BOOK REVIEW――思考のためのブックツール・ガイド
    社会はこれからどこへ行くのか                                              1997/Spring





     バブル時代というのは、日本全体がマス・ヒステリーになったような時代だった。

     日本は経済大国にのしあがり、世界に手が届きそうに思え、

    バラ色の未来予測が跋扈しまくり、強迫的な高級志向が強まった。

     それにたいして、90年代は不安で、深刻で、ある意味では穏やかな時代になったが、

    いままでに考えられない大きな事件がいくつか起こった。

     官僚や一流企業のトップたちが逮捕されるという不祥事も多く起こった。

     ピラミッドの頂点が、総批判もしくは総入れ替えを要求されているともいえる。

     強烈な躁と鬱を順番に経験しているという感じだが、

    この社会はこれからどうなってゆくのだろうか。

     社会の中心がどんどん崩壊していっていると思うのだが、

    この社会は目標や目的のないまま、漂流してゆくことができるのだろうか。






  吉川武彦『途中下車症候群』 太陽企画出版社 1400円

         途中下車症候群―“時代”に圧し潰された若者たちの不気味なメッセージ

      「一生働き続けるなんてオレたちはイヤだ!」という帯のコピーは、

     ひじょうにわたしの心を代弁している。

      この本は会社や学校をさして意味もなく辞めてゆく若者たちについて、

     それを途中下車というキー・ワードで分析した本である。

      若い世代は、これまでの勤勉な経済成長をささえた世代となにが違うのか。

      決定的に違うのは、モノがなにもない時代とモノがありふれた時代に生まれた者との、

     埋めがたい価値観の断絶である。

      欲しいモノがもうあまりない世代は、働く原動力をもたない。

      だから若者からみれば、これまでの企業社会というのは、気違い沙汰にしか見えない。

      たとえていうなら、敗戦後にうまれた世代が、

     狂気に満ちた、戦前の軍国主義を見るようなものだ。

      このような変化が社会に反映されないことが、

     現在の閉塞感を生み出しているのではないだろうか。




  宮台真司他『サブカルチャー神話解体』 パルコ出版 2500円

          


       テレビでひじょうにキレ味の鋭い社会分析を提供する著者の、

      マンガ・音楽・性についての変化を鋭く分析した、なっとくする本である。

       とくに少女マンガと青少年マンガの変化の変遷については圧巻だ。

       昭和の初めの少女漫画ではきまじめな、優等生的な物語がうけいれられていたし、

      70年代の少年マンガでは、中学生が女性のために「死ねる」とまで言っていたのは、

      いまからでは、まったくお笑いグサだ。

       われわれが受け入れてきたマンガは、どのような物語を提供してきたのか、

      この本を読めば、驚くほど明確にその物語の内容を教えてくれる。

       スグレた本である。




  和田秀樹『シゾフレ人間 若者たちを蝕む゛自分がない゛症候群
               KKベストセラーズ 1300円

           シゾフレ日本人―若者たちを蝕む“自分がない”症候群

       人と違いたいというメランコ人間から、みんなと同じでありたいという

      シゾフレ人間に、若者の主流は変わってきたと分析する本である。

       メランコ人間というのは躁鬱型人間で、シゾフレは分裂病型人間である。

       たしかにこれまではブランドや出世競争などをして人と違いたいという欲求が

      強かったのかもしれないが、同時に人と同じでありたいという欲求も強烈に強かった。

       画一化志向は、200年近くも前から、大衆や群集とよばれるかたちで、はじまっている。

       いったいどちらなのかわからなくなるが、人と同じでありたいというのは、

      以前のように強い目標や目的がなくなったからともいえるのではないだろうか。




  宇波彰『誘惑するメディア 同時代を読む哲学』 自由国民社 1100円

           誘惑するメディア―同時代を読む哲学

        80年代から90年代はじめにかけての社会状況を分析した、

       哲学・記号論に強い著者の本である。

        「Big Tomorrowの政治学」やマンガの「めぞん一刻」、

       「マインド・コントロールの社会学」「世界としての会社」といった、

       ひじょうに興味の惹かれるテーマをとりあつかった本である。




  上野千鶴子『<私>探しゲーム 欲望私民社会論 ちくま学芸文庫 940円

          


