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 ■070304書評集



 ■サルの階層制、人間の階層制            2007/3/4

 『重役室のサル』 リチャード・コニフ
 光文社 2005 1900e

 


 サルの群れの研究から、サルたちがどれだけ階層争いや政治的駆け引きに奔走しているかよく見えてくるものである。この本はそのような動物行動学のまなざしを人間のオフィスに向けた書物である。デズモンド・モリスが同じようなことをやっていた。

 人間はチンパンジーと99%が同じ遺伝子であるという。しかし人間は階層というものをあたかもないように、支配や服従という関係が人間にはないようにふるまおうとする。サルやイヌ社会のような階層序列や政治争いは、人間という高等な生き物には関係ないと見なしたがっている。しかしデズモンド・モリスの書物もそうだったが、人間がいかに階層や服従のディスプレイをあらわしているか如実につきつけられると、ぐうの音も出なくなる。人間はじつに動物的な争いをどんなところでもくり広げているものである。

 この本はそのような動物行動学的まなざしとビジネス書・経営論の合体である。イマイチだった気がする。人間の階層争い一本にテーマをしぼってくれれば、もっと興味がわいたかもしれないが、あつかうテーマがたくさんありすぎた。また私がいちばん興味がひかれた章はオフィスにおける恐怖による支配の項目だったので、そのことに的をしぼってくれれば、よかったのかなと思う。

 要はまとめにくいのである。だからいくつかの感銘した箇所を引用する。

 「社会的なつながりを形成する言語は、もとはといえば、グルーミング行動の代わりとして発展してきたものだと提唱する生物学者もいる」

 「ネガティビティ・バイアス(消極性の偏見。ものごとを悪いほうに考えること)――悪いほうへ向かう可能性があることに対して、特別に注意を注げば、危険に対応できる」――しかしなぁ、これはうつ病の原因にもなるから、思考を捨てる技法も併用が必要なんだな。

 「ボスが、ヤシの木にいたナンバーツーを追い出した。すると、このナンバーツーは、すぐさま自分のすぐ下のヒヒを恐ろしい顔で追い払い、自尊心を取り戻したのだった(追い払われた下のヒヒは、そのまた下のヒヒに対して同じことを繰り返した」

 「権力の弱い人たちのほうが、ボスより世界をしっかり見ていることが多いのだ」

 「だが結局「会議とは誰がボスであるかをみんなに知らしめ、それ以外の者を褒めるかけなすかするための、階層制を強化する儀式にほかならない」と、結論づけることになった」

 「初めて会ったポニーの鼻面をいきなりたたいたりすれば、嫌われる。だがそのポニーは、あなたのその後の行動にいたく関心を示すようになるだろう」

 「ストレスや気苦労の大きな状況では、そこにフラストレーションのはけ口がある場合、結果として現れるストレス反応が軽減される。……そうして、いらいらのたらい回しが続けられてゆくのである……誰かに八つ当たりすればストレスホルモンが減少するという、悪魔的な事実があるのだ」

 「被験者たちは、弱いものいじめをするような人を賞賛したわけではない。彼らが惹かれたのは、露骨にならずに他者を利用することのできる、策略家としての聡明さを持つ人だった」

 「支配的な人々をたんに「強要型」と「社会になじむ型」に区別するだけでなく、そこに「両面作戦的」という分類を加えた。「両面作戦的」とされた人々は、無償の手助けや好意のお返しをし、仲間を作るという、社会になじむ行動を見せるいっぽうで、そうすることが適当と判断されるときには、威嚇、社会的疎外、破壊的ゴシップ、身体的な暴力といった、典型的ないじめのテクニックも用いていた」

 この本を読んで思い出したのだが、デズモンド・モリスの『マン・ウォッチング』は悪魔的に人間の階層ディスプレイや同調行動をさらけ出していた。もう一度見返したくなったのだが、どこにいったのかわからない。

 ▼デズモンド・モリスの著作
 





 ■学校の共同体化と法的治外法権         2007/3/5

 『いじめの社会理論』 内藤朝雄
 柏書房 2001/7 2300e

 


 いじめの研究書はこれまでいくつかあったが、思想レベルに高めたのはこの書がはじめてなんだろう。そしていじめは学校だけの問題ではなくて、会社や地域などのどこにでもある社会問題として新たに設定しなおすべきとした問題提起の書でもある。

 この本はアカデミズム向けに難解な箇所は数多くあるのが残念であるが、その合間を縫ってわかりやすいところもいくらかある。なによりも著者のいじめ問題解決への確信と断定口調がこの本にはみなぎっている。有用な箇所を引用したい(ながい引用になったが、そのままの文章のほうがわかりやすいと思うので)。

