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 ■061204書評集



 ■行き過ぎ……?               2006/12/4

 『シリウスの都 飛鳥』 栗本慎一郎
 たちばな出版 2005/10 2200e

 


 レイラインの興味からこの本を読んだのだけど、前半はまあ楽しめた。縄文中期には三輪山の太陽のネットワークに先行して東北のネットワークができあがっており、紀元前のどこかで三輪山のネットワークにとってかわられたという。近江の冬至線や夏至線の検証は楽しめた。

 この説をとなえているのは渡辺豊和という大学教授・建築家だそうだが、『縄文夢通信』という絶版の本を読んでみたくなった。

 しかし20度西に傾けた聖方位という新機軸が出てきて、話はそこからヘルシアやペルセポリス、スキタイ、そして蘇我氏はサカ族だっという「トンデモ」説っぽい話に飛翔してくると、ユーラシア大陸の歴史の素養のない私にはほぼついていけなかった。これは行き過ぎだ。

 栗本慎一郎という人はトンデモ学者になってしまったのか、それとももともとトンデモ学者だったのか、頭の中をぐるぐる駆け回る(笑)。





 ■説明がうまい文章                2006/12/8

 『アマテラスの誕生』 筑紫申真
 講談社学術文庫 1962/2 960e

 


 日本の最高神たる天照大神が太古からの存在ではなく、比較的新しく天武・持統天皇の時代につくられたことを告げている本。

 文章がよかった。だれにでもわかりやすい言葉でていねいに証拠立てているさまはさすがだと思った。

 私の興味はレイラインや太陽信仰を知ることであり、文章には感嘆する部分がおおいにあったのだが、読み終わってみて、アマテラスがつくられた経緯を知りたいのではなかった。私は太陽信仰がどのようなものであったかを知りたかったのである。





 ■空間の聖性、至高性をもとめて         2006/12/10

 『京都「魔界」巡礼』 丘眞奈美
 PHP文庫 2005/10 590e

 


 すこしレイラインに触れていることと、京都の神社仏閣など地理的なことを楽しみたいと思ったので読んでみた。

 ここで触れられているレイラインは、加悦町の鬼嶽稲荷神社遙拝鳥居から大江町の日室岳をとおって、京都の崇道神社や比叡山をへて、伊勢神宮や二見浦をとおるレイラインだ。マップで引いてみたが、場所がよくわからずうまく結べないので公開は見送る。

 あと松尾大社から元糺の森、糺の森(下鴨神社)、四明岳のレイラインもとりあげられている。これは夏至の日の出のラインだが、夏至の日没のラインには稲荷山と愛宕山が結ばれることになる。その真ん中には特異な三柱鳥居の木嶋坐天照御魂神社がくるわけだ。

 平安京はご存知のように風水によって魔界が封印された都市である。東に青龍、西が白虎、南が朱雀、北が玄武に護られている。比叡山は東の鬼門封じにおかれたといわれる。京都の北東にある花折断層上には地震封じのための古社がならんでいる。平安京が碁盤目なのは陰陽道の魔除けの秘術でもあるという。

 京都の神社仏閣や地理にはそういう仕掛けや装置がたくさんほどこされているはずである。なぜこの場所にこの神社や寺があったり、聖地や磐座があったりするのか、なんらかの意図や意味がこめられていると思われるのである。そういう秘密をさぐりながら、現地や地理をたずねてみるのが、観光の楽しみというものだろう。レイラインはそういう聖性や崇高性のしるしやアプローチになってくれるから楽しいのである。

 この本は京都の古代や平安時代、室町時代の魔界をわけて、堅実に客観的に古跡の由縁や説を紹介してくれる本である。よくあるこの手の本のように必要以上に妖怪や魔界の恐怖をあおったりしない本なので、冷静に楽しめる本である。

 
 ▲木嶋神社や松尾大社などにしるしをつけた京都の地図。





 ■年功序列のための犠牲者           2006/12/13

 『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』 城繁幸
 光文社新書 2006/9 700e

 


 まさか11月時点で22万部のベストセラーになるとは思わなかった。べつに新入社員が3年で辞める理由を知りたい人がそんなにいるとは思わなかったからだ。まんまと管理職や中高年が読んでくれればいいのだが、これはその世代を批判した本である。どの世代がおおく読んだのだろうか。

