■もらうこと、奪うことばかり考えてないか。 2006/6/21
『ユダヤ人大富豪の教え』 本田鍵
だいわ文庫 2003/7 648e
ふたつの目的で読まれた。金儲けは汚いことだと思われているが、人に喜びを与える利他行為ではないのかといった考えの検討と、たんじゅんに私もお金が必要だから大富豪はどんな考え方をしているのかといった興味からだ。どうも私は金儲けを悪者に捉えすぎている。金儲け観を検討したくなった。
ショックのあまりしばらく本を閉じてうなった一節があった。
「給料をもらう人間は働いている時間が退屈なので、その時間が早く過ぎないかだけを考えている。普通の人は、『人からもらえるもの』にしか興味がないのだ。だから金持ちになれない。
一方、スターと呼ばれる人たちや、事業で成功している人たちは、その仕事を辞めるのが難しいくらい、自分の仕事を愛している。〜言ってみれば、与えることばかり考えているといえるだろう」
「花が好きな店の主人は、自分の大好きな花で、お客さんをどのように喜ばせようかと考えている。余分にサービスしようとか、きれいにラッピングしてあげようとか、お客が喜ぶサービスを無限に思いつく。お客にいかにたくさん与えられるかを考える。
一方、利益ばかり考えている花屋は、その逆をやる。一本サービスするなんて、とんでもない。ラッピングするときは有料にして利益を出そう。もっとたくさん客に花を買わせてやろうと、客から奪うことばかり考える。どちらの花屋で花を買いたいかね?」
「金持ちは多くの人に喜びを与えるから、金持ちになったのだ」ということである。私たちは金持ちを人から奪ったり、だましたりして儲けたと考える。金儲けを汚くて、醜い、悪いことだと捉える。だけど金持ちになった人は客に喜びを与えたからこそ、お客は多くの金をかれに払ったのである。だれもほしくないものなんかに金を払わないだろう。われわれはどうしてこのような金の利他的側面をみないで、利己的側面をみるのだろう?
それは自分自身の姿をみているにほかならないからではないだろうか。もらうことや、奪うことばかり考えている自分自身の姿が投影されているだけではないのか。自分がそんな人間だから、金持ちもそんなふうにしかみえないのだ。自分自身が人からもらうことばかり考えて、人に与えようなんてちっとも思ってないからではないのか。貨幣社会では人に多く与えた者が多くうけとるようになっている。金持ちはほんとうに悪徳商人なのか。日本人の金儲け観を検討したくなった。
この本は本田青年がアメリカで出会ったユダヤ人大富豪に幸せな金持ちになる方法を教えてもらう小説風の自己啓発書である。これは金持ちになるための方法論でもあるが、ほとんど精神世界に近いけど、もっと現実的な言説が語られている。金を稼ぐことは人生でもあり、また幸福論と同じでもあると教えてくれる。うん、まったく幸福論だ。ビジネスとはまったく人生にほかならないのである。成功の落とし穴についてもいろいろ教えてくれる。私はこの物語がどれだけ実話なのか気になりつづけたが。
悪くいうつもりはないけど、お金持ちになる自己啓発書って精神世界が混入しているものである。ナポレオン・ヒルとか船井幸雄とか書店に並ぶ自己啓発書は金儲けと精神世界がいっしょくたになっているものである。なぜ金儲けは精神世界に結びつきやすいのだろう。金儲けは人生と同じで科学的実証で測れるものではない未知数のものを多くふくみ、占いや怪しい世界に近いからだろうか。信念が強く必要になる世界からかもしれない。
私は自己啓発書は読んだほうがいいと思っている。ポジティヴやプラスになる考え方を知るというのは、ほんと役に立つ。人は放っておいたら、悪いほうへ、マイナスのほうへばかり、思考が固着してしまうようだからだ。凝り固まった思考の風通しをよくするために、自己啓発書は新たな発見と驚きをもたらしてくれる。もちろん健全な猜疑心もともにもってゆく必要もあるのはいうまでもないことだけど。
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