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■070102書評集
■世界観を規定する原初の地層 2007/1/2
『エリアーデ著作集 第2巻 豊穣と再生』 ミルチャ・エリアーデ
せりか書房 1968 2800e
10年ほど前から山に登っているうち、木や石や山が祭られている神秘的な場所をいくつも見かけ、「どうしてこれらが祭られているんだろう?」と疑問に思うことしきりであった。まったく感覚がわからない。日増しに謎に思う気持ちは強くなったが、それを解く機会になかなかめぐりあわなかった。
このエリアーデの著作にはしっかりとその謎を解く鍵が描かれている。この本は「宗教学概論」の第二巻である。うっかり古代史に走ってしまったが、宗教学にその答えがあるとは。私は原始宗教を解きたい。そのことによって古代日本人の世界観が解けると思うし、こんにち規定している世界観も見えてくると思うのだ。
この第二巻の「豊穣と再生」は「月と月の神秘学」、「水と水のシンボリズム」、「聖なる石――エピファニー、しるし、形態」、「大地、女性、豊穣」、「植物――再生の象徴と儀礼」という章からなっている。
月と水、石がなぜ祭られたのかこの本から明確にわかる。月は凋落して、人間と同様、死をもって終わる。三晩の間、星空には月が出ない。月は周期性をもち、人間の再生や新生の希望をもたらすがゆえに崇められた。蛇は脱皮(再生と不死)をくりかえすことから月の化身と思われ、人間の女性と交わる、または月を見ると妊娠するからといって、月を見ないこともあった。
水は形なき状態の回帰であり、水につかすことは、形の解消であり、新しき誕生でもある。水は宇宙的創造をもう一度くりかえすのである。罪を洗い清めると同時に、新しい創造、新しい生命、新しい人間を生み出す。
石は死を保護するものであった。石が腐らないと同様に死者の魂もいつまでも存在しつづけなければならない。魂は石の中に住んでいる。石は畑や女性を豊穣にするための道具であった。石は祖先の石化した霊であった。石の前で夫婦が性交するという風習があったそうだが、鉱物を有性化するためであった。新生児に石の穴を通過させる風習があった。神の子宮の誕生、太陽の再生、という意味があったそうだ。
土と子宮、生殖行為と農耕作業は多くの文明で同一視されてきた。大地は生命や豊穣を生み出す母でもあった。誕生前の胎児は洞窟、割れ目、井戸、木などの中に誕生前の生を送っていたとされる。水、水晶、石、木などに魂は生をはじめるのである。ヨーロッパでも現代でもなお子どもは沼沢や泉、川、木などからやってくるといわれる。非業の死を遂げた人間は植物、花、実といった別の形をとって生きのびようとする。人間は植物の新たな存在様態のつかの間のあらわれにすぎず、死は宇宙の母胎への帰還にほかならない。
以上は私が多くの事柄の中から数点だけを強引にとりだしたものだが、整理されないながらも、原始宗教がどのようなものであったか、片鱗にふれられた気がする。原始宗教といっても、われわれの生活や世界観のなかにまだまだ身近にのこっているものである。とくに山や古神社にいくとその痕跡がのこっているものであり、生活のサイクルにも色濃く残っているものである。
私は死と再生、死と豊穣の世界観をいちばん知りたかった。死と再生にこそ、世界観の要があると思うからである。死んで新たに甦る。そのような信念や祈願に人間の世界観は満ちていると思うのだ。自然界はそのサイクルによって支配されている。人間もその一部であり、そのサイクルを生きる。古代史の中に、あるいは現代の世界の中にもおおくの事例をそれを見つけることができるだろう。その要を深く知りたいと思うのである。
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■聖なる方位線と国家の安泰 2007/1/7
『万葉方位線の発見 隠された古代都市の設計図』 向井毬夫
六興出版 1986/10 1300e
この本の出版元の六興出版はかつてレイラインや太陽信仰についての本をたくさん出していたのだが、いまはもうなくなっている。この本も古本屋でさがしていたのだが、ようやく見つけた。