 ひとことでいえば、若者の閉塞感には年功序列のポストのつっかえがあるということである。上に行くポストはすでに中高年で埋まってしまい、一生下働きしかない人生が待っている。いい大学を出て、いい会社にせっかく就職したのに、マックのポテトを揚げるような仕事を30年間やるしかないのである。それで大卒の36.5パーセントが3年以内で辞めてゆくということである。

 最大の問題は、この社内の年功序列を守るために若者が非正規雇用や半分以下のコストで働かざるをえなくなっているということだ。年功賃金やポストを維持するためには、新規採用を控えるか、派遣やフリーターでまかなうしかない。社会はそのような選択――既得権を守る選択をしたがゆえに、若者はおおいに犠牲になり、踏み台にされ、あげくに晩婚化・少子化の道へとまっしぐらというわけだ。

 若者はこの年功序列の社会からまったくはじき出されたというわけなのである。いったら安定企業に入り、定年まで勤め、退職金をもらうという「まともな」人生のレールを、若者はハナからつまはじきにされたのである。

 もう高度成長のような拡大成長の時代でもないし、中国の破格に安い労働力が追い上げてくる中で、この年功序列のピラミッド・シェルターははるか虚空のかなた宇宙空間に飛び立ったのである(笑)。若者や女性を地上にとり残したまま、ピラミッド宇宙船は逆三角形になりながらもふらふらと飛び去ろうとしている。

 この崩壊したピラミッド年功序列を維持しようとあがくがゆえに若者は会社を辞めるし、または派遣やフリーターは急増するのである。「労働組合が強い国は若者が失業する」といわれるそうだが、年功序列を期待した年長者や既得権者たちがこの国の未来や若者に犠牲を強いているということだ。

 このような年功序列の崩壊は、堺屋太一も1987年ころには指摘していた。とまらない成長体質を「人事圧力シンドローム」とよび、愚行の例として豊臣政権の朝鮮出兵をあげていた。この成長体質をとめられたのは徳川家康で、大名たちに髭を剃らせ、武勇を誇ることを禁じ、功を立てた者たちを断罪した。(『現代を見る歴史』 新潮文庫)

 そのような非情な役割を、成長の終わった平成日本ではだれもおこなえなかったということである。そして若者や女性をそのピラミッドに入れずに踏み台にして、逆三角形宇宙船はどこか「異次元の世界」にでも飛び立とうとしているというわけである。まあ、たぶん既得権者の利益をカットできる存在なんて民主政治ではありえなくて、絶対君主の時代にしか不可能なんだろう。そして年功序列社会はどこにいってしまうのだろう。。

 私の意見としては年功序列が若者の未来を奪っているのはたしかだと思う。だけど、3年で辞める理由はまたほかにあると思う。さっこんの若者は会社で出世したり、地位やポストがほしいという人は少なくなっている。そのような時代にポスト不足が若者の辞める理由にはあまりならないと思う。

 若者が辞める理由は、現代の若者があまりにもマスコミの価値観や消費者としての存在に埋没しているからだと思う。マスコミのヒーローや消費の楽しみにひたっている若者たちが、いきなり世界の片隅でひたすら楽しみや喜びもない反復作業や労働の苦役にたえられるわけがない。若者はかつてはマスコミのヒーローになりたかったのであり、消費の王であったのである。これはオトナたちが誘導したものだ。そんなかれらにとって労働は「転落」と「挫折」のなにものでもない。自分の楽しみのために生きてきた若者がひたらす他人の奉仕のみに奪われる人生にすんなり入っていけるわけがない。

 中高年の年功序列を守るために若者はひたすら彼らの犠牲になりつづける社会。非正規雇用で賃金は約半分。そして結婚もできず、子どもも生まれず、中高年の頼みの綱の年金=ねずみ講も下支えから破壊されてゆく。自分たちの守ろうとした暮らしがその外部の人間たちの暮らしを破壊してゆき、そして自分たちの暮らしも足元から崩れ去ってゆくというのは皮肉なことである。

 社会とは大恐慌のメカニズムに似て、みんなが財布のひもをしめると悪循環になるように、自分たちだけを守ろうとすればほかの人に犠牲を強いることになり、けっきょくは自分に返ってくるものなのだろう。既得権者たちは自分たちの罪悪にいつか気づくことができるのだろうか。踏み台にされた若者たちは彼らの未来の保証でもあるということを。





