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■051203書評集 結婚とはなにか
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■ラクしたい、働きたくない女性 2005/12/3
『結婚の条件』 小倉千加子
朝日新聞社 2003 1200e
鋭い本であると思った。感嘆の贈り物をたくさんしてくれる本である。
といってもライト・エッセイであるが、フツーのあたりまえのことをいっているのだと思うのだけど、読みは鋭いと思われた。結婚と女の人生についていろいろ学べる。
著者は短大で女子学生にアンケートをとった経験から、晩婚化は進むと予測した。なぜ専業主婦に固執するのかと尋ねると、女子学生は「自分の時間が持ちたいから!」と答えたそうである。女性はすでに結婚のほかになにか人生の目的があるように思っているのである。結婚はその生活の保証をしてくれる手段でしかない。
女性は男に扶養されるをあたりまえだと思っている。「女は真面目に働きたいなんて思っていませんよ。しんどい仕事を男にさせて、自分は上澄みを吸って生きていこうとするんですよ。結婚と仕事と、要するにいいとこどりですよ」
「専業主婦とキャリア志向の「いいところどり」である。経済は夫に負担させ、自分は有意義な仕事で働き、なおかつ家庭も持っている」
「生活のための労働は、奴隷(男)にさせ、自分は貴族のように意義ある仕事を優雅にしていたい……。今や単なる生活費稼ぎの労働は、男と親と老人だけがするものになりつつある。〜あらゆるつまらない労働、人間がしなければならない「当たり前」の労働から、若い女性たちが総撤退を始めている」
「ラクしたい」「働きたくない」「苦労したくない」――これは若い女性だけが望んでいるのではなくて、若い男も同じことである。女性は男にそのように要望しておきながら、どうして男も同じように考えると思わないのだろうか。
女は男に養われる特権を当たり前だと思い、さらに安定した完璧な生活保証を男に望み、そのうちに若い男たちは働く気をなくし、経済は転げ落ち、若い男たちは不安定雇用に従事し、収入も安いという状況になりつつある。だれもがソンな役回りに回りたくないと思い、おそらく男が養い、子どもを育てるという当たり前の役割すら、みんな放棄してしまうのだろう。
戦後の当たり前の役割にみんな無自覚におんぶして、腐りはじめてるのだと思う。女は男に養われるのが当たり前だと思い、男は会社に養ってもらうのを当たり前と思い、子どもは親に養われるのが当然だと思っている。そういう約束の上にあぐらをかいて増長した人たちがたくさんあふれ返っている。戦後の社会はなにを生み出したのだろうと思う。
みんなラクしてソンな役回りはだれかに押しつけて、奪いとろうとしか思っていない。ソンな役回りは男や親の、あるいは女にとってもとうぜんの義務なのである。こういう押し付け合いの社会はたぶんみんなでイタイ目に合ってはじめて、謙虚に多くを望まず、条件を素直に受け入れる人たちを生み出すのだろう。
欲望の消費社会は商品やサービスのみならず、男や社会にかなり高レベルな要求水準を当たり前のように望む女性たちをたくさんうみだした。女たちがソンな役回りから逃れたいと思っているのなら、男だって同じように考える。いったいだれが好き好んで奴隷のように下支えしてくれるというのか。性別役割の上にあぐらをかく無自覚な女性にはなってほしくないものである。もとい謙虚にいうなら、男も女に育児や家庭を押しつける役割もそうである。
▼追記 ラクをのぞむのはいけないような書き方をしたが、あとから気づいたのだが、過剰な労働や従属の反動という面をわすれて、それだけをとって批判するのはまちがっていると思う。私たちはそれを不条理な権力構造だと思っているからこそ逃れたいと思うのである。道徳倫理だけで批判するのはちがうと思う。
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■世界の若者はどう思っているのだろう 2005/12/5
『日本のニート・世界のフリーター』 白川一郎
中公新書ラクレ 2005/11 780e
なんではじめに政策ありきなんだろうと思う。世界の若者が高失業率やフリーター化に直面していることは知っていたのだが、その状況や若者の生の声を聞きたいとずっと思っていたのだが、いっこうに伝わってこない。その段階をすっ飛ばして政策本が出た。
