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 ■050503書評集 イデオロギーとしての学問


 ■沖縄もアイヌ人も植民地国なのか         2005/5/3

 『日本人という自画像―イデオロギーとしての「日本」再考』 ましこ・ひでのり
 三元社 2002 2300e

 


 私があまり知らなかった世界だった。

 要は沖縄やアイヌ人を韓国や中国のように植民地化された国だと見なせということなのだろうか。それらが併合されるのは明治維新後である。私には著者が自明としている前提がよくわからなかったから、そこのところが読みとりにくかった。

 ミシェル・フーコーばりに政治批判的に日本という国民国家を読みといており、そんなに厳しく政治批判的に深読みしなければならないのかと思った。

 ただ「多数派日本人」という権力や差別にあまりにも無自覚だった点は反省しなければならない。まだまだ国民国家日本の暴力というものにはあまりにも無知すぎたことがわかるだけである。もうすこし追究しなければならない問題だと思う。

 銘記したい部分を抜き出そう。1960年以降の大国は「植民地なき帝国主義」を実践している、旧宗主国は軍事的圧力をかけずとも旧植民地から以前にも増した収益を維持できるシステムづくりに成功した。

 帝国主義は植民地の「未開」や「後進」をひきあげる「慈愛」の表現だと思われている、被差別者のイメージは差別者の抑圧された自己である、稲作文化論は天皇制をふくめた国民国家イデオロギー装置のやくわりをはたしてきた、日本人意識の大衆化は総力戦体制下/敗戦/東京五輪、高度経済成長など国民的経験の産物にすぎない。

 近代観光とは擬制的身分秩序があじわえるもの、現地を「みおろした視線」で観光するという身分の行為の権力性を得ること、さっこんの学力低下論争は教師-生徒関係の正統性のゆらぎ、勉強が将来役に立つという注入モデルの崩壊、または教養と担い手としての自分の特権化ではないのか――。

 国民国家日本を政治批判的に見る目というのは私にはあまりにも育っていない。多数派日本人であることに無自覚であった。一枚岩的な日本人観や国家観は幸せであるけれども、知識の政治性といったものはぜひとも見極めたいと思うので、この問題はもうすこし追究してゆきたいと思う。

 知識とは真理追究というよりか、政治権力追究ではないのか。





 ■イデオロギーとしての日本人論         2005/5/5

 『文化ナショナリズムの社会学』 吉野耕作
 名古屋大学出版会 1997 3200e

 


 ひじょうに厳密な学術的方法をもちいており、読むのに少々疲れたが、よく読まれる日本人論がどのようにナショナリズムと結びついたり、どのような消費のされ方をしているかなどが分析されており、知識社会学という分野はあらためて重要だと思った。

 日本人論はたくさん出され、たくさん読まれているのだが、それは企業内連帯や集団的和を重視する経営・支配イデオロギーになっているとされる。

 日本文化論の手にかかれば、企業や国家への忠誠や献身は、日本民族の性格に由来するもので、支配や強制によってつくりだされるものではないという正当化のイデオロギーに化する。

 日本人同士では以心伝心で心がつたわり、集団的和を重視し、自己主張しない――そのような日本人の規定を聞かされて、われわれは知らず知らずのうちに日本的規範と思われているイデオロギーに従うのである。

 70年代から80年代にかけて日本人論は最盛期をむかえたが、その説明理論は現状の肯定や受容、あるいは従うべき規範と感じられたり、または国民的統合をうながしたり、独自性や優位性を感じさせたりするものであったのだろう。

 なによりもそれが権力の正当化イデオロギーとしてもちいられたとするのなら、どんなに脅威であり腹だたしいことか。

 学問であれ知識であれ、どのように政治にもちいられるのかという知識社会学的視点はたえばふところに忍ばせる必要を感じさせた。

 この本により読んでみたい参考文献を何冊か見つけたが、私が追究したいのは多く紹介されている日本人論ではない。学問や知識がどのようにイデオロギーやナショナリズムとして作用しているかということである。知識の政治性を問いたいのである。迷い込まないようにしたい。





 ■もっと厳しく読んでほしかった本。         2005/5/8

 『志賀重昂『日本風景論』精読』 大室幹雄
 岩波現代文庫 2003 1100e

 
   志賀重昂

 日清戦争のさなか明治27年に出版されベストセラーとなった志賀重昂『日本風景論』をまさしく精読した本である。

 読みつづけるのにかなり倦んだところがあった。私の期待したナショナリズムとして批判に読みこむ作業があまりおこなわれていなくて、ほとんどエッセイを積み重ねるような精読の方法だったからだ。

 私は知識がナショナリズムや国家の優越意識にどのように利用されるかということを知りたいのである。内容や著者の周辺をくどくどとのべるような著作は期待していない。反日家やフーコーやアルチュセールばりの批判意識をもつ人の著作を読みたかったのである。だからこの本はミスった。

 志賀は日本の風景が世界一優秀だといったが、ヨーロッパの名勝地を日本の名勝地になぞらえるという矛盾をおかした。またこの本は国威発揚に役立った。学術的な地理学書も感情的なナショナリズムの本になるのである。