 ■砂漠のような詩の中で埋もれました。       2006/12/16

 『アンチ・オイディプス(上) 資本主義と分裂症』 ドゥルーズ=ガタリ
 河出文庫 1972 1200e

 


 『アンチ・オイディプス(下) 資本主義と分裂症』 ドゥルーズ=ガタリ
 


 もうだめである(笑)。ほぼわからないながらも最後まで読み切ろうとしたが、下巻の半ばで時間のムダとしてさじを投げることにした。なにをいっているのさっぱりわからない(笑)。まるで詩のようである。

 「欲望機械」とか「器官なき身体」、「大地機械」、「専制君主機械」、「資本主義機械」とかの概念は魅力的である。しかし意味がまったくわからないのなら、電話帳のように読むだけムダである。そもそも私はフロイトのオイディプス・コンプレックスなんて信用していない。なのに「アンチ・オイディプス」なんて読むべきではなかったのかもしれない。

 私の理解できなかった哲学書の一冊として「殿堂入り」に加わることになる。ハイデガーの『存在と時間』、ヘーゲルの『小論理学』、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』などの理解不可能の一冊にならびました(笑)。

 このドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は現代思想の頂点として必読の書とされていた。私は六千円ほどする、偉く威容をほこった単行本をながめては高すぎて買えないなとか、理解できないかもしれないし、興味をもてないかもしれないしと読むのを見送ってきた。こんかい、河出文庫となって出版されたのを衝撃に思って思わず書店で目にしたその日に購入した。しかしやっぱり私には縁遠い本であった。そもそもさいきんは現代思想を読まなくなっていたし、興味もほかのテーマにかかりきりだった。

 内容のほうは「自己同一性批判」らしいが、そのような文脈は詩のような文章からまったく読みとれなかった。独特の詩のなかにぽっと理解できる文章が出てきて、いくらかは赤ラインをひいたのだが、またまた砂漠のような詩の中に埋もれてわからなくなってしまうのである。ただひとつこれはと思ったのはつぎの箇所である。

 「母と妹とは、彼女らが配偶者として禁止される前には存在しないのだ。……これらの名前は、彼らを性的パートナーにすることを禁じる禁制と切り離せないからである」

 ドゥルーズは生涯を閉じるにあたって、病気を苦にアパルトマンから飛び降りたそうである。現代の哲学者は人生の幸福や悟りとは違うテーマを追究して久しい。フランス哲学やドイツ哲学がふつうの人に理解できることはまずないだろう。現代の哲学者がわれわれふつうの人たちの幸福や安心を与えてくれることは、もうないのだろうか。





 ■いい本ではあるが、タイトルはちがう        2006/12/19

 『「普通がいい」という病』 泉谷閑示
 講談社現代新書 2006/10 740e

 


 いい本ではあるが、タイトルから期待していた内容とちがう。「普通がいいという病」と非難しているから、てっきり多数派や大通りをついてゆく生き方を批判する本と思っていたのだが、それはほんのわずかである。

 普通や多数派のみんなと同じ生き方を批判した本ではない。どちらかというと、大通りからそれてこじれた場合どうするかという本である。

 私としては「病」とつけるからには普通や多数派の生き方をもっと批判してほしかった。そのような本は精神科医に期待するものではなくて、哲学者や社会学者の仕事なのだろう。私は多数派の生き方を批判した本として、J.S.ミルの『自由論』やオルテガの『大衆の反逆』、フロムの『自由からの逃走』、またはニーチェの『善悪の彼岸』、あるいはリースマンの『孤独な群集』などにおおいになぐさめられた覚えがある。その系列ならぶ本でないのは残念である。

 いい本である。洞察力もあり、あちこちの箇所には感心することしきりである。これは親や世間に「普通になれ」と押しつけられ、こじれてしまった場合の本である。いわば、「いつわりの仮面」を脱ぎ捨てて、本当の自分になる話である。これはあくまでも「処世術」にすぎないことを知る必要があるわけである。

 ニーチェは人間の成熟過程を駱駝、獅子、小児にたとえた。駱駝は従順さや忍耐などの象徴である。つまり「いつわりの仮面」の状態である。駱駝にうんざりして怒りで自分を確保しはじめたときに獅子となる。そして「あるがまま」に純粋無垢に創造的に生きる小児の存在になってゆくという。

 この本は駱駝でありつづける人や獅子になれない人のための本である。またはみんなと同じ大通りからはずれ、小径で迷った人のための本である。たぶん楽になれるヒントをたくさん見つけられるだろう。

