Thinking Essays




   「会社」という日本人のただひとつのよりどころ


                                               1998/3/4.




    日本人のだれもがバカのひとつ覚えのように「よい学校、よい会社に入れ」という。

    ほんとうにだれもがその言葉しかいえない。

    バカを通り越して、ほとんど「ブッ壊れたテープレコーダー」なみだ。


    親や大人はそのことばだけをくり返すだけだ。

    ほかのアドバイスがなにひとつ言えない。


    わたしが20代にフリーターをやっているときには、

   会社のだれもかれもが「定職につけ」としかいわなかった。

    そういうしか会話が成立しないのだ。

    なかには怪訝そうになぜかと心配げに追究するような人もいたが、

   たいがいの人には理解を絶することのようだった。


    むろん若い人はだいたいは察しがついていたと思う。

    もうクソまじめな会社勤めなんかやり切れないという意識が、

   暗黙の了解として若い人にはあると思うのだが、

   この会社中心社会はまず変わるわけがないとあきらめている。

    おマンマの食いっぱぐれはたまらない。


    人間は学校を卒業すれば、会社に就職するのが「当たり前」だ――、

   それ以外の生き方はないのだ、という常識がこの社会を覆っている。

    強固な思いこみが、厳然とだれもの頭の中に植えつけられている。

    この思いこみは一家に一台はかならず行き渡っている。

    TVや電話以上に個々人の頭の中にすえつけられているようだ。

    電波工事や電話回線の工事の人が、頭にコードをすげつけていったのだろうか。


    ここで考察したいのは、なぜこのような考え方が人間以前の条件として、

   この社会に巣食っているのか、あるいはなぜほかの生き方が提示、承認されないのか、

   といったことなどだ。

    この考え方が歴史的にどのようにできあがっていったかということの、

   源流にさかのぼって提示できれば、かなりこの考え方が比較的最近にできた常識だ、

   ということがわかると思うが、そのような実証は学者の人におまかせしたい。

    昭和初期までほとんど農業国だったから、戦時中の総動員体制、

   高度成長期にかたちづくられた――つまり多くは戦争のための製造品だと思うが。


    この日本社会は、会社に属することでしか、一人前の大人として承認されない。

    会社の「所属」というモノサシしか、評価基準を与えられない。

    ともかくどこかの会社に属しさえすれば、それでよしとする基準があるだけだ。

    恐ろしく単細胞で、単純な基準しか、日本人は持ち得ていない。

    日本人にのこされたゆいいつの承認は、ただ会社所属だけだ。


    この恐ろしいまでの単一価値観はいったいなんなのだろうか。

    ただ会社に属するだけが、日本人のゆいいつの世間に認められるためのスタンプに

   なってしまっている。

    なぜこんな愚かなモノサシでしか、人を承認できなくなってしまったのだろうか。

    まあ人は単純化するほど、ものごとを理解しやすくなるわけだし、

   紅白対戦とかの単純化の極みほど、ひとびとを団結させて奮い立たせるものはない。

    戦争では「正義の陣営」と「悪の権化」といういつもの常套手段の図式で闘えば、

   多くの人が心情的に参戦できやすくなる。

    資本主義VS社会主義という図式も(区別できないほど複雑で入り組んでいるが)、

   これほどひとびとの理解を助けるものはない。

    そのようなかんたんな図式で、会社に所属するという承認基準は、

   冷戦構造下の社会と、近代化経済社会のなかにおいて、

   有効な目印として働いてきたのだろう。


    会社に所属することが――とくに大企業に所属することが、

   世間に認められるゆいいつの基準になった。

    この世間ではほかに承認される基準・モノサシがまるでない。

    超かんたん図式、ヒサンなくらい貧困なモノサシでしか、人を評価できない。


    だからだれもかれもがそれを「よい学校に入って、よい会社に入って……」

   ということばでしか、いいあらわすことができない。

    それ以上はなにもいえないし、そこに入ったからどうなるとかはいえない。

    「生活が安定するとか、福祉がととのっている」とかいろいろ言われるが、

   これはおそらく後からとってつけた屁理屈であって、