 「現代の日本社会では、多くの人々が(機能集団ではなく) 共同体への人格的献身として学校や会社への参加を強いられ、人格的自由あるいはトータルな人間存在を収奪され、きわめて酷いしかたで隷属させられるといった事態が生じた。
 ……国家全体主義は、全体主義の「全体」に国家を代入したものだが、戦後日本社会に行き渡った全体主義はこの「全体」に学校共同体と会社共同体を代入したものと考えることができる」

 「教習所型の場合、基本的に学校は乱暴なことを「やっても大丈夫な場所」ではない。暴れたらあっさりと法的に扱われ、学校のメンバーシップもあっさりと停止されがちである。それに対して日本は、学校共同体型の極端に突出したタイプであり、その極端さが「日本的」と呼ばれてきた」

 「暴力に対しては警察を呼ぶのがあたりまえの場所であれば、「これ以上やると警察だ」の一言で、(利害計算の値が変わって)暴力によるいじめは確実に止まる。……さらに市民社会状況であれば、非暴力的なものでも、「葬式ごっこ」や「村八分」などは、民事訴訟をされるおそれがあるのでできくなくなる。残念ながら多くの学校関係者たちにとっては、いじめで人を殺すことよりも、学校の聖性を冒涜する「裁判沙汰」や学校を自動車教習所のように見なす態度のほうが、「悪いこと」「憎むべきこと」である」

 「スーパーマーケットや路上で市民が市民を殴っているのを見かけたら、別の市民はスーパーマーケットの頭越しに警察に通報する。しかし学校で「友だち」や「先生」から暴力をふるわれた生徒が学校の頭越しに警察に通報したり告訴したりするとしたら、道徳的に非難されるのは「教育の論理」を「法の論理」で汚した暴行被害者のほうである。……学校では厳格な法の適用が免除されるという慣習的聖域扱いのために、「友だち」や「先生」によるやりたい放題の暴力が蔓延する」

 「市民社会ではあたりまえの自由とされることの大半が学校では禁じられ、そのかわり市民社会では暴行、傷害、恐喝その他の犯罪とされるものが学校では堂々と通用し、場合によっては教育の名において道徳的に正当化されている」

 「学校では、実質的に薄情な関係を家族のように情緒的に生きることが強制される。若い人たちは、いじめで強迫されながら「なかよし」が強制され、人生の初期から「精神的売春」をして生き延びなければならない」
 「生徒は学校に強制収容され、グループ活動に強制動員され、いじめや生活指導で脅されながら、「親密なこころ」をこじり出して群れにあけわたす「こころ」の労働を強制される。鷲田清一は学校生徒を感情労働者とみなす」

 「部分的-中途半端に迫害者とずるずると「なかよく」しながら少しずつ改善しようとする――このような「改善」は迫害者には慢性的に裏切りと体験される――ことは非常に危険である。一気に相手をおそれさせるような仕方で、公権力による処罰可能性を現実的なものにしつつ抗議あるいは告発をすれば、相手は意外なほど簡単に手を引き、別のターゲットか別の全能具現様式を探索しはじめる(しかし学校共同体主義は、個人が公権力を盾にして「ともだち」や「せんせい」から自由になろうとすることを、何よりも嫌悪する」

 「加害少年たちは、危険を感じたときはすばやく手を引く。そのあっけなさは、被害者側も意外に思うほどである。……いじめのハードケースのうちのかなりの部分は、親や教員などの「強い者」から注意されたときは、いったんは退いている。「自分が損するかもしれない」と予期すると迅速に行動をとめて様子を見る」

 「例えばいじめは「よい」。大勢への同調は「よい」。「わるい」とは、自分たちの共同作業の効果としての全能感ノリを外した、あるいは踏みにじったと感じられ、「みんな」の反感と憎しみの対象になることである。最も「悪い」のは、「チクリ」と個人的な高貴さ(アトミズム)である」

 「いますぐできる対策としては、次の二つを同時に実施することを提言する。
 @暴力系のいじめに対しては学校内治外法権を廃し、法システムにゆだねる。そのうえで、(加害者が生徒である場合も教員である場合も等しく)加害者のメンバーシップを停止する。
 Aコミュニケーション操作系のいじめに対しては学級制度を廃止する」

 内藤朝雄がいちばん問題にしているのは、学校の共同体化と法的治外法権である。学校が聖域になってしまって法律が門の中に入れない。これは工場でも会社でも似たようなものである。日本は集団の中に法律が入り込めず、全体主義化している。そのなかで個人は全人格的隷属をしなければならないようになっている。これは学校だけの問題ではないのである。

 この社会では仲間や集団が神聖化してしまい、法律や警察の介入は仲間を売ることのように思われてしまう。われわれはこの意識を徹底的に破壊する必要があるのだろう。学校や会社のなかにいて、だれからも守られてないと感じるわれわれの意識にはこのような背景があるのである。そこにいじめや暴力、虐待、ハラスメントが蔓延する下地があるのである。