 ひとつ個人的に気にかかることは精神科医は抑圧されたものは無意識に抑えこまれるというモデルをもっているみたいだが、私は心の問題は禅や瞑想の方法で解決できると考えてきたから、つまり心は虚構であり消せば問題は存在しないという方法に体験的な納得を感じてきたから、精神科医の心的モデルは正しいんだろうかと思う。どちらが現実に近いのでしょうか。

 ついでにいってしまえば、心の問題は神秘思想家がいちばん深淵を知っていると思う。精神科医はまだいつわりの仮面のレベルであり、身体や世界との同一化のレベルにはいたっていないし、言葉や観念の楽観的信頼の段階にとどまっている。西洋の心理学が正統的に神秘思想家に学べるような時代はいつくるのだろうかと思う。




GREAT BOOKS

 ■壮絶「非正社員資本主義」              2006/12/23

 『労働ダンピング―雇用の多様化の果てに』 中野麻美
 岩波新書 2006/10 780e

 


 まるで前近代にもどったかのような非正社員の労働条件の悪化がすすんでいる。凄惨「非正社員資本主義」とでもよびたくなる状況である。おおくの人に労働の真実のすがたとして読んでほしい本であるが、法律用語がおおいためにけっして読みやすい本ではないのが残念である。

 派遣やフリーターの値崩れや細切れ雇用がおこっている。正社員の賃金の三分の一でありながら、同じような仕事をしてなおかつフルタイム以上または安いからという理由で超過残業を強いられ、雇用契約が一ヶ月や三ヶ月という期間で区切られる派遣労働。ボーナスもなく、社会保険もない場合も多い。将来の展望もたてられない。

 客室乗務員の時間給制は94年から97年のわずか3年であっという間に全体の4割近くに達した。男性社員の所得を100とすると、男性パートタイムは50ポイント、女性のパートタイムは44ポイントである。このような社員と同じはらたきをして、なおかつ賃金が半分におさえられるとなったら、正社員のおきかえがこれからすすんでゆかないわけがない。

 労働ダンピンクがおこっており、そして労働の商品化や液状化、値崩れや細切れ現象がおこっているのである。派遣労働やパートタイムは近代の労働条件や基本的人権、または社会保障といったものがまったく守られない無法地帯のボートピープルみたいなものである。そんなものが深く世間に浸透しておりながら、大きな問題として社会で論じられることもない。テレビや新聞などの大マスコミはだから信用できない。

 もともと日本の労働条件が守られていたとはとても思われない。年功賃金や終身雇用、社会保険などのサラリーマンの保護項目とされるものは、それとひきかえの長時間労働を要求してきた。つまり人間らしい生き方を否定した上での非人間的な人生の丸売りがもとめられてきたのである。年功賃金のベースアップはたまたま成長経済がつづいたからにすぎない。人生をまるまる会社に売り渡さなければならない生涯が法律や基本的人権によって守られていたとはとても思えない。

 はやくからすすんだ女性のパートタイム化はこのような男性の長時間間勤務の対比として正当化されてきた。しかし現在おこっていることはフルタイムでありながら賃金を半分ほどにされる派遣やフリーター化である。なんの正当な理由もなく、賃金は半分ほどに叩き売りされるのである。しかも正社員と同じそれ以上に働かされるとなったら、常用代替のウマみを企業が味わってゆくのは時間の問題というところまできている。

 著者の中野麻美は労働関係の弁護士みたいだが、働き方を現在の男性モデルを基準にするのではなく、「女性モデル」にしなければならないという。なるほど、まったくそうである。女性はパートタイムのような低賃金、低待遇の差別を味わってきたが、男性も長時間労働の差別も味わってきたのである。これを異常や人権侵害と見なす認識が社会に欠けていた。男性も女性のパートタイムのような短時間労働で一定の給与水準や社会保障が与えられるような社会のなんとマトモなことか。日本の労働者は女性のパートタイム労働を社会の基準目標としてすえるのが理想だと思える。

 しかし日本の雇用条件が法律によって守られることは絶望的だと私は実感している。弁護士や法律は労働者は法律によって守られているというし、学校でも習った。しかし社会の中でそんな格言がすこしでも通用する現場なんてひとつも見たことがない。日本の労働者は犬であり、奴隷である。だれからも守られないし、強くなる拠り所もひとつもない。

