■学校の共同体化と法的治外法権 2007/3/5
『いじめの社会理論』 内藤朝雄
柏書房 2001/7 2300e
いじめの研究書はこれまでいくつかあったが、思想レベルに高めたのはこの書がはじめてなんだろう。そしていじめは学校だけの問題ではなくて、会社や地域などのどこにでもある社会問題として新たに設定しなおすべきとした問題提起の書でもある。
この本はアカデミズム向けに難解な箇所は数多くあるのが残念であるが、その合間を縫ってわかりやすいところもいくらかある。なによりも著者のいじめ問題解決への確信と断定口調がこの本にはみなぎっている。有用な箇所を引用したい(ながい引用になったが、そのままの文章のほうがわかりやすいと思うので)。
「現代の日本社会では、多くの人々が(機能集団ではなく) 共同体への人格的献身として学校や会社への参加を強いられ、人格的自由あるいはトータルな人間存在を収奪され、きわめて酷いしかたで隷属させられるといった事態が生じた。
……国家全体主義は、全体主義の「全体」に国家を代入したものだが、戦後日本社会に行き渡った全体主義はこの「全体」に学校共同体と会社共同体を代入したものと考えることができる」
「教習所型の場合、基本的に学校は乱暴なことを「やっても大丈夫な場所」ではない。暴れたらあっさりと法的に扱われ、学校のメンバーシップもあっさりと停止されがちである。それに対して日本は、学校共同体型の極端に突出したタイプであり、その極端さが「日本的」と呼ばれてきた」
「暴力に対しては警察を呼ぶのがあたりまえの場所であれば、「これ以上やると警察だ」の一言で、(利害計算の値が変わって)暴力によるいじめは確実に止まる。……さらに市民社会状況であれば、非暴力的なものでも、「葬式ごっこ」や「村八分」などは、民事訴訟をされるおそれがあるのでできくなくなる。残念ながら多くの学校関係者たちにとっては、いじめで人を殺すことよりも、学校の聖性を冒涜する「裁判沙汰」や学校を自動車教習所のように見なす態度のほうが、「悪いこと」「憎むべきこと」である」
「スーパーマーケットや路上で市民が市民を殴っているのを見かけたら、別の市民はスーパーマーケットの頭越しに警察に通報する。しかし学校で「友だち」や「先生」から暴力をふるわれた生徒が学校の頭越しに警察に通報したり告訴したりするとしたら、道徳的に非難されるのは「教育の論理」を「法の論理」で汚した暴行被害者のほうである。……学校では厳格な法の適用が免除されるという慣習的聖域扱いのために、「友だち」や「先生」によるやりたい放題の暴力が蔓延する」
「市民社会ではあたりまえの自由とされることの大半が学校では禁じられ、そのかわり市民社会では暴行、傷害、恐喝その他の犯罪とされるものが学校では堂々と通用し、場合によっては教育の名において道徳的に正当化されている」
「学校では、実質的に薄情な関係を家族のように情緒的に生きることが強制される。若い人たちは、いじめで強迫されながら「なかよし」が強制され、人生の初期から「精神的売春」をして生き延びなければならない」
「生徒は学校に強制収容され、グループ活動に強制動員され、いじめや生活指導で脅されながら、「親密なこころ」をこじり出して群れにあけわたす「こころ」の労働を強制される。鷲田清一は学校生徒を感情労働者とみなす」
「部分的-中途半端に迫害者とずるずると「なかよく」しながら少しずつ改善しようとする――このような「改善」は迫害者には慢性的に裏切りと体験される――ことは非常に危険である。一気に相手をおそれさせるような仕方で、公権力による処罰可能性を現実的なものにしつつ抗議あるいは告発をすれば、相手は意外なほど簡単に手を引き、別のターゲットか別の全能具現様式を探索しはじめる(しかし学校共同体主義は、個人が公権力を盾にして「ともだち」や「せんせい」から自由になろうとすることを、何よりも嫌悪する」
「加害少年たちは、危険を感じたときはすばやく手を引く。そのあっけなさは、被害者側も意外に思うほどである。……いじめのハードケースのうちのかなりの部分は、親や教員などの「強い者」から注意されたときは、いったんは退いている。「自分が損するかもしれない」と予期すると迅速に行動をとめて様子を見る」
「例えばいじめは「よい」。大勢への同調は「よい」。「わるい」とは、自分たちの共同作業の効果としての全能感ノリを外した、あるいは踏みにじったと感じられ、「みんな」の反感と憎しみの対象になることである。最も「悪い」のは、「チクリ」と個人的な高貴さ(アトミズム)である」
「いますぐできる対策としては、次の二つを同時に実施することを提言する。
@暴力系のいじめに対しては学校内治外法権を廃し、法システムにゆだねる。そのうえで、(加害者が生徒である場合も教員である場合も等しく)加害者のメンバーシップを停止する。
Aコミュニケーション操作系のいじめに対しては学級制度を廃止する」
内藤朝雄がいちばん問題にしているのは、学校の共同体化と法的治外法権である。学校が聖域になってしまって法律が門の中に入れない。これは工場でも会社でも似たようなものである。日本は集団の中に法律が入り込めず、全体主義化している。そのなかで個人は全人格的隷属をしなければならないようになっている。これは学校だけの問題ではないのである。
この社会では仲間や集団が神聖化してしまい、法律や警察の介入は仲間を売ることのように思われてしまう。われわれはこの意識を徹底的に破壊する必要があるのだろう。学校や会社のなかにいて、だれからも守られてないと感じるわれわれの意識にはこのような背景があるのである。そこにいじめや暴力、虐待、ハラスメントが蔓延する下地があるのである。
仲間や集団、家族の中にも法的権利を浸透させること。われわれの日本社会には緊急にこのことが必要なのだと思う。学校も聖域としての共同体を解除して、はじめから法的権利をもてるような環境や教育をしてゆくことが望ましいと思われる。学校は仲間集団や人間関係の浄化の力だけに頼っていたら、解決不可能の問題を多く抱え込みすぎるのである。暴力のエスカレートを防ぐためには法的権利のない仲間の解決だけでは手に負えないのである。そんなところでは無際限の暴力が蔓延するだけなのである。
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