なぜかいまいち興がのらなかった。そろそろレイライン探究に飽きてきたのかもしれないが、この本でおもにとりあげられているのは藤原京や平城京、平安京などの方位線である。都市計画は太陽信仰のような自然の神秘性や聖性はあまりないと思うのである。そこらへんの崇高性が欠けていたのかもしれない。
ほかにとりあげられているのが耳成山の神聖八方位、市庭古墳の方位線、恭仁京遷都、大仏と大阪城、春日大社と難波宮、長岡京などである。いろいろな線の結びつきは意外な驚きと発見をもたらすものであり、その点は楽しめた。
参考に耳成山を中心にした万葉方位線をマッピングしてみたが、不明な箇所も多くあったため、なんのラインかよくわからないものになった。図の表示もうまくいかなく、葛城山から大阪城へのラインも消えてしまったし、耳成山への拡大をしないとなおさらわからないものになって、すいません。
補足すると、当麻寺と耳成山、二見浦が結ばれており、葛城山、斉明陵、伊勢内宮、朝熊山が結ばれており、天武・持統陵と藤原京がつながっている、などなどということである。
なぜこのような方位線や交点、聖なるもののラインが結びつけられたかということ、それは国家の安泰や皇位の繁栄が天皇や豪族の祈願でもあったからだろうということである。陰陽五行や風水は国家の未来を占う国家事業の礎でもあったのである。
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■太陽神が世界を覆いつくした古代 2007/1/8
『超古代巨石文明と太陽信仰』 野島芳明+エドワード野口
日本教文社 1998/1 1524e
日本には神社や山岳を結びつける太陽信仰の痕跡があちこちに残り、現代でも天皇の皇祖神は太陽神である。太陽信仰は日本だけではなく、古代エジプトやマヤ文明、イギリスのケルト民族など、世界的に信仰されていた。はたしてこれらの太陽巨石信仰とよべる文化圏に交流や伝播はあったのだろうか。
この二十年間の間に数々の証明によって古代の人々が遠大な距離を交流していたことが学者の共通の認識になってきたようである。インダス文明の人びとがシュメールや地中海のフェニキア人と交易し、ヨーロッパやアフリカ、アメリカ大陸まで広がっていたことが発見されている。そのような中で巨石太陽信仰は前5000年前ほどから前2000年前ほどに世界中を覆いつくしていたようである。
ローマ帝国のヘブライ人とアメリカテネシー住民の先祖とは直接的な接触があり、オクラホマなどではケルト語を話す天文学者がいたそうだ。ミシシッピーにはエジプトやリビアからやってきた指導者たちがいたそうだ。日本のペトログラフ(岩刻文字)はシュメール文字やシナイ文字で解読されるということである。このような世界的規模での交流の中で太陽巨石信仰はおおくの地域で信仰されていたのである。
しかし神とともにあった時代は紀元前2000年ころからカオスをむかえ、神と人間が分離した時代をむかえることになる。紀元前500年前後の老子や孔子、ゾロアスター、ブッダやソクラテス、プラトンなどがあらわれる時代である。精神革命がおこり、太陽巨石信仰は世界じゅうから影をひそめてゆくことになったのである。
日本はこのような趨勢の中で天皇や皇祖神というかたちで太陽信仰をこんにちまでつたえる珍しい国家である。この著者はその伝統を称揚するようなことをいっているが、私はそんなことはあまり意味がないように思うのだが。太陽や神とともにあるパラダイムがこんにちで通用するなんて思えず、不可能だろう。太陽信仰は空間の崇高性を垣間見せてくれるから心躍るのだが、それ以上のイデオロギーに敷衍するべきではない。
なおこの本は書店で見つけられず、私にとってはamazonでの初買い物である。一週間ほどでとどいた。
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■近代化の終焉を知らないバカだらけ。 2007/1/13
『持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想』 広井良典
ちくま新書 2006/7 780e
61年生まれの若い著者であるからさすがに時代の変化をしっかりと捉えているし、たぶんこの年代あたりの世代から大きな時代の断絶を身をもって感じとっていたのだろう。それ以前の世代はこれからの社会の変化を乗り切ってゆけないのだろう。
