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小此木啓吾『「本当」の自分をどうみつけるか 映画でみる精神分析』 講談社+α文庫 96/1. 600e
映画ってなにを言おうとしているのかわからないことがある。それを精神分析で読み解いたこの本は願ってもみないものだ。過去の名作のストーリーを紹介してくれたうえ、精神分析までしてくれる。何度も感極まって泣けた。名画をまとめて観た気分だ。
この本ではテーマ別に作品がわけられているのだが、とくに気になったのは「偽りの自己とナルシシズム」の『太陽は夜も輝く』と『トト・ザ・ヒーロー』、「羨望と乗っ取りのエディプス・コンプレックス」の『太陽がいっぱい』、「中年の惑い」の『黒い瞳』、「人はいつ本当の自分になるのか?」の『アレジメント』『ヘッドライト』である。
これらの作品に共通してあるのは、成功や名誉を手に入れようとして他人にすりかわろうとしたり、自分を偽ったり、そして手に入れた成功や名誉を中年になって失う、あるいは放り投げてしまう話である。
これはまさに現代社会――資本主義や消費社会に生きなければならないわれわれすべてが抱えなければならない欲望の問題である。金持ちや成功者になろうという欲望は、他人になろうとする羨望や執念にほかならない。
現代に生きるわれわれは宿命的にこのような羨望や欲望を背負って生きる。だからそういう欲望にうちひしがれ、つぶれてゆく主人公の生きざまやすがたが描かれたこれらの映画は私の印象に強く後を引いたのである。またこれはある意味では戦後日本のすがたでもある。
山中康裕『絵本と童話のユング心理学』 ちくま学芸文庫 86/8. 950e(古本)
佐野洋子の『100万回生きたねこ』は思わず泣けてくる傑作だった。100万回も生きたことを自慢するねこがそんなことをなんとも思わないめすの白ねこと出会って、彼女の死をきっかけに最期に死んでしまう話である。
この本では絵本と童話のさし絵もたくさん載せられていて、それをながめるのも楽しい。童話によくある「なまけ」の話も読む価値あり。できないことがあったのなら外界ばかり見るのではなく、内界にも目を向け、力を得てくるという発想が必要というわけである。
『アモールとプシケー』の話もあざやかである。住居や食べ物はふんだんにあるが、夫や召し使いの姿はいっさい見えない女性が、その禁を破って夫の姿を見てしまい、そこから試練がはじまる。
これが象徴しているのは現状に満足してれば幸福であるのだが、意識の光が届くとその幸せはたちまち失われてしまうということである。疑問や懐疑の光を当てるのは賢明である一面、かならずしも幸福ではないのかもしれない。
松居友『昔話とこころの自立』 洋泉社 99/10. 1700e(古本)
童話の心理学的解釈でこれほどわかりやすい本はない。ユング派の解釈などとか読んでいるとだいぶ頭がこんがらがってくるけど、この著者のように「自立」というキーワードで読みとけば、ひじょうに話がわかりやすくなる。
『三びきのこぶた』も『ヘンゼルとグレーテル』も、『三枚のお札』『白雪姫』もいずれも自立をしようとする子どもと、それを阻もうとする親との自立の闘いの話である。鬼や狼、魔女や鬼婆とあわされるものは、子ども自身の自立を阻もうとする気持ち、破壊的な感情が形をとったものだといえる。また子どもの自立をいつまでも阻もうとする親の心でもある。
そういうふうに読めば『三枚のお札』の鬼婆は子どもの自立をいつまでも阻もうとする恐ろしい母親にほかならないし、『白雪姫』の継母は若さを娘に奪われてゆくじつの母親の嫉妬にほかならないということだ。昔話にこんな親への自立の警告が込められていたなんて思いもしなかったし、自分の家庭もかえりみずにはいられなかった。
ブルーノ・ベッテルハイム『昔話の魔力』 評論社 76. 2200e(古本)
昔話の心理学的解釈の古典とか金字塔とかよばれるように、たしかにすばらしい本だ。400ページの二段組のぶあつい本だが、一行一行に深い、含蓄のある言葉が込められていて、まったく長さや倦みを感じさせない。
昔話の意味や効用が説かれたあと、だんだんと物語解釈へと入ってゆく。現代の児童文学は衝動や荒々しい感情の葛藤の存在をまったく否定するため、子どもはそういったものをどうあつかったらいいかわからない。昔話はそういった葛藤が自分だけのものではないことの安心を知り、解決する方法も教えてくれるというわけだ。