        80年代のバブルや消費社会の喧騒やばか騒ぎが思い出される一冊である。

        消費や記号といったものが、ものすごく価値や重みをもっていた時代だった。

        ほんのちょっとした消費の変化がものすごく意味をもっていた。

        だが、いまでは90年代の長期不況を通して、

       このような消費や記号の重要性がかなり凋落した。

        時代とは180度も変わるものである。

        もう80年代のように、マスコミや消費ブームに踊らされるなんて、

       まっぴらだというのが、現在の個人消費の落ち込みをもたらしているのではないだろうか。

        もうあんなファシズムみたいな時代なんて二度ともどりたくない。

        でもこれから社会は目的をなくして、いったいどこをめざすのだろうか。




  井原哲夫『「豊かさ」人間の時代』 講談社現代新書941 600円

           「豊かさ」人間の時代

        バブル時代に国や企業は金持ちになったのに、

       個人はぜんぜん豊かさを感じられないという言葉がよく聞かれた。

        「生活大国」だとか、労働時間短縮だとかいろいろ叫ばれたのだが、

       平成不況の波にかき消されて、そのような気運はどこかに行ってしまった。

        好況なときにも労働過剰を緩和することもできない、

       不況のときはなおさらできない、この国の人間はいったいなんのために働くのか。

        富や消費、自由な時間や休暇を得るためではないのか。

        この本は「ほめられ欲求」や「人並み志向」といったものを分析しながら、

       豊かな社会の方向性を探っているが、バブル時代の波しぶきに打ちあげられた、

       置き土産みたいなものかもしれない。




       

  河合隼雄『日本人とアイデンティティ――心理療法家の着想
                   講談社+α文庫 980円

           

        テレビで白目をむきながらしゃべっている、穏やかそうな著者の本である。

        ユング心理学の第一人者で、昔話の深層などに造詣が深い。

        日本人の生き方の問題を、中年から子どもまで、

       専門的でない、やさしい言葉で、語っている。




  栗原彬『やさしさのゆくえ 現代青年論 ちくま学芸文庫 850円

          やさしさのゆくえ―現代青年論

        ひじょうに鋭く、青年のアイデンティティやモラトリアムといった問題を、

       管理社会論とからめながら、語った本である。

        この本はだいたい大学紛争などでゆれた70年代に書かれているが、

       80年代に入ると青年は「消費の英雄」としてもてはやされ、

       「体制」のなかに絡みとられ、見事に保守化してしまった。

        アメリカのヒッピーたちもやはり産業社会に組み込まれていった。

        われわれはカウンター・カルチャー(反抗文化)の影響をかなり受けているのだが、

       それでも青年の保守化には歯止めが利かないようにみえる。

        いったいなぜここまで骨抜きになってしまったのか、ふしぎでならない。

        企業社会への不満は、ロックなどに見られるように、

       多くの青年の胸にくすぶっていると思うが、それを表明する手段も方法もないから、

       しかたなくあきらめているだけかもしれない。





  小此木敬吾『家庭のない家族の時代』 ちくま文庫 660円

           家庭のない家族の時代

        家族なんてまじめに考えるだけでもいやだが、

       いったいこの不快感や軽蔑はなぜ生まれてくるのだろうか。

        家族は同じホテルに居住するだけの「ホテル家族」になり、

       男は「擬似ホモ社会」の会社に入りびたり、家庭は父親のいない母子家庭になり、

       母親は子どもと癒着し、望みをかけて安定志向の受験戦争にほうり込み、

       祖父母は捨てられ、子どもはそんな両親たちに復讐する。

        この状況からなにが見えてくるか。

        家族という歴史的な仕組みは消えてなくなり、会社が出産や育児までを

       担当するような、超企業管理社会ができあがるのだろうか。

        オーウェルやハクスリーのような恐ろしい世界だ。

        家族というものは、歴史的な使命をはたして、

       「神」や「人間」のように、その役割を終えてしまうのだろうか。





  小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』 中公文庫 440円

         


         自分のアイデンティティを限定しないモラトリアムな青年のような心性が、

        現代社会のあらゆるところに浸透していると指摘した本である。

         いぜんの社会では、一定の年齢に達するとモラトリアムは終結したのだが、

        現代にはその制限がないところに特異性があるとみる。

         われわれは多くの情報や広告のために、「あれもしたい、これもしたい」と

        思うようになって、ひとつの役割や場所に固定させるのをひじょうに嫌う。

         これはこの社会にあまり夢も期待も、賭けてみる価値のある役割も

        見いせないからだと思う。




  稲村博『若者・アパシーの時代』 NHKブックス 860円

         