ラディカルな哲学考察もあって、こういう人に国の舵取りをお願いしたいと思うところだが、ベーシック・インカムのような国民に最低限の所得を保障するような、なんでもかんでも福祉でまかなわれる発想はよくないと思う。福祉には「恥」の感覚が必要だと思うし、財源はどうなるのか、ローマ崩壊のようなモラル・ハザードを導かないかと思う。
この人の唱えている「定常型社会」はひじょうにに重要な概念であるが、つまり需要も成長も頭打ちになったポストモダン社会のことをいっているのだが、どうも社会がすっかり変わってしまったという認識がこの社会には薄いのではないか、というか忘れられていると思う。
これほど重要な転換が何十年も前からおこっているのに、いままでと変わらない成長経済を期待する国民や政治家たちはいったいなにかと思う。この基本認識が欠如しているために社会はトンネルのような閉塞感に囚われつづけているのだが。
需要が拡大しないのだから「成長による解決」は赤字を増やすのみだから、これからは労働時間の削減が失業率の減少につながり社会的善になる。働けば働くほど失業率が上る時代なのである。パイが大きくならず、定常化する社会には大きな発想の転換が必要なのだが、その前提である社会の断絶をみんな認識していないから、この社会は転がり落ちるのみなのである。なんでみんな「近代」や「昭和」は終わってしまったということに気づかないのだろう?
この本で唱えられている人生前半の社会保障という発想もおどろいた。たしかに若者の失業率は10%近くになっており、当たり前に福祉の対象となる老人より相当な危機を迎えているのだが、この世代の福祉が考えられることもなかった。これはたしかに発想の転換が必要であるが、ただ福祉に守られる青年の中から強靭な精神や成長は見込まれるとは思えないし、他人に決められ指示される人生の息苦しさやつまらなさも配慮が足りないな。私はだから福祉が嫌いである。福祉は申し込み制にしてほしい。
コミュニティ論の章もなかなか心に響くものがあった。日本人はウチには思いやりやいたわりの繊細な心遣いをはたらかせるが、ソトの人となると冷淡で無関心である。戦後の日本人はウチのコミュニティを会社のみにつくりあげてしまったために、街中にまったくつながりのない孤立した個人を数多く生み出した。ホームレスだってその無縁から生まれたといわれる。
会社のコミュニティからはじかれてしまうと、まったく孤立してしまい、近所の人ともつきあいもなく、孤独死が増えたりするのである。孤立の度合いは先進国でダントツである。日本人はこれからソトの人に対する新たな関係性をつちかわなければならないというのは、まったく同感である。だから会社のコミュニティの価値観だけが突出してしまって、ほかに拮抗する価値観や共同体をもてないのである。私たちは街中のつながりというものを芽吹いてゆく必要性を胸に刻むべきだ。もちろんうっとうしい近所づきあいを乗り越えるものにならないとだれもコミュニティに還りたいとは思わないものであるが。
私たちは近代という成長の時代を終えてしまい、需要も成長も見込めない時代に突入してしまったのである。問題を成長頼みの解決にゆだねることもできなくなってしまった。大きくならないパイをみんなで分け与えなければならなくなった。そこから労働時間削減やワークシェアリング、そして自由な時間をもつことによる人生の豊かさや人間らしい生き方の無限の可能性が展けてくるのである。若者はその変革待ちのために何年も社会の席を見つけられないのである。
私が夢に思っていた社会のあり方は、この「定常型社会」という概念のすぐ一歩先にあったのである。私たちはこんな豊かな社会の行く末を目の前に控えておきながら、旧態依然の成長経済の亡霊しか頭に思い描いていないのである。いかに貧困な人たちの集まりであることか。たぶん59年の宮台真司あたりからは新しい時代をつくってゆけるのだろう。いまの45歳前後の人が社会を変えれらるかもしれない。
村上龍もだれも近代化が終わったことの自覚がない、アナウンスしなければならないと98年にいっていたが、いまも状況は変わらない。この著者にはぜひ「定常型社会」という概念でがんがんとアナウンスしてほしいものである。TVの公共放送機構で宣伝してほしいものである(笑)。たぶん前戦争のような明確な区切りがないからだろう。「戦争」が終わったと知ってはじめて、人は新しい世の中の期待を心に描けたのである。