いまでこそ働くことを考えるとり組みはだいぶ増えたのだが、私が二十代の90年代、なんで働くことがこんなにつまらないなんだろうと悩んで、壁にぶつかってきた。早くから高失業率に直面する世界の若者について知りたいと思ってきたのだ。まずは世界の若者はどう考えているんだろうかということを知るのが先だと思うのだが、政策の本なのである。
もちろん世界の若者の状況がよくわかる本である。ヨーロッパでは平均失業率が8、8%であるが、若者失業率は二倍の17,9%である。イタリアにいたっては90年に若者は31、5%も失業している。日本では10%を越えた。なんでこんな状況に直面する若者の生の声が伝わってこないのだろう。
英国、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、アメリカなどの各国の状況を見ながら、日本の政策提言をおこなうというしっかりした本である。各国とも若者失業率は平均の2,3倍、10%から20、30%の高失業率を推移している。
日本の政策については、正規雇用者を保護している雇用保護を削減することと、社会保障プログラムを非正規雇用者にも拡大することであるといっている。雇用保護規制が強い国ほど非正規雇用が増えているのである。これからの雇用政策ついてかなり参考になる本である。
90年代からパートやフリーターが増えており、社会保障も適用されない状況を政府はずっと見て見ぬふりをしてきた。企業にいいように食い物にされている状況を、政府やマスコミはまったく無視してきたのである。この国の真の状況や権力のありようが見えてくるというものである。怒。怨。
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■性と人生 2005/12/9
『性の民俗誌』 池田弥三郎
講談社学術文庫 1958 960e
赤松啓介の『夜這いの性愛論』(明石書店)を読んだとき、性を語るとは人生を語るものなんだなと感動した。現代のマスコミや社会は性をタブーにするような趣があるが、それは人生も語り継がれないことと同じであると思う。一夫一婦制やオンリーラブ・フォーエバーもおそらく人生の経験を狭いものにしているのだろう。
柳田国男とか宮本常一の民俗学もあまり民衆の性といったものをとりあげなかった。この著者によると、「諸国の奇習」集めと思われかねない民俗学への警戒と、好事家の低俗な興味に舌なめずりをされないために、記述には慎重であったという。高級な学問と低俗な性という対比は、おそらく人間の本質をも語れなくしていたのだろう。
この本は古文やむかしの詩の教養がない私にとっては理解がやさしくない部分が多かった。赤松啓介の本で感じたような性に対する圧倒的な念も感じなかった。
参考にいくつか感嘆する記述をあげるとすると、結婚後の数日、夫婦はしとねを共にしないことがあったという。お初穂をえびす様にあげていたそうである(?)。遊女が神社の門前町に発達したわけは、遊女の源流は神に仕えた神の女であり、社に付属した下級の巫女だったということである。むかしの人は性を神を通して捉えていたようだ。紀州に伝えられているところによると、娘が十三、四になると、老人に頼んで女にしてもらうことがあったそうである。
私たちは近代の一夫一婦制とかロマンティック・ラブ・イデオロギーといったものに染めあげられているわけだが、それと圧倒的なのは肉欲への軽蔑と愛の崇高化であるが、なにか人間の本質からずれた強制された観念であるという感をいなめない。相対化の必要があるようである。
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■「運命の人」幻想にくさびを打ち込む 2005/12/10
『恋愛自由市場主義宣言!』 岡田斗司夫
ぶんか社 2003 1500e
この本でいっていることは、「運命の人」幻想を捨てよということである。ひとりの人に独占欲や束縛を課すのではなく、恋愛もセックスももっと気軽に広く浅くおこなえということである。一夫一婦制はムリをしすぎているということだ。それを恋愛自由主義というのだろう。
女性はむかしから二つの戦略を発展させてきた。娼婦型は薄く広く男に負担を求める戦略で、対して淑女の戦略は一人にぶらさがって、徹底的に食い込んでゆく。淑女型は終身雇用時代の一夫一婦制であり、娼婦型は会社を移るフリーターのような生き方である。
