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■050802書評集 新しい作家を読む
■知の帝国主義 2005/8/2
『大英帝国のアジア・イメージ』 東田雅博
ミネルヴァ書房 1996 3500e
私としては「文明のリーダー」を自認した国の放漫さや思い上がりをもっとえぐり出してほしかったのだけど、この本はそういうことに関してはおとなしめだったので、あまり期待以上の収穫はなかった。
ヨーロッパの先進国というのは自分たちの文明を最高なものとみなし、アフリカやアメリカ先住民、アジアの民族や文化を徹底的に蔑視した。ヨーロッパの人文科学というのはその思い上がりと蔑視のプロパガンダのなにものでもない。人類学や進化論はヨーロッパ文明や民族を頂点に置く捉え方を無前提に根底にすえているものである。私はそのような知識の自文化中心主義を探りたかったのである。
この本はヴィクトリア時代のイギリスの総合雑誌の言説を探っており、それはたいへんな労作業だったと思うが、論者によってはさまざな意見があるので、統一した見解を見ることができないのでもどかしい思いをした。
インド、中国、日本がどのように語られてきたかということがのべられているのだが、インドや中国はたいそう蔑視されているのに、日本はかなり評価が高かった。西洋化の優等生だったということ、なびかないインドや中国にたいする憤りの反動だったそうである。
文明の中心から離れたヨーロッパが世界史の中心に躍り出たとき、ヨーロッパは他文明を見おろすという放漫さを味わった。科学や知識もみずからを頂点に置き、他文明を劣位に置くという序列をせっせとつむぎつづけた。
ヨーロッパの超越性を真に受けた日本人もその「教典」をありがたく受けとったのはいうまでもない。私たちはそろそろ知識の「帝国主義的」性質というものをしっかりと見抜くべきではないだろうか。
知識は真理ではない。自己の優越性の証明のことである。
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■会社以外のほかの生き方。 2005/8/3
『山背郷』 熊谷達也
集英社文庫 2002 600e
かなりよかった。山や海で生きる人たちの姿を描いて、サラリーマンや会社生活しか送るしかない現代人とはべつの生き方を夢想させてくれるという点で、これはかなり興味津々に読めた。
都市生活者のわれわれの何世代か前の人たちはこのように自然に向かって生きていたのだ。私はそのような猟師や漁師の生き方とはどのようなものだったのか、漠然と興味をもっていた。せせこましい会社生活以外のほかの生き方はできないのか、という興味があったのである。
舞台は東北だが、海や山で生きる人たちの内面や生き方を垣間見れた。おそらく民俗学に興味がある人や、網野善彦の農耕民族以外の日本人に興味がある人には、かなり楽しめるのではないかと思う。
ただ物語の深みや感嘆させる結末などはなくて、物語としてはあまりうまくないように私には思われた。民俗学的、歴史的日本人といった姿を見るにはひじょうに適していると思うのだが。
いまごろなんでこんな作風の作品が出てきたのだろうと思うが、著者の熊谷達也は1958年宮城県生まれで、動物好きの作者はニホンオオカミの調べものをしているうちに東北の歴史に興味をもったようである。
人の顔色ばかり気にしているサラリーマンやひ弱になった都市生活者は、かつて大自然の中で骨太に自然と対峙して生きてきたたくましい日本人の姿に、憧憬と畏怖の念を感じないわけにはゆかない。あ〜、こんな野性的な生き方ができたらなあと思う。
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■他国家への劣等感・蔑視から自由になるために 2005/8/6
『異文化への視線―新しい比較文学のために』 佐々木英昭編