 仲間や集団、家族の中にも法的権利を浸透させること。われわれの日本社会には緊急にこのことが必要なのだと思う。学校も聖域としての共同体を解除して、はじめから法的権利をもてるような環境や教育をしてゆくことが望ましいと思われる。学校は仲間集団や人間関係の浄化の力だけに頼っていたら、解決不可能の問題を多く抱え込みすぎるのである。暴力のエスカレートを防ぐためには法的権利のない仲間の解決だけでは手に負えないのである。そんなところでは無際限の暴力が蔓延するだけなのである。




GREAT BOOKS

 ■ようやくパラダイム転換の時代か     2007/3/13

 『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』 マリー=フランス・イルゴイエンヌ
 紀伊國屋書店 2001 2000e

 


 「職場におけるモラル・ハラスメントとは、不当な行為(身振り、言葉、態度、行動)を繰り返し、あるいは計画的に行うことによって、ある人の尊厳を傷つけ、心身に損傷を与え、その人の雇用を危険にさらすことである。また、そういったことを通じて職場全体の雰囲気を悪化させることである」

 モラルハラスメントとは「精神的な暴力」または「いじめ」のことである。職場の嫌がらせはイギリスやボルトガル、フランスなどでは「犯罪」として法制化されている。日本では学校のいじめが表面にあらわれて問題になることはあるが、職場のいじめが大きく問題視されることはあまりない。学校がこのようなものなら、企業も組織人に適合するようにいじめを利用しないわけがない。

 いじめとは集団人としての訓育方法なのである。グループの同調化に従わない者は排斥される。継続的にいじめを受けた者は心身に異常をきたす。そして精神科医のもとに訪れ、問題の「精神病化」がおこなわれ、外に追い払われるのである。

 問題は被害者にあるということである。したがって集団のいじめに問題があったのではなく、被害者に問題があり、かれは精神病ゆえに排斥されたとなる。精神医学や心理学の発達は、じつのところ集団の聖化や神格化である。近代の精神医学とは集団のいじめという訓育方法の正当化である。だからいじめ問題は解決しなかったのである。しかしようやく加害者を犯罪者化する動きがヨーロッパで出てきたようなのである。個人を悪ではなく、集団を悪と見る観方はどれだけ勢力をもてるようになるのだろうか。

 ドイツでは1993年にハインツ・レイマンが「モビング」という言葉を広め、イギリスでは1992年にBBCの女性記者アンドレア・アダムスが「ブリング」という言葉を使い、アメリカでは「ハラスメント」という言葉で1976年にキャロル・ブロドスキーが職場の嫌がらせを研究した。日本のいじめ問題が大人の職場の問題として大きくクローズアップされることが少ないのはいうまでもない。いじめられたほうが問題や責任、または後遺症をひきうけ、集団や加害者は秩序を守ったとまだ考えられているのだろう。個人主義が讃美される世の中というのに深刻な認識の後進性である。

 職場で起こりやすいところは、サービス関係や医療関係、教育関係の職場でひんぱんに起こりやすいとされている。評価の基準があいまいだからである。製造業では起こりにくい。公的機関のほうが雇用が安定しており、自分から辞めざるを得なくなる民間企業より、モラルハラスメントは多く、長くつづくそうである。権力争いの道具につかわれるのである。軍隊や医療関係、教育関係のモラルハラスメントの多さは、だいたいは察しがつくというものである。

 モラルハラスメントは堂々と口にすることのできない感情的なものが重なって原因となっている場合が多い。異質なものに対する拒否感とか、羨望や嫉妬、ライバル関係、あるいは権力争いや勢力争い、序列争いなどもあるだろう。グループの論理を押しつける方法にもつかわれる。雇用調整のためにも用いられるときがある。

 継続的に攻撃を加えられると、とうぜん心身に異常が出てくる。抑うつや心身症、統合失調症、妄想症的な症状が出てくる。まさしく「精神的な殺人」がおこなわれるのである。嫌がらせや軽蔑、侮辱がくりかえしおこなわれれば心身の調子がおかしくなるのは当たり前のことであり、孤立させられたり集団でいじめを受けたりしたら、相当のダメージや後遺症を残しかねないというものである。人にわからないようないじめで他人に信じてもらえなかったら、自分の感覚のほうが信じられなくなる。

 人はなにより人の悪意に傷つくのである。「あの人が私を傷つけようとしている!」そのことに傷つくのである。悪意とはなにかと深く問いつめることによって、私たちは人の悪意というものに距離をおけるようになるかもしれない。