終身雇用が崩壊した現在、淑女型は非現実的になりつつあり、岡田は女性の生き方は風俗のようなものでいいんじゃないかといっている。実情に合っているし、ラクなんではないかと。
一夫一婦制というのは子どもを安定的に育てるための制度であり、政治的には管理しやすかったから、戦後の経済統制社会では求められてきたのだろう。会社への滅私奉公とか終身雇用が崩れさるということは、必然的に女性との関係も終身婚の誓いが消えてなくなるということである。ひとりの男に終生、愛を誓うといった「オンリーユー・フォーエバー」幻想は音を立てて崩れさろうとしているのである。
われわれは「一人の人を生涯、愛することがすばらしいことだ」とか「結婚したらほかの人を愛してはならない」という思い込みを拭いがたく心の底に刷り込まれている。だから恋愛自由市場的な生き方をする人には「人でなし」とか「ろくでもない人間」だとかの反感を感じることだろう。
滅私奉公のサラリーマンがフリーターに感じる気持ちと同じである。会社への感じ方と恋愛への感じ方はパラレル(平行)だと考えていい。
新しい世代は親の世代がやってきた「会社人間」とか「運命の人」幻想の欠陥やウソっぽさをいやというほど目の当たりにしてきた。そんなものは社畜とか専属の売春婦にすぎないと子どもたちは見抜く。だからそんなものは信じていないし、そういう仕組みから逃げ出したいと思っている。ただ制度の有利さが足かせになって、かれらを押しとどめているだけである。
終身婚やがちがちの一夫一婦制、あなただけを愛すといった「運命の人」幻想は、遅かれ早かれ自由主義にとって替わられるのだろう。官僚主導の統制経済が終わるとき、恋愛や結婚の自由化もはじまるのである。
われわれはひとりの人に全存在を賭すような関わり合いを終えてゆくのだろう。そしてそういう気持ちもやめなければならないのである。たったつひとつの保険にすがりつくことはあまりにもキケンな生き方なのである。ひとりの人だけに愛を誓うといった重みも恋愛や男女関係から消えてゆく。
恐れることはないのだと思う。おそらく明治以前の日本人はこういう生き方をしていたはずである。恋愛や結婚、セックスはもっと軽くて、いまのような重い意味はなかったのだと思う。私たちは重い恋愛結婚のオリの中からようやく抜け出そうとしているのだろう。
政治で謳われているような規制緩和とか小さな政府といったものは、われわれの恋愛や結婚も自由市場化してゆくということなのである。それが改革の真の意味であり、完成であるということだ。われわれは政府や国家に決められた生き方からようやく解放されるのである。
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■学歴と金儲けのうまさは全然関係ない 2005/12/13
『高学歴ノーリターン』 中野雅至
光文社ペーパーバックス 2005/11 952e
ひどくインパクトのあるタイトルである。高学歴はそんなに報われなくなったのか、とすぐに読みたくなった本である。
内容のほうはおもしろいし、いろいろな思いを去来させる本であるが、高学歴が報われないということには、自分の固定概念が邪魔してか、あまり説得力がないように感じた。でももちろん高学歴が無意味になった社会の到来を告げるというセンセーショナルさで、この本は価値のある本である。
まあ、いまの日本は金儲けの価値がすべてになったから、学歴や職業威信のパワーが大暴落して、学歴エリートの利得がなくなってしまったということだ。
そもそも、学歴エリートはなぜ経済社会の上層に属することができると考えられるようになったのかということ自体が疑問である。著者もいうとおり、「学歴と金儲けのうまさは全然関係ない」。
学校というところは知識の価値を教えるところで、金儲けのやり方を教えるところではぜんぜんない。価値観の方向がまったく違う。知識の至上の価値は、金儲けのエートスや方法とまったく異質なものだ。そんな学歴エリートが、なぜ営利企業の上層に投入できるなんて、そもそも考え始めたのか、自体がチョ〜疑問だ。
金儲けのエートスというのは「成金」とよばれる人たちの中にあるものではないか。貪欲で、卑屈で卑怯な精神が、金儲けの利益をつくりだすのだとわれわれはいくぶん軽蔑して捉えている。高貴で高尚な探究をめざすと思われている知識が、そんな卑屈な精神を教えてくれるか。
