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 ■061003書評集 古代レイライン探索


 ■倫理と格闘した経済思想史           2006/10/3

 『経済の倫理学』 山脇直司
 丸善 2002/9 1900e

 


 なぜ経済や経済学には倫理が不在なのか。経済学は倫理をどのように考えてきたのか。そのような疑問をアリストテレスやトマス・アクィナスから、さいきんのノージックやロールズ、ウォルツアーやマッキンタイアまでカバーしている経済思想史のおトクな一冊である。

 でも教科書的な本って手際よくはまとめられているのだが、ぎゃくに「なんで」という疑問が入りにくい体裁であるのはたしかだ。教科書的な本は「へぇ〜、思想家たちはこのようなことをいっていたのか」と自分の不勉強さやその要点をつかむ技量に自分の認識力の弱さを嘆かせるのだが、それ以降の考察には適さないように思う。考えるための誘引にはならないのである。

 興味深かったことをを羅列すると、ケインズは景気対策にはよいが汚職や談合の倫理面を考慮できなかったこと、マーシャルの貧困対策は所得の再分配ではなくて人々の所得を高めることであったというのは納得する一面、人間はそれのみで生きるわけではないと思った、大河内一男は福祉のための国民総所得増大をめざしたのだが、批判的な経済倫理ははぐくまれなかった、経済学の主流である効率主義・効用主義ベンサム主義は倫理学の不在である、等々。

 スペンサーの進化論は弱肉強食や弱者切捨てを擁護する理論にみえるが、人間の倫理も利己的なものから利他的なものへ進歩すると考えていた、ハクスリーは社会の進歩は最適者生存の自然主義的進化論に逆らうかたちでなしとげられると唱えた、クロポトキンは自然界の最適者は生存競争に打ち勝ったものではなくて、相好扶助の習慣を身につけたものだといった、ノーベル賞のアマルティア・センは生活の質は富裕や効用だけではとらえられない、その人の潜在能力からとらえなおさなければならないといった、レプケはイギリスのベバレッジ報告は画一化や官僚制・管理社会の強化、プロレタリア化をもたらすと警告した、などなど。

 経済学も倫理と格闘してきた歴史を知った。倫理学から経済思想史を見てみるのも、かなり大切な視点だと思った。私たちの時代というのは、経済が重要視され、効率化や効用主義が最大善とされる時代である。しかし人間は経済のみに生きるのではないし、それに求めているのはじつのところ自尊心や名誉であったりするし、また私益のみに生きる生き方を必ずしも最高の人生だとは思っていないだろう。

 経済学が最重要視されるパラダイムがまちがっているのだ。心の時代といって心理学が重要視される流れも浮上したが、たんに心の病気の患者数をふやしただけである。私は社会学にがんばってほしいと思う。社会学が社会の目標や善を見つけるようなパラダイムのほうが賢明ではないかと思う。経済学は貧困の社会には適した学問だろうが、人間の成長や自己実現が求められる豊かな社会では人間の生きがいを強奪する最低な学問だと思う。経済学はみんなの幸せのために凋落してほしいものである。暴論かな?





 ■山に暮らす人たちへの憧憬            2006/10/7

 『山に生きる人びと 日本民衆史 2』  宮本常一
 未来社 1964 2000e

 


 私は山の風景が好きである。山の景色を見ていると、ほっとするし、気持ちが爽やかになるし、人のいない環境もしごく快適なものである。ハイキンクで関西の山を登ったり、バイクで関西の山々をめぐっているうちに、山自体より、奥深い山奥でも村落や人の住む家があったりして、そちらのほうに興味がひかれるようになった。

 「なんでこんなところに住んでいるんだろう」「どうやって暮らしているんだろう」と都会に住んでいる者としては想像が届かないのである。なにより外界や人里からはなれた隔絶した環境で生きるということが、安らかさを思わせるのである。それで宮本常一のこの本を読んだ。