 ひどい労働条件に出会っても、おおかたの人は争いや不和を恐れて裁判などの公の場にもちこめずに、じっと耐え忍ぶのがふつうだろう。弁護士や法律の言葉は現場で働く人間にとっては絵に描いた餅のたわ言にしか思えないのである。このスパイラルで落ちてゆく労働ダンピングの中でだれが守られていると思えたことだろう。

 弁護士や法律は労働者は守られたり保護されるべきだという。しかし自分の取り分だけを強引に主張するだけなのはまちがっている。零細企業やつぶれそうな企業にそんなことをいってもムリなように、貧乏な親に高級品をねだってもムリなように、経営側のほうが火の車なのである。

 不況・低成長が15年もつづき、中国や後進国の安い生産力が入ってくる。あきらかに世界の状況が一変し、正社員が賃金上昇を喜べた右肩上がりの昭和という時代は終わったのである。100円ショップで日用品のおおくの品物がとりそろえられる時代になった現在、労働力も値崩れをおこなさないほうがおかしいというものだろう。

 いつまでも賃金上昇の正社員と高福祉国家の夢は描いていられるものではない。パラダイムがすっかり変わったことを認識しつつ、守られるべき新しいものはなにか探ってゆかなければならないのだろう。過去の終わってしまった夢にしがみついてもそれは陸の孤島になるだけである。

 私たちはこの労働の値崩れ・細切れ化がどのようになってゆくのか、しずかに未来の予測をたてておくべきだろう。落ちてゆく大まかな状況を知っておくだけでも、心の余裕は保てるだろう。





 ■2006年のグレート・ブックス8冊         2006/12/29

 ことしのグレート・ブックスに選出された本は8冊です。年間100冊以上よむ私がおおいに感銘をうけた本であり、みなさんにぜひおおすめしたい本ですが、なかにはあまりにもマイブームに走り過ぎた本もあり、おおくの人に普遍的興味を駆り立てられる本とは限りませんのであしからず。

 ことしの読書のテーマはブロックの『不道徳教育』を読んでからリバタリアニズム本を読んでみようとなったのですが、日常や社会を経済学する本はあまり心に響かなかったですね。本田健の『ユダヤ人大富豪の教え』に感銘して金持ち本を何冊か読んだりしましたね。

 ことしの最大のマイブームはレイライン(太陽の道)でした。宮元健次の『神社の系譜』には大阪や奈良に結ばれる神社や山岳の太陽の道が紹介されていました。そのレイラインや古代人の世界観や原始信仰をさぐろうとしたのが、ことしの探究の最大の楽しみでした。読書と探究の楽しみはこのような探索にいちばん秘せられていると思います。

 お正月に読書を楽しみたいと思っている方は興味をひかれた本を読んでみてはいかがでしょうか。


GREAT BOOKS

 『新卒ゼロ社会―増殖する「擬態社員」』 岩間夏樹
 角川oneテーマ21 2005/12 686e
 


 若者は会社のシェルターなんてほしがっていない。強烈に中高年の会社社会を批判しているのだが、いまの社会のムードとして非正社員はかわいそうという風潮になりかかっているから、会社のシェルターは解体されるべきなのか迷ってきた。


 『国保崩壊―ルポルタージュ・見よ!「いのち切り捨て」政策の悲劇を』 矢吹紀人
 あけび書房 2003/5 1700e
 


 国保料のバカ高さは異常である。払えない人は保険証をとりあげられ、医者にかかれない人も続出である。国民皆保険の制度はすでに壊れているのである。月に何万も払って、何年も医者にかからない健康人のアホらしさ。いったい保険制度ってなんなのだろうと思う。だから国家が国民を丸抱えにする福祉制度って矛盾だらけで嫌いだ。平和憲法の自衛隊みたいなものでウソで固めた制度だ。


 『もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安』 アラン・ド・ボトン
 集英社 2004 3200e
 


 いまの世の中は会社で出世したり、金持ちになったり、有名になることを当たり前にめざす社会である。しかしそのステータスはほんとうに私たちを幸福にするのか、もし得られないときの不幸はだれが慰めてくれるのか。私たちはステータスをめざすことより先に、ステータスそのものが問われなければならないのではないか。『もうひとつの愛』とは世間から認められ、愛されることである。私たちはもっと愛されようとして心の傷を偉くなることで打ち消そうとするのである。ステータスをテーマにしたすばらしい本である。


 『「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学』 河野哲也
 NHKブックス 2006/2 1020e
 