戦後の学校というのは金儲けのエートスも教えてくれなかったし、そもそも働くことはどういうことか、職業世界とはどんなものなのか、どのように生きていったらいいのかといったことすらまったく教えてくれなかった。学生たちは将来そこで食っていかなければならない職業世界とまったく違う教養価値の方向に走らされてきたのである。
戦後の日本企業は終身雇用で、長期的に人材を育てればよかった。だから学校は職業について教えなくともよい余裕があった。そのシステムが崩壊した現在、金儲けより知識の至上価値をたたきこまれた学生たちは、市場経済の荒波の中でただ左も右もわからず呆然とするほかない。学生が落としてきたのは金儲けのハングリーさである。
学歴エリートというのはたんなる頭でっかちで、金儲けの精神を知らない人たちである。学歴や職業の威信が暴落すれば、割を食うのは目に見えている。
それにしてもなぜ高学歴者は大企業や官庁に優先的に採用されてきたのだろう? 先進国モデルがあったキャッチ・アップの時代には、すでにある知識の学習能力がものをいったからだろうか。この人たちは創造力をもたないだろうし、そもそもその発想を生み出す土壌となる金儲けの飢餓感もない。
この社会はきっぱりと、学歴と金儲けのうまさはまったく関係がないと悟るべきなのである。学校の知識というのはそもそも役に立たない教養を教えるところである。金儲けの牙城である企業に入るための序列に使われるなんて発想自体が間違っている。
高学歴ノーリターンという状況は、そもそも本来の学校の裸の価値に戻っただけのことである。教養知識というのは金儲けのなんたるかをひとつも教えてくれないものである。そもそも学校は食うに困らないブルジョアジーのご子息が通うところであったのである。「学校のバカヤロー!」と私はいいたい。
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■会社主義とは戦争のことである 2005/12/18
『王道楽土の戦争 戦後60年篇』 吉田司
NHKブックス 2005/11 1160e
戦後の日本も戦争をしてきたという本である。戦時下の「国民総動員体制」が戦後の経済にもひきつがれて、高度成長やバブルをひきおこしたという主張の精緻な立証となっている。
その1940年代体制の主張はよく聞くのだが、どこがどのように戦時体制なのかくわしく見せてくれる本はあまりなかった。この本はその主張を、新幹線の鉄道立国やトヨタ・ニッサンの自動車立国、田中角栄の列島改造論、石原慎太郎や三島由紀夫などに見せてくれて、たいそう度肝を抜かれた。そしてその源流は満州であることを暴く。
私たちは戦時日本の夢を、その経済版でずっとおこなってきたのである。戦後の日本は180度転換したとかいわれるが、上っ面だけで、中身はちっとも変わっていなかったのである。この欺瞞や厚顔無恥ぶりをしっかりと胸に刻め。
戦争を極端に拒絶しておきながら、やっていることはなにひとつ戦争と変わらないことをしているこの日本人の二重性やウソっぽさ。戦後の経済至上主義というのは、戦前の戦争をひきついだものにほかならない。
だから戦争が悪者だと心の底から思っているのなら、即刻、会社中心主義や経済至上主義をやめるべきなのである。しかし個人の消費主義や快楽主義が、軍国経済に結びつくという恐ろしいねじれには一般大衆は気づかない。私たちが個人の富を追求すれば、軍国日本の再構築に貢献してしまうというこの矛盾。
おそらく個人の富の追究というのは、権力増大のことなのである。それが悪いほうに転がれば人殺しの戦争になるし、経済面に転がれば「会社人間」や「消費の化け物」に堕すのである。日本人は戦後そのひとつの面の戦争は放棄したが、権力増大の夢は捨て去らなかったのである。権力増大の夢こそが戦争をひきおこすのだという深刻な反省が日本人には思いつかなかったのだろう。
この本は全面放棄したはずの戦争を戦後もあいかわらずつづけているということを見事に実証して見せてくれたすごい本である。満州システムが戦後日本にひきつがれたことを暴いて見せてくれる驚嘆の書物である。ただ時事問題に流れすぎる欠点が最後のほうに噴出して興ざめだったので、私の「GREAT
BOOKS」の選には落第である。
▼国家とひきかえの日本人の人生
総力戦と国民国家 00/9/21.
民主主義+社会保障=国民戦力化 00/10/15.
