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■050703書評集 植民地主義と序列
■残虐非道の数々 2005/7/3
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』 ラス・カサス
岩波文庫 1552 560e
もう、いやになるくらい残虐非道の数々を見せつけられる。スペイン人が1500年代に中南米でおこなった暴虐や殺戮を、スペイン皇太子に報告するというかたちをとったこの本は、眉をしかめっぱなしにしないと読めたものではない。
誇張としか思えないほどの何百万もの単位のインディアンが殺戮されてゆくのである。友好的なインディアンをだまし、殺してゆくパターンは中南米の各地で判を押したようにくり返された。あまりにもリアルな殺戮方法がのべられるので、これはちょっと意図的な作為があるのではないかと思わなくもない。これは侵略や植民地といったものではなくて、戦争の殺人となんら変わりはない。
ヨーロッパ近代はこのようなかたちをとってはじまったのである。これが文明や先進国といわれる高度なものがおこなうものなのか。殺戮が文明にかならずつきまとうものだとしたら、文明という至上価値こそ突き落とさなければならないと思う。
ちなみにこの本は西欧でいろいろ政治的に利用される書物となったそうだが、西欧崇拝の日本には1976年になってようやく翻訳されたそうである。「文明」の暗黒面に目をふさいでいたかったのだろうか。
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■文章が難解です。 2005/7/9
『ディスタンクシオン T -社会的判断力批判』 ピエール・ブルデュー
藤原書店 1979 各TU巻 6195e
U
「趣味」と「階級」についてのべられた本であり、前々から読みたいと思っていたのだが、藤原書店の本は高すぎて読む機会を逸していた。藤原書店は高級感のあるがっしりした本を出しているのだが、こんなに高ければ読めないではないかと思う。
今回、メールのやりとりをしている黒田さんからU巻をゆずってくれるとの話があり、T巻はやはり図書館でざっと目を通してみた。T巻は総論で、U巻は各論になっているらしい。
趣味の階級性については私自身も日頃から感じている事柄なのでそう難しくはないと思っていたのだが、ブルデューの文章はひじょうにわかりづらい。文章が長すぎるのである。言葉も難解である。煙に巻かれたような文章にはまいった。わかるところしか理解するしかない。
おかげで感想を書くほどの全体的な理解を得られたとはいいがたい。趣味も絵画やクラシック音楽が中心になっており、その階層性もよくわからない。私としては読書の階層性――つまり自分が読書になにを求めていて、それは階層への欲求なのかということを知りたいのだが、読書への言及は少なかった。
趣味というのもやはり階層に欲求づけられているとブルデューはこの本で暴露したのだろうか。「ディスタンクシオン」とは「卓越化」や「差異化」「差別化」のことである。われわれはさまざまなものでそのようなディスタンクシオンを競っている。ファッションに音楽に読書に、学歴に企業に自集団にと、あらゆるものがディスタンクシオンの道具になっている。商業や経済はそのために回っているといっても過言ではない。
われわれはそのようなディスタンクシオンを客観視できるようになり、自分の優越願望が恥ずかしくなる達観が得られればいいと思うのだが、そのためにはこの本はまだまだ難解すぎるのでした。
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■心理学人気の陰で絶版? 2005/7/10
『精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー』 小俣和一郎
講談社現代新書 1997 640e
97年に出版されたばかりなのにもう絶版になっている。心理学人気の陰で、批判精神が忘れられているためだろう。
知識の崇拝は危険である。心理学のように人を裁く権利をもつ知識ならなおさらのことである。精神医学は人を断罪するばかりか、安楽死の権利さえもつ時代があったのである。
ナチスのホロコーストは精神病患者からはじまったのである。そして今日でも名前が知られる精神医学者がそのことに関わっていたことがこの本から知ることができる。
ユングやハイデガー、ヴァイツゼッカーも「全体性」や「統合性」をもとめる思想をもったがゆえにナチスの思想に加担したのである。全体のために、民族や国家のために劣等な個人は犠牲になってもかまわない、あるいは積極的に抹殺すべきだとの見解がなされたのである。