名古屋大学出版会 1996 2600e
私は西洋がいかにみずからを優越したものとして思い上がり、他国家や他民族を見下したかということを知りたかった。他集団への差別意識がどのようなものか、えぐり出す本を探していたわけである。
そういう意味ではこの本は参考にはなったが、政治的恐ろしさを喚起させてくれるものではなかった。優越意識は侵略や支配や虐殺をもたらしてきたのであり、たんなる優越感のみに還元できるものではないのである。
この本はさまざまな文学者をとおして西洋コンプレックスや西洋崇拝、あるいは西洋の他者蔑視などをとりあげていて、バラエティー豊かな異文化への視線を見ることができる。島崎藤村、徳富蘆花、ラフカディオ・ハーン、夏目漱石、またはエドガー・アラン・ポウ、ジュール・ヴェルヌ、T.S.エリオット、ディドロ、モンテーニュ、などかとりあげられている。
自集団というのはたえず他集団への劣等感にとらわれたり、優越感をもって蔑視したり、序列意識にとらわれているものである。西洋からサルと同等にまなざされるをえなかった日本人は西洋化をめざし、反転してアジアを蔑視するまなざしを手に入れた。集団や国家はこのような比較序列から自由になる道はないものだろうかと思う。
あと、気づいたことは、科学も西洋中心主義そのものにほかならないということである。真理や普遍性を主張する科学も、西洋の帝国主義に染め上げられているのである。科学も西洋帝国主義であるという視点はしっかりともつべきだと思う。
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■古代日本の戦争の変遷史 2005/8/7
『人はなぜ戦うのか―考古学からみた戦争』 松木武彦
講談社選書メチエ 2001 1700e
「人はなぜ戦うのか」という本というより、古代日本はどのような戦争の変遷をへてきたかという本である。だから哲学者が考えるような原理・原則の本ではない。私はもちろん哲学者が考えるような戦争原因論を読みたかったのだが、古代史をすこしかじったことがあるので、そっちのほうの興味からもこの本を読んだ。
考古学からいろいろなことがわかると感心した。著者は農耕社会が不作のリスクが大きいがゆえに戦争がはじまったと見る。また、古代の倭国家は各地に近畿と同等の古墳がつくられたことから、強力な中央集権がかたちづくられたのではなく、各地の英雄が倭の政権を擁立したと見る。なるほどである。独裁権力が成ったのなら、巨大な古墳など各地につくらせなかっただろう。
著者は戦争の発生メカニズムには二つの視点があるという。人口と資源の関係であり、あとひとつは地位と名誉、理念のコンセンサスである。経済と名誉のこのふたつが絡まり合って、戦争を生みだしているといえるだろう。
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■女子高生のひとり言はかわいいけど。 2005/8/10
『阿修羅ガール』 舞城王太郎
新潮文庫 2003 552e
女子高生のうだうだしたひとり言文体はかわいかった。好きでもない男とエッチして悩むような日常的な物語がえんえんとつづけばよかったと思うのだけど、二部からは話が飛んでワケがわかんなくなる。
アルマゲドンという凶暴な騒乱や、音や声を発すると怪物に殺される森の物語、三つ子を殺したグルグル魔人の独白なんかが出てきて、話についてゆくのがかなりむづかしくなる。
私が解釈するには自己嫌悪や自己憎悪が殺戮や凶暴性をまねくのだ、この物語に出てくる女高生や森の怪物、子どもを殺したグルグル魔人に通底するのはそれらなのだといっているように思う。
ある仏像職人がなんども阿修羅像を壊して新しくつくりなおしたように、自分たちを嫌悪し破壊しようとする心に殺人や凶暴性が宿るのだといっているように私には思われた。――かな〜?