 日本でもはやく法制化がおこなわれてほしいものである。なにより世論やマスコミが学校のいじめだけではなく、大人や職場のいじめを大きくとりあげるべきである。問題をないがしろにすることにより、われわれはどんなに個人の自由や尊厳を破壊させられているか。このままでは個人の正義感や倫理観が育つわけがない。われわれは集団の暴君のくびきの下につながれたままなのだ。いじめやモラルハラスメントが大きく問題視されるにいたって、私たちははじめて尊厳ある自由な個人として息ができるようになるのである。





 ■問題化される時代の到来             2007/3/18

 『職場いじめ』 金子雅臣
 平凡社新書 2007/3 700e

 


 本としては情報の価値以外はあまりない本である。研究書のような鋭さにいまいち欠ける。

 職場いじめの相談件数が2004年を境に四割ほど激増している。「パワハラ」などの言葉の登場や、国際的な職場いじめの問題化の流れが関係しているのだろう。こんなのはむかしから壮絶にハードに職場にあったものだと思われる。ようやくこれが犯罪や問題として裁かれる社会風潮の時代になったということである。

 しかしマスコミで大きくクローズアップされるのはあいかわらず学校のいじめだけである。生々しすぎて、痛すぎる話題なので避けたいのだろうか。

 職場環境は90年代の長期不況やリストラの嵐、または終身雇用の崩壊、非正規雇用などの増加により、悪化しつづけている。暴力的な雰囲気が、職場にすぐ蔓延する環境になっているのである。集団主義や集団の一体感がひじょうに危うい状態になっているのは、いうまでもないことだ。時代の閉塞感や労働倫理の衰退なども大きな背景なのだろう。

 いじめやパワハラはこれまで会社には関わりのない「個人的こと」であり、会社の関与せざること」ととらえられてきた。会社も組織に同調や服従させるためのよい手段としてとらえてきた向きもあるのだろう。近年ようやく「雇用管理上の問題として配慮する」ことが必要なテーマになりつつある。裁判で、企業の職場配慮義務違反や、企業に責任があるというケースも増えてきた。企業にいじめを防ぐ責任があるという判断がおこなわれるようになったのである。

 個人というのは無力な存在であった。職場や地域で集団というのは「絶対化」されてきた。だからいじめや排斥された者は「個人的に失敗した者」として集団からはねつけられ、精神的ダメージも個人が処理する問題として、問題のまなざしがその発生源である集団に向けられることはなかった。

 心理学や精神医学も個人に問題の焦点を絞り、問題を個人に「精神病化」することに意欲をそそいできたのである。近代の工業化にとって集団を問題化することは、産業化や経済化の趨勢に異を唱えることである。不可能なことであった。そして集団からはねつけられた者は、個人の責任や問題として排斥されてきたのである。精神医学がそのお墨付きを与えたのである。近代の暴虐であり、近代の大きな恥辱の歴史である。このパラダイムがつき崩されてほしいものである。

 学校のいじめや自殺がいっこうになくならないのは、この流れと無縁ではないだろう。集団は聖化されて、神格化されているのである。いじめられた者が悪いのである。そしてそのような集団で生きなければならない人間が「集団の地獄」を見なければならないのはいうまでもないことだろう。集団の訓育や制裁が神聖化されてしまっているのである。

 集団の心理学や集団の政治力学がもっと研究されて、制御・コントロールされる知識がおおいに求められるのである。このジャンルが等閑視されて、実験室に隔離された個人心理学のみが発達してきた。この歴史に近代のたくらみやあざむきを見ないわけにはいかない。そして知識人も権力に奉仕してきた情けない歴史に目をつむることもできない。





 ■組織とは困難な事業である             2007/3/21

 『組織をだめにするリーダー、繁栄させるリーダー』 フランチェスコ・アルベローニ
 思草社 2002 1500e

  


 含蓄のある本である。

 著者のアルペローニは社会学者としてはめずらしく『エロティシズム』や『新・恋愛論』などが文庫になっており、『他人をほめる人、他人をけなす人』がベストセラーになったりしている。社会学者が一般の人に読まれるのはそうそうない。エッセイという親しみやすい形態だからなのか、それとも題材がいいのか、または筆がよいのか。

 リーダー論は私にとっては無縁だと思っていた。しかし組織や集団とどう関わるかという問いをもてば、リーダー論に学ぶしかないのである。歴史上の政治家や王がとりあげられているが、実はこのようなジャンルはリーダー論や組織論という組織をまとめるために参考にされる知識なのだといまさらながら気づいた。

 だめなリーダーには攻撃性をむきだしにする、金集めに権力を利用する、相手の譲歩につけこむ、行動にブレーキがきかないなどがあげられている。

 対して繁栄させるリーダーは権力が夢の手段である、何かを築こうとする、創りあげた人に敬意を払う、敵味方に分けない、復讐心にとらわれないなどがあげられている。権力は目的ではなくて、創造のために手段であるというのはなるほどである。