ヴァイツゼッカーはいっている。命を助けるために火傷した足を切り落とす必要があるように、民族を救うためには一部の病んだ人間を抹殺することが必要なのであると。そういう全体や国家や民族を至上においた思想から大量殺戮はうまれるのである。
精神医学だけではなく、知識がどのような恐ろしい面をもっているかという面からもこの本は読まれるべきである。知識に人を断罪する権利を与えるべきではないと思う。
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■先進文明の闇の歴史 2005/7/12
『アメリカ・インディアンの歴史』 富田虎男
雄山閣 1982 1800e
アメリカという国はもともと住んでいたインディアンを虐殺したり、追い払ってできあがった国である。いうならば、われわれが住んでいるこの日本に勝手にやってきて、東京や大阪から追い払ったようなものである。
なんでこんなことができたのだろう。文明的に優越したと思った国は、または自分たちの植民地利益のためには、その土地の住人は抹殺したり、追い出す権利があると思ったのだろうか。どこからこのような発想は生まれたのだろうか。
それが文明や科学の優越さゆえだとしたら、こんな恐ろしい放漫な考えはないというものである。未開や野蛮、劣等な民族は絶滅しなければならないという「科学」は現実に猛威を振るったわけだから、人間の優越意識にはそうとうの警戒が必要である。
この本を読む前までは、西欧人は虐殺や殺戮などの進軍だけでつきすすんだと思っていたのだが、意外に広大な土地で展開された歴史だけあって、交渉や策略ありの複雑な歴史をたどってきたんだなと思った。西欧人側についたインディアンと抵抗する民族をたがいに仲たがいさせたり、インディアン保留地への白人の進出が禁止されたり、逃亡黒人奴隷とコミューンがつくられたりと、複雑な過程をへているのである。
西欧諸国というのは自由や民主をうたった国であるのだが、そのためにはインディアンの排除や人権の侵害が表裏一体になっていた。人権宣言をおこなった歴代大統領もインディアンを排除してきたのである。インディアンが独立や自由を主張すれば、撲滅や追放の対象となったのである。
文明人の自由や民主というのは多くの人たちの礎や犠牲の上にしか築かれないものなのかもしれない。西欧近代の輝かしい近代文明に無条件の善や讃美を与えるのは、愚かというものである。
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■古本は慎重に選びたい。 2005/7/17
『植民地近代の視座―朝鮮と日本』 宮嶋博史 李成市ほか[編]
岩波書店 2004 5500e
天満橋の古書ブックフェアで見つけたから思わず買ってしまったが、これは私の選択ミスであった。古本で三千円もかけた本なのにイタイ。古本は割安感と売り切れる心配があるからつい買ってしまうが、もうすこし慎重度を加えなければと思う。
私がいま知りたいと思っているのは集団間の優劣感あたりだと思うので、それが科学的知識にどのように正当化されるかといった問題を中心に考えたいので、この本のテーマとはだいぶ違った。似たようなことを語っているようにも思えるのだが、参考にはならなかった。
この本は東アジア歴史フォーラムから生まれた『国史の神話を超えて』の日本版である。東アジアで歴史問題が騒がれているからその克服をめざしてのワーク・ショップが開かれたそうである。おもに植民地時代の朝鮮をあつかった論文がおさめられており、私はそこまでは興味を広げられなかった。国史やナショナリズムを克服しようという趣旨にはひじょうに賛同するのだけど。
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■西欧文明500年の残虐非道さ。 2005/7/18
『侵略の世界史―この500年、白人は世界で何をしてきたか』 清水馨八郎
祥伝社黄金文庫 1998 600e
文庫では西欧500年の植民地時代をあつかった本はこの一冊くらいしかみあたらないので私の「GREAT BOOK」に推薦します。日本びいきの論理には閉口するところも多いのだが、西欧文明の残虐さや非道さを500年スパンで全体的に紹介した本がなかなかないので、この本はたいへんに参考になり、一気に読んだ。
もう西欧文明はひどいというしかない。この歴史はなんだと思う。西欧は近代の500年の間に約一億人のインディアンを虐殺もしくは伝染病などで滅ぼし、黒人を奴隷として約一億人を酷使し、そして世界中を思いのまま勝手に侵略、征服、領有化したのである。
現代の世界もしくは日本の近代はこういう世界情勢から見ないとなにも見えないと思う。はっきりいえば、西欧暴虐の時代はまだつづいているのであり、現在進行中である。この植民地時代のつづきとして現代を見なければならない。