 宮本常一のこの『日本民衆史』はだいぶ間隔があいているが、これで三冊目を読んだことになる。自分の興味の推移は、『生業の歴史』、『海に生きる人びと』、そしてこんかいの『山に生きる人びと』といったように動いてきた。職業をいろいろ考えた時期には日本のむかしの人たちのたくましい生き方に喝采したくなったし、川や海が日本の重要な交通路だったことから、日本の町や村は海や川から発展してきたことが推測された。

 宮本常一は日本各地の人たちの暮らしやありようを集団や地域単位で把握しているのがすごいところである。ここにはこういう人たちがいた、それはここにもあそこにもいたと、東北から信濃、吉野や瀬戸内、九州と、縦横に結びつけてしまうのである。頭の中の地図帳はどのようになっているんだろうと思う。地図を見れば、自分が歩いて見てきた人たちの姿や場所がありありと思い浮かべられるかのようである。

 しかしこの『山に生きる人びと』はすこし興味がひかれるところが少なかったといえる。じっさいに見たり、映像で見たりすることがなかったためにリアリティを感じられないせいだろうか。こういう山の暮らしに興味をもつには、たとえば自分がそういうところで働きたいと思ったり、自分がいったり見たりした地域や場所とゆかりがある興味のリンクがつながらないと、興の乗ったものにはならない。

 すこし内容を紹介しておくことにする。人は塩なしでは生きられないので海と山間は塩の道でつながっていた、山の稜線があまり高低をもっていない地方では尾根道がよく発達しており、吉野から信濃まで里を通らないで歩いていけたそうだ、大阪の天王寺や長柄橋、都島橋に乞食ではなくてサンカの部落があった、木地屋は山七合目以上の木は自由にできるという伝承をもっていた、山の向こうに勝手に住んだ人たちを討伐したり、首をあげたり、皆殺しにした歴史があったりした、不便な山の中で暮らした人たちの中には、主をもたず、主に強いられず、年貢をおさめず、夫役をつとめず、自由に暮らしたいという願いからそこに暮らしたそうであり、山間部には領主のないところもあったそうである。

 山中の生活に自給自足の生活はのぞめず、交易は重要な役割をはたした、山伏の足は強く、山道に慣れていることから荷物運搬の仕事につくことが多かった、焼畑で暮らしている者たちは凶作に弱く、里に下りて物乞いをし、その地域の名のあとに「〜ボイト(乞食)」とつけられた名で呼ばれた、ふつう山の上に住む人は川下から谷をたどって定住したと考えられるが、山の高いところから低いところに定住したことも少なからずあったようである。

 山に暮らす人は狩猟や林業で暮らす人が一般的に思い浮かべられるが、鉄山労働者もおおく、落人村もおおく伝承させられたきたし、修験者や荷物運搬人、また行商人などが往来した。私たちは平地や稲作を中心にした日本人の歴史を主流に考えがちだが、山に暮らした人たちもおおぜいいたのである。山岳民という民族が平地民とはべつにいて、この抗争が日本の歴史をかたちづくってきたという壮大な歴史観を耳にはさんだこともあるが、私たちは平野や稲作の文化を中心に考えすぎなのである。それは都市民の横暴な自己中心主義や傍若無人ではないだろうかと思うのである。


 ▼ちなみにかつて読んだ宮本常一の書評をあげておきたい。

  宮本常一『生業の歴史』 未来社 日本民衆史6 65/2. 2060円 

  

 たくましくも、したたかに生きてきた民衆の生きざま。これぞ日本人の歴史というものだ。学校の歴史の教科書は、政治屋の歴史ではなく、これにすべきだと思う。人々はこういうふうに生きてきたんだなとわかると、なんのためにもならない政治的歴史よりよっぽど生きてゆくための勉強になる。どうやって生きてゆくかということが一般の人々にはもっとも必要な知識なのだ。世間で生きてゆく知恵が身につかないから、われわれはだれもかれもがサラリーマンにならなければならないというバカな生き方しかできないのだ。

 この本では山に生きる人、海を生業にする人、旅のにない手、行商人とか流浪の民、出稼ぎとか職人、乞食などのさまざまな生業がひじょうにわかりやすい文体で書かれていて、ああ、われわれのご先祖さまはこのような生き方をしてきたんだなととても感慨深くなる。