 組織や集団というのは目的のための機能として存在するものである。しかしその場がおうおうにして権力闘争や利益集めの道具になり勝ちである。組織をまとめるのはひじょうに困難な事業であると思う。集団の力学やダイナミズムほど不可解なものはない。

 このジャンルは歴史小説や歴史学がなんらかの知恵を貢献してきたにすぎず、本格的に研究されてきたジャンルではない。人間と集団の数ほど無数の例や答えがある。したがってリーダーであることはひじょうに困難な事業である。リーダーだけではなく、組織や集団に関わる人たちにとっても組織論は無縁ではなく、必要な知恵であるが、これほど難しい知識や技能が必要なジャンルもないと思う。だから人は歴史上のリーダーになにかを学ぼうとしてきたのである。





 ■専門家社会への抵抗               2007/3/25

 『非行のリアリティ―「普通」の男子の生きづらさ』 大村英昭
 世界思想社 2002/5 2000e

 


 ゴフマンやフーコー、デュルケムなどの社会学者が多く出てくる、ひさびさに読んだ社会学プロパーの専門書である。著名人が多く語られていると権威をもらった気がするが、それこそアカデミズムというものだが、著名人や権威を崇め祀る愚も犯してはならない。

 この本に一貫して流れているのには「専門家社会」の弊害ということだろう。「病気をなくそうとして、医者や医療機関が増加すればするほど「病人」は増えてゆく」

 「専門家の時代になり、いろんな収容施設が充実したおかげで、人びとはいとも容易に彼ら(逸脱者)を専門エージェントの手に委ねてしまう。老人は医者に、「変な人」は精神科医に、不良は警官に、そして「落ちこぼれ」は先生に」

 「医者は、放っておいても治る病気にでも、しばしば何らかの処置をするよう義務づけられている。この親切が、かえってあだになって患者を甘やかし、「病人」という役割に、彼をますます固定することになりやすい」

「真正の(社会的)逸脱者とは、正式にその役割に就き、そう扱われている人であると確認すべきである」

「医者と教師は、「道徳的意味空間」を管理する二大エージェントであり、現代の調教師である以上に、むしろ司祭である。彼らは逸脱者を類別し、排除し、さらにその隔離を進言することができる。その意味で、警察官や法律家とも大差はない」

「いかにもクールに、しかも科学的権威をもってなされる類別であるからこそ、一度貼りつけられたレッテルはいよいよはがし難いものになるのである。……ひとたびこういった逸脱者の役割に就いてしまうと、もとの役割への復帰をくわだてたものはしばしば処罰される」

 90年代に心理学やセラピーが昂進する心理主義化が激しくなり、だれもが「神経症」や「心が病んでいる」と見なされるようになり、あげくのはてにマスコミと結託して「犯罪少年ブーム」がつくりだされたことは、もう多くの人には忘れられていることだろう。

 専門業者はみずからの生活や生業を保つために、だれもかれもを顧客にしなければならないのである。医者は病者を、精神科医は精神病者を、警察は犯罪者を、教師や知識人は低能と無知をつくりださなければならない。それでこそ、専門家はお客を大量に増やすことができるのである。お客の定義は自分で増やしたり、調整できたりするのである。おまけにお客は期待される役割をも演じてくれる。

 「精神病院には、奇怪な症状をわざと演じて、新米の見習い看護婦が正常な行動だけを見てがっかりしないよう気をつかう患者がいる」と指摘したのは、アーヴィング・ゴフマンである。ひところ流行った多重人格やストーカー、そして犯罪少年たちも、マスコミや心理学に期待された通りの役割を演じ切ったといっていいだろう。

 非行というのは冷徹な学校の選別装置から生まれるものである。「生徒間の階層序列は、そのものが懲罰制度として機能する。最下位にあることは、「規格外」のレッテルを貼られることを意味し、立派な「加辱刑」である」

「ひとたび落ちこぼれた少年たちは、先生の間でも生徒同士の間でも、どうやら無視されていくというのが実態らしい。……「無視」といういささか陰湿な懲罰が、かえって無視できないほどの悪ふざけとなり、イチビリなりをつくりだすのではなかろうか」

 無視されるとつっぱり派はもっと派手に目立つ非行をおこなうようになる。ほかの生徒と先生も同盟を組んで無関心を決め込む。つっぱりと無関心、二つの演技過剰が応戦されるのである。そして非行集団では仲間同士の観衆の前で、ますます「ええかっこしい」がエスカレートし、警官の出動となり、みごとにラベルに貼られた期待通りの逸脱者の役割を遂行してしまうのである。