まあ、おそらくこのころは犯罪少年ブームで、そういう少年たちの心を主題にしたのではないかと思う。いまはそういう話題はウソのようにすっかりなくなり、マスコミと心理学者が結託したあの犯罪少年ブームってなんだったのだろうと思う。マスコミという知識の商売に乗せられただけなのだろうか。マスコミによる自己反省がまったくなされていない。
舞城王太郎という作家は純粋に作品だけを評してもらたいから世間にはいっさい顔を出していないそうである。たしかに作家がアイドルとかヒーローになるのは恥ずかしい。自我のナルシズムの肥大を小説はまねいているように思われる。そういう物語自己はコッ恥ずかしい。「物語的自己に酔う私」というのがいやだったから、私は小説を読めなくなっていたんだっけ。
舞城王太郎はけっこうおもしろそうだからまた読もうかな。
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■人類学の戦争論 2005/8/13
『未開の戦争,現代の戦争』 栗本英世
岩波書店 1999 2800e
戦争を考えるなら、やっぱりヨーロッパの戦争より、未開や人類学の戦争から考えたい。集団の争いの原型があらわれていると思うからだ。(発展史観かな〜?) 広範な人類の争いを見たいと思うのだが、後進諸国へは強い興味がもてないことが問題である。
著者によると戦争にはふたつのイメージの原型がある。始原状態の人間は戦争を常態としていたホッブス的人間観と、文明の害悪に染まっていない無垢で平和的な高貴な野蛮人というルソー的人間観である。人類学はそのふたつの類型にあてはまることになる。
本書は未開民族のいろいろな戦争の形態がのべられたり、人類学の成果があげられりたりしているのだが、私自身の興味のなさから少しばかりの参考になった本という位置づけになるだろう。私自身は集団はなぜ争い合うのか、もしくは集団内の闘争はなぜひきおこされるのか、ということを考えたかったのである。
現代の戦争は約九割が第三世界で生じており、約4500万人が死亡した。85年以降は国家間ではなく、国家内の戦争なのである。ルワンダの94年の内戦では50万〜100万人の市民が殺戮され、スーダンでは93年の内戦で犠牲者は200万人に達したという。私たちやマスコミは西欧のほうばかり目を向けているから、世界の現状というものをかなり偏ってしか見ていないのではないかと思った。
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■文明の対比としての南洋幻想 2005/8/14
『南方に死す』 荒俣宏コレクション
集英社文庫 1994 520e
荒俣宏の興味やテーマは縦横無尽にひろがっているから、いったいなんの本であるかは整理しにくい。西洋が南の島にみた「楽園幻想」をたどる本といったらいいだろうか。荒俣宏は航海誌や旅行記などの博物学にたいへん興味をもっているらしく、そのへんが中心の本なのだろう。
西洋は16世紀以降の人口楽園づくりに幻滅し、自然状態こそが楽園なのだと思うようになった。ルソーなどの主張である。それを南の島に見つけたのである。自然の果実はとれほうだいに実り、南の島の住人は労働という原罪から解放されており、裸体で姿をあらわした女性は性に放縦であり、まさしく南の島は楽園だったのである。
南洋の楽園幻想は文明のネガであり、正反対の概念だったわけである。文明に抑圧されたすべてのものが南洋には存在するように思われた。しかし西洋はしだいに南洋を収奪するようになり、原住民を劣等視や差別して酷使するようになり、自国領にくみいれてしまう。
現代の歴史すら南洋は西洋に発見されてからの歴史が記述されており、はるか昔にかれらが暮らしはじめた歴史はまったく無視されているのである。
バリやタヒチ、フィジーやハワイはいまでも観光地としての南の楽園としてイメージされている。文明という抑圧の存在しない島と思い込まれている。それは空想の楽園――人が頭の中で勝手に創り出したディズニーランドのようなものでしかないのではないだろうか。
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■しずかな、青春小説。 2005/8/15
『パイロットフィッシュ』 大崎善生
角川文庫 2001 476e
