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 ■060303書評集


 ■企業の社会的責任を問え!           2006/3/3

 『「ニート」って言うな!』 本田由紀 内藤朝雄 後藤和智
 光文社新書 2006/1 800e

 


 第2部『「構造」――社会の憎悪のメカニズム』(内藤朝雄)がすばらしかった。一冊の本として独立してもいいと思ったくらいだ。メディアが煽る若者の凶悪化のウソのメカニズムを見事に暴いて見せている。

 70年以降若者の殺人検挙率は大幅に落ちているのに、また近所や自分の生活圏に一件の殺人事件も見ていないにかかわらず、ほとんどの人がさいきん凶悪事件が増えていると思い込むようになっている。私たちはいい加減パチンコの大当たりのようなメディアの大騒ぎから目を醒ますべきである。

 本田由紀ほかの執筆者の共通意見は、ニートを怠けややる気のなさなどの本人のせいにするのではなくて、企業側が若者を採用しなくなったり、フリーターとしてしか雇用しなくなったことが問題だといっていることである。

 いま本人を矯正させるという変な方向にいってしまっているが、そうではなくて、企業が若者を雇用しなくなった、雇用しても社会保険が適用されないことが、いちばんの問題なのだといっているのである。

 なぜ社会やメディアは企業側の責任を問わないのか。メディアの陰謀めいたことを思わず勘ぐってしまう。若者を悪者にしてしまえば、社会責任を放棄した企業はヤリ玉に挙げられない、そういった作為を感じてしまう。叩くべきは企業なのである。メディアはもしかしてそのような大衆操作を企業の広告費によっておこなっているのか。

 これはいじめの被害者がカウンセリングの対象となり、いじめた側はなんの処罰もされないという状況とそっくりである。社会のこの空白が恐ろしい。

 後藤和智はブログで若者言説の批判的検証をおこなっている大学生で、このような本を出すにいたった。なるほどえらくしっかりとした検証をおこなっている。新・後藤和智事務所〜若者報道から見た日本〜(字が多いから私はあまり読まないけどね)。この本は本田由紀のブログのコメント欄から生まれたそうだ。

 ネット上でひそひそと知識の探究をおこなっている私は、うらやましいやら、追い越された気がするとか、私はべつに立身出世をめざしているわけではないと慰めたりと、いろいろフクザツである(笑)。いや、やっぱり私は分をきまえて知識の探究マニアどまりでいいやと思ったりするのであった。(私には本なんて書けない)。





 ■古本選びには失敗がある。              2006/3/5

 『あのブランドばかり、なぜ選んでしまうのか――購買心理のエッセンス』 ブーフフォルツ ボルデマン
 東洋経済新報社 1998 2000e

 


 売り手が消費者心理をどのように捉えているのかと思って読んだけど、売る側に向けて書かれた本なので根本的な興味が向かわなかった。とばし読みをしたくなる本を、ブックオフで選んでしまった。安いからという理由で古本で失敗してしまった。

 まあ、売れなくなったブランドをどのようにしたら売れるようになるかという本で、それぞれの成功例には目をみはるものがある。便益、規範、アイデンティティ、感情の変換から、売れるブランドになる方法をとりあげていて、なるほどなと思った。私はアイデンティティとしてブランドを買うことが実感にいちばん近いなと思う。こういう買わされ方はもうなさけないと思うのだけれど。





 ■怒りとは怖れのことである。          2006/3/5

 『上手な怒り方』 佐藤綾子
 PHP研究所 2005/4 1200e

 



 怒りは怖れや自尊心をないがしろにされたことからおこる。怒っている人は怖れているのだ、哀しんでいるのだ、と理解できたとき、こちらが怒りで反応すれば、相手はますます防御の怒りを発動させるのはわかるだろう。かれは自分を守っているのである。怒りや感情を捨てることができれば、相手の反応は驚くほど変わる。