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■マス・ヒステリーの原因を探れ 2007/1/18
『タバコ有害論に異議あり!』 名取春彦・上杉正幸
洋泉社新書y 2006/12 780e
私は一日一箱喫う喫煙者であり、禁煙がひろがってゆくこの世の中はいったいどうなってしまったんだろうと思っていた。喫煙者が病気ではなくて、社会が病気なんじゃないかと思っていた。人が好きで喫う嗜好品を奪いとる世の中はどうかしていると思っていた。
医者がいう肺ガン説なんて、なんで先に工場排煙や車の排気ガスのほうをもっと悪者扱いしないのかと怪訝に思うし、医者は人を脅かさないと儲からないのだからいちいち真に受けるのは愚かだし、人の好きなものを奪いとる社会なんてよほどみんなが好きなことを奪われている社会なんだと思う。まあ、でもどうでもいいことなんだけど。
禁煙がエスカレートする世の中で、ようやく医者と社会学者からの反論本が出たという感じだ。こういう意見はぜひご拝聴したい。
まあ、社会的には伝染病から慢性病の時代になり、「感染しなければ健康」という単純な健康観から「異常がないのが健康である」という健康観になったためにどこまでも異常を見つける世の中になったということだ。異常を排斥する底なし健康観のなかで、複雑に要因が絡まった慢性病相手に、ひとつの要因を最大の原因に仕立て上げたのである。慢性病の時代に健康と異常の判断は不可能なのである。
医者からはたばこが肺ガンや喉頭ガンに結びつくという統計データのウソっぱちを暴いている。喫煙者がすべて肺ガンになるとは限らないし、たばこを吸わない人でも肺ガンにかかるのである。またきれいな肺と喫煙者の肺をくらべた写真があるが、健康人の肺は出血した肺を正常だと載せる過ちをおかしているのである。たばこの煙は水蒸気やタールであって肺に蓄積されることはない。
まあ、どちらが正しいとかどうでもいい。禁煙をヒステリックにエスカレートする社会のほうがアブナイと思う。
嗜好品として日本人はお酒に寛容な社会であるが、むかしアメリカでは禁酒法が成立してアル・カポネなどのマフィアを肥え太らせた愚かな時代がある。ふたたびそのような時代になってしまったのだろうか。なにか社会の異常のシグナルと捉えたほうがよいのかもしれない。
もちろんだからといってたばこをプカプカ喫いまくるのがいいわけがないし、嫌煙者のためにはマナーを配慮すべきだし、私もたばこは喫いすぎないのに越したことはないと思っている。
だいたい人の好きなことを奪いとれると思う社会のほうが誤っているのである。人生の喜びや楽しみを人から奪いとるという暴力に、社会はもっと警戒すべきなんではないかと私は危惧するのであるが。
といっても会社なんかでは仕事の負担が増えてくると、まずは楽しそうに談笑している人がまずは怨まれたり、憎まれたりするものである。俺はこんなにしんどい思いをしているのに、あいつはなんだとなる。そうして会社の集団は楽しそうな雰囲気が抹殺され冷ややかになってゆくのである。
このような嫉妬のメカニズムを社会に敷衍してみれば、みんななにかの負担に押しつぶされそうになっていて、ガス抜きとして人の楽しみであるたばこがターゲットにされたということが浮かびあがる。その深層に隠されている負担――人の楽しみを奪い去るものにまず焦点を当てることが大切なのかもしれない。まあ、これは高密度な労働かもしれないし、高負担な税金や社会保障かもしれない。あるいはそれは生産力の時代から、ポトラッチ(贅沢品の破壊競争)の時代への予兆かもしれない。われわれは禁煙運動よりか、たばこを怨む人の心理メカニズムを見つめるべきなのかもしれない。
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■生の恵みをもたらす大地の神 2007/1/21
『不死と性の神話』 吉田敦彦
青土社 2004/11 2400e
大和にのこる古代レイラインの探索をしているうちに死と再生という信仰が重要な鍵をになっていることがわかりだしてきた。死んで甦る。それは毎日の太陽にくりかえされることであり、作物もそうであり、また天皇の古墳にもそのような願いがこめられた。