物語の解釈をしながら、子どもの心がどんなものだったか、どのような成長を経なければならないのかといった心の世界が、驚くほどの豊穣さと細かさをもって語られている。すぐれた物語解釈でありながら、子どもの心の内的世界の百科全書のようなものになっている。
私はフロイトのエディプス・コンプレックスとか性的解釈にほんまかいなという気持ちを抱いていたが、この本ではじつに納得できるかたちでそれが呈示されている。『シンデレラ』の姉妹間の競争意識は親の愛や評価がその火付け役になっているのはよくわかるし、昔話によくある動物の花婿が人間の王子に変わるのは花嫁の性的抑圧がとけたからだという解釈はひじょうによく納得できた。とにかくびっしりと内容の濃い名著だ。
マリア・タタール『グリム童話 その隠されたメッセージ』 新曜社 87. 2884e(古本)
さまざまな学者による解釈の戦場と化した童話解釈の総合化・審判のような本である。さまざまな学説を聞いていたら混乱することまちがいなしだし、錯乱を正してくれるような比較書はぜひとも必要だと思うのだが、でも解釈者の数と見方ぶんだけ現実があるという知見のほうがもっと大事に思える。
この本のなかではおとぎ話に出てくる主人公たちの法則とかパターンを抽出する章がおもしろい。つらい目に会う者と探しに行く者が大方を占め、そして貧乏人や弱い立場、崩壊家庭から、金持ちや王家、新家族へと「ふたつの世界を旅する旅人」となる。
おとぎ話ではいちばん出世しそうにもない者がいちばん出世したり、財産をすべて失って喜ぶアンチヒーローが出てきたり、いかに女性が家事労働から逃れるかといった話もあったりして、おとぎ話は順応的なイデオロギーのみを説いたわけではなかった。
娘に嫉妬する継母の話の裏には、近親相姦的な父親の存在があり、だからこそ母親の異常な嫉妬がはじまるのであり、それをあからさまにした物語が削り去られていった経緯もなかなか興味深い。グリムは性的な話は徹底的に削除し、暴力的な場面はかれの検閲をとおりすぎたようである。
この本はさまざまな学者の解釈によって暗い森でさまよったときにはうってつけの本であり、一筋の光となることだろう。いろいろな解釈をそそぎこまれるとほんとに混乱するが、私としてはユング派の解釈はいまいち頭で理解できなく、松居友とブルーノ・ベッテルハイムのフロイト派の解釈がいちばんしっくりときたし、「好み」でもある。
マーシャル・マクルーハン『人間拡張の原理 メディアの理解』 竹内書店新社 64. 1442e(古本)
ずっと前から読みたかったメディア論の古典だが、現在入手できる版では高すぎて手が出せなかったのだが、100円の古本でみつけた。ラッキー!
この本の中でいちばん感銘した二点は、メディアや道具は人間の身体の拡張であることと、印刷文化が画一化や規格化の大量生産をうみだしたということである。
断片化された感覚の延長であるメディアやそれによってうみだされた認識の偏り、全体性からの疎外などの指摘は、ひじょうに頭の混乱をもたらす新しい衝撃であり、もっと深く理解したいと思わせたのだが、そのテーマの本はあまりないか、高すぎるかのどちらかだ。突出した名著であるのはまちがいない。
コンスタンス・クラッセン『バラの香りにはじまる感覚の力』 工作舎 93. 2200e(古本)
視覚以外の感覚のコスモロジーを探るという点では、革命的な書物ではないかと思う。視覚偏重に気づいたら、まずはほかの五感の世界を探らなければならない。人間は物理的世界を見ているのではなく、文化に規定された世界を見ているにすぎないのである。そういう意図にはこの本はぴったりで、一字一句もらしたくない本である。
西洋近代は活字・印刷文化による視覚世界の支配や偏重をおおいに蒙ってきた。その世界の外部に出るためには、人間にほんらい備わっているはずの感覚の力をもう一度思い出す必要がある。人間にははたしてどんな鋭敏で卓越した感覚の世界が備わっていたのだろうか。
狼に育てられた野生児の感覚世界、においによる階層差別、他集団の区別、メキシコ原住民の熱によるコスモロジー、東南アジア原住民の匂いの宇宙観、アマゾン原住民の色彩の世界観など、おもに用いられる感覚の違いによって世界はどのように変わるか。
感覚というのは世界のありようや文化の秩序をがらりと変えてしまうものである。言語や活字文化などのメディアによって現代人はその知覚世界をどんなに狭められ、歪められているか計り知れない。貶められた感覚世界をとりもどすためにぜひとも読みたい一冊である。