 感嘆の声をあげて読みたくなった本。こんにち支配的になっている心理主義を徹底的に批判した本だからだ。心理主義とはなんでもかんでも個人の心の問題に帰せられる考え方のことである。おまえの心が悪いのだ、おまえの心が異常だ、心を直せ、うんぬん。心理学がブームになる時代というのはすべて個人が悪者にされる政治イデオロギーの時代である。心理学の罠に陥っている自分たちの時代を見直せといいたい。心理学の悪弊は徹底的に批判しなければならない。


 『不安型ナショナリズムの時代』 高原 基彰
 洋泉社y新書 06/4 780e
 


 安定した会社社会終焉の宣告の書。流動性の時代がやってくる。「安定した会社勤め」や「まじめなサラリーマン」といったイメージが「落ちこぼれ」や「失敗例」と見なされる時代がやってこなければならない。さもなければ日本は新しい流動性の時代にとり残されるばかりである。新しい世代のための本である。



 『大和の原像―知られざる古代太陽の道』 小川光三
 大和書房 1973/1 1400e
 


 大和に残る古代太陽の道を見つけた発見の書である。奈良の三輪山を中心に伊勢斎宮跡や淡路の伊勢の森にいたる一直線上に神社や山岳が連なるのである。いにしえ人は神の山や神社を冬至や夏至、春分・秋分の太陽のラインで結びつけた。稲作に必要な暦を知ったり、または神と出会うためだったのだろうか。古代の人は太陽の昇るところと沈むところに神の国や死の国を思い描いていたのである。太陽は夕に死に朝に甦る。または冬至に死んで新しく甦る。そして古代の天皇は神と交わり、太陽のように神として甦ろうとしたのである。


 『天照大神と前方後円墳の謎』 大和岩雄
 六興出版 1983/6 1200e(絶版)
 


 レイラインの太陽信仰の内実を知るのにこの本は最適であった。太陽は夕に死に朝に甦り、また冬至に死んで新たに甦る。生命の再生や誕生をつかさどるのは性交や性器である。ゆえに性交は神が甦る神聖な儀式になり、それは神と交わることであり、世界のあちこちに性のシンボルが探し求められることになった。太陽は性交によって生まれ、女陰をかたどる穴から生まれると考えられた。そしてその穴は再生と復活の子宮である。この神聖な場所での性交は神と交わることである。世界中で信仰されていた太陽の神や性と再生の物語がこの本から読めてきそうな気がするのである。


 『労働ダンピング―雇用の多様化の果てに』 中野麻美
 岩波新書 2006/10 780e
 


 賃金や労働条件がバナナの叩き売りみたいに投げ売りされて転がり落ちてゆく現在の労働者。非正社員地帯は治外法権のボートピープルみたいなものである。保護された正社員もうかうかしていられない。賃金が半分や三分の一の非正規におきかえられるのも時間の問題かもしれない。かつて労働者は守られていたが、人生の丸売りをもとめられた。いまは守られない、安く叩かれる、細切れ雇用、と労働者はかつてないほど悲惨な状況に投げ込まれようとしている。とうとうこの国の本性がむき出しになったという感だ。日本人はむかしから国家や会社から守られてこなかったのである。とうとうほんとうの対決の時期がきたのかもしれない。


読書の流れを変えた本3冊

 グレート・ブックスに選ばれませんでしたが、この3冊はそれ以降の読書の流れを変えた本です。同じような本を読みたいと思わせる本はそれだけ魅力的なテーマを内包している本であったわけです。願わくば来年もこのような本に何冊も出会いたいですね。読者や探究の楽しみを啓いてくれる本です。

 『不道徳教育』 ウォルター・ブロック
 

 国家の正義や禁止がその意図とは逆にいかに逆効果をもたらすかの仰天の経済書です。

 『ユダヤ人大富豪の教え』 本田鍵
 

 金持ちとは人に喜びをおおく与えられた人。もらうことばかり考えている人にだれもお金や親切を与えようとしない。ほしければ与えよ。この世の基本ルールなのだろう。

 『神社の系譜』 宮元健次
 

 レイライン探究に火をつけた本。なぜこの場所に神社や聖地があるのかの疑問に答えてくれる本である。





 ■地元に歴史をさがす               2006/12/30

 『日本に残る古代朝鮮 <近畿編>』 段 煕鱗(たん ひりん)
 創元社 1976/2 1700e

 


