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 ■060508書評集


 ■かなりわかりやすい本。             2006/5/8

 『ケインズの予言――幻想のグローバル資本主義(下)』 佐伯啓思
 PHP新書 1999/7 660e

 


 かなりわかりやすく説明してくれる本である。その論理のつなげ方には納得のし通しである。

 ケインズはなぜげんざい不人気である公共事業などによって有効需要を増大させようとしたのか、当時の時代背景や貨幣とは何かといったことから説明し、なぜ国民経済主義者(エコノミック・ナショナリスト)に変貌していったのか、といったことなどを説得性のある論理で展開してくれる。

 イギリス経済の不況の原因は海外投資の過剰にあると見て、国民の産業や生活を向上させるためには国内投資つまり公共事業が必要だと説いたようである。投資家の利益は国内であろうと海外であろうと関係ない。しかしそれは国民生活の安定にはならない。だから国内の需要を政府が増やすべきだと考えたようである。

 この金融と産業の対立はげんざいでもつづいていて、グローバリズムの時代には資本は短期的な利益をもとめて世界中をかけめぐる。おかげで国内の産業や経済は長期的な展望を持てずに短期利益に支配されることになる。金融はわれわれの生活を破壊してしまうということだ。

 ケインズの予言というのは絶対的な貧困が去り、ありあまる消費物資の中で過剰な生産能力をどうするのか、人びとはいかに経済を運営するのかということであった。豊かさゆえの停滞というものだ。つまりほしいモノがなくなれば、つくるモノがなくなり、雇用がなくなってしまうということだ。そのときに人はどうやって生計の糧を得るのか。

 というようなことをこの本ではいっているように私には思えたのだが、こんなまとめ方でいいのだろうか。グローバルな市場の力に任せていたら、国民の生活や経済は破壊されてゆくばかりだということだろう。といっても公共事業はもう悪と腐敗のなにものでもないし、これ以上の消費の欲望も喚起されるわけでもない。需要と雇用が人為的につくられなければならないということなのだろうか、公共事業ではないやり方で。

 なお、上巻の『アダム・スミスの誤算』は99年の夏に読んでいる。自由主義のアダム・スミスは読む気がしても、ケインズなんて読む気がまったくしなかった。反対意見にも耳を貸すべきだと思ってこの本を読む気になった。7年かかって下巻は読まれたわけだ。





 ■善き意図は有害な結末を招来する       2006/5/13

 『経済学で現代社会を読む』 ロジャー・ミラー ダニエル・ペンジャミン ダグラス・ノース
 日本経済新聞社 1993 2300e

 


 なかなか魅力的な本だった。私が経済学にもとめているのはこのような本だったかもしれない。ただし巻末の解説編約100ページほどはむずかしすぎて読めた代物ではない。

 経済政策や社会背策が市場にどのような結果をもたらすのかということだ。この本によると、「善き意図というのは、しばしば予期せざる、そしてあまりにもしばしば有害な結末を招来するという教訓である」。またはこうもいっている。「まさしく、犯罪の防止が犯罪の原因になるのである」

 政府がやっていることはいつも悪い結果をもたらしてしまう。善き意図とぎゃくの結果、またはほかの不測の悪い結末をももたらすのである。そういう2500年前の老荘からいわれていて、ハイエクやミルトン・フリードマンを介した思想を、じっさいの経済市場において見せてほしかったのである。つまり経済政策の失敗である。あるいは「情けは人にためにならず」である。

 この本では章のタイトルをあげると、「犯罪防止の経済学」や「売春、酒、麻薬禁止法の経済学」、「農業保護の不経済学」「高医療費の経済学」「家賃規制の経済学」「カルテルの経済学」「航空規制撤廃の経済学」「高齢化の経済学」「福祉の経済学」「住宅規制の政治不経済学」「保護主義の負経済学」などがとりあげられている。