『パラサイト日本人論 ウィルスがつくった日本のこころ』 竹内久美子 文春文庫 95/10. 429e(古本)
この本がいちばん練られているんだろうな。縄文人と渡来人の地図分布と、熱い国の男尊女卑、寒い国の平等主義、あの世の信仰の土地強弱など、壮大な日本人論がネコのしっぽを手はじめにして語られる。
納得させられるか、壮大なウソかはかなり難しいところだ。でもたいそうおもしろかったし、知的スリルに富んでいるし、よくここまで壮大な論理性を組み立てられたものだとあらためて感服する。
私は大阪人だから関西兵の弱さの由来には興味を魅かれた。この裏にはあの世への信仰の薄さがあり、関西人はもともとは寒い国からきた渡来人の子孫であり、寒い国ではウィルスの脅威におそわれることなく、男女の繁殖競争もはげしくなく、平等志向の土地柄になり戦争への志向も弱く、あの世の信仰も薄くなり、この世の命を惜しむようになったということだ。
逆に熱い国からきた縄文人は九州に典型的に多く、ウィルスの脅威にさらされ、それに強い優位男の一夫多妻制がひろがり、不平等社会では戦争が盛んになり、あの世への信仰が強くなったということだ。
あっけにとられるが、とにかくおもしろく、壮大な理論に恐れ入るばかりである。寒い国と平等信仰の因果関係はほんとうにあるのかと考えたくなるし、穴だらけに思えるのだが、まあ、おもしろくて楽しかったらええじゃないか。
『マイホームレス・チャイルド』 三浦展 クラブハウス 01/8. 1500e
団塊ジュニアは「脱所有」をめざす。これには驚いた。かれらも新人類世代と同じように消費志向にそまっているものだとてっきり思っていたからだ。
かれらは家や家電、自動車や家庭をもたない生き方を志向している。かれらは親に所有されていた経験があるから、所有は束縛や苦痛に感じられる。だからかれらはあえてモノをもたず、ストリートに生きる。それを三浦展は「ホームレス主義」とよぶ。
こういった価値観が近代的価値観の崩壊ともに若者のあいだに台頭しているという。これが事実であり、長期的にも進行する事態となったら、この日本社会は大きな変貌をとげることになるだろう。所有の束縛を捨てた世代にはどんな未来がまっているのだろう。
この本はおもに団塊ジュニアの行動や生態、価値観を分析し、そこから脱所有や近代的価値観の崩壊、脱郊外などの動きを見据えたという点で、とてもおもしろく、驚嘆に値する内容をふくんでいる。ひさびさに心躍った本だ。
若者の脱所有の流れをもっとくわしく知りたいと思ったが、いまのところそれを捉えた本はまだあまり出ていないみたいである。ほんとうに若者は脱所有、脱消費をめざすのだろうか。
『なまけ者の3分間瞑想法』 デイヴィッド・ハープ 創元社 96. 1500e
瞑想を宗教や神秘的なものではなく、心をコントロールする技術として即物的に捉えていることにこの本の良さがある。心や思考をコントロールする技術に限定されているから、たいへんに重宝する本である。
心というのは、心が澄んだ状態がいちばんベストだと考えればいい。思考や過去や思い出に支配された心は、酔っ払って飛び回るサルと変わることがなく、感情や気分の怒涛に押し流され、ほとんど暴君の奴隷みたいなものである。
私たちは思考を自己だと思いこみ、思考に支配された生活をベストや通常だと思っているが、この状態はじつは心のいちばん最悪な状況だと捉えたほうがいい。
思考というのは、自分の外側にある岩や本と同じように自分ではない。そう考えて思考を観察し、思考に巻き込まれなくなってはじめて私たちは心をコントールできるヌシになれるのである。
先のことも思っていない、過ぎたことも振り返っていない、こうなったら嫌だ、ああすればよかった、ああこうしたかった、そんな思考が消え、一瞬一瞬に起きていくことをすべて「それでよし」とすることができるようになれば、心は私の忠実な下僕のようになり、どんな瞬間にも適切に対応できるようになる。
この本にはほかにも「わからない」「判断しない」「空しさや孤独に対処する」などの心とつきあうためのテクニックがいくつも紹介されていて、心についての知識が一段と向上する。でも何度も読み返して思い出さないと、いつの間にか思考の下僕になっているので気をつけなければいけない。
『孤独であるためのレッスン』 諸富祥彦 NHKブックス 01/10. 1020e
恐れ入った。孤独をポジティヴに前向きに主張するという本はそうそうないからだ。