 民衆の生きざま、暮らしの立て方、悲哀がまざまざと目の前に浮かんできそうな秀作である。学校の歴史では民衆なんか存在しないも同然だけど、ここでは懸命に、器用に生きてきた人々の姿が、讃歌を送りたくなるほど、生き生きと描かれている。(99/8/17更新)


 『海に生きる人びと』 宮本常一
 未来社 日本民衆史3 1964 2000e

 


 宮本常一がやろうとしたことは個人や天下人の歴史を描くのではなくて、集団や地域の歴史を描こうとしたのではないかと思う。

 集団や地域を把握することは文献の多い天下人とちがって、文献も少ないし、それも散らばっているし、空間的にもかなり隔たっており、ひたすらたいへんな作業だったと思うのである。よくこんな集団や地域をひとくくりにした歴史が描けたものだと感嘆するのである。地域が主役の全国史をつかみとるなんてそうだれもができるものではない。

 この本では海人の活動が地域や地名を主役に通史として語られていて、よくこんな作業ができたものだと思う。日本人の歴史の教科書はこの宮本常一の民衆史にすべきである。

 海人というのは船があればべつに陸に定住する必要はないのだからなかなか定住しなかったようである。現在のわれわれとは発想がまったく違っていたのを知った。定住は塩焼きや田畑の耕作からようやくはじまったようである。

 海人は魚が取れない季節や海が荒れる冬などの漁閑期には船で行商をしたりして、しだいに海運をになってゆくようになる。漁神のエビス神が商業の神になってゆく経緯と対応しているといえる。海人は菱垣廻船や北前船などの繁栄とともにたいそう富を蓄積したことだろう。

 交通の主役が船から鉄道に変わったとき、かれらは商人として陸に上ったのだろうか、それとも漁師に帰っていったのだろうか。漁船が海運の役目を失い、漁業だけの船になったとき、各地の港も漁業だけの港に帰っていったのである。(2004/10/11)


  宮本常一『忘れられた日本人』 岩波文庫 60/2. 560円

 

 歴史の舞台に現れることのないふつうの民衆の生き方を表わした本である。

 わたしがこのような民衆の生き方を知りたくなったのはたぶん、山に登ったりして、山里や田舎の村を見る機会が増えたからだろう。四方を住宅に囲まれた都会に住むわたしには、山々に囲まれたかれらの暮らしが皆目見当もつかないのである。かれらはどのように生きてきたのかと興味をもつようになったのである。それは時間の歴史を溯ることでもある。

 間抜けでところどころ笑えるところがあるふつうの民衆たちの生き方が語られているわけだが、やはりいまは橋の下の乞食となった土佐源氏の牛と女の話はとても印象深かった。

 ほかに村の道が切り開かれたら村のカカが人夫と消えたとか、夜這いは娘が親と違い、台所に寝ているから「仕事」がしやすいといったり、旅の途中に娘をもろうてくれとかいわれたり、朝鮮へ漁に行くときは朝鮮人の格好をしたり、と思わず吹き出してしまうエピソードがまじめな行間のなかにいくつかはさまれていた。けっこう自由で、奔放な生き方をした民衆の姿がうかんでくる。(99/8/17更新)


  宮本常一『庶民の発見』 講談社学術文庫 76/2. 1000円

  

 かつての農民は支配者から搾取されて、差別され、貧困であったという見方というのは、あまり信じないほうがいいのかもしれない。現代のわれわれから見るとそう見えるだけであって、当の本人たちは貧乏をそんなに苦にしたわけではないし、不自由を感じていたわけではないようだ。そんなひがんだ目を植えつけられたわれわれがいちばん不幸なのかもしれない。貧困や差別を怖れて逃げまくるエネルギーにわれわれは人生のすべてを費やしてしまっている。(99/8/17更新)


  宮本常一『絵巻物に見る日本庶民生活誌』 中公新書 81/3. 700円

 絵巻物に見る日本庶民生活誌

 絵巻物から庶民の生活を語ったものであるが、あまりよくなかった。人生とか生きざまといった物語りが読みこめなかったからかもしれない。(99/8/17更新)