 われわれの社会というのは専門家による序列装置と懲罰制度がみごとに張り巡らされた社会である。それは学校やマスコミなどによる知識業者が一方的に序列やヒエラルキー、罰則を決めてしまうものである。専門家によるヒエラルキーにはちょっとやそっとでは対抗できない。人は専門家レベルにはかんたんにはなれないからだ。そして知識業者の思いのままの選別や懲罰がのさばるようになる。

 非行少年は学校選別装置に対抗する。オタクはファッション選別業界に抵抗する。恋愛忌避者は男女の肉体市場から撤退する。フリーターは全体主義的企業から退散する。ニートやひきこもりは社会のあらゆる選別装置から退散する。

 そして非行少年は期待された非行行動をみごとに演じ切って、警察なり鑑別所なり、またはヒエラルキーの目の見えないところに追いやられるのである。なるほど非行からこの社会のシステムがよく見えてくるというものである。

 なお著者の大村英昭には絶版のようだが、『日本人の心の習慣 鎮めの文化論』(NHKライブラリー)という本があり、欲望や情念が煽られる社会の「あきらめさせる」、「撤退の思想」の処方箋を説いており、私はたいへん感心した覚えがある。宗教社会学に類別されるこの本を書いた著者が非行の本を書くなんて私には驚きである。

 





 ■必須の知恵としての暴力防止            2007/4/1

 『自分を守る力を育てる―セーフティーンの暴力防止プログラム』 アニタ・ロバーツ
 金子書房 2001 3500e

 


 ぶあつすぎ。暴力から身を守る方法、人の怒りや憎しみから身を守る方法を簡潔にすばやく学びたいだけなのに、400ページの本は容量が大きすぎる。これは小冊子ていどのほうがよかったと思う。

 この本はカナダのアニタ・ロバーツが開発した暴力プログラムを紹介する本で、30年の実績があり世界各地で認められつつあるそうだ。身近にある暴力から身を守る方法をワークショップで教えることは日本でも早くとり入れられるべきだ。私たちのそのときの対処はあまりにもお粗末すぎるのである。

 言葉の暴力や肉体の暴力の対応するとき、怒りや恐怖に駆られて行動するとますます暴力を誘発しかねない。怒りは相手の防衛や攻撃の感情をひきおこしてしまうし、恐れの行動は相手を図に乗らせ、格好の標的であることをますますメッセージしてしまう。

 このプログラムはそういうありきたりの対処ではなくて、中立的なアサーティヴな方法を教える。力強く中立的に暴力に巻き込まれない方法を選ぶということである。

 これはロールプレイやワークショップにおいて習得されるようになっており、理性的に中立に落ち着いて力強く暴力から身を守る方法が示されている。私たちはボティランゲージや視線で自分の強さや弱さをメッセージしているので、それを自覚するプログラムもおこなわれている。また自分の中に「子ども」「戦士」「賢者」の存在を思い浮かべ、その操作によって心の落ち着きを保つ方法は、交流分析のようである。子どもは守られ、戦士はしりぞき、賢者が出てくる必要があるということである。

 私の読後感としては容量の多さに読むのに疲れてしまって、これが効果的な方法なのか学ぶ気力が失せてしまったのではないかと思う。いまいちぴんとこない。アサーティヴという言葉が出てくるたび、意味がわからないと思った。

 ジェンダーの問題も多くとりあげられていて、男や女はそんなに性的規範に囚われているものかなと思った。男は男らしさから外れると攻撃にさらされやすく、だから攻撃的になるといったくだりは、私としては男はそこまで性規範に囚われているものかと思った。ステレオタイプ的すぎるのである。

 女性も人に好かれなければならない、攻撃的であってはならない、人の気持ちに共感的でなければならない、男性の注目がなければ存在しないも同然であるといった性規範については、女性はそこまで規範に縛られているのかと疑問でもあった。私は女性がそこまで弱い存在とは思ってこなかった。この本を読むとまるで攻撃されるための格好の弱者になるように女性は規範づけられているように感じた。

 この暴力防止プログラムは女性が身を守る方法を学ぶためにはじまったものである。女性はセクシャル・ハラスメントやドメスティック・バイオレンスなど伝統的に暴力や攻撃にさらされやすい立場におかれてきた。これまで社会の表面からふたをされて、なきものとされてきたことである。どうしていままで暴力にさらされるままになり、そしていまになってようやく裁かれるものとして浮上してきたのだろうか。これまでの声のない無数の被害者や犠牲者の存在を思い浮かべないわけにはいかない。