孤独がいけないのは、ひとりになることではなくて、孤独であることを責める自分の中の内在化された他者の声である。それが多くの人の心を責めさいなまし、安らかな心を破壊してしまう。
ある人たちは登校拒否やひきこもりになり、ある人たちは終始だれかといっしょにいなければ不安になるといった両極端に走ることになる。孤独を責める社会というのは、人々を病的状態にみちびく、すこぶる社会学的な問題だとあらためて思い知らされたしだいである。
日本というのは孤独を白眼視する、ひじょうに同調的で画一的、群れや集団に属さないことを忌避する、個人が自立できない幼稚な社会である。
孤独を失う損失は、独創性や創造性であり、自我の確立であり、また自己の心の成長であり、そして自分らしさや個性、独自性、心の自由、行動の自由、趣味の自由などである。群れや際限なき仲良しゴッコはそれを補ってあまりあるものなのだろうか。たえず友達や仲間といっしょにいる人はそれらの奴隷となり、自分を失っていることだろう。
私たちは孤独に強くなる方法、ひとりで生きられる能力をつちかうことが必要なのである。そしていちばん大切なことは、集団から外れたり、疎外されても、自らがみずからを責めない心をもつことなのである。みんなから嫌われても、見捨てられたとしても、OKだと捉えること。他者の奴隷になるよりはよほど立派だ。
そういった孤独を前向きに捉える心を自分の中につちかい、責める心を滅ぼしていったときに、私は心の自由、人生の自由を手に入れることができるのだろう。自由を奪っていたのは他者であり、孤独を許さない自分の心だったのである。
『グルジェフとクリシュナムルティ エソテリック心理学入門』 ハリー・ベンジャミン コスモス・ライブラリー 80. 2000e(古本)
近年、まれにない感銘をうけた本である。人間は精神と身体のみの存在ではないこと、われわれが自分自身と呼んでいるものはたんに「想像上の私」にすぎないこと、われわれがふだん行なっている自分の価値観をひき上げようとする「内なるおしゃべり」などを、極めて明晰に理解させてくれた。
とくにわれわれが始終行なっている「内なるおしゃべり」――他人が自分をどう扱ったか、どんな軽んじた扱いや避け方をしたかという頭の中の独り言には、じつに自分自身にも覚えがあり、ひどく感銘した。
われわれは他人に敬意を与えられるべきだとか、他人は私を好きになるべきだ、われわれは常に幸福であるべきだ、外部の出来事が私の楽しみを妨げるべきではない、などと無意識に思い込んでいる。われわれは自分自身がいつも正しくなければならないのである。それが満たされないと、われわれはたちまち「内なるおしゃべり」をはじめるのである。
過去の出来事を思い出したり、ぱっとしない世評にたいして言い訳したりする。「内なるおしゃべり」とは自己正当化と自己賛美のキャンペーンなのである。そうすることによって自分自身を最高度の価値評価に保つことができる。想像上の価値観こそがそれ自身なのだから。
この本はモーリス・ニコルという人の『グルジェフとウスペンスキーの教えに関する心理学的注解』が元になっており、私はこの「内的考慮」「内なるおしゃべり」をもっと知ろうとしてグルジェフの本を読むことになる。
『バーソロミュー』 マホロバアート 86. 2300e(古本)
チャネリングである。怪しいです。「宇宙」や「大いなる叡智」などの頻出するワードはもっと怪しさを増します。でも言っている内容は心理学的にめちゃくちゃ学ぶべきものがあり、この認識は意識や視野の拡大をもたらしてくれるものだと思う。
瞬間に生きる、怖れから逃げずに見据えること、悪い部分の自分も愛する、想念や感情はそれにとりこまれずに現れては消えるにまかせる、などの私もまったく納得する心理的な知恵がのべられている。これらについては一点の怪しさもまちがいもないと私は思っている。
「大いなる叡智」や「転生」、「ソウル・メイト」、愛とは肉体がべつの肉体を愛することではなく、自分のあり方そのものだといったことや、人間の精神や肉体は自分という存在のほんの小さな部分であり、宇宙空間にに達するほどの広大無辺な存在であるというところにまで来るとさすがに現代人の知性はここまででとどまろうとするだろう。でもほかの心理学的知恵にはものすごく教えられるところがあるのはまちがいないところだ。怪しさがなかったら、私には手放しの大絶賛の本であるが、「隠れ称賛」の本である。
『ラムサ―真・聖なる預言』 ラムサ 角川春樹事務所 1986. 1553e(古本)