 さいきん職場で怒っていて気づいたのは、怒りは言葉ではっきり表示しないと、だれに向かって、なにに対して怒っているのかわからない人がたくさんおり、自分に向けて怒られているのではないかと思う人がいるということだ。怒りはためこまず、相手の怖れや自尊心を守りながら、ちゃんと伝えてゆく必要を感じたいしだいだ。でも私はそれができないからこそこの本を読んだのだけれど。

 怒りのような感情の用い方や捉え方というのは、人によって動作や習慣が異なるように、塀や檻の中のようにひとりひとり違っている。だからこのような本の事例によって怒りの表われ方が人によってかなり違うことを知ることも大事である。

 いまの世の中は友だちや仲間から外れることを極端に怖れる社会だから、怒りたいのに怒れない人も多々いるものだと思う。外側に向かわない怒りは自分に向かい、うつやひきこもりになってしまうのかもしれない、怖れる必要はないのだけれど。

 私としては、怒りをおこさせる考え方を見なおす方法がおすすめである。怒りというのは怖れや自尊心の侵害からおこるのであって、その考え方をほかの考え方に改めてみるのがいいと思う。論理療法や認知療法の考え方である。さらには自尊心など絵空事なのだからそんなもの捨ててしまえといったのはシャカやキリストなどの宗教家である。禅のような思考を捨てる方法はだいぶ役に立つ。

 この本の巻末の怒りのコントロール方も参考になる。私の課題は対立をつくるまえに、どうやって不満や改善の要求を小出しにつたえるかということだ。私は無視で不満をつたえようとするから対立を生み出してしまうのだ。

 ▼怒り・感情を捨てる方法。
 





 ■人生論として年金を語ってほしい          2006/3/9

 『別冊環 脱=「年金依存」社会』 神野直彦+田中優子ほか
 藤原書店 2004/12 2800e

 


 タイトルの割には年金なんかやめてしまえという話がぜんぜん出てこない雑誌である。

 私は経済学的な話なんか読みたくなかった。ややこしくて、わかりづらい。

 私が年金について知りたいのは思想や哲学としての年金であり、生き方としての年金である。はたして老齢になれば働かずに生活できる金額が払われる生き方とは人としての生き方として正当なものなのだろうか。それは生活保護のような羞恥をともなう生き方ではないのか。

 それがいまでは逆転して、とうぜんの権利としての生き方になってしまった。若いうちから老後の心配をし、年金のために多くの選択肢や自由を削ぎ落とされ、年金の奴隷のような生き方を余儀される。はたして年金は人としての生き方に尊厳や自立、自由な精神を奪ってしまったのではないか。このようなふだんの会話の延長として、生き方論として、年金が語られるようなものであってほしいのである。

 もうひとつ年金について歴史上どのような経緯で国家が年金をになうようになったのかということも知りたかった。社会主義の防波堤の役割のためか、あるいはビスマルクが国家への忠誠心を誓わせるためにはじまったのか。この雑誌には年金の歴史がいくらかとりあげられているが、私には十分ではなかった。

 年金のいちばんの問題点はやはり他人任せの人生を余儀なくされるということだろう。生き方を国家から与えられてしまうのである。国家にお任せの、国家が決めるまで待っている人生なんてなんかおかしい。私は自分の人生の選択権を奪われてしまうような人生が、生きがいのある人生とはとうてい思えないのである。





 ■道徳や禁止は必ず失敗する            2006/3/12

 『不道徳教育 擁護できないものを擁護する』 ウォルター・ブロック
 講談社 1976 1600e

 


 すぐれた本である。世の中の不道徳なことが、それを禁止することによってもっと悪い方向に転がることを教えてくれる本である。

 つまりは道徳や福祉を強制すると、まったく逆の悪い方向に効果をよぼしてしまうのである。人間の意図は、それとは逆の効果をもたらすのである。まるで老荘思想のようだが、だから自由市場の神の見えざる手に任せたほうがうまくいくというわけである。

 この本は1976年に発表され、アメリカで大きな話題を巻き起こしたそうだが、「2ちゃんねらー」や「ホリエモン」といった最新のキーワードも頻出しているのは、橘玲という訳者が「意訳」や「超訳」しているわけである。