 『日本残酷物語〈1〉 貧しき人々のむれ』 宮本常一・山本周五郎=監修監修 平凡社ライブラリー 59/11. 1359e

 


 いまの豊かな社会が日本の常識ではなく、この本に描かれているような貧しい時代がずっと日本のスタンダードだったということに改めて気づかされる。

 掠奪、飢饉、乞食、風土病、間引き、姥捨てなどの貧しい日本のエピソードがたくさん語られている。しかし私はこれを残酷や貧困だけの一言だけでは片づけたくないと思う。

 これこそが人生だと思う。飢えたり、病気にかかったり、野垂れ死んだり、これが生き物たる人間に課せられた運命だと思う。悲惨の一言で必死に逃げようとしても、こんどはぎゃくにそれが人間本性の拘束や束縛に転化してしまうのだ。

 だからこの『貧しき人々のむれ』はある意味では人生の自然な教科書のようなものだ。たっぷりと学ぶものがあると思う。そしてもしこれから経済がどこまでも下り坂を転げ落ちるようになったら、人生の覚悟の書としても味わうことができるのだと思う。(2001/10/6更新)





 ■おもしろくない。                    2006/10/8

 『名山へのまなざし』 齋藤潮
 講談社現代新書 2006/7 740e

 


 カシミール(三次元地形CGソフト)や地図をふんだんにもちいていて、おもしろいかなと思ったが、私にはほとんど興味の魅かれる内容の本ではなかった。

 山のどのような見え方がいちばん神や仏として見られてきたのかといったことを、カシミールでさまざまな地点から探ってみるプロセスは楽しいかもしれない。三輪山や比叡山、伊吹山などちょっと興味が魅かれる。だけど、山がいちばん先鋭的に見える角度に神社や鳥居があったとしても、それを探り当てることにそんなに意味があることなのかどうかと思う。おもろしくない。カシミールで探り当てる、重箱の隅をつつくだけのプロセスを楽しんでいるだけの本に思える。

 いったい山の見える角度から何が見えるのかと思って読みすすめても、なにもない。山はどの地点から見るといちばん美しいのかと微妙な楽しみをもっている人にはおもしろいかもしれないが、私には美しさと神仏がどう結びつくのかをもっと論じてほしかったと思う。山の角度の美しさを楽しめる人ってけっこういるんでしょうか。残念。

 ちなみに私はカシミールをダウンロードをしたことがあるが、まったく使いこなせなかった。このソフトでつぎのような画像がつくれるらしい。(伊豆半島より富士・箱根)

 





 ■「太陽の道」マイブーム              2006/10/9

 『神社配置から古代史を読む』 三橋一夫
 六興出版 1986 1200e(絶版)

 

 宮元健次『神社の系譜』(文春新書)を読んでがぜん興味をもった「太陽の道」。秋分、春分の日の出と日没ラインに神社や神体山がならぶラインのことである。この説は1973年に小川光三『大和の原像 知られざる古代太陽の道』によって唱えられ、1980年に水谷慶一がNHKでとりあげ(『知られざる古代』)、ひとしきりブームがあったようだ。

 その後ブームがどうなったかしらないが、メガ書店で探してもそういう関係の本はいまいち見つからない。この本は古本屋でみつけた。(絶版。小川光三の本も絶版になっている。) なんかやたら三角形の図が並ぶ本であるが、太陽の道延長線上にある本かなと思う。宮元健次の本には参考文献があげられておらず、せっかくマイブームに火をつけた本なのにかなり惜しい話である。

 さて、この本では神社や寺に三角形がひかれている。その三角形をいくつも結びつければ、鎖式や放射式、点在式があり、それぞれは出雲族、安曇族、住吉族ではないかと唱えておられる。その形態の分布図を日本地図でみてみると、それぞれの族がどこに分布し、どのように地域に入りこんできたかわかるということである。興味深い分布図である。