すごい本である。チャネリングなどでは「あなたは神である」とよくいわれるのだが、こういわれば驚く。「神は単一の存在で、自分の手で天と地を創造し、それから人間という生物を創造したとあなたは教えられてきた。しかし、実はそれはあなただったのだ。朝の太陽も、夕刻の空も、あらゆるものの美を創造したのもあなただ」
また、こうもいっている。「あなたが死ぬ理由はただひとつ、自分が死ぬと信じているからです」「自分に限界を設けてしまうような信念を容認することで、あなたは限界だらけの人生をつくり上げる」「皆は自分自身の思考によって自分を絶望に追い込んだのだ」
「けっして何も信じてはいけないことです。絶対に。信じるというのは、まだこれから知るべきこと、体験を通してこれから理解していくべきことについて、確信を持ってしまうことです」
「あなたが生きているこの人生は、夢だ。大いなる夢、言わばうわべなのだ。それは、思考が物質と戯れている姿であり、夢見人であるあなた自身が目覚めるまで、あなたの感情をその中に拘束しておくための深遠なる現実をつくり出しているのである」
「思考なしにはあなたの身体は存在せず、物質さえも存在することはない」「物質とは、思考を最も大きく変容させることによってつくり出される思考のレベルなのだ」
「あなたが宿っている身体は、魂を運ぶ車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするために選ばれた、洗練された手段にすぎない。にもかかわらず、この手段でしかないものを通して、あなたは自分の本質が自分の身体だという幻影にどっぷりと漬ってきた」
「あなたにとってこのレベルが存在しているというのは、あなたの肉体、つまり、あなたの化身にある感覚器官が、物質という、光の周波数の中で最も低いレベルを感知するようにつくられているからです」
「限りない思考を使えば、化身や、すべての場所、すべての宇宙を超越できるのだともし知っていたら、あなたは二度と限定されることを選びはしないだろう」
「すべてひとつである状態は、本当にわずか一瞬、ほんの一呼吸しか離れていないところにあるのです。自分の存在の内奥で、どんなものとも別の存在でありたくないと願うとき、あなたはもはやそうでなくなります。すべての思考から自分を分離してきたのは、あなたの価値観、限られた思考、そして変容をきたしてしまったアイデンティティなのです」
『「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない』 デビー・フォード NHK出版 1998 1600e
「嫌いな他人とは自分自身のことである」――このことを自覚するのはむずかしい。他人と自分はまったく別物と思うからだ。しかしなぜ他人の嫌いなところが感情的にひっかかるのだろう。それはその嫌いな部分が自分自身にあることを認めたくないからである。
これはユング心理学でいう「影の部分」である。自分の嫌いなところを自分から隠そうとすると、他人に見つけてしまうのである。そうして人は自分の嫌悪感を排斥したいばかりにずっと影の部分と無益な闘いをおこなうことになる。
この影の部分のとりもどしは前からの私のテーマだった。でもなかなかよくわからないのである。それでこの本が出ることになって、よりいっそうの理解を深めることができるようになったと思う。
たぶん認識の失敗があるのだと思う。心の中には自分も他人もない。ただひとつの心があるだけである。しかし人はそのひとつの心を自分と他人に分けてしまう。気に食わない部分、あったら困る部分は都合よくぜんぶ他人に与えてしまう。しかしその捨てた部分はオバケのように他人の姿にあらわれ、ずっと自分の嫌な部分と闘いつづけるというわけである。オバケが消えるのはそれが自分だと、自分の心だと、わかったときである。
なおこの本では悪い部分の投影だけではなく、よい部分も投影されていることを教えてくれる。あなたがある人に偉大さを見るとするのなら、それは自分自身の偉大さである、つまり影の部分であるということである。影は善悪両面で成長のためのきっかけを与えてくれるのである。
『整体 楽になる技術』 片山洋次郎 ちくま新書 2001 720e
身体を現代思想的に語った本はそうない。書店に並んでいる健康医学の本は読者の知的水準をバカにしたような教科書的な本ばかりだ。だから身体についてもっと深く考察してみようという気にもならない。