         無気力で家に閉じこもりがちな青年たちをアパシーとよび、

        その分析や対処法をこころみたのが本書であるが、

        この本のいちばんの魅力は、アパシーを夏目漱石の「高等遊民」などに

        その先駆を見つけ、かれらが現れ出した40年後にカタストロフィー――敗戦を

        迎えたと洞察しているところである。

         これを新しい時代が始まってから終焉するまで――「明治維新」から敗戦までを

        ――「80年周期」と名づけ、ちょうど敗戦から80年後の2025年に

        もうひとつのカタストロフィー状況を迎えると著者は指摘するのである。

         ひとつの制度や体制を、自分たちで改善や変更をすることができないのなら、

        「破滅的状況」に依存するしかない。

         われわれの日本社会には、批判や改善を善しとする慣習を組みこんでこなく、

        そのような人たちを排斥する暗黙の了解をつちかってきた。

         これは自分の心のなかにある、日常のなかでの声高々に批判する人たちに

        対する心のもちようを探ってみたらすぐにわかる。

         このような他人への見方というのは、自分にも適用され、

        自分を縛りつける役割をはたすのである。

         日本は「経済至上主義」という、「軍国主義」とまったく同じ形態のものを

        再度くり返してしまった。

         そしてまたもや同じ過ちに向かってまっしぐらにつき進んでいるのだろうか。




  中島梓『ベストセラーの構造』 ちくま文庫 550円

        


        そういえば、何年か前までは若者は本を読まない読まないといって、

       大人たちが嘆く声をマスコミでよく聞いた。

        たいして本を読まなかった大人たちが安心するための合唱か、

       それとも子どもたちがマンガなどに夢中で、大人たちの教養主義を

       見捨てた、異文化の到来に、怖れをなしていたのかもしれない。

        子どもの世界では、優等生は牛乳ビンの底のようなメガネをかけた学生として、

       物笑いの種にされていた。

        バブル時代までは若者たちは安心してマンガを読んでいれたのかもしれない。

        だが、平成不況以降、強烈な目的意識の喪失のため、

       若者たちに哲学が流行っているようである。

        本を読む必要も、目的もなかったから、若者たちは本を読まなかったのだと思う。

        この本は83年に出版され、読者層のレベルの低下を分析していて、

       本を読むものにとっては自尊心をそそられたり、あるいは自己批判を迫られるが、

       読者の質や歴史というものがよくわかる、ひじょうにひきこまれる本である。





  山崎正和『柔らかい個人主義の誕生 消費社会の美学
                 中公文庫 370円

        