神話はそういう死と再生の物語を現代にも語りかけている。日本神話にまったくひどい食べ物を身体からつむぎだして、汚いといって殺される神の存在をご存知だろうか。『古事記』ではオオゲツヒメ、『日本書紀』ではウケモチという女神である。
口や尻から食べ物を出してもてなそうとして、怒りを買って殺されて死んでからも身体の各部からも食べ物が生まれるという存在である。なんでこんなヘンな神が語られるのかというと、これは世界中で信仰されてきた大地母神のことをあらわしているのである。
大地母神というのは人間が暮らしていくのに必要なありとあらゆる物をいくらでも自分の身体から出してくれるありがたい女神である。農業の営みというのはその母なる大地の身体を燃やしたり傷つけたりする行為である。大地はそのような犠牲を払って人間に必要なものを産み出してくれるのである。縄文中期の母性を強調した土偶がほとんど破片となって発見されるのは、そのような信仰を語っていると思われるのである。殺されることによってわれわれに生の恵みをもたらす――日本神話の奇妙な女神はそのことを語っているのである。
そのような大地母神の信仰はクロマニヨン人の洞窟画からも発見されている。洞窟の困難で長い道をへた広間に狩の獲物が描かれている。そこは大地母神があらゆる生の恵みをもたらす大地の子宮でり、太古から人類はそのような場に感謝と再生の願いをこめていたのである。そしてそれは大地のはたらきを人間の性や誕生を重ねることでもあったのである。
太古にはひんぱんに女性の乳房や尻、性器が豊満にデフォルメされた像がつくられている。人間の性は豊穣や再生を願うものであったのである。それが後期旧石器時代になると旺盛な生殖力や繁盛性が淫乱な娼婦とそっくりと見なされるようになるのである。見境なしに男と関係をもとうとする淫乱な娼婦という存在に堕とされてゆくのである。そしてわれわれは身体から食べ物を出すという女神の存在を理解できなくなってゆくのである。
作物の神は無残に殺されてわれわれに生の恵みをもたらす。死んで地下の世界に行かなければならない。そしてふたたび春になれば、新しく生まれ、そのことを毎年くりかえす。人間の性と誕生はそのつなぎ目であったのである。世界の死と再生に、人間の性と誕生が重ねられていたのである。
以上のようなことがこの本からわかった。大地と作物の死と再生のテーマはまだもうすこし探究してみたいと思わせるものであった。こんにちでもまだ決して滅んでしまったものではない古代の世界観が理解できると思うからである。
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■訳者本人ですら意味がわからない翻訳。 2007/1/24
『輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか?』 鈴木直
ちくま新書 2007/1 720e
題材は魅力的であったが、つまらなかった。むずかしいというか、わかりづらいというか、近代の思想史につきあわされたくないと思った。いっぱんの読者にもわかりやすい翻訳をという著者がこんなアカデミックな理解しにくい本を書くとは皮肉なことである。
私も哲学や思想の難解さにはへきえきしてきた。理解できないもの、興味のないものは、自分自身にとっては読んでもムダというふうに切り捨てるようになった。ふつうの人は自分の無知さや勉強不足を嘆いたりするものだろうか。それが翻訳のせいだとしたら、だいぶ救われる話なのであるが。
やはり哲学の翻訳本は訳者自身が自分で翻訳しておきながら意味がわからないことがあるみたいである。なおさら読者には難解であろうと言い放つ。学生によくあるように辞書の単語をつなげていって、日本語の体裁をなさない文章をつくって、自分でも意味が理解できない。アカデミズムは原文の構文がくずれないこと、一語一語対応、一文一文対応の原則を守るあまり、読者にわかるような日本語を二の次にするのである。
この本は商業主義からはなれていって、アカデミズムに閉じこもる過程をドイツと日本の近代史に探るわけだが、私にはこの近代史がつまらなかった。どうでもいい話に長々とつきあわされる気がして、かなり倦んだ気持ちになった。
翻訳本に泣かされてきた経験は多くの人がもったであろうから、魅力的な題材であるから残念なことである。近代史につっこむより、こんにちの翻訳の誤訳やトンデモ訳などをあげつらって、アカデミズムを笑ってくれれば、もっと楽しかったかもしれない。