この本は不安や怒り、緊張したときにわれわれの身体はどうなっているのかということや、われわれの身体はいまどのような状況におかれているのかということが、現代思想的に探られている、知的好奇心を誘う優れた本だと思う。おかげで身体をもっと探究してみようという気になった。
とくに感情と身体の明確な関係図は把握したいと思う。緊張すれば胸が緊張し息がつまり、呼吸と眠りは腰椎5番と関係が深く、頭と目の疲れは首の緊張と関係がある、胃が痛くなるのは腹直筋とみぞおちが硬くなるから、下腹部とみぞおちはシーソーの関係になっているなど、こういう身体の図式はぜひとも頭に入れておきたい。
われわれはあまりにも自分の身体のことを知らない。怒りや恐れのときに身体がどのようになっているのかも知らないし、客観的な知識ではなくて、内側から自分の身体を知るということもない。そしてわれわれは身体の犠牲者になる。自分の身体を実感や身体感覚から知らなければならないと思う。
『疲労回復の本』 津村喬
同朋舎 1999 1300e
心の疲労がからだの筋肉の緊張やこりをもたらすということは、もっと注目するべきだと思う。その慢性筋肉疲労がさまざまな病気をもたらすということにもっと気づくべきだと思う。
この本はその筋肉疲労に注目した数少ない本の中の一冊であり、探していた本をやっと見つけたという気がした。われわれは怒りや恨みなどの感情を長くもちつづけるために筋肉が緊張し、その延長が慢性疲労や病気につながってゆくのである。
情念としての筋肉をときほぐすことはものすごく重要なことだと思う。それより前に感情が身体をどのように緊張させるか、どの部分を緊張させるのか、ということを知らなければならないと思うが、そのことを追究する人もあまり多くない。筋肉と感情の関係にもっと注目すべきだ。
この本の中の緊張をときほぐすエクササイズはちょっと絵柄が大ざっぱでくり返しに向かないのが残念だ。
『筋肉疲労が病気の原因だった』 福増一切照
総合法冷 1997 1500e
慢性筋肉疲労が万病のもとだという本である。緊張がつづくと血行障害をおこし、腰痛や肩こりになり、内臓機能を狂わせ、糖尿病や心臓病をうみだすということである。
また筋肉の緊張/弛緩は自律神経のセンサーであり、筋肉は血液を送り出す第二の心臓だということである。筋肉の役割はいままであまりにも見過ごされていたというわけである。
筋肉にも人生のパターンは記憶され、怒りや恨みは慢性疲労の大敵である。それらの感情は筋肉の緊張を長引かせる元となる。心は一過性のようにあることが大切である。
『若者が≪社会的弱者≫に転落する』 宮本みち子
洋泉社新書 2002 720e
そうだな、若者を「社会的弱者」とくくることはとても納得できるカテゴリーづけだと思う。私の経歴からいっても実感できる。若者は世界的にみても貧困、低所得、失業、フリーター、未婚の坂を転がり落ちつづけているのである。
中高年は所得は高く、社会保障もしっかりしているほうだし、マイホームもある。世代間格差が確実にひろがっており、若者はその差をうめるべく親にパラサイトし晩婚化するしかない。
しかもいまのマスコミや世間はその現実をみようとせず、若者の怠けぐせとしてかれらをバッシングするのみですませている。自分たちの既得権益のやましさを、若者のバッシングでかわそうとしているかのようだ。
若者の危機に警鐘をならしたこの本はとても共感できる部分が多く、まるで自分の声を代弁しているかのような箇所がたくさんあった。若者が層として不利益集団になりつつある、という新たな認識のもと、社会政策やシステムを変えてゆかないと、将来の惨禍はたいへんなものとならざるをえないといわざるをえないだろう。若者のまわりの社会から変えてゆかないと、未来はないのだろう。ぜひこの本を読んでほしい。
『フロイト先生のウソ』 ロルフ・デーケン
文春文庫 2000 705e
これまで心理学によって与えられた常識を見事に覆してくれる好著である。学問というのはどこか必ず根底から覆し、批判する知識が必要だと思う。信仰になったらおしまいだ。
とくに心理療法は現代のペテンだといったところや、つらい記憶は抑圧されなく、とうとつに思い出される、精神の健康は不安やネガティヴな感情から逃げることによって維持される、フロイトの近親相姦説は生物学の常識からいって考えられない、などの統計データから導かれた説がよかった。