   所属することでしか人間として認められないということをいっているのだと思う。


    なぜ集団や組織に所属することでしか、日本人は評価できなくなってしまったのだろうか。

    日本人はそこまでしか成長していないからだろうか。

    承認とか評価のモノサシが、まるで生育していないのだ。

    上からの西洋近代化を吸収することだけで精いっぱいで、

   とりあえずは組織とか集団にほうりこんでおれば、近代化のお墨付きはもらえる、

   ということで日本人は満足してきたのだろうか。

    組織とか集団はとりあえずは近代化を推進しているし、

   お国のために役立っているし、お国のお墨付きがもらえる
、ということで、

   日本人は評価のモノサシを所属というかんたんな目印においたのだろうか。

    組織にほうりこんでおれば、人はたえず監視の目にさらされて、

   悪いことも不謹慎なことも怠惰なことも、それが即クビや評価につながるから、

   みずからつつしんでやらなくなるわけだから、

   これほどまでによい人物測定装置、人格矯正装置はない。

    そういう測定や評価の機会をすべて、組織のなかで済ませようとしたのだろう。

    なるほど、秩序や安定を保つにはよい治安装置だ。


    だが、勘違いしてはならない。

    会社組織が測定できるのは、会社の利益や仕事に貢献しているか、

   時間を規定どおり守っているか、職務や上司に忠実か、といったことだけなのであり、

   会社の論理や利益至上主義、金儲けの価値観だけを絶対化してしまう。

    つまり社会や共同体の価値観をブッ蹴散らしてしまうわけだ。

    社会にとっての倫理とか道徳なんか育つわけがない。

    会社組織に所属するだけでゆいいつの価値基準なら、

   会社の金儲けの価値観・論理だけがまかりとおってしまう。


    日本人は会社の所属というモノサシだけで、人々を承認してきたわけだが、

   これほど無責任で、無知な評価基準はないだろう。

    なぜならそれは会社の金儲けの論理だけを絶対化する人間を、

   つぎつぎと再生産するだけだからだ。

    ともかく会社にほうりこんでおれば、まじめで優秀な勤め人だという神話は、

   会社のために犯罪を犯す、利益のために顧客や従業員の利益や命を犠牲にさらす、

   といった最近の企業不祥事によってあからさまにされた事例が示すとおり、

   とてつもない犯罪や罪悪をまきおこすだけではないだろうか。


    どこかに所属するだけで世間の承認が得られるというバカな常識は、

   もう葬り去るべきではないのだろうか。

    日本人は怠慢だったからか、会社に所属することだけを世間の承認の

   ゆいいつのモノサシにしてしまって、会社の金儲けの論理だけを絶対化する人間を

   大量に生み育ててしまっていた。

    公害がおころうが、薬害エイズがおころうが、土地価格が暴騰しようが、

   総会屋への利益供与がおころうが、官僚への賄賂がおころうが、

   日本人はあいかわらず、組織に所属することだけを承認のモノサシにしている。

    世間が所属の承認しかできないために、

   このような個人や国民を犠牲にした企業犯罪がおこってきたのではないのか。


    このような犯罪団体に仕立て上げたのは、だれなのか。

    まさに会社にほうりこんでおれば安全な人間だと思い込んだ、

   世間やわれわれの常識や貧しいモノサシではないのか。

    もう会社の所属だけでまともな人間だと評価できる時代ではないのだ。


    所属だけを承認するモノサシはおおくの苦しみを与えてきた。

    一生をひとつの会社に縛りつけられるということは想像を絶する苦しみだと思うし、

   その苦しみや痛みから逃れられないし、たまたま性の合わない企業に就職したばかりに、

   一生を負け犬や敗残者の気持ちで過ごさなければならないかもしれない。

    大企業や有名企業に勤めたからといって、その本人は幸福になるとは限らないのだが、

   まわりや世間の人にはその苦しみが理解を絶することのようだ。

    ブランド企業をやめれば、世間はバカ面をさげて疑問を呈するが、

   勤めている当人にとっては、その毎日は地獄のような日々だったかもしれない。

    学校の不登校する生徒だって同じ気持ちをもっているのだろう。


    日本人は会社に入れば幸福になるという、女性でいえば「結婚すれば幸福になる」と

   いったバカなシンデレラ・ストーリーと同程度の理解力しかもっていない。

    いまだに多くのドラマや物語は結婚してハッピーエンドという結末で終わるが、