 自由主義者の主張を具体的な事例で説明する手腕には驚かされる。ミルトン・フリードマンの『選択の自由』もそうだったが、人間の計画や禁止が社会にいかに悪い方向や逆の方向に導くのかという説明にはいつもながら驚かされる。

 人間の称賛されるべき道徳や慈愛に満ちた福祉が、ぎゃくに市場や人々の生きる権利や自由を阻害したり、人間や社会を壊滅させるとは意外を通り越して、驚嘆に値するが、自由主義者の説明をきくと、まったくそのとおりだと思ってしまう。

 つまりは人間のすばらしき道徳や福祉はその意図とは逆にまったく逆の効果をもたらしてしまうのである。たとえば麻薬は悪いからと禁止してしまえば、闇市場で値段が暴騰してしまい、シャブ中は犯罪に手を染めてでも高額をそろえなければならなくなる。またアフリカの貧困に対して食糧がとどけられると、政治家の票集めに利用されるか、タダ同然の食糧と現地の農家は競争しなければならなくなる。

 児童労働は悪いというけれど、それを禁止してしまえば貧しい家庭では収入の道を閉ざされ、物乞いや売春するしかなくなる。最低賃金や労働基準法は私たちを守ってくれていると思うのだが、それは経営者に安い労働力をあきらめさせて、雇用を抑制して、失業者を増やすことに貢献してしまうのである。同様に男女雇用機会均等法も子育てにとられる女性の雇用を抑制する方向にはたらく。

 なんか政府のやっていることはぜんぶ失敗に落ちるみたいである。たぶん人為的な強制や禁止は人々から自由な選択を奪い、選択の抜け道をさがす方向にすすむからなんだろう。禁止は人の自由を奪い、また悪い症状を生み出してしまうのである。

 そもそも国家は無能であっても市場から退出する仕組みを持たない。失敗しても公務員はクビにならないし、給料も変わらないし、自分のふところが痛むわけでもない。生き残りをかけて必死に自分の金で努力する商人とはえらい違いである。自由市場は愚かな経営者を退出させる賢明なメカニズムをもつ。

 われわれの社会には金儲けに対する拭いがたい敵意がある。そして国家に対して富の分配を迫るのだが、それは権力者や独裁者を生み出してしまうだけなのである。自由経済ならば会社を辞めたり、顧客を変えたりする自由は開かれているが、管理された経済ではほかの選択肢はいっさい認められず、独裁者の支配を許してしまうのである。だから自由主義のほうがマシだとリバタリアン(自由原理主義者)たちはいうのである。

 リバタリアンがいうには福祉制度というのは労働者階級のためにあるのではなくて、特権階級による支配や服従のための装置だということになる。やっぱりなという感がする。私たちは道徳や福祉を国家に要求してしまうと、独裁者の権力を増大させることに貢献することになり、私たちの自由や選択はどんどん奪われてゆくことになるのである。私たちの要求が自分たちの首を絞めるとはまことに愚かしいパラドックスである。

 禁止は社会の報復をもたらす。私たちは政府の禁止による残骸物を現代でも目の前でたくさん見ているのだろう。自由主義は格差や貧困をもたらすと反対する人も多いが、私は人の自由に生きる権利を奪われるよりマシだと思う。戦後昭和の社畜として生きなければならなかったサラリーマンの不自由を思い出せといいたいのである。





 ■みんな「自由」を唱えるけど。             2006/3/18

 『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門』 森村進
 講談社現代新書 2001/2 720e

 


 リバタリアニズムとは政府に介入されない市場の自由や、個人的自由を守ったり、国家の縮小や廃止を説く立場のことである。経済的自由だけを認めのは保守派である。規制や再分配をおこなうのがリベラルである。みんな「自由」を唱えておきながらずいぶん違う。

 私としては政府が市場に介入したり、財の再分配をおこなうと、社会や人がどんなに歪むのかという話を聞きたかった。また、いちばんに社会保障が人をどんなに奴隷状態に釘づけるのかということも知りたいのである。