 自分の育ったところや住んでいるところにどのような歴史があったのか知りたいとむかしから思ってきた。とくに朝鮮的な地名が残っていたり、変わった地名があるとどのような由緒があったんだろうとよく思ったものだ。神社はそのような歴史の結晶でもあるといえる。私は大阪の和泉地方で育ったから、おお、この神社や寺はこんな歴史があったのかと長年の疑問が解けたりした。

 この本では朝鮮の渡来人が痕跡をのこした神社や寺がとりあげられている。難波の都、河内地方、摂津地方、大和地方、平城都、京都市、近江地方がなどの古神社や古仏閣が紹介されている。地元に住んでいる人はこんな歴史があったのかと知ることができるだろう。ただし、古い本で古本屋でしかみつけることができないだろう。

 こうたくさん百済や新羅からやってきた朝鮮渡来人の痕跡をみせられると、はたして原日本人といわれる人たちはどのような活躍や活動をしてきたのだろうかと、影の薄い存在に思えてくる。日本という国は朝鮮渡来人の征服国家だったのかという思いもきざす。あるいは国家という概念まだ発達しておらず、べつに何人であろうと関係なかったのかもしれない。

 著者の段 煕鱗(たん ひりん)はソウルで生まれ、47年渡日留学し、関東から九州まで渡来人の足跡を憑かれたようにたどったそうだ。日本で暮らしてゆく自分と渡来人を重ねたのだろう。かれが問題としたのは現代の韓国人の立場と韓国人の優越感なのか、あるいは同化してゆく渡来人のすがただったのだろうか。古代の歴史とは現在の「私」が欲す物語でもある。





 ■女性の階級競争と転落のはざまで         2006/12/31

 『腐女子化する世界―東池袋のオタク女子たち』 杉浦由美子
 中公新書ラクレ 2006/10 720e

 


 なかなかおもしろい本であった。腐女子というのはボーイズラブに耽溺する女性たちが自嘲的にいいだした言葉で、男オタクの女性版のようなものである。といっても男オタクのようにキモオタではなくて、おしゃれで美人もいるということで、ひとつのイメージにはくくれないということである。

 私にはどうもわからないのだが、どうして女性が主役でないボーイズラブに惹かれるかということである。自分に興味はないのかと、男にために着飾る女性を都合よく求めてきた男視線は思うわけだが、これは海外旅行と似た心理があるようである。非日常の世界に遊ぶことで日常への活力を甦らせる。また性の抑圧もあるのだろう。

 この本でとくに興味を魅かれたのは腐女子のことより、現在の女性がおかれた競争や格差のことであった。もうブランドは恥ずかしい、女性誌のモノサシなんてもういらないという成熟した段階に女性がいるとしたら、うれしいことである。女性は女子校化社会とよばれる競争を『負け犬の遠吠え』のようにずっと煽られてきた存在である。その競争から降りることは「女を捨てている」とか「腐女子」とよばれるわけだが、そんな競争ならさっさと降りて腐女子になったほうが賢明というものである。オタクはファッション的消費社会への反逆である。

 げんざい女性の半数は非正社員になる道しか残されていない。この職種による「階級」をのがれたいがために女性はひきこもり願望といえる専業主婦願望がかつてないほど強まっているのである。短大を出たくらいでは派遣やフリーターの道が決まっており、「いい大学を出て、いい会社に入る」道のみが保護される状態がつづいている。

 正社員の厚すぎる保護が非正社員の増加をもたらしており、解雇できないことがこの格差を広げているのである。典型的な例として産休を利用できる大企業の女性社員は短期のいつクビになるかもしれない非正社員の女性の犠牲のうえになりたっている。非正社員の女性たちは子どもを産むことすら許されないのである。

 スウェーデン型の国家の社会主義が機能しなくなり、アメリカ型の市場原理が社会主義の犠牲の下に増殖をつづけている構図である。つまりは企業は国家の保護を見捨てたのである。労働者はそのふたつのはざまで引き裂かれて同居混在するのが現在のありようである。

 そのような現実から離れるために腐女子は妄想を楽しみ、社会の承認を捨てて、同好の士だけに承認をもとめることをのぞむのである。

 著者には次回作にぜひ女性の競争と格差の現状をメインにした本を期待したいところである。あと、荷宮和子の本を参考文献にあげるのはやめておいたほうがいいだろう。ひどい本を書くライターである。





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