 私たちは日常にありふれる暴力にあまりにも目をふさぎすぎてきた。放置されたままであった。それ以上に社会の教育方法や訓育方法、または日常茶飯事として容認されてきたきらいがある。このような暴力が放置され、社会問題としてもとりあげられず、あたりまえのことだとして容認されてきた歴史や社会の異常さに感嘆の声をあげずにはいられないのである。暴力防止プログラムが当たり前の知識としてこの暴力社会に根づいてもらいたいものである。





 ■人間と同じ権力闘争                  2007/4/7

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 『チンパンジーの政治学 猿の権力と性』 フランス・ドゥ・ヴァール
 産経新聞出版 1982+1998 1800e

 


 べらぼうにおもしろい本である。

 チンパンジーの――というよりか名前で呼んだほうがしっくりくるが、イエルーン、ラウト、ニッキーの権力闘争は圧倒的に読む者をひきこませる。共感や同情や畏怖や、人間のあらゆる感情を総動員しなければならないほど、チンパンジーの権力闘争は人間の心にさざ波を巻き起こす。

 なぜなら集団の権力闘争は人間が毎日どこでもおこなっているものだからだ。チンパンジーほど攻撃的でもあからさまでもないが、人間も集団の中で権力闘争や序列争いをおこなっており、だからこそこのチンパンジーの権力闘争は私たちの感情に衝撃を与えずにいられないのである。

 サルの権力闘争といえば、すぐさま政治家の誹謗や中傷につかわれるが、これはふつうの人間でもあらゆる集団の中で――学校で職場で家庭でくり広げているものである。人間はその権力闘争や勢力争いを隠す。自分でもそのような欲求や陰謀はないものとして心から隠蔽する。でもやっていることはまさしくチンパンジーの権力闘争と同じものである。そのような心や事実を隠蔽しなければならない人間集団というものに改めて光を当てなければならないのではないかと思う。

 チンパンジーの権力闘争の舞台はオランダ・アーネムにあるブルゲルス動物園の野外コロニーである。著者のヴァールがその観察におもむいたとき、集団のボスはイエルーンと名づけられたオスであった。かれはメスの第一位であるママやほかのメスたちに支持され、そこを支配していた。この記録はイエルーンの転落と凋落の記録でもあるが、複雑な政治的策略やかけひきを用いてイエルーンが権力をながらく保持しつづける記録でもある。

 挑戦者はラウトと名づけられた若いサルである。ラウトはイエルーンに威嚇を仕かけ、またイエルーンの地位の基盤であるメスたちをひきはなすように画策した。同時にニッキーと名づけられたサルもメスたちを攻撃しはじめた。二頭のサルはイエルーンの地位をテストしていたのである。

 第一位のオスは集団の「取りしまりの役割」ももち、けんかや攻撃がひどくなる場合、止めに入ったり、弱者を守らなければならない。もし彼らを守られないようなら、すでに第一位の地位は脆弱なものになっている証拠である。権力の空白地帯に挑戦者がつけ入る間隙は開かれているのである。

 ラウトとニッキーによるメスの地盤の掘り崩しがおこなわれた結果、イエルーンはボスの地位を追われ、ラウトが新たなるボスとして君臨する。そしてニッキーにも追われ、いまやイエルーンは第三位の地位に没落するのである。

 が、話はそうかんたんではなかった。イエルーンは計算していたかのように第一位のラウトと第二位のニッキーの権力闘争が勃発するように、第二位のニッキーと連合を組みはじめたのである。いくらラウトの肉体的能力が勝っていようと、二頭の連合にはかなわないのである。そしてついにはニッキーがボスの地位にのぼりつめる――もちろんイエルーンの支持のおかげで。

 チンパンジーと人間の遺伝子は98%が同じである。かれらの権力闘争に共感や同情や怖れを抱かないわけにはゆかない。まさしく人間も同じような権力闘争をおこなっている。しかしチンパンジーは露骨に攻撃的である。露骨に連合や威嚇や、闘争がおこなわれる。だけど仲直りの毛づくろいはものすごく速い。人間はもっとひきずるのだけれど。

 人間はもっと賢く隠蔽する。おだやかにおこなわれる。そして自分自身もだます。サルや動物ではないのだから、動物的な権力闘争や序列争いはおこなわないのだと。それはウソである。人間はこの部分を自らの心からも隠蔽することによって、そして権力闘争をおこなっておきながら、そんなことがあたかも存在しないかのようにふるまう。人間の隠蔽された部分は私たちに大きな問題を残しながら、それでも隠蔽されつづけるのである。

 私たちはだからサルや動物たちの権力闘争や序列争いの事実に驚かされる。自分たちの心の深いところの欺きをえぐり出された気がするのである。学問もそうである。心理学も個人心理学ばかりに没頭し、社会学も人間の集団やグループの研究はおろそかになったまま、というよりか不問に付されている。こんなに重要な問題なのに、無視されてきた歴史の異常さに愕然とせざるをえない。