 売春を減らすコストは暴行や強盗の増加だった、農産物の余剰は政府の最低価格の設定による、医療保険は保険者にも医者にもふつうの金銭感覚を失わせてしまう、カルテルはわずかな低価格で収入の増大を狙えるのですぐに抜け駆けされる、金融機関の損失を政府がカバーするようになって投機的な失敗も許されるようになった、年金と医療保険は高齢者の生活レベルを上げたが母子家庭の貧困層をうみだした、空気は皆の所有物と考えられるからだれの所有物でもないとの前提で人は行動してしまう、貿易保護は犠牲のコストのほうが大きい、など経済のからくりを垣間見せてくれる。

 経済のからくりというのは政府や人為による規制や設定をはねかえしたり、はばんだりする。価格が落ちたものを上げることはできないし、ほかの犠牲やコストを強いるだけであり、禁止されたものは価格や価値をあげてしまうのである。私はこのような市場原理を社会学的な目線で理解したいと思うのである。

 同じような本としてデイビッド・フリードマンの『日常の経済学』は難しすぎて理解を超えていたが、こちらのほうの本はだいぶ理解がたやすかった。もうすこし類書を読んでみようかと思う。





 ■企業は搾取するという考え方。           2006/5/21

 『インビジブルハート―恋におちた経済学者』 ラッセル・ロバーツ
 日本評論社 2001 1600e

 


 こういう本を読むのは珍しいかもしれない。つまり企業や経済活動を、悪や搾取と見る捉え方を訂正している点である。

 ビジネスや企業は貪欲で冷酷で、人を容赦なく切り捨て、労働者を搾取するものだとわれわれの多くはとらえているのではないだろうか。どうもそういう見解はハリウッド映画やディケンズの小説などから得られたみたいである。もちろんマルクスーエンゲルスの経済観もあるだろう。つまり社会主義や福祉主義が資本主義を悪者に仕立てた。

 ぎゃくにこの本で主張されていることはビジネスのほうこそが善良な奉仕を求められるということである。人がイメージするビジネスは客をカモにしたり、搾取したりするものであったりするが、そんなことをしていればいずれ客を大量に失う。

 ビジネスは私利私欲と競争のために顧客に満足や利便をもたらす。それは愛情や慈愛、慈善から発する心よりもっとよい結果を相手に届ける。悪いサービスを届ければ、市場からはそっぽを向かれるからだ。人間の道徳というのは私利私欲から発するほうがよい効果をもたらすようである。それが利他行為の本質だからかもしれない。市場はこの力を利用するのである。

 ぎゃくに正義のために規制や保護がおこなわれると、労働者の賃金低下や雇用機会の減少、たまは物価の増加にはねかえってしまう。良いことをするためにはだれかが費用を支払わなければならない。無料のランチやコストなし・犠牲なしの善行などないのである。それはだれが負担を負うことになるのか。けっきょくその救おうとした人たちにコストを押しつけられるのである。また政府は人びとの自発的な寄付や、個人の責任としての善行を奪ってしまう。どうも慈善や慈愛は政府の代行によっておこなわれるべきものではないようである。

 この本は自由主義者の経済学者と政府は市民を守るべきだと考える文学者の女性教師との議論を中心とした小説である。自由主義か、福祉主義のどちらがいいのか、論争しあった本というのは意外に見当たらないので、この本は価値あるものだった。この関係を図式的に理解する必要があると思った。

 いまは政府の規制や慈善の失敗を目の当たりにしている時代である。そして国家による社会主義の崩壊も経験した。市場の力にまかせつつ、政府によるものではない、民間による福祉が必要になってくる時代ではないのだろうかと思う。もう政府の時代ではないのである。





 ■『香水ジルバ』は最高だったけど。        2006/5/28

 『カウガール・ブルース』 トム ロビンズ
 集英社 1976 2000e

 


 トム・ロビンズの『香水ジルバ』は読み終えるのが惜しいくらい楽しんで読めた。それから十数年、たぶん私は小説や物語に価値や熱中をいぜんのようにもてなくなったのだろう。二段組のぶあついこの本は半分以上読んだところでもうギブ・アップすることにした。