 安い入門書ということで買ったが、私としてはリバタリアニズムの古典ブックガイドのほうを読みたかった。


 
 ▲アメリカの保守とリベラルはわかりやすいかもしれない。私はバクーニンもノージックのアナーキニズムも読んでない。ハイエクの経済的自由主義には学ぶところ多し。





 ■流動性からの保護が問題。              2006/3/19

 『中央公論 04月号 若者を蝕む格差社会』
 中央公論新社 2006/3 800e

 


 基本的に雑誌は好きでない。興味のないトピックが多いからだ。この号には格差社会と、加藤秀一の離婚大国、川本三郎の阪神間文化の論考があったから、迷いながら買った。

 格差社会では三浦展と本田由紀の対談があった。三浦展はむかし脱消費の若者を肯定するような考えがあったのが、「下流」や「フリーター」叩きに転じたのは、中立的に捉えられるために否定的なスタンスに変わったそうである。企業が悪いととらえる本田と怠ける若者バッシングの三浦の構図の対談である。

 高原基彰の『創造性で稼げない若者の苦悩』がよかった。フリーターと正社員の対概念を捨てろという。アメリカでは正社員といっても流動性が高い。日本は中高年の雇用を守るために流動性は下層やフリーターだけに押し込められてしまった。80年代半ばから正社員雇用保護のために若者に犠牲が強いられるのは予測されていたそうだ。

 重要なことは、大企業に入れば守られて安心だという成功のコースが若者の、日本の閉塞感の元凶だということである。流動性の中で上昇や成功をめざせば、下層やフリーターだと罵られる。こんな社会ではだれも活力や自発性をもてない。やっぱり国家に保護される人生は、ステータスや成功を誤った方向づけに硬直させてしまうのである。おかんや女が公務員を求める世の中に男までが同調して女々しいと思わないか。

 加藤秀一の『日本はかつて離婚大国だった』では、離婚や片親が白い目で見られた世間への、終身婚制度という不自然さへの反発から書かれたものなんのだろうか。愛情が移ろいやすいものは仕方のない現実である。

 それにしても執筆者が東大関係や早慶関係の連中ばっかりだ。視野や意見の偏りが気になる。。


 
 ▲三浦展はかつて『マイホームレス・チャイルド』で無欲で脱消費の若者を肯定していた。本田由紀は宮本みち子の『若者が社会的弱者に転落する』の継承なのか。加藤秀一は恋愛至上主義に一石を投じるか。





 ■原典を読むために。                2006/3/25

 『リバタリアニズム読本』 森村進編著
 勁草書房 2005/3 2800e

 


 リバタリアンの思想を知りたいのなら、入門書を読むより原典を読んだほうが理解がしやすい。古典や名著とよばれる書物はそれだけ多くの人に理解されたり感銘された歴史があるわけだから、入門書よりはるかに読みがいがあるはずである。へたな入門書より原典もしくはブックガイドのほうが役に立つ。

 この読本にはリバタリアニズムの25冊としてあげられているのは、アダム・スミス『国富論』、ハイエク『隷属への道』、ミーゼス『ヒューマン・アクション』、ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』、ブロック『擁護できないものを擁護する』、ディヴッド・フリードマン『自由のためのメカニズム』、ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』、ロスバード『自由の倫理学』、ゴティエ『合意による道徳』、アイン・ランド『水源』、バーネット『自由の構造』などである。

 自由主義でいちばん感銘したのはここにはあげられていないが、フリードマンの『選択の自由』である。市場のメカニズムのはたらきには驚きだった。アダム・スミスは一巻くらいで放り出している。ロスバードは『20世紀を動かした思想家たち』(新潮選書)という本にあきれられるアナーキストとして登場している。ハイエクやブロックはさいきん読んだ。