しずかな、青春を回想する小説であった。19年ぶりにかかってきたむかしの恋人の電話から物語ははじまり、そのころを回想してゆく物語なのだが、彼女が見つけてきた出版社がエロ本の雑誌だったところから、どうなってゆくんだろうと話はおもしろくなった。
「人は、一度巡りあった人と二度と別れることはできない」と冒頭でのべられているように、この小説は人は記憶に拘束されて生きるというのがテーマであるようである。大人たちの生き方を否定した高校時代の友人が発狂してゆく様にそのテーマが見てとれる。
ただ私は過去の記憶をほぼ重要だと思わない人間なので、すぱすぱ忘れ去ってゆくことを信条としているので、このテーマの意味がいまいちわからない。記憶に拘束されてしまうのは自分自身の姿勢の問題だと思う。こういうメロドラマ的姿勢は感傷的な物語を美化するが、心の持ち方としては賢明ではないと思う。記憶と感情に蝕まれるだけであり、そういう姿勢は捨て去ることもできるのである。
タイトルのパイロットフィッシュは高級魚に適した水槽の環境をつくるために生態系を用意する魚のことをいい、のちには捨てられる。はて?、物語とどう関連しているのかがわからない。
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■未知への想像力 2005/8/15
『幻想の地誌学―空想旅行文学渉猟』 谷川渥
ちくま学芸文庫 1996 1100e
未知に対する人間の空想力のすごさを楽しめる本である。テーマは島、月、海、地底、砂漠、密林の美女などで、文学作品を中心に人間の想像力を狩猟してみせる。
月や地底など人間には知ることのできない未知の領域が、さいきんまではたくさんあったのである。ヨーロッパ人はそこを想像力によって埋めたのである。現代になって、あるいは人は大人になるにしたがって、そういう夢見る世界を失ってゆくものである。たまには神秘や闇の世界を思い出したいものである。
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■すいすい読める意味不明。 2005/8/15
『アメリカの鱒釣り』 リチャード・ブローティガン
新潮文庫 1967 514e
ブローティガンがいまごろ文庫になっている。読んでみようかという気になった。『愛のゆくえ』という作品がゆいいつ文庫で読める作品だったから読んだことがあるが、図書館のファンタジーであまり意味がわかるものではなかった。そして今回は――。
うへへ。「アメリカの鱒釣り」なるものがなんなのかさっぱりわかりませんでした。短い断章ばかりだからすいすい読みやすいのだが、なにを意味するのか皆目見当がつかない。そういう意味やメッセージの拒否がしくまれているのかとも勘ぐるが、あるいはちゃんと象徴されているものがあるのかもしれない。
ブローティガンはやはり村上春樹がおおいに影響をうけたという点で気になる作家である。初期の村上春樹はこのブローティガンとヴォネガットに強い影響をうけたのがよくわかる。重厚で写実的な物語の拒否は、ポップで現代的なスタイルをもたらしたのである。村上春樹はこの路線から離れていってカッコよくなくなっていった。越える作家はいないものか。
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■神秘的な日常の復権 2005/8/17
『あたしのマブイ見ませんでしたか』 池上永一
角川文庫 1999 552e
むかしの日本人は霊魂をどのように捉えていたかということに興味をもっていたときに気になっていた小説で、いまは小説を読みたい時期なので読んでみることにした。「マブイ」というのは沖縄でいう「魂」のことである。
むかしの日本人はよく魂を抜けるだとか、抜けない工夫とかをしていたのである。この小説にあるようにそんなことを本気で信じられたのだろうか。魂がうろうろするような世の中って、怪談以外なら、けっこう魅力的な世界観に思えるんだけどな。
この短編集はそのような不思議で奇妙な沖縄(石垣島)の世界を語ったものである。私は短編を読んでも物語が記憶に残らないことが多いのだが、この作品群はいずれも印象に残った。といってもものすごくよかったわけでも、よくないわけでもなかった。ビミョ〜なところである。