 おもしろい比喩は卓越したものがある。たぶん村上春樹もこの比喩には学んだのかもしれない。トム・ロビンズはアメリカでは読者から愛される作家であるらしいが、日本では『香水ジルバ』以降なかなか翻訳が出なかった。こんなにおもしろい作家なのになぜだろうと私にはふしぎだった。本作は映画化をきっかけに94年にようやく翻訳された。そのあとロビンズの本が翻訳されるという話は聞いたことがない。私は『香水ジルバ』ほど楽しい小説をほかに読んだことはないというくらいだったので、謎に思えて仕方がなかった。

 このころにはすでに私は小説から人文書に興味をうつしていて、この本を読むことはなかった。100円のワゴンセールで見つけて思わず迷いながら買ったが、私は物語に価値を見い出す感性を失いつつあるのだろう。もっと早くに読むべきだったのかもしれない。





 ■経済学的思考を知りたい              2006/5/28

 『ランチタイムの経済学―日常生活の謎をやさしく解き明かす』 スティーヴン・ランズバーグ
 日経ビジネス人文庫 1993 857e

 


 経済学的思考を身につけたいと思っている。たとえばつぎのようなことはなぜ起こるのかを知りたい。

 「雇用者に出産休暇を与えることを義務づける「家族休暇」法は、女子労働者の勝利だと騒がれたが、この法律によって最も失業の危険性が高まった者を「勝利者」と呼ぶのは変ではないか」

 政府の保護や保障がぎゃくの結果や思わぬ被害をもたらしてしまう。このからくりをもっと理解したいと思うのである。

 この本はそのような本の中では私としては次点である。ちょっとわかりにくかったり、興味がわかないところもあった。やはりフリードマンの『選択の自由』、ブロック『不道徳教育』、『現代社会を経済学する』あたりがいい。

 いい言葉があったので引用。

 「学生は、この(経済)ゲームからたくさんのことを学ぶだろう。人生の成功は他人の成果との比較で測るのではなく、自分自身の満足で測るものだということを知る。

 …また、勤勉には見返りがあるけれども、その分、他の活動のための時間が奪われるし、何を一番したいかは人によって異なることもわかるだろう。何よりも重要なのは、貯蓄と勤勉ではなく、消費と余暇こそが人生であることを学ぶだろう」

 「主だった経済モデルはすべて、人は消費を増やして労働を減らしたがっているものと想定している。…経済学の基準によれば、人をムチ打って働かせ、彼らを金持ちにして死なせるような政策は悪い政策なのだ。

 現代は、政策の良し悪しを生産性、あるいは生産量、労働意欲に及ぼす効果によって判断する「生産至上主義」の時代らしい。…エコノミストは、彼らの生産のこだわりは常軌を逸した不健康な強迫観念だと考えている。彼らはアメリカ人が金持ちになって死ぬことを願い、エコノミストはアメリカ人が幸せに死ぬことを願っている」

 「もし私たちの目標が投入する労働力にかかわらず利益を最大にすることだとするならば、アメリカ人の大半は強制労働キャンプに入ることになるだろう。大勢が強制労働キャンプなどまっぴらだと思うという事実を、生産という物差しだけで政策を判定する人びとは再認識すべきだろう」

 「ジャーナリストは失業率を経済全体の良し悪しを表わす指標に使いたがる。だが失業をめぐる議論においては、ふつう、失業が人々の望む状態であるという事実が見過ごされている。余暇を何もせずにのんびりと、あるいは好きなことをして過ごすのは、一般に好ましいこととされている。しかし、それが「失業」という名で呼ばれるとなると、突然、悪者のように聞こえる」

 「雇用の減少が、時代が良くなったことを意味する可能性もある。…私たちの誰もが、週八十時間、労働搾取型工場で汗を流していた一〇〇年前の先祖に比べれば半失業状態なのだ。だが、先祖と入れ替わりたいと思う者はいないだろう。
 …悪い時代に嫌な仕事にしがみついていた労働者も、時代が良くなれば、給与外の所得が増えたために、あるいはもっと良い仕事につくチャンスがあると思って、自発的に失業するかもしれない」





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