求のことだ。人はこの欲求のためなら死をも厭わないし、人生を投げ捨てもするのだ。

 勢古浩爾『わたしを認めよ!』(洋泉社新書)によると、70年代前半までは家族、性、社会による承認だったが、70年代後半から「カネ、セックス、自己」による承認に代わり、90年代には他人の承認はいっさい無用になり、自分だけに承認してもらうことが重要になったといっている。

 この欲望の先鋭化したかたちは「有名になりたい」という願望としてあらわれる。マス・メディアによって承認されることがなによりも大事な時代になったのである。家族や世間や会社に認知されることなんかちっぽけで、つまらないことだ、なによりもマスメディアということになった。

 これは私自身にも実感できるところだ。家族や世間、会社などの身近な人に承認してもらっても、ちっともうれしくもないし、不全感は拭えない。おそらくマスメディアのような不特定多数の、顔のない人たちに評価されないことにはちっとも心の渇きを癒せないのである。

 私はこういうマスメディアによる承認を支えとする自我とずっと格闘してきたように思う。自我の根本のところが、おそらく生まれたときからTVや雑誌などのマスメディアに囲まれて育ったために、その承認による規定を受けているように思われる。メディアに承認されないことには人生や自分には価値がないというような自我である。

 多くの人はマスメディアが奨めるモノや行動を真似たり、いうとおりにしたりすることで、その承認欲を満たしている。なんだか「絶対の神」のようである。

 かつては世間や家族、会社から承認されることがとても大事であり、いきいきとしたことであった時代もあったのだろう。それは出世やモノやカネで顕示できたのだろう。しかしいまはマスメディアである。マスメディアに自分が出ないことには自我は瓦解してしまう。この傾向はインターネットによってますます加速する方向にすすんだし、人々がのぞんできたことなのだろう。

 マスメディアに出てくる者は敗残者かもしれないし、TVや雑誌をつくっている人たちはふつうの人とは変らないのに、それでもかれらは優れた者になり、時代の声となるのである。まさしくマスメディアとは「魔法のからくり」とよびたくなるものである。

 私は自分のかなり深い根本のところをメディアによる承認という規定を受けていると思う。メディアによる承認を得ないと、自分には価値も意味もないように思えてしまう。たぶん現代の若者の多くも、自我の根本をこういうふうに規定されているものだと思う。

 できれば私はこういう自我から脱け出したいと思っている。日常の、なんでもないことに幸福や満足を感じられない人生なんて幸福になれるわけがないし、有名になることでしか承認を得られないと思う自我なんてものはとうていは叶うわけがないのだ。だからこういう承認による自我をもつことは不幸の増産と不満の継続化をひきのばすだけなのだ。(それだからこそ、産業とメディアは潤いつづけるのだが)

 こういう自我の構造というのはどうなっているのだろう? どのようにメディアによる承認を希求する体質がつくられてゆくのだろうか。この問いはとても大切なことだと思う。これからの人間のあり方と社会構造を決めてゆく決定的な要因になってゆくのはまちがいない。





 フィクションから得られるもの ノン・フィクションから得られるもの        00/11/20.


 私は基本的に学術書とかビジネス書のノンフィクションのほうが好きだし、得られるものが大きいと思っているし、だいいちわかりやすいと思っている。

 小説というのは一時期現代文学と世界文学をざっと読んでみたが、どうもなにを言いたいのか、なにを伝えたいのか、さっぱりわからなかった。物語としては感動したり、感銘を受けたとしても、それが言いたかったこと、伝えたかったことの意味やメッセージがはっきりとつかめないのである。

 物語の読み手としては優れていなかったのかもしれない。みなさんはどうですか? 物語のメッセージやテーマを明確に、言葉にして、理解することができていますか?

 私は子どものころからたくさんの映画やマンガ、ドラマなどを好んで見てきたが、おもしろかった、よかった、感動した、というボキャブラリー以上の理解はどうもできなかったように思うのだ。

 これでは物語から得られる教訓や知恵といったものは満足なものにはなり得ない。ただ感情や情感の興奮やカタルシスを得ただけだとしかいえない。「感情産業」の消費をしただけだ。

 だから私は哲学書や学術書に流れていった。ここには言いたいこと、メッセージ、テーマが明確に語られているし、容易に理解できるようになっている。小説や映画のように、ストーリーのなかに、物語の中に、しまいこまれたテーマやメッセージを探し出す必要もない。

 私はこのように学術書のほうをもちあげるのだが、世の大半の人は小説や物語のほうを好むようだ。本といえば、小説のようである。学術書はあまりにも難しすぎる、カタブツっぽい、てんでわからない、といった感想や印象がとび出してきそうだ。

 たしかに学術書の外側の印象はそんなものだ。物語と学術書の決定的な差とはなんだろうか。物語には人間の行動が出てくるが、学術書には人間の行為はいっさいなく、抽象的で、概念的な話ばかり出てくる。具体的ではないし、たしかに日常の感覚ではつかみにくいものである。

 この障壁があるために人は小説世界から、学術書には出てこない。私だって、むかしはマンガや映画の映像文化で育ったために、二十歳になるまで活字の物語が読めなかった。活字による想像力が働かなかったのだ。読めるようになったのは好きな作家が出てきてからだ。

 哲学書が読めるようになったのは、考えたいことや知りたいテーマが深くなってからだ。そういう知識欲が優先されると、学術書という難しくて、おカタイという本という外側の印象なんかまったく気にならなくなる。要は外側のイメージではなく、中身への関心と興味が昂じたときにはじめてその書は理解されるものとなるのだろう。

 小説を読むだけではもったいないと思う。学術書は小説だけでは得られない、ものの考え方や人間のあり方、社会構造などを教えてくれる。これを得るのは小説だけでは不可能だ。物語には語られる内容、テーマに限界があると思う。世界を知るには小説はあまりにも狭い。

 といっても、さいきん私はなんだか小説を読みたくなってきた。なにを求めているのか自分自身にもよくわからないが、まあ久々に興味のある小説を手当たり次第読んでみたいと思う。感動や人生を味わいたいと思っているのかもしれないな。





 「フリーター150万人」突破記念(?)特選エッセイ集  リバイバル・エッセイ特集
 自由な生を模索する人に贈ります。
 サラリーマン的人生からの脱却をめざして――。
 (ただし、将来の不安は残りますので全面肯定というわけではないですが)

 「ヘンリー・ソーローの省エネ労働観」 1998/8/15.
 「生活保障という恐れが未来の牢獄をつくりだす」 98/8/4.
 「社会的劣位を怖れる心」 99/3/31.
 ビンボーはほんとうに「不幸」なのか」 99/3/23.
 かない者の幸いなるかな 99/5/27.
 のんびりした、ゆたかな社会の実現」 1997/12/13.
 栄誉権力についての名言集 99/9/18.



ご意見、ご感想お待ちしております。
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