        60年代の日本は国家と個人が一体化した時代であった。

        70年代は近代史のなかでゆいいつ、攻撃的目標をもたなかった時代であった。

        むかしは集団的な不幸が問題であったが、

       いまは個別的な不幸が問題になる時代に変わってきている。

        国家はもはや、そのような事態に対処できなくなっているのではないだろうか。

        流行やスター、ブームといったものも、国民的なものは皆無だ。

        変わって現れてきたのが規模の小さい新興宗教だが、問題も多い。

        80年代は創造的な消費がめざされたが、それはただメーカーやマスコミに

       踊らされたに過ぎない、ひじょうに後味の悪い悔恨と屈辱をのこした。

        90年代はかつてない反省と改革がもとめられている。

        だが、われわれの先には、なにひとつ魅力ある将来を見出せずにいる。




  井尻千男『消費文化の幻想 オーソドックスとは何か? PHP文庫 480円

        『消費文化の幻想』 井尻千男 PHP文庫


        70年代以降、「ネクラ」「ネアカ」という言葉が流行ったのは、

       相対主義の思想(あれも真理、これも真理、真理なんてないのだ)によって、

       権威や伝統をパロディにしたことから、おこったのだと著者はいう。

        そのパロディを演じられないから、ネクラはいじめられたのだという。

        真理や絶対、伝統といったものはうっとうしいものだが、

       同時にその破壊は、精神の空洞化をもたらしてしまった。

        権威や伝統といったのの効力はまったくなくなり、

       ただ、意味や価値のない生活や毎日だけが、つづいてゆく。

        だが、絶対や権威を主張すれば、われわれの自由を奪う脅威に感じられる。

        世界の秩序や、個人の精神も、こうして崩壊してゆくのだろうか。

        相対主義はわれわれの精神の虚無感を増大してきたのはたしかなのだから、

       ここいらでこの思想の反省を加えなければならないかもしれない。

        社会の秩序、つなぎ目といったものは、絶対や権威といったものがないと、

       正当性も主張できないし、ばらばらに空中分解してしまう。

        だが、いまさら絶対や権威なんてものの押しつけなんてたまらないし、

       信じられもしないし、ファシズムの脅威はいまだやみがたい。

        それでもなんらかの物語がつくられないと、この社会は意味や価値のない、

       人々に生きがいや目的を提供できない、廃墟になってしまうのだろう。




  井上忠司『「世間体」の構造 社会心理史への試み NHKブックス 721円

          世間体の構造―社会心理史への試み

        われわれは他人が見ているということで、

       世間体を気にするようにしつけられてきた。

        よい学校を出たり、一流企業に入社するのも、マイホームを建てようとするのも、

       やはり世間体という、よくわからないもののためではないだろうか。

        だが、こういう戒律や強制がたまらなくうっとうしく感じられるときはないだろうか。

        いったいどこのだれのためにこんなつらい目に合わなければならないのか、

       だれのためにこんな証明をする必要があるのか、だれがこのような戒律や強制を

       つくりだした張本人なのか、と腹を立てたことはないだろうか。

        世間体の発起人みたいな人がいたら、首を締めつけてやりたいくらいだ。

        われわれを縛り、括りつけ、ひとつの型や慣習にはめこむ、

       この世間体といったものは、いったいなんなのだろうか。

        日本社会を縛りつける世間といったものを考察した本である。




  赤坂憲雄『異人論序説』 ちくま学芸文庫 980円

        


        現代の企業社会は、逃げ道がまるでない。

        だれもがひとしおにサラリーマンになり、長時間企業に拘束され、

       忠誠心を要求され、自分の価値観にあった選択や生き方をさせない。

         だれもが不本意ながら、企業社会に呑みこまれるしかない。

        このように社会が牢獄と化したとき、かつて異人とよばれてきた者たちが、

       異界からなにかの解決策をもたらしてきたのではないだろうか。

        それは社会から排除されたり、落ちこぼれたりといったアウトサイダーたちだが、

       神話や民俗学、歴史のなかではしばしば、

       かれらは英雄や聖なるものとしてあらわれてくる。

        現代の窒息しそうなこの社会に風穴を開けるような異人は現われないものだろうか。

        この本はそのような異人たちの足跡を、精緻にたどった、

       ひじょうに興味ひかれる、豊穣なる可能性を示唆した本である。




  エミール・デュルケーム『自殺論』 中公文庫 700円

       


       自殺という個別的原因に帰せられるものを、社会的現象として捉えた、

      ひじょうに学ぶことの多い古典的名著である。

       どうも社会というのは、共同体の絆がばらばらになりすぎたら、

      自殺者が増加するらしいし、逆に束縛が厳しすぎる社会も同じことだ。

       現代社会は束縛や慣習といったものをつぎつぎととっぱらってきて、

      わたしももっと多くの自由を望んでいるのだが、

      社会はどこかに緊密なつながりをもたなければ、その精神を崩壊させるようだ。

       このヤマアラシのジレンマはどのあたりで解決されるべきなのだろうか。

       現在は企業の束縛をもっと弱く、地域や個人的関係のつながりを強めるべきだ。




  アーヴィング・ゴッフマン『行為と演技 日常生活における自己呈示
                誠信書房 2575円

       


       われわれは役割や物語を演じているにすぎないのか。

       わたしは人間関係という演技がしらじらしく、ウソっぽいことに思えて、

      ひじょうに人間関係のありかたに支障をきたしたことがある。

       物語のなかの役割や立場を演じることがとてもいやだったのである。

       なぜこんなに物語がきらいだったかというと、

      やはり現代社会の成功だとか、勝利への団結だとか、連帯といった物語が、

      ことごとくうっとうしいものに感じられたからだろう。

       そのような気分が、演技への拒否をもたらしたのだと思う。

       マスコミやドラマ、映画といったものに踊らされるのもとてもいやだった。

       自己の役割の一体性からの乖離というのは、ひじょうに苦しい状況を生み出すが、

      でもこのような物語を演じたくないのも、たしかなのである。

       意識すればそれはぎくしゃくするのだから、気にしない方がよいのだが。

       相対主義や大きな物語の破綻は、そのような行為と意識の乖離をもたらし、

      演技することのしらじらしさを、強烈に意識のなかに刻み込ませる。

       ゴッフマンはこのような日常のささいな行為や行動のなかに、

      社会学的観察のメスを入れた、ひじょうにカルト的な吸引力をもつ社会学者である。




  青木雨彦編『男と女講座』 フォー・ユー 1550円

         