 しかし私にはなんの意味もなく三角形の向きがばらばらにおかれているように見えて、あまり三角形である必要はないように感じられた。三角形である根拠が薄いのである。しっちゃかめっちゃかにおかれているようにしか感じられない。だけどその三角形をならべれば、法則性があるということだが。この三角形はなにか自然暦と関係あるのか、それとも風水とかに関係があるのか、なぜそのような三角形を作成する必然性があったのか、ここらへんをしっかりしてくれないと、つぎの論にも乗れない。

 太陽の道にかんして有益な情報があった。太陽の道には冬至線が重要なのだが、その理由は、もっとも若い太陽が新しく生まれてくるのは冬至だからということだ。ここで日女は太陽と交わって太陽の子を生む。これは天皇の即位式の儀礼でも象徴的におこなわれているらしい。この本の著者はその場所が正三角形がおり重なった地点にもとめられるという。

 稲作民にとって季節を知ることは重要なことである。ある観測点からどの方位や山から日の出が見られるかによって季節および田植や稲狩の時期を読みとることは死活問題ともいえる。漁民が漁場や場所を探るために山によって「山あて」したように、農民も山や太陽の場所によって季節の節目を読みとったのだろう。太陽信仰というよりか、カレンダーや農事暦に近いといえる。「日知り=聖」という知識は権力とどう関わってきたのだろうか。それが神社や寺の配置にいまも残存しているということである。

 太陽の道についてはもうすこし探ってみたいと思う。われわれが住む地域にそのような知識が刻印されており、そしてその知識の痕跡が、神社や神々、または岩や死者の国などの信仰につながってくるからである。けっこう古代の人の世界観がいもずる式に出てきそうなキーポイントという感じがする。楽しみがつづきそうである。

 ▼著者の類似本です。
 三天法による神社配置の考察―「聖三角形」が語る古代史の謎 三橋一夫





 ■東方の不老不死の国                2006/10/11

 『天照の謎と正体』 楠戸義昭
 学研M文庫 2005/12 590e

 


 なぜ日本の最高の神が伊勢神宮の天照大神なのか、いまどきなぜ太陽神が最高神なのか、まったくぴんとこなかったが、秋分・春分の「太陽の道」に古神社がならぶのを知ってからなんとなくわかるようになった。

 農業や生命の豊穣をもたらすのは太陽であり、かつての人たちは太陽の日の出と日没に農事暦を知ることができたし、その日がのぼったり、沈んだりするところに生命の死と再生を、またはあの世や不老不死の世界を見てきたのである。神霊の世界にとっては要のようなものである。太陽が最高神と崇められる理由がわかるというものである。

 私の今のところの興味は太陽の道や日光にかかわる配置を地図上に認めることである。そのような配置に古代の人たちが太陽神にこめた荘厳な気持ちが垣間見えそうな気がするのである。

 この本はそのような興味から読まれたので、地理上のことを追究したわけではないのでさして感慨はない。天照の神話にはやはり太陽の暗喩と思われる神話がたくさんちりばらめられている。天照の姿に古代の人が崇めた太陽神が見えてくるというものである。

 道教では、太陽の昇る東方には不老不死の国があると信じられていた。その方角がすべての中心であり、太陽が不滅のように、日の出の根源の地は絶対に死ぬことのない不老不死の国であったのである。奈良に都をおいた人たちがその東方の三輪山に神を、また春分・冬至のレイラインに長谷寺や室生寺、またさいしょに天照大神が祭られたとされる伊勢斎王宮が布置されたのを見ると、かれらが東方にこめた気持ちというものが見えてくるというものである。地図上に見ることのできるその痕跡は、古代人の思いを立ち上がらせるかのようである。





 ■夕に死に、朝によみがえる太陽           2006/10/15

 『原初の太陽神と固有暦』 吉村貞司
 六興出版 1984 1300e


 

 私のいまの興味のストライク・ゾーンにあたる本だが、読後感はいまいちかな。読み終わって、肝心の太陽信仰にこめられた意味がまたもやつかみかねたという感じだ。

 私が「太陽の道」について知りたいことはおそらくつぎのふたつがあげられると思う。ひとつは太陽信仰の世界観とはどのようなものなのか。もうひとつは地図の上に太陽神の要所をさぐりあてることである。