 私たちは「チンパンジーの政治学」より、「人間集団の政治学」にぜひ開眼しなければならないのである。それは私のたってもない願いでもある。学校や職場の集団の中で、集団の中で生きる難しさや不安をずっと感じつつけてきたのに、それにふさわしい知恵や知識がまったく見当たらないのである。いったいこの状況はなんなのだろうと思ってきた。人間集団の政治力学はぜひ解明されなければならない問題なのだと私は思う。

 なおこの本は平凡社ライブラリーから出版されていた『政治をするサル』(1982)の改訂版だと思われる。本屋で探していたらもう絶版になっているらしく、産経新聞社のほうから1998年の改訂版として出されている。単行本で割高だけど。

 さいごにこの権力闘争の終盤劇はかなしい結末に終わった。この本の記録は79年までだったが、そのあとイエルーンとニッキー連合はラウトに激しい攻撃をおこない、そのときの出血が元でかれを死なせてしまった。そしてイエルーン=ダンディ連合はニッキーを堀に追いつめ、かれを溺れ死にさせてしまったのである。愛着を抱いていた連中であるだけに衝撃の結末である。

 そしてこんにちでもこのチンパンジーのコロニーでは権力闘争がおこっているのだろう。また人間の無数の集団でも同じような、もっとおだやかであるけれども、権力闘争がおこなわれているのだろう。





 ■現代の古典になったのか              2007/4/8

 『啓蒙の弁証法―哲学的断想』 ホルクハイマー、アドルノ
 岩波文庫 1947 1200e

 


 もう十五年ほど前になるか、現代思想に興味をもっていたときにフロムやホルクハイマー、アドルノなどの社会心理学系の思想家にひじょうに興味をもっていた。

 フロムの『自由からの逃走』や『人間における自由』に大きな影響をうけ、オルテガやリースマンなどの大衆社会論を貪るように読んでいた。そんなときにホルクハイマーやアドルノ、ハーバーマスなどのフランクフルト学派にはとうぜん興味をもった。とりわけ資本主義批判や文化産業批判などを読みたいと思った。

 『啓蒙の弁証法』は書店で見つけては読めるかなと検討してみたのだが、読まずじまいだった。その本がさいきん岩波文庫に入ることになった。47年に出版された本が古典の名著ばかり出す岩波文庫に収録されたことはこの本がもう古典と見なされたことなのだろうか。

 まあ、難解である。文章が読みづらい。あまり意味の通りが理解できる文章ではなかったし、いま私はほかの興味にかかりきりになっているので、なおさら深い理解はできなかった。

 現代的な社会を分析した論考として「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙」にとりわけ興味をもっていたのだが、あまり心に響くものがなかったといっていいだろう。まあ、いまの私にとっては読みとばす本でしかなかった。




 ■原付なんかのってられっか            2007/4/8

 『普通二輪免許これだけで絶対合格』 長信一
 日本文芸社 2005/12 1000e

 



 原付のスピード違反で二回つかまり、免停になったとき、思わず原付なんか乗ってられっかと購入。

 原付は法定速度の30qなんか守られず、だれも守っていない。だいたい車がびゅんびゅん追い抜いてゆく道路で30qを維持するのは難しいことだし、車が追い越せない狭い道路で30qでとろとろ人の迷惑をかえりみず走る根性もない。30qでは右折するために右車線に移るともできないのである。

 車の流れからいって30qでは走れず、かといって警察にはつかまって罰金と点数をとられる。ダブル・ビンタ状態に原付はおかれているわけだが、このひどい状況を改善しようという声も上らない。なぜこの状況が放置されているのか理解に苦しむ。警察の罰金目当てとしか思いようがない。

 この本は写真入で解説されているからひじょうにわかりやすいし、きれいである。子どもだましのイラストがそえられてバカにされたような類書よりよほど体裁がいい。もし普通二輪をとるときにはこの写真をイメージして実践することができるだろう。

 しかし私はミッションの原付からのりはじめた。原付の問題集や参考書ではクラッチやギア・チェンジのくわしい説明がなされておらず、エンストばかりの大変な苦労をしなければならなかった。ミッションの原付からのりはじめる者にはこの普通二輪の参考書を読むほうがためになるのではないかと思う。

 原付の初心者講習をうけたとき、交通事故は三年目までがダントツに多いとデータで示されていた。たしかにそのとおりだと思う。交通事情がよくわからず、カンやとっさの判断が働きにくいし、慣れや落ち着きもそなわっていない。私も二度の転倒や雨の日のすべりやすさ、車の急な左折など危ない経験をしてようやく半年ちょっとくらいでバイクに慣れてきたなという感じがした。みなさんも気をつけましょう。





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