00年秋 性愛市場―総力戦 00/10/30.
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■なにをいいたかった本なのか 2005/12/20
『結婚帝国 女の岐れ道』 上野千鶴子 信田さよ子
講談社 2004/5 1700e
感想を書くのがむづかしい。結婚や家庭の闇を見つめるカウンセラーが対談者の一人なので、社会学的なキレがないように感じた。ふたりとも結婚するなんて信じられないという立場なんじゃないのかなと思った。
私としてはなぜ晩婚や非婚が進むのかということを読みたかったと思うのだけど、ドメスティック・バイオレンスや性的虐待などに話が流れてゆき、私はなにを読んでいるのだろうという気になった。全体としてこの本はなにをいいたかったのだろう。
分裂的な本には、感銘した部分の抜書きのほうが適している。
「三十代を一つの分水嶺として、非常に急速に次の世代に転換が起きているものだから、セクシュアリティを婚姻の中に封じこめてきた母親世代が、自分の生き方を娘に全否定されてしまう気分を味わう」
「一九八〇年代以降、性を含むコミュニケーションモードの中で、「関係の偶発性」が支配的になっていったと指摘しています。「関係の偶発性」というのは、「かけがえのなさ」の解体。「あんたでなくてもよかった」「「わたしでなくてもよかった」ということなんですね。
〜これに対する反動が純愛願望じゃないでしょうか。「どこかにきっと、わたしをかけがえのない他者と思ってくれるだれかがいるはずだ。いなくてはおかしい」
「近代家族の泥沼って、やっぱりある種の定型化した儀礼を壊したときに、わたしとあなたの関係を、むき出しで作らなければいけなくなった男女の問題だと思うんですよ」
「権力とは状況の定義権である」
「あんたがやったことに、他人がなんでゼニ出してくれると思う? その人の役に立つことをやったから、他人の財布から金出してもらえるんでしょ? だったら少しは人の役に立つスキルを身につけろよ。自分が好きなことしてゼニもらえると思うな。自分が好きなことは持ち出しでやるんだ、バカヤロ」
「人間は社会的存在でなければならないということにも、わたしは深い疑問を持ってきました。なぜわたしが生きることに、他者の承認がいるのか? なぜわたしが他人の役に立つ存在でなければならないのか? そうでなくなったときのわたしは、生きる価値を失うのか?」
「寝たきりとか痴呆の人たちともっと接触したら、「自分が存在するということに、他者の許可も承認もいらないんだ」って感じてくれないかな、と思う。だって、こんなに役に立たず、こんなに希望がなく、こんなに自分を自分でどうしようもない人たちが、それでも生きている」
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■かんたんなことに答えがある 2005/12/26
『男と女の過去と未来』 倉地克直 沢山美果子編
世界思想社 2000 2200e
岡山大学の講義録だが、基本的なことを教えてくれるから、ぎゃくに目からうろこの部分が大きかった。私が知りたいことは、じつは基本的過ぎてあまり言葉にされないことなのかもしれない。
家族の変遷や性のあり方が連続講義されていて、こういう授業を受けられる学生はうらやましいと思う部分もあったが、たぶん学生にとっては退屈であったり、自分のことのように考えられない部分もあったのではないかと思う。授業というのは、その内容を他人事にしたり、成績の対象にしか思わせなくなるものである。
よかった講義としては、さいしょの「開講にあたって」と「性情報の氾濫するなかで」「人類史のなかの性」「売買春を考える」「近代のセクシュアリティ」などである。
感銘したところを抜き出すと、父親を大黒柱と思う女性が七割で男は六割、妻が夫にしがみつき夫がそこから逃げ出そうとしている姿がある。女性は専業主婦願望が男から嫌われる時代にそなえるべきである。
かつて学校教育が共同体を脱コード化したように、70〜80年代にメディアが学校教育を脱コード化し、メディア・クラシーともいえるメディアの専制がおこっており、従来の性別規範と「イケMEN」規範がかつての優等生を追い込んでいるという。このメディアの専制状態は若者にとってはきわめて重大な問題だと思う。
女性の処女性が称えられ、不義密通が罰せられる社会のほうが、制度化された売春もさかんにおこなわれている。つまり自由な性関係の否定、性の抑圧が売春をうみだすのである。日本の社会のありようが見えてくるというものである。