   その後のほうが長い人生が待っているのにこれで終わりというのは、

   なんだかそれ以降の人生はこれまでの幸福の残りかすをすするしかないというのか。

    この女性の結婚と男の就職はみごとに重なり合っていて、

   ヴァージョンは違うが、中身はまったく同じものだと思う。

    物語は結婚(就職)するまでで、それ以降のことは語られない。

    大人が子どもたちにバカのひとつ覚えのようにいう「よい大学に入って、よい会社……」は、

   いい男を見つけていいだんなと結婚してハッピーエンドという結末と同じだ。

    そして世間はこの物語どおりの人生がよいものだと思い込んでいる。

    われわれはこのような物語を親からおうむのようにくり返し聞かされてきたことだろう。


    この絶望的なまでの貧困な世間の人の想像力はなんなのか。

    おそらく会社というのはあまりにも数多く無数に存在するために、

   われわれの想像力は間に合わないということではないのか。

    いろいろな無数の会社を想像できないのだ。

    業種も仕事の内容もあまりにも違うために、かんたんな図式で会社をくくれない。

    そういうことで会社をぱっと見た程度のイメージでしか思い浮かべることができない。

    シンデレラ・ストーリーのような類型化された物語はもう描かれないから、

   もう物語や想像力はそこで停止してしまって、共通の体験を共有化されるところまでで、

   物語はすべて終わってしまう。

    世間に用意された物語はそこまでであって、それ以上の情報は世間に共有されない。

    ほんとうの物語はここからはじまって、人々にとってはここからの物語を

   もっと知りたいと思うのだろうが、残念ながら世間との共有体験はここまでだ。

    個別的に問題をとらえ、問題に対処し、解決してゆかなければならない。

    つまりシンデレラ・ストーリーはもう役に立たないし、クソにもミソにもならないということだ。


    シンデレラの夢がかなって会社に就職すれば、とりあえず世間は認めてくれる。

    これまでは物語はそれですんだ。

    だが人生はそれですむわけがない。

    願いがかなったシンデレラはどんなつらい思いや辛苦をなめるかわからない。


    「所属=幸福」という図式はもう描けなくなった。

    女性でいえば離婚はどんどん増えているし、所属のもとになる家族という枠組みは、

   骨のないクラゲのように波間に溶け去ろうとしている。

    男性でいえば、会社という組織は右肩あがりの成長神話の崩壊、リストラ、

   少子化によるピラミッド構造の崩壊、忠誠心の衰退、若者の個人主義志向などによって、

   この組織も、撮影スタジオの表面だけのセットになろうとしている。


    なにが起こっているのか。

    これはまさしく近代化の終焉という事態にほかならない。

    近代化――それもあまりにも急激な近代化のためにたちあげられた組織や家族が、

   このあまりにも近代化に傾斜し過ぎた組織家族形態がぼろぼろと崩れ始めているのだ。

    日本というのはあまりにも急激に近代化をおしすすめたために、

   組織や家族がその目的だけに編成され、再編されすぎた。

    近代化の終焉という気配を察した鋭い人たちはぼろぼろと脱落していったが、

   多くの人はこの近代化の終焉という事態を明確にとらえようとしない。

    おそらくそのために失ってきた大きな深淵をのぞきこむのが恐いのだろう。

    われわれ日本人は、東欧のオリンピックに勝つためだけに育てられた、

   哀れな体操選手の少女のように、いびつに偏って成長してきたのだろう。

    「戦争の犬」といってもいいし、ある用途のためだけにつくられたサイボーグみたいなものだ。


    この近代化の終焉という事態をわれわれは受け入れるにいたっていない。

    その役割がもうすでに終わってしまったということを認めようとしない。

    だれもがそれに代わる価値観や目標を見つけられずにいるからだろう。

    そしてこれまでどおりの価値観や目標になにもなかったようにしがみつこうとしている。

    死んでしまった亡骸をいつまでも抱きしめて離せない。

    日本人には近代化の終わりという「悲哀の仕事」が必要である。

    みんなでその悲しみをのりこえないと、これまでの抜け殻にしがみつくだけだろう。


    われわれはなんのためにがむしゃらに働いてきたのか、わからないところにいる。

    なんのためにこんなに一生懸命、会社のために働いてきたのかわからない。