 この本で語られるのがみごとに私が行ける郷土の範囲なので、これにはがぜん興味がわいた。私は子どものころから自分の住んでいる土地の古い地名はどのような由来があるのかと知りたいと思ってきた。ここ大阪と奈良はそういう古代史の宝庫である。近くに住んでいない人には興味がわきにくい話題かもしれないが、古代史としてはシェアできるかもしれないね。(狭いパトリオティズム(郷土愛)でごめんなさいね。ナショナリズムの原郷としてシェアできるのかな)

 あげられている地名が生駒山麓の日下(くさか)、奈良の春日神社、四天王寺の日没、そして住吉の浦島、住吉と高安山などであり、興味をひかれるポイントばかりである。

 とくに雄略天皇が日に背向いて求婚したのはよくないこととしたところと、神武東征のとき日に向かって闘ったために苦戦したところは、同じ生駒山麓の日下である。太陽信仰にとって聖なる場所であったことがうかがわれるのである。そしてこのラインを東西に引けば、東に奈良の春日神社、西に大阪城、かつては石山本願寺、または饒速日命(にぎはやひみこ)が舞い降りたとされる磐船神社があったのである。太陽の道に関わりがあるのはまちがいない。

 住吉大社はかつては海に面して建てられていたが、四天王寺と同じく西方の海に沈む太陽に浄土を思い浮かべられていたのだろう。そしてこのラインを西に引けば、高安山、竜田神社、最古の法隆寺とつながってゆくのである。そして住吉大社から夏至・冬至線を引けば、日下につきあたることになる。

 古代人やわれわれの現在の土地の配列というのは、太陽信仰とおおいに関わりがあると思われるのである。そして日本神話においてもイザナギが死の国を訪問したり、天照大神が天の岩戸にかくれたり、神武が混乱した奈良をしずめるのも、すべて太陽が弱まったときの話だと読めるのである。太陽は冬に死ぬ。よみがえらせるために祈りや儀式がおこなわれなければならない。太陽の線はこうやって作製されていったのではないだろうか。

 あと、いまひとつ腑に落ちないのが、太陽信仰の内実はどのようなものだったのかということだ。いくら神社や神体山が太陽の線にならぶといっても、その世界観や実感がほとんどなともなわないのである。太陽は夕に死に、朝にはよみがえったから、人間の死と再生のモデルであったのだろうか。この内面の線からもうすこし迫らないと、私の気持ちは納得できないのである。

 そういえば、朝の通勤の途中に朝日に毎日拝むおばあちゃんを見たことがある。正月の初日の出を山の頂上で見たり、伊勢にいったりする人たちもたくさんいたりする。太陽信仰はわれわれのなかにみゃくみゃくと生き残っているといえるのかもしれない。日本の日の丸の国旗もずばり太陽であるしね。地図の上に太陽信仰の設計図が読めることは、古代人の息吹き、あるいは知能が感じられそうな気がするのである。

 なお、この本の出版社の六興出版は「太陽の道」研究に力を入れていたみたいだが、バブルの不動産投機で倒産したみたいである。アマゾンですら本のリストにない(のちに発見)。「太陽の道」ブームはいずこへ? 歴史に強い古本屋で朝日選書や新潮選書にちかい背で見つけられるかも。





 ■ヨーロッパにもあったレイライン            2006/10/17

 『風水先生レイラインを行く』 荒俣宏コレクション2
 集英社文庫 1997/12 686e

 


 世界のレイラインをとりあげているのだが、あまり心躍るものがないと思ったら、私はイギリスやヨーロッパの聖なる場所というものをよく知らないことに気づいた。どこがどのように聖なる地点であり、どのように神秘的で、荘厳なのかわからなかったら、それが直線でひかれていようが、あまり興味のひくものにならない。