もう私もフロイトの説より、自己啓発や禅仏教などに学ぶほうが精神の健康にはよほどよいと思っていたから、この本はとても勇気づけられた。(瞑想は昼寝程度の平静しかもたらされないといわれているが)
本の帯には「フロイトはマルクスよりも多大な損害を人類に与えた」と書かれているが、あながち大ボラとはいえないかもしれないな。つづく心理学も業界の利益のためにみんなを病者にすることによって人々の恐怖を煽り、マーケットを広げているし。心理学はクスリと劇薬だな。
『「心の専門家」はいらない』 小沢牧子
洋泉社新書 2002 700e
この本も心理学に対する問題提起の本だ。心理学やカウンセラーが必要とされるということは、心や人の関係が商品や消費となってしまうことだと警鐘を鳴らしている。
心の問題とはしょせんは生き方の問題なのだが、大人たちがそれを見せなくなったうえ、産業化によって家族や共同体の絆は断ち切られ、孤立の度合を深めている上に、さらに心の問題まで商品化されると、人々はます
ます閉ざされ、孤立し、不安にさらされてゆくことになるという。もっとも必要なことは人々がつながりやすい条件の援助だと著者はいう。
この消費社会は「自分でやろうとするな、依存せよ、購入せよ」というメッセージに満ちている。産業に依存することにより個人は自前でやりぬく能力を失い、家族や共同体はますます解体されてゆくばかりだ。人は「生かされる消費財」として生き、「生きることは買うことなり」という人生を生かされることになる。
専門化や商業化されてゆく危険性を強く感じる本である。われわれは専門家に依存し、ますます個人の能力、家族や共同体の絆を失ってゆく。しかも専門家は自前のやりかたを批判し、家族や共同体を解体させながら、自分たちの発言力や地位をあげてゆく。個人や家族は専門家の前でますます無力になり、依存してゆくいっぽうになり、人々は自信を失ってゆくばかりである。
さらに心理学は人々の異常性を告発する知識であり、社会変革を放棄した順応主義のテクノロジーにもなりうる。心理至上主義や専門家主義はひじょうに問題の多い要素をはらんでいるのである。専門家信仰にたいする批判力や判断力がわれわれに緊急に求められているのではないだろうか。
『人間通でなければ生きられない』 谷沢永一
PHP文庫 1981 400e(古本)
批判や悪口、欠点を指摘し、アンチを唱えるのはだれでもできることで、それが日本の知識人や言論界の仕事と思われたり、優越感や選民意識が満足させられたり、怨みつらみが発散させられたりするのはよいことではない。
とくにアタマからこれを信じてしまう読者は世を呪い、人を怨むようになり、人生は不幸と悲惨につき落とされてしまう。知識の正誤より、人生の幸福や満足を客観的にみられるほうが重要ではないのかと思う。批判やアンチは人生の肯定と愛を破壊してしまうものだ。
谷沢永一はそういう知識人の否定と肯定の態度を客観的に見られる人であり、だから批判的知識ばかり摂取してきた私としてはたいへんに重要な知恵を与えてくれる。心理学のポジティヴ・ネガティヴ思考のような枠組みが社会観にも必要だと思うのである。
この本では批判や罵倒に傾いてきた知識人のなかでも日本を肯定的に捉えた人たち――大宅壮一、梅棹忠夫、司馬遼太郎、高橋亀吉、山本七平がとりあげられている。
肯定や称賛が行き過ぎて放漫さや暴虐にまで走ってしまうのはキケンであるが、罵倒や蔑視のみもおおいに誤った姿勢である。人生は肯定も否定もせず、ただ受け入れることが大切なのではないかと思う。社会を否定することは自己も幸福も破壊することである。
『夜這いの性愛論』 赤松啓介
明石書店 1994 1300e(古本)
一冊の本を読み終えたら世界の見え方が変っていたということがあるが、この本はまさしくそのような本である。おおらかで積極的で目からうろが落ちるようなむかしの男女の性体験、性風俗が語られていて、こういう語りこそが大人から人生を教えてもらうというものだろうと思った。
性をあからさまに語るということはまさしく人の生きざまを語るということなのだと思う。性を語れなくなった現代というのは人生をも伝えられないということなのだろう。性に拘泥せずにおおらかに性を楽しんだむかしの日本人の姿を知ることはかなりのカルチャーショックである。とにかく読むべき本である。
『恋愛セラピー』 松本一起
KKロングセラーズ 2003 905e
かなりすばらしい本である。喧嘩や嫉妬より、愛したり許したりする気持ちのほうがどんなに大切なことか教えてくれる本である。愛する人を失うために怒りや嫉妬に駆られるわけではないのだから。この本は愛する愛おしさの気持ちをなんども思い出させてくれるかなりいい本である。