       男と女の関係はどうなってゆくのだろうか。

       女子高生とかちょっと前は女子大生だとかOLだとか女性の方が元気な時代である。

       この世のなかではカネを威勢よくつかう者たちがもてはやされ、

      つまりバカ消費者がブームとか人気をつくりだす。

       そこに男たちの生産社会がむらがる、あるいはおだててカネをむしりとる。

       男の方はぜんぜん元気がない。

       企業に搾取され、女に搾取され、牢獄のつづく将来にため息をつくだけだ。

       なぜ男たちは女にカネを奉仕し、稼ぎつづけて家庭を維持し、

      そして粗大ゴミあつかいされるのだろうか。

       むかし男は権力やなんらかの特権や特典があったのだろうが、

      いまはあちこちからむしりとられる、たんなるカモになり下がっている。

       生産優位社会から、消費することに力があつまる時代になったからだろうか。

       専業主婦という職業も、終身雇用の崩壊とともに消えてしまうものなのだろうか。

       不倫や熟年離婚、『失楽園』ブームといったものは、その先がけなのか。

       女子高生の援助交際やブルセラといったものはなにを表わすのだろうか。

       これから男と女の関係、家庭、子どもといったものはどうなってゆくのだろうか。

       この本は、男と女の関係についていろいろ学べることの多い本である。





  上野千鶴子編『恋愛テクノロジー いま恋愛ってなに? 
               ニュー・フェミニズム・レビュー1 学陽書房 1600円

        


       80年代は純愛だとか恋愛だとかが、トレンディ・ドラマや音楽、雑誌、

      などの影響によって、強迫観念のように叫ばれていた。

       恋愛しないことが、人間でないことのようにいわれて、

      みんな優等生らしく、高級ホテルやブランド品にむらがって、恋愛ゲームをした。

       メディアがそのような「商品」を開発して煽り立てて強制したのか、

      それともわれわれのなかにそのような気運が高まっていたのか。

       やっぱり80年代はゲロ吐きものだった。

       いまは女子高生がその反動か、ブルマや制服を売り、援助交際している。

       恋愛というのは、中世ヨーロッパの発明品らしい。

       その物語は小説やハリウッド映画、少女マンガ、ドラマ、雑誌などにひきつがれてきて、

      われわれにひとつの行動様式や感情形態を提供する、あるいは強制する。

       われわれはどうも社会が提供する物語がないとなにもできないようである。

       この物語を拒否することなど、われわれにはできないのだろうか。

       この本は、恋愛病の時代などについて語った、ひじょうにおもしろい本である。





  竹内洋『立身出世と日本人』 NHK人間大学テキスト 550円


        この本はもう手に入りにくいと思うが、講談社現代新書に

       『立志・苦学・出世――受験生の社会史』という本などがある。

        この人は日本の立身出世の社会史というひじょうにユニークな研究を

       しており、わたしは度肝をぬかれた。

        現在は、立身出世や地位や富をめざす目標は終焉しており、

       選抜システムそのものによる競争が激しくなっているといっている。

        なんだか、貪欲な夢の残りかすを漁っているかのようだ。

        このような立身出世の歴史「物語」を見ることによって、

       その愚かさや下らなさを悟れたらいいと思う。




  加藤典洋『日本という身体 「大・新・高」の精神史 講談社選書メチエ 1600円

        


        「大日本帝国」「大衆」、「新幹線」「新商品」、「高度経済成長」「三高」

       といった「大・新・高」の言葉の変遷に、日本の価値観をみる

       ひじょうに切り口の鋭い論評になっている。

        著者は石油ショックを迎えることになる72年から新しい時代がはじまったと

       考えているが、「高速・高質・高密度」の価値観は、

       これから平成不況をへてどのようになってゆくのだろうか。

        「脱」や「ポスト〜」、あるいは「チョー(超)」なんて言葉に

       価値がおかれてゆくのだろうか。

        わたしは「崩れ」の時代と考えている。

        これまで一枚岩のようにしっかりとしていた「常識」や「生き方」、「世界観」と

       いったものが、がらがらと崩れてゆく時代になってゆくと思う。

        それは同時に一からの「創」や「新」の時代でもある。





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