 イギリスには夏至の方向にたどれば古い聖地が結びつけられる「聖マイケル・ラインがあり、そしてその南西端からはいくつかのフランスの聖堂をとおり、ギリシャのデルフォイやアテナイ、ロードス島、カルメル山へといたる一直線がひかれるという。

 
 レイラインに位置するエイヴベリーの巨石群とフランスのモン・サンミシェル

 

 これらが太陽と関わりがあることは上の写真のアイルランドのニューグレンジからもわかる。冬至の日に、太陽の光が天窓から射しこんで奥の石室に届くというのである。太陽が死ぬ日に太陽神が再生するいうわけである。

 レイラインの聖地にはしばしば巨岩が鎮座しているが、なぜ聖地には巨岩が必要なのだろう。荒俣宏がいうには、そこは「神がかり」をしやすい場所であったからだそうだ。シャーマンは神かがりをして、神や異界と交信したのである。巨岩はこの世とあの世を結びつける境界だったのである。そしてそこはこの世の生命の根源である太陽と出会う場所でもあったのである。

 太陽を聖なる神として崇める信仰は世界中にあったようである。あるいは季節を知る重要な羅針盤を地形に見ただけかもしれない。世界各地に残される巨石文明や巨石信仰はそのような太陽の時代の痕跡だったと思えるのである。

 レイラインは探せば日本中の神社や聖地にそのラインを見つけられるように、私たちの身近な場所にもまだまだ多くの痕跡を見つけられる古代の知識である。私たちはレイラインの存在によって、理解不能に思えた古代人の心が身近に感じられるように思わないだろうか。




GREAT BOOKS

 ■「太陽の道」原点の本。                2006/10/24

 『大和の原像―知られざる古代太陽の道』 小川光三
 大和書房 1973/1 1400e

 


 太陽の道を先駆的に紹介した本だけあって、さすがにおもしろい。やはり原点になった本は読むべきである。

 小川光三という人はカメラマンで、奈良の文化遺産を撮るために古代人の心に近づこうとして、この太陽の道に気づいたそうである。出版は1973年で、1980年にNHKの番組として紹介されたそうだが、その後どうなったか私は知らない。

 オカルト好きなTVが好みそうな話題なのだが、私はとんと聞いたことがない。げんざいはこの本は絶版になっており、アマゾンの古本は三千とか五千の高値がついているみたいだが、町の古本屋で見つけたら半額で売っている。私は奈良町の古本屋で見つけた。太陽の道って古代人の世界観の展望がいっきょに開けると思うのだが。文庫にするにはあまりにもアカデミックではないのか。

 意外に思ったのは太陽の道が三輪山や二上山、長谷寺、室生寺のラインではなく、もっとマイナーな桧原神社や天神山、穴虫峠のラインがとりあげられていることである。そして三輪山よりその北側にある斎槻岳(ゆづきがたけ)に焦点があてられていて、それはたしかに崇神陵と箸墓の向かい合った先にあるのだからわかるのだが、さらにはその先の初瀬山や都祁(つげ)村にいたり、ここが邪馬台国だといいだすあたりにくると、古代人の空間計画の解読からはエスケープしすぎだと思った。とうじは邪馬台国論争がさかんな時代だったのだろう。

 ▼思わず駆けめぐった三輪山周辺の写真です。
  桧原神社より二上山をながめる(直線的には穴虫峠)。
  三輪山のなだらかな山容
  垂仁天皇珠城宮跡

 崇神天皇の御名は「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)というが、「尊い天二上の二つの峰間に入る夕日を見て、美しい玉で五十日程数え、稲の種蒔きをさせる天皇」となるらしい。つまり古墳や神社、神奈備山というのはこの天皇の名前のような農事暦の役割を果たしていたらしい。神社にあるしめ縄は冬至や秋分を測る目印ではなかったかということである。日を読み、季節を知らせた人が権力をになったのである。巫女や宗教といった神かがり的なものではなくて、じつに実用的な用途から神社や権力者は生まれたのではないだろうか。