怪談をめざしているわけでもないし、ファンタジーというよりかかなり現実的な話だし、マブイとかユタなどの神秘的な世界がまだリアルに生きている日常を垣間見せてくれる点では興味が魅かれるのである。
科学的・合理的世界観はそのような闇の世界を葬り捨ててしまったが、神秘や不可解がのこる世界のほうが魅力的な気がするんだけどなぁ。神秘が日常に同居した生活というのは、われわれも子どものときにもっていたものだし、日本人も何世代か前までは抱いていたものである。頭の中でわかり切ったと思う世界ほどつまらないものはない。
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■悲惨な恋愛譚でありました。 2005/8/18
『あしたはうんと遠くへいこう』 角田光代
角川文庫 2001 438e
角田光代はふつうになれない人たちを描くという話をどこかで読んだことがあり、気になる作家になった。就職したり、結婚したりというふつうにはなれない若者たちがどんどん増えているのだ。ふつうは拒否したいのだが、ふつうからこぼれ落ちるのもつらいという時代なのだろう。
この小説は初めての恋愛小説と銘打たれているが、悲惨な恋愛話ばかりである。高校からはじまって、30過ぎまでちっとも関係がつづかない物語が、当時の音楽と絡めながら語られてゆくのだけど、あまり気分のいいものではない。
主人公は自分を軽くあつかいすぎるのだ。恋人やつきあう男も同じだ。そうして新しい男と長つづきしない関係をくりかえすことになる。
反省や自己分析をしないのかと思うが、関係がうまくいかない原因を見つけるのってだれでもむずかしいと思う。わからないのである、なんでこの関係がうまくいって、この関係がうまくいかなかったのかって。
安野モヨコの『ハッピーマニア』みたいな恋愛狂に近いと思うが、こっちのほうがリアルであり、ギャグですまないところがあり、自分をぜんぜん大切にしていないってことが浮き彫りになる。たぷん恋愛のときめき感だけに魅かれて、関係を深めるってことが重要に思えないんだろう。信頼や信用のない浅い関係ばかりがつづいてゆくことになる。
でもやっぱりそこには親の家庭で見た終身婚の軽蔑や不快感があるのだろうと思う。ふつうで健全な関係というのはムリをしているのだが、そこを暗黙の目標にしてしまうところが、私たち後続世代のなんともいえない欠損感をもたらすのではないかと思う。終身結婚制度は壊すべきなのか、健全な目標でありつづけるべきなのか。
この物語を読んでいる最中、著者の角田光代自身の恋愛談が書かれているのかそうでないのかとずっと気になったが、小説って個人的体験の狭い範囲に規定されるものではないかと思う。それは読む価値あるものなのだろうか。小説は普遍的体験を描きえるものなのか、疑問に思った。
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■近代文学をどう乗り越えるかという本 2005/8/20
『現代小説のレッスン』 石川忠司
講談社現代新書 2005 720e
新しい読みたい作家を見つけてくれるガイドブックを期待したのだが、違った。つまらない近代文学を現代作家がどう乗り越えようとしているかの話で、そんなことは私ほぼ興味がない。だからテーマの根幹が楽しめない。現代作家のおもしろさを見つけてくれる本のほうがよかった。
文芸評論の本ってこんなことにだれが興味あるのだろうという印象がある。教育関係の人しか読まないのではないかという偏見がある。ひとりの作家、ひとつの作品やトピックを長々と論じる興味や根性はどこからわいてくるんだろうと思う。私は文芸評論は社会問題や時代の問題にコミットメントしてほしいと思うのだけど、そこではじめて興味をもつことができるのだが、違うところに価値があるようである。
おもに村上龍や保坂和志、村上春樹など論じられている。村上春樹の喪失感は恋人の自殺があったからではなくて、まずはじめから喪失感や罪悪感があり、それを打ち消すために原因がデッチ上げられるというのはなるほどと思った。フロイトは犯罪者に強い罪悪感がはじめからあり、それを打ち消すために犯罪を犯すのだといったが、その構造が村上春樹の作品群にみてとれるというのだ。
この本は帯に新しい作家がいろい書かれていたからそういう本を期待したのだが、本を選ぶときは内容をしっかりと確かめようということでした。新しい魅力的な作家を紹介したブックガイドはないものかな〜。