「恋人が出来なかったあなたは、今まで自分のことを大切にしていなかったのです。今日からは、あなた自身を過大評価して、上へ上へ舞い上がりましょう」
「いいですか、人に自慢しては駄目です。あなた自身に自慢してあげるのです。毎日、自慢してください。あなたはたくさんの人の前でも、堂々とあなたでいられるはずです」
「恋愛の想像は、なぜかマイナス志向が多いのです。頭で思うって分かりますか。気持ちを鎮めることから始めるのです。好きな人のことを悪く悪くイメージして、押さえ付けてゆくのです」
「嫉妬しない方法。とても簡単なのです。相手を信じればいいのです。悪い想像力を使って、些細なことを広げなければいいのです。たった、それだけのことです。だって、あなたはその人と別れたいのですか。相手の人のことをすべて信じればいいのです。疑うなんて最低です」
「あなたが、彼のことを心から愛していたり好きだったりしたら、どんなことでも許してあげるのです。――それとも、自分の我を通して、相手を押さえ込んで、相手に謝らせたいのでしょうか。何日も何日もかかって、相手に謝らせたいのですか。その間、音信が途絶えても自分を優位に立たせたいのですか。好きな人と喧嘩して何が楽しいのですか。ただ苦しむだけなのです」
『この人と結婚していいの?』 石井希尚
新潮文庫 2000 476e(古本)
男と女のすれちがいに悩む人には最高の名著だと思う。男と女の感じ方、考え方のちがいをこれほどまでに明確に具体例をあげて教えてくれる格好の本はないと思う。
たとえば女性が「話したくない」といったとき、傷付けられたことを訴えたいだけであって、男は言葉どおりにうけとって黙ってしまいがちになるが、そうではないという。女性は気持ちの共感や同情がほしいだけなのである。
女性は大切にされているという実感をとても大切にするが、その安全基準がどこにあるのか男にはまったくわからない。だから男性には女性がなんで怒っているのか訳のわからないことが多い。タオルの置き場所を怒ることによって、大切にされていない不安を訴えたりする。男性は女性の感情生活により神経をそそぐことが重要なのである。
男なら女性の脈絡のない会話に閉口したことがあるかもしれないが、男は要件や用事のない会話はムダだと思うからだが、女性は会話する安心感や共有する充実感をとても大切にするため、沈黙をひどく怖れる。関係が破綻しないよう男はなんでもない会話でも共有する努力を怠ってはならない。
この本はほんとに男と女の言葉と感情のすれちがいを見事に解明してくれていて、感嘆と発見と驚きの連続の本である。経験したかもしれない男と女の言葉や感情のすれちがいの原因をあちこちで見出すことになるだろう。
『なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか』 ハーブ・ゴールドバーグ
ワニ文庫 1991 648e
たぶん女性向けに書かれているのだろうが、男がぜひ読むべき女性にとっての男の性質がどのようなものかを教えてくれる驚嘆の書である。男らしさ、男としてよかれとやっている論理や感情の抑制が、女性を傷つけているとはじつに皮肉なものである。
「少年のころは、身近な人に頼らない男らしさを見せると好感をもたれました。とくに喜ばれほめられた気質は、自立心旺盛、意欲的、野心的、目標志向、ワンパクさ、責任感の強さ、活発さ、といったところでした。
――ところが皮肉なことに、彼を「男らしく」見せていた気質が、将来「無神経」で女性に横暴にふるまう男に彼をしたてあげてしまうのです」
男は男らしくなろうとしてクールで論理的で無口になろうとするものだが、感情と共感をとても大切にする女性にとってはその態度は拒絶や拒否としかとられかねられないものなのである。
男として条件づけられたものが、女性との気持ちのすれちがいを数々ひきおこしていることがこの本の中で多くとりあげられていて、本書は感嘆することしきりの本である。もちろん女性として条件づられたものが男にどのような気持ちをひきおこさせるかものべられている。
この本は男と女の違いをのべた私にとっては赤ラインとドッグ・イヤーだらけの貴重で重要な本になった。男女ともども読んでほしい本である。
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