 奈良の夕陽が沈むところは二上山あたりだが、その北側に「穴虫峠」という変な名前の地名がある。万葉集に「大穴道(おおなむち)」と読まれており、小川はそれは大己貴(おおなむち)命、つまり大国主命ではないかといっている。古代の人たちは西海に大穴があり、太陽は夜この穴を通って、ふたたび東からあらわれると信じていた。げんざいの穴虫峠はそんな古代の世界観をいまに刻印しているということである。

 太陽の道というのは古代の人たちの世界観を空間的に描いたものである。その向きや配列を読むことによって、古代人の思いや願いが読めてくるのである。これはおもしろいと思う。私の古代史の興味ももともとは地理的なものである。そしてこれを探ることは知識探究の醍醐味も味わわせてくれるのである。ただ残念なことはげんざい太陽の道研究はどうも廃れているようなのである。どのような経緯があったのだろうか。超古代文明とかオカルト神秘主義ゾーンに入っていってしまったのだろうか。私は科学者ではないから、知の楽しみを味わせてくれるのならなんだってOK(笑)。





 ■鉱脈発見の楽しみ                2006/10/28

 『知られざる古代―謎の北緯34度32分をゆく』 水谷慶一
 日本放送出版協会 1980/2 1300e(絶版)

 


 小川光三の古代「太陽の道」説をうけて1980年にNHKでテレビ番組がつくられたそうだ。ぜひ見てみたいものだが、この本はそのときの単行本化である。

 ドキュメンタリー・タッチの本になっている。ディレクターである著者は小川光三の話を聞き、地形図を何枚も買い込み、TVの企画を通し、太陽の道を実地にいくつも踏破してゆく様が順を追って描かれている。

 発見する楽しみ、鉱脈を探り出す喜びがいっしょに味わえる本になっているわけだ。太陽の道の探索にはそういう発見の楽しみがある。この本はその発見の楽しみの段階の本で、古代人の太陽信仰の世界観がどのようなものであるかといった探索の深みには達していないように思われた。といっても太陽信仰の痕跡をいくつも見い出すことはそのままその世界観の表示につながるものであるが。

 やっぱり専門家の本ではないなとか思ったり、弓矢に太陽信仰の関係を見い出したところには感銘したり(地名にあるイクハという名は古語で的の意味)、古代の測量法をためしてみるあたりなんかさすがディレクターの方法だと思ったり(その先にはすでに大日の石碑が立っていた)、淡路島にいってみるとヒキ野、 ヒキ浦といった日置部にかかわりのある地名を見つけたのはうれしかっただろうと思ったり、太陽の道発見のドキュメンタリーを追体験できる本である。でも鉱脈は発見しても掘らなければ意味がない。

 太陽の道探索にはその線上に古代遺跡や何かを見つける楽しみがあるだろう。地図上に線や三角形をいくつも記してそのつながりの驚きに浸る人もいるだろうけど、やはり太陽の道はその古代人の太陽の世界観を提示すべきである。その世界観を再現できなければ、これはたんなる宝探しのおもしろさだけで終わってしまう。太陽崇拝と祖先崇拝がどうして平行するのかなどといった世界観の説明がほしいところである。

 私の興味は巨岩信仰のほうになぜか魅かれる。太陽信仰と巨岩の磐座がどうしてつながるのか解せないのである。また太陽信仰にかかわりのある神社や遺跡にもいってみたい。それとやはり太陽の死と再生がどうして人間の霊の死と再生につながってくるのかといった世界観も探ってみたいと思っている。だけどその後の太陽の道研究はなぜか廃れているようである。古代人の神観念の発生がわかりそうな領域だと思うんだけどな。学問はこの奇妙すぎる符合を学問的実証性に耐えられないと判断したのだろうか。

 さいごにどうでもいい話だが、私の祖母は太陽の道線上である堺の日置荘に住んでいて、私は子どものころに大鳥大社にセミをとりにいっていたし、私は淡路や高安山に影が届いたという巨木があったといわれる高石の富木の近くに住んでいた。私はレイラインに関係していたのであり、私の興味とはこのようなもので火がつくのである(笑)。子どものころに郷土の古い歴史にロマンを感じた延長にある興味なのである。





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