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■村上春樹のカッコよさから逃れたい。 2005/8/21
『アメリカ文学のレッスン』 柴田元幸
講談社現代新書 2000 680e
柴田元幸はアメリカ文学の紹介者として村上春樹とともになくてはならない存在であるそうである。私は村上春樹のカッコよさや影響から逃れたいとずっと思ってきた。アメリカ文学を読むというのは村上春樹の圧倒的な影響力から脱するということでもある。でも村上春樹のひとり勝ち状態はまだつづいているのだろう。
この本は名前や食べる、建てる、破滅、勤労、ラジオといったキーワードからアメリカ文学を縦横無尽に語った本である。人生の薀蓄や深みについて達しそうな考察や、社会学的・歴史的考察がきらりと光るところはあるのだけど、う〜ん、偉そうなことをいうけど、もうあと一歩かなという感じかな。感動や深遠さには達していないと感じるのである。
アメリカといえば、フランクリン流の「アメリカン・ドリーム」だけど、やっぱり私はヘンリー・ミラーの次のような言葉に共感する。
「あっちじゃみんな、いつの日か合衆国大統領になることしか考えない。〜こっちは違う。〜もし何か一丁前の人間になったとしたら、それは偶然であり、奇跡なのだ。
〜だが、まさにチャンスがほとんどないからこそ、希望がほとんどないからこそ、こっちでは人生も楽しい。一日、一日ただ過ぎていく。昨日も明日もない。〜とにかく、絶対に絶望しないこと。
〜希望のない世界、だが絶望もなし。」
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■カルヴィーノの寓話はいいけど。。 2005/8/22
『見えない都市』 イタロ・カルヴィーノ
河出文庫 1972 850e
イタロ・カルヴィーノは『まっぷたつの子爵』と『不在の騎士』を読んだことがある。コミカルな寓話が楽しかった。
大人向けの寓話ってけっこう楽しめると思う。いっときの童心に帰る楽しみを想い出させてくれるし、すぐにテーマがわかる内容ならなおさらいい。難解で意味もわからない寓話は願い下げだけど。カルヴィーノは安部公房のような寓話に近いと思う。あと村上春樹ももちろんそうである。ほんわかとした寓話の味わいが安らかである。
ひさしぶりに小説の本棚を見てみたら、カルヴィーノの文庫が何冊も出ている。この本はマルコ・ポーロがチンギス・カンにいろいろな都市の話をするという内容である。「都市と記号」「都市と欲望」「都市と眼差」といったタイトルは現代思想的である。
はっきりいって、私のイメージ力の貧困さからほとんど都市のイメージがわいてこなかった。なんでこんな話をするのかも、なんのためにこのような話をするのかもちっともわからなかった。都市論や文明論に見えるけど、物語る行為を問うているのかもと解説に書かれてあった。まず私には読解できない本であった。
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■村上春樹のオーラとヴォネガット 2005/8/26
『タイタンの妖女』 カート・ヴォネガット・ジュニア
ハヤカワ文庫 1959 640e
ヴォネガットは初期の村上春樹に濃い影響をあたえたから気になる作家になった。そうでなかったら、ユーモアやシニカルさは楽しいけど、私にとってはストーリーはイマイチというこの作家の何作も読まなかったと思う。
いわば村上春樹の滋養や栄養分を味わいたいがゆえに読んでいたといえる。それ自身のみの魅力となったら私にはその作品を手にとっていたかはアヤシイ。好きなアイドルが読んでいたから読んだという本に近いのである。
『猫のゆりかご』『チャンピオンたちの朝食』『スローターハウス5』『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』と読んだ作品は、いずれもヴォネガット特有のシニカルさやユーモアはこの人にしかない卓越した素質だと思うのだけど、ストーリーを読ませる魅力はあまりなかったように感じるのである。