 国家の干渉や介入を避ければ人間は自由を得られるのか。げんざいの日本は福祉国家や統制経済の末期症状を呈しているのではないか。

 そういう疑問からノージックやロスバード、D・フリードマンやミーゼスなどの著作を読んでみたいとおもったのだが、いずれの本も五千円近い高額な本ばかりだ。まいったな〜、古本でも見つかりそうにもないしな〜。どうしよー。

 ▼リバタリアニズムの本






GREAT BOOKS

 ■心理主義を徹底的に批判            2006/3/27

 『「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学』 河野哲也
 NHKブックス 2006/2 1020e

 


 心理主義を徹底的に批判したすさまじくすばらしい本である。革命的と思えるほど興奮して読んだ。ただし第三章あたりまで。

 現代は「自分探し」や個人の内面に問題を探る風潮が支配的である。まるで政治や社会、経済になんの問題もないかのごとく、ひたすら個人の内面が問題にされ、ただその当人のみが悪いとされる時代である。

 若者は怠惰でやる気がないからニートになるといわれ、雇用情勢が問題にされない。十代の少年が連続的に犯罪を起こしてもマスコミや心理学の知が問われることもなく、ただ当人の内面だけが問題にされる。下流階層化は当人の社交性の欠如のせいだといわれるが、雇用や社会情勢の変化は問題にされない。まったく個人の心理の責任ばかりに帰せられるのである。

 私も十代や二十代に強く心理学に興味をもっていたが、そのうちに心理学の内罰的な傾向や自分を異常視してしまうことへの疑惑をもつようになった。なんで私の心ばかり責められて、社会や経済のせいにされないのだと。(「あなたの心が悪いのです」断想集 2000/2/29.) 問題の原因は社会学や経済学に求めるほうが妥当と思うようになった。

 この本はそのような心理主義を徹底的に批判した本である。痛く感銘した。感嘆の声をあげながら読みたい気分だった。しかもこのような心理主義はデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の主観主義哲学から導かれた帰結であるという壮大な歴史も提出する。人間の本質は心であると規定したのはデカルトである。

 「自分探し」がブームになっているが、それを心理学に探ろうとする人は多いが、そもそも心理学は、医療上の要請や産業上の有用性の基準から求められてきたものである。つまりは病的概念のオンパレードであり、そんなものを読む私は病気だらけであり、そして産業社会の成功と失敗の選別だけで自分を値踏みする頭をつくってしまう。心理学など政治的なイデオロギーに過ぎないのである。しかも内へ内へと向かう説明方式は、社会からまったく孤立した心というものがあるかのようである。

 人が自分の性格を知りたいということは、自分の行動特性を知りたいのではなくて、自分の行動傾向を変えたいとのぞんでいるのである。それなのに内面に「私」を探そうとする者は、自分の内面深くに行動の指針を与えてくれる社会的基準や社会規範を探そうとするのである。それは心の外部にあるものなのである。私の本質は、私の外部の権力なのである。

 内面がないという第三章もすごかった。私たちはある人を「優しい」とか「愚か」とかいったりするが、それは身体的な行動パターンから観察されるものであり、その背後に実体としての心があるわけではないといっている。内面があるという思い込みは率直な自分の考えや感情の表現が押さえ込まれることから起こる。そして私たちはたいして「真の自己」といったおおげさなものなど隠していないのである。

 私の説明は舌足らずのためにこの本の多くをまったく説明できないが、スリリングな文章で心理主義の解明をおこなってゆくさまはひじょうに読ませるものがある。心理主義批判には胸のすく思いがする。心理主義化した社会にはずいぶん抑圧されてきた思いがあるからである。

 問題を自分の内面へ、心理へ探し求めるのではなく、社会や権力に求めてゆくこと――こういう転回がいままさに必要とされているとこの本ではいっているのだと思う。

 ▼心理主義批判
 
 森真一『自己コントロールの檻』は心理主義批判の衝撃作である。『心の専門家はいらない』もずいぶん鋭い。『フロイト先生のウソ』も心理学をペテンだと言い切っている。『ナルシシズムの時代』にはアメリカでのセラピー普及現象についての一章がある。心理学は徹底的に叩かれなければならないと思う。





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