西欧文明を「善」や「崇拝」として見る見方は支配的だが、「悪」や「残虐非道」として見る視点もぜったいに必要だと思う。先進文明は高度な文明を達成したばかりではなく、高度な大量殺戮や侵略をおこなってきたのである。これは強力な文明に不可避的に付随するものなのだろうかと思う。
日本は白人支配にたちむかった唯一の有色人種として讃えられることもできるが、そういう対立だけで文明の無条件讃美をおこなったままでは西欧文明の非道さのわだちを踏むことになるだけである。先進文明と呼ばれる者たちがこの500年世界中でくりひろげてきた残虐非道の数々を、文明を讃美するわれわれは忘れるべきではないのである。
なんだか植民地支配の時代の重要さが忘れられている気がする。現代社会もしくは文明を考えるためにもこの時代はものすごく重要だと思うんだけどな。日本の大東亜戦争や植民地時代、げんざいのイスラム情勢はこの時代から見るとよく見えると思う。
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■集団の優劣序列を正当化する科学 2005/7/25
『人種概念の普遍性を問う―西洋的パラダイムを超えて』 竹沢泰子=編
人文書院 2005 3800e
がっしりしていて、分厚いこの本は、所有するだけで高級感がもてる本にしあがっている。といっても、しっかりと頭に入れられなければ何の役にも立たないのだが。
500ページを越すこの本は読むのにだいぶ時間がかかった。まったく興味がないのでも、またとくべつに衝撃をあたえた一文にも出会わなかった。人種についての本がげんざいではかなり少なくなっており、いきなりこのような大部な著を読まなければならなかったわけである。あまりにも多くの事柄に言及されており、頭の中で整理するのがむずかしいというものだ。
私は人種差別にとくべつの問題意識や危機感をもっているわけでもない。科学がそのような差別的言説にどのように利用されてきたかを知りたかっただけである。つまり科学の政治学である。
科学が客観的・中立的立場を逸脱して、集団差別や序列に偏向するような知識をつくりだしてしまうことに、警戒感をもって読んだわけである。つまりは科学も自文化中心主義や自民族優越主義から逃れられないのかという問いである。
科学者たちは他民族の頭骨のサイズをせっせと測ったりして彼らを劣位に序列づけたりしたのである。科学というのは人類の優劣序列を正当化するために存在するのかと思ってしまう。
この本はさまざまな学会からの論文があつめられている。ヨーロッパや北米の人種、近代日本の人種、中国やインドの人種概念、また生物学による人種概念などかなり包括的な報告書となっている。
「人種差別の本質は、集団的な差別であり、人種はそのための標識として使用されているにすぎない」――問題は人種ではなくて、集団への差別観にあるのだろう。集団が争い合うという恐怖がなくならないかぎり、新たな差別標識は再生産されるというものである。
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■不幸から脱出する思考法の模索小説? 2005/7/25
『NHKにようこそ!』 滝本竜彦
角川文庫 2002 552e
電車で読む文庫がなかったことと、新しい現代作家を読みたいということで、とりあえずこの本を読んでみた。ブッ飛んだひきこもり具合がおもしろいかな、と。
どうなんでしょうかね〜、さいきん小説なんかめったに読まないから、小説自体がなんのために、だれに向かって、なにをいうために存在しているのかよくわからなくなっているのですが。
この小説に出てくる登場人物はひきこもりとロリコン・オタクと家庭に事情をかかえた少女という不幸を背負った者ばかりである。そういう底辺をのたうちまわりながら、ブッ飛んだ思考や行動がおもしろおかしく描かれている作品である。
少女はプロジェクトと銘打って主人公をひきこもりから脱出させようとするのだが、彼女自身も自分よりダメ人間と思われるひきこもりを救うことで自分を癒そうとする少女であった。まあ、なんやかんやでひとりひとりふつうのレールに戻ったのかな〜?という話でした。
ひきこもりについて思ったのは顔に泥を塗られるのをひじょうに怖れるということである。自分の恥に自家中毒しているのではないかと思った。少女は自分より劣った人間を探すことにより救われようとしたが、ひきこもりも世界中のもっと恥を負った人を見つければいいのではないかと。
主人公は世界に悪や陰謀を見つければ癒されると思ったりするのだが、さいごは少女と死なないと拘束しあうことで幕を閉じる。いうなれぱ、不幸からの脱出するための思考法がずっと模索されているのがこの小説といえるのではないかと思う。