    それでもこれまでと同じようにまじめに働くことだけをつづけようとする。

    働くことはなにかの目的を達するための手段であったはずなのに、

   いつの間にかそれが自己目的化してしまい、自動的にそれを継続しつづけている。

    社会も組織も家族も、承認の形式もその時代の枠組みのままだからだ。

    その終わってしまった拘束着だけがわれわれを絞めつづけている。


    子どもたちはこの拘束社会の役割が終わったことに敏感に気づいている。

    それでも大人たちはそれをやめようとしない。

    それをただ「よい大学に入って、よい会社に入って」ということばであらわすしかできない。

    それがもう「幸福のサクセス・ストーリー」として、

   通用しないということに気づかないのだ。

    このボンクラ頭の大人にそれを気づかせるためにはショック療法しかない。

    犯罪を犯す子どもたちがなぜ変わらないのかと他人事のように悩むのではなく、

   自分たちこそが「変わらなければ」ならないことに気づくべきだ。

    身近なことでもそうだが、他人を変えようとしても不可能で、

   まず自分が変わらなければ、相手は変わらない。

    相手の態度や言動を規定しているのは、まさに自分自身の態度だからだ。


    いまの社会や会社はあまりにもつまらなさ過ぎる。

    西洋近代化という楽しい目標♪があったときにそれはそれでよかったかもしれない。

    しかしその楽しい目標が溶けてなくなったとき、そのつまらない、

   人々を拘束し、針のむしろのように刺す枠組みだけがわれわれを絞めつけている。

    楽しい目標がなくなったのにそのしょうもない枠組みだけを守る大人は、

   楽しみや喜びをいっさい排斥したゾンビの群れにしか見えない。

    大人たちは終わった抜け殻にいつまでもしがみつくゾンビなのだ。

    魂のないゾンビになった大人たちに子どもたちが耳を貸さないのはとうぜんだ。

    かれらは振り子時計のようにいちどセットされた永久運動をつづける、

   パブロフの犬にしか見えない。


    村上龍は自分個人の目標と価値観を見つけるしかないという。(『寂しい国の殺人』)

    それもそのとおりだと思うが、社会や会社はわれわれ個人の幸福や楽しみを

   確実に剥奪するように機能している。

    このカッティング・マシーンを止めないことにはおちおちと楽しみを見つけることなどできない。

    日本社会と日本の大人は変わらなければならない。


    個人の楽しみと喜びから出発した社会をつくりなおさなければならない。

    これまでの社会はどうしたら国民すべてが飢えずに食べることができるか、

   どうすれば自国の通貨が世界に通用するものになるかという目標によって、

   組み立てられていた。

    だから個人の楽しみや喜び、幸福といった要素は、完全に排斥されてきた。

    そのためにとてつもなくしょうもない不倒の社会をつくりだしていたのだ。

    つまらなさにかけては天下一品の芸術作品なみの完成品だ。

    抜け道もない、寄り道も息抜きもできない、超拘束社会になってしまっていた。

    このつまらない社会を変えるには、自分たちのつまらない姿を鏡でじっくりと

   観なおして、自分のつまらない毎日にしっかりと気づかなければならない。


    楽しみや喜び、おもしろさをインフラストラクチャーにした生き方を

   つくりなおしてゆくべきなのだ。

    社会を変えるにはまず自分たちがおもしろさを見出してゆくしかない。

    自分の価値観や目標を見出してゆくしかない。

    社会が変わってゆくのを待っていたら自分の人生を棒に振ることになってしまうので、

   そんなとろい世の中を待っているより、自分の楽しみを見出すことを率先するべきだ。


    もう社会や国家に期待をし、期待を押しつける時代は終わった。

    自分の足元から、楽しみや喜びを見出してゆくしかない。

    そんなかんたんなことではないと思うが、とりあえずは自分の人生を棒に振らないよう、

   走り出すしかない。

    政治や官僚なんていうのはわれわれの感覚から10年も20年も遅れている。

    そんな図体の大きいでくの坊なんか待っていたら、自分の人生が枯れてしまう。


    ただ社会と衝突してしまうようでは楽しみが相殺されてしまうので、

   そこらへんの兼ね合いはひじょうにむつかしいと思うが。





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