哲学書や思想書がわからないのは翻訳のせいだと悪者呼ばわりしてくれれば、だいぶ溜飲が下げられると思うのだが、思想が難解になるのはヨーロッパでもそうであり、たぶんに仏教の経典がいまだに外国語で読み上げられるように権威主義と専門主義のハクがつけられやすいからだろう。
商業主義からアカデミズムを笑うこと、批判することは大切な視点だと思う。哲学や思想は多くの人にとっての人生の糧となるはずなのに、難解さの上にさらに意味のなさない翻訳を読まされるのはおおくの人にとっての損失である。学校という社会保障がさらに商業主義をはばむ。まともな日本語で、お金を払う人にたいする責任を果たしてもらいたいものである。読書のわれわれも翻訳書は国に守られ、まずいコーヒー、冷めたラーメンを食べさせられる国営食堂だったという自覚が必要であるということである。
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■心臓も肺も耳も骨もなかった。 2007/1/28
『人体 失敗の進化史』 遠藤秀紀
光文社新書 2006/6 740e
この本に興味が魅かれたのは、いまあるものをないものと見なす哲学的発想があるからだ。われわれの身体に当たり前にある心臓や肺、耳や骨というのは、進化のはじめの生き物にはなかったものである。それがどのようにつくられていったのか、いったらありあわせのパーツで設計がどのように変更されていったのかを探るのがこの本である。歴史のパースペクティヴでみれば、ふだん気づかない身体の機能や用途がよくわかるというものである。
たとえば有名な話では、足のなかった魚にどのように足がつくられていったかということである。水中で器用な動きをするためにひれに骨が入れられ、そのさいしょの用途から離れてそのひれは陸に上るための足に変更されてゆくのである。
心臓もむかしの生き物にはなかった。ナメクジウオでは血管の壁に心臓の筋肉がばらばらに存在するだけである。肺ももちろんなかった。水中ではえらが酸素をとり入れるはたらきをしていたから、うきぶくろが陸で息をするための役割をになってゆくのである。
耳も太古から当たり前にあったように思いがちだが、振動は水中を伝わるのでその振動を集めればよかった。ワニも地面の振動を集めればいいから、耳がない。地上に立った者は空気の振動を拾うためにてこの原理で振動を増幅させる耳をつくったのである。この骨はありあわせの蝶番の骨から拝借し、その代用を側頭骨と歯骨で間に合わせたのである。生命の進化というのはいかにありあわせの材料でその場をしのぐかという、設計変更がくりかえされるいきあたりばったりなものであったのである。
われわれが知る身体の役割や機能というのは、いまあるものだけを対象にしている。そのためになぜその機能が必要になったのか、用途や役割を深く問うことがおろかそになる。身体のパーツの進化史をひもとけば、それが必要になった理由や、どのように身体に変更を加えていったのかが明瞭になってくる。
なによりもわれわれの身体にあるほとんどのものはむかしの生命にはなかったことが驚きである。賢固に当たり前にあるわれわれの身体も、さいしょに「無」であったことを知ることは、知識の常識というものをあっけなく捨て去るものである。これこそ知の根本的な役割というものである。
それにしてものこる疑問は、いったいこのような身体の設計変更や製造工程はどこのなにが施すものなんだろうかということである。身体に関しては「意識」あるいは「私」というものはいっさい関与しないし、できない。意識というのはその身体に間借りしているものであり、この設計製造にいっさい関われない。生命はどのように環境に有利になるような機能をつくりだしてゆくのだろうか。身体自身が知識をもっているいうのだろうか。あるいは細胞自身が。意識はその知識と関われないのである。それが当たり前の世界に住んでいながらである。だから人間は言葉でその世界を再構築しなければならないのである。
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ご意見、ご感想お待ちしております。
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