ヴォネガットは日本の村上春樹人気にあやかってどれほど読まれたのかわからないけど、こういう読まれ方をしたとするのなら、ヴォネガット自身にはよいことだったのか、不幸なことだったのか、むずかしいところだと思う。村上春樹のオーラや文壇の評価がなかったら、SFのヘンなユーモア作家くらいのイメージしかもたれなかったと思う。
『タイタンの妖女』というこの作品は全能者の宗教家(?)に大富豪が操られるという話だが、ヴォネガットのシニカルな文体はたまらないと思うけど、ストーリーはなんだったのかな〜という感じが残った。私はテーマやストーリーを読みこなすのがかなり貧困だからまったく正当な判断ができないが、人類の目的に意味なんかないみたいなことをいっていたのかな〜と思う。
記憶を消される軍隊のシーンがおもしろかったくらいで、ストーリーにはあまり魅力を感じなかった。でも何度もいうけど、ヴォネガット特有のシニカルなユーモアはほんとにこの人にしか書けないものだ。
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■唯川恵と選択の迷い 2005/8/28
『肩ごしの恋人』 唯川恵
集英社文庫 2001 600e
唯川恵というのは女のVSを描く作家だと思う。生き方や性格の違う女性を対立項として登場させるのである。いうなれば選択の迷いである。あれもこれもなれたかもしれない女性の選択の可能性を何パターンも比較しているのである。
この作品で比較されているのは結婚を何度もする女と結婚したくない女、または女を武器にする女と、女であることを弱点と思う女である。こういう比較をすることによって女性の選択の良否を探ってゆくのが唯川恵の作品の特徴だと思う。
唯川恵はほかのさいきんの女性作家とくらべて安心して読むことができる。ふつうに楽しい。じつにフツーっぽい等身大のOLや女性たちが主人公なので身近に感じることができる。ふつうすぎるから直木賞には値しないとかもいわれるかもしれないが、ふつうだからこそ、そんなことも関係なしに読者には読まれる作家なのだと思う。恋愛や人間の観察眼にもためになることもあるし。
作品を読んでいるときにいつも気になるのは唯川恵本人の幸福や状況のことである。いろいろな女性の陰には唯川恵自身の幸福観や選択の迷いが透けて見えるように思うのだ。作品の登場人物より、唯川恵本人は幸福なのかどうかばかりが気になるのである。
選択の迷いをつむぎ出しつづけるこの女性作家はいまも選択の分かれ道でとまどっているように思えるのである。それはおそらく選択が無限に楽しめる消費社会の、けれども人生は何度も選択できないという矛盾の中に、多くの人がおかれていることと重なり合うのだろう。
「カネでモノは買えても、人生は買えないのである。」
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■ハードな思弁小説 2005/8/31
『僕のなかの壊れていない部分』 白石一文
光文社文庫 2002 619e
白石一文はぶあつい文庫が何冊か出ていて、はじめて読む本は選びにくかった。この本は表紙のくま?のイラストがかわいいし、タイトルもインパクトがあるし、ポップな内容なのかなと思ったけど、てんで違った。
重い。主人公は性格が悪い。知的な会話で相手を責める物言いは容赦がない。ストーリーもほとんどあってないようなものである。
思弁小説である。人生の生きる目的や生や死を深く問いつめていて、その真摯に考えるさまはよいものがあると思うけど、私はめったにそのようなことは考えないので、興味がある人には深い思索が提供されるかもしれない。線をひきたい箇所は何ヶ所もあった。私はほえ〜、そういうことを考えて生きるているのか、と参考になった程度である。
もしかしてドストエフスキーをめざしているのかと思ったりするが、こういう生や死を深く考える作家というのは近ごろではそうそういないのではないかと思う。それにしてももうすこし物語でそれを語ってくれよといいたくなるが、でないとハードすぎて小説としてはおもしろみがないと思う。思索を読んでいるとなんとなく宮本輝を読みたくなった。
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ご意見、ご感想お待ちしております。
ues@leo.interq.or.jp
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