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■欲望を裁くことの不在 2005/7/29
『娼年』 石田衣良
集英社文庫 2001 400e
新しく出てきた作家を読んでみたいことと、やっぱりエロいものに魅かれるのは男のサガか、石田衣良のこの本を手にとった。大学生が娼夫になる話である。
少年が性や欲望の深みを知ってゆくという成長物語のようである。そして幼いときに死んだ母への悲しみが癒されるという話でもあった。女性の欲望を知ることによってなぜ癒されたのかは私にはわからなかったが。
性が売買されることへの批判的観点はほとんどなく、どちらかというと性や欲望を知ることが肯定されるような物語だったように思う。女性の性や欲望が淡々と描写されている。
ここには売春への批判や終身恋愛観へのしがみつきが微塵もなく、日陰の生活であるというやましさや不安もほとんどない。欲望を人間の中のふつうにある要素として受け入れているだけである。まるで社会通念や社会道徳がないかのごとくである。
そういった色づけのされない世界には、「悪く」もない、「けがらわしく」もない、無色透明の欲望があるだけである。ものごとの「良いか悪いか」を裁いてしまう自分が解きほぐされてゆくような物語といっていいと思う。
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『My First Love』 浜田省吾
2005 2059e
ハマショーの4年ぶりのオリジナル・アルバムである。バラード・アルバムの『初秋』からは2年ぶりである。
私は根本的にバラード好きである。バラードのいい曲があれば名曲だと思うし、最高だと感動的する。そういう個人的好みからすれば、ノリのいいロック調を前面に押し出したこのアルバムはおそらく私の好みではない。さいきんのハマショーは「やかましい」と思ってしまうのだけど、ノリのいいライブが好きなファンも多いのだろう。
私はどろどろのラブ・バラードの『Sand Castle』をとても愛好しているし、『愛という名のもとに』や『とぎれた愛の物語』、『19のままさ』とか『君に会うまでは』、『君が人生の時』などのバラードを名曲と思うファンである。
デビュー・アルバムの『生まれたところを遠く離れて』のフォークの弾き語りのような曲調も好きだったし、初期の数枚のアルバムの貧相な演奏の曲も好きだった。『J
BOY』や『Promised Land』のような社会派のアルバムやサラリーマンを批判した唄などがとても好きだった。
さいきんのハマショーはどのくらいの年齢のどのような人に向かって唄っているのか混乱しているように感じる。そりゃあ、もう50代だしね。十代に向かって切ない恋愛の曲はそう唄えないよね。
この新しいアルバムにはほぼ深刻なバラードがない。私はそういう悲しい曲を聴くことによってカタルシスを得るのだけど。私にとっての音楽とは悲しみによって心を洗うことなのである。
『光と影の季節』や『この夜に乾杯』、『旅立ちの季節』というさいしょの曲はやっぱり私にはよさがよくわからない曲調である。『Thank you』は自殺未遂をおこした女性の詩で、なんでこんな曲が唄われているのかわからない。
『デスク越しの恋』でようやくハマショーのお得意のラブ・ソングを聴けるという感じである。『I am a father』は父親の応援歌で、まあいい感じだ。『花火』はふいに家庭を放り出した男の詩で、しみじみといい。
『初恋』はこのアルバムのタイトルにもなった曲で、ハマショーにとっての初恋――ロックン・ロールへの讃歌を唄っている。なかなかいい曲だ。さいごのほうの『君と歩いた道』と『ある晴れた夏の日の午後』は深刻なバラードが閉めてくれればありがたかったのだが、どうもそういう曲ではないようだ。
まあ、私は完全にバラード好きであるから、このアルバムはそうではなかったということである。ハマショー節を聴いていると「あ〜いいな〜」と思うときもあるけど、愛好するアルバムにはなりえないだろうなと思う。
つぎのハマショーはやっぱりバラードを多く唄ってほしいものだが、人生や社会をもっと語ってほしいと思う。人生の渋みを唄うような、いうなれば演歌のような詩を唄ってほしいのだけど、まだノリのいいロック調の曲ばかり唄うのだろうか。なんかシングルを出して元気のいいハマショーを見るたび、ハズしている感じがするのだけどなぁ。私はバラードのハマショーだけになってほしいんですが。 2005/7/30
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ご意見、ご感想お待ちしております。
ues@leo.interq.or.jp
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