新中間層の恋愛結婚の多くは、処女を結婚の条件に、社会的地位の上昇、安定を図る功利性に支えられたのであった。結婚関係は経済関係であり、したがって処女はモノ化し、商品化してゆくのである。恋愛結婚というのは商売であったのである。この偽善性にはしっかりと言葉にして意識化してゆく必要があるのだろう。
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■2005年ことしの読書テーマ 2005/12/30
恒例になりましたことし一年の読書の総括です。
ことし考えたことは去年からの読書のつづきで古代史をやっていて、そのなかから歴史とは優越意識を満足させるものではないのか、学問とはその優劣観の証明にすぎないのではないかということを探っていた。つまりは学問や歴史というのは、そのお国の「自尊心」物語なのかを問うたわけである。
とうしょはビジネスやカルチャーのなかのナショナリズムを抉り出したかったのだけど、それは司馬遼太郎に典型的にあらわれていると思ったのだけど、読書するうちに、柳田国男の民俗学に民衆をひとくくりにするための国家の優越意識の高揚を見い出したり、先進国ヨーロッパの優越意識のなかに自己の優越感と他民族への侮蔑を見つけ出す流れになっていった。
つまり学問とは自分たちを優越するものだと見なし、他者を侮蔑するための証明装置にすぎないことを発見したわけである。人間の知識の欲望の原点や限界を見た気分である。
▼ことしのGREAT BOOKS
このテーマの興味が終息したあと、新しく出てきた現代作家の小説を読んでみたけど、まったくなんの得るところもなかった。
ことしは山田昌弘の『希望格差社会』や三浦展の『下流社会』が話題になったりして、アメリカのような格差社会がやってくるのかと人びとを脅えさせたが、私としてはみんなで豊かになるという近代の目標がもう終わってしまったのだから、カネで階層を測るモノサシなんて意味がないと思うのだが、人びとはそれぞれの幸福の基準を見い出していないようである。私はいつまでもカネでしか人を測れない人たちの哀れさを思うだけである。
またことしは養老孟司の『バカの壁』が400万部を突破して、出す新書がつぎつぎと売れた年であった。なんで養老さんの本がそんなにバカ売れするのか不思議に思いつづけた。この人のエッセイはまあ冴えているし、脳化社会は重要な視点だと思うのだが、一般の人たちはなにを求めているのだろうと思う。人物としては魅力的であるし、知への情熱とか常識を笑い飛ばす姿勢はいいものだと思うし、NHKのTVなどによく出ていたことが一般の人たちの高得点を得たのだろうかと思う。たぶん本を読まない人をバカよばわりしたようなタイトルが功を奏したのだろう。やっぱり恐怖産業がヒットの秘訣。新書のヒーローになった。
自分の読書に話をもどすと、いまは本田透の『萌える男』を読んでから、また恋愛資本主義とはなにか、恋愛結婚とは終わるのか、というテーマに火がついた。私はこの恋愛ファシズムのような社会に不快感や疑問感をかなりもっていたし、日本の性愛状況というのはどうなっているのかという疑問ももっていたから、今回はそれを結婚という切り口から考えてみようという気になった。
私も独身でいつのまにか38歳にもなったのだから、なぜ私は結婚したいとは思わないのだろうか、なぜ女性を所有することの抵抗感が強いのか、結婚をどう考えるのかといったことなどを捉えなおす機会にもしたいと思ったのである。結婚の民族学とか人類学でも参考にしたいと思ったのだけど、案外そういう本は少なくて、はやくもテーマが終わってしまう感もなきにしもあらずだ。結婚を経済関係から捉える視点で考えたいと思っている。
▼ことしのGREAT BOOKS
▼わたしの読書の1999年からの流れ
近年まれに見るベスト本 2004-1999年版 2004/12/30
2004年ことしのベストは男女の違いを語った恋愛本/2003年、ことし読んだベスト本/2002年、ことし考えてきたこと/この本はなぜよいのか 2001年版/2000年 ことしの読書の流れとベスト本/1999年、今年読んでよかった本/
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ご意見、ご感想お待ちしております。
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