 風景を愛する心は郷土愛になり、愛国心となり、ナショナリズムとして利用されてゆく。ナショナリズムではない風景を愛する心は不可能なのか。日本の風景を愛するということ自体がナショナリズムなのか。




GREAT BOOKS

 ■「日本人の故郷」というイデオロギー      2005/5/15

 『柳田国男讃歌への疑念―日本の近代知を問う』 綱澤満明
 風媒社 1998 2800e

 


 どうやら柳田国男の役割は、急激な西欧化にたいする日本の民衆のナショナル・アイデンティティ確保にあったようである。日本の民俗や村を美化し、「稲作」でくくることにより、民衆を「国民」としてひとまとめにするイデオロギーを生み出したのである。

 西欧近代化だけなら国民をひとつにまとめる力は生まれない。「日本国民」として、「日本人」として、結集させる力が必要になる。個別に国家とは関係なしに生きてきた日本の村々や民衆を画一的に共通のものとして結集させるイメージが必要になる。そこで柳田は民衆がひとつになれる「日本民族のふるさと」というイメージをつくりだしたのである。「国民国家」創出の神話づくりがここでおこなわれた。

 柳田の国家にまつらわぬ者としての「山人」研究から、稲作による「常民」研究の移行は、権力支配や対立や争乱から目をふさぐ国家ナショナリズムへの移行だといえるだろう。柳田の民俗学は画一的な民衆統合のイデオロギーとしてもちいられたのである。

 この本ですっきりとそのようなことが理解できたように思う。あまりメジャーな出版社でも著者でもないようだが、この本を私のGREAT BOOKSに推したいと思う。ただこの本の後半は近代の思想家が数人とりあげられていて、こちらはあまり読むものがない。

 柳田国男のナショナリズム性は村井紀『南島イデオロギーの発生』(岩波現代文庫)でもとりあげられているが、こちらのほうはちと理解が難しい。学問を政治イデオロギーとして読み解く視点はぜひとも培いたいものである。





 ■学問の差別意識に警戒しろ        2005/5/19

 『オリエンタリズムの彼方へ―近代文化批判』 姜尚中
 岩波現代文庫 1996 1100e

 


 ちょっと言葉が難渋すぎて、オリエンタリズムの入門書のつもりで読んだのだけれど、もう一冊入門書を読まなければわからないと思った。フーコーの紹介はほかの人がいくらでもしているのだから、難解=高尚みたいな独りよがりの文体はもう読みたくなくなるのだけれど。

 オリエンタリズムというのはかんたんにいえば、西洋が東洋をおとしめる見方、先進国が後進国を蔑視することではないのか。こんな視点はだれだってわかるだろう。難解になるべきかは疑問である。

 植民地政策には学問が先行した。オリエンタルは「「後進的」「退行的」「非文明的」「停滞的」と結びつけられて、それは学問によって正統化されたのである。

 現代人の錯覚によると、知識というのは真理や自由の領域であり、権力とまったく関わりないと思われている。しかしフーコーによるとそれはまったく逆で、知識にはさまざまな権力が結びついており、自由の領域などないことになる。私はいまこの知識の政治性こそ暴きたいと思っているのである。

 日本帝国も朝鮮を植民地化するときに「日鮮同祖論」や「朝鮮停滞史観」などがとなえられた。進歩のない韓人は「有力優勢たる文明」である日本民族が教化しなければならないというわけである。

 オリエンタリズムや植民地主義の歴史にのなかには数々の学問や知識の権力による歪曲や捏造、正当化がおこなわれ、学問によるイデオロギーの宝庫のようになっている。われわれもアジアやアフリカ、イスラムが劣っているという知識を学問的に、あるいは心情的にもっていることだろう。われわれはいまも他国を劣等視する知識や学問をシャワーのように浴びており、その前提を疑うこともない。

 学問や権威だからといって単純にその言説を信じてはならない。その言説こそが自分たちは優れており、他者は劣っているという高慢男のたれ流しにもっとも近いのだから。そんな情けないオトナになりたくないと思うのだけど、学問はあたかも中立客観の顔をしながら、そういうことを平気でやりつづけてきたのである。学問の差別意識に警戒しろ。





 ■「自文化優越主義」の勘違いと怖ろしさ。      2005/5/22

 『ポストコロニアリズム』 本橋哲也
 岩波新書 2005 740e

 


 まったく子どもっぽいことだが、西欧や先進国は自分たちの基準をもって自分たちは優れたものだと思いたがる。客観中立なはずの知識や学問もあからさまに自文化優越主義をとなえ、恥じることもない。

 歴史学や学問には情けないほどの自文化優越主義の正当化がおこなわれている。そしてそれが恐ろしいことに未開地の植民地化を正当化するばかりか、義務とさえ思わしむるにいたる。西欧は自分たちは優れた教師と思ったばかりに虐殺や侵略をともなう世界の植民地化はおこなわれてきたのである。

 植民地化の前にはそれを正当化する知識や学問が発展する。食人種が描かれたり、未開で野蛮で非文明的な人種像がかたちづくられる。「ヨーロッパ人は、奴隷と怪物を拵えあげることによってしか、自己を人間とすることができなかった」(サルトル)。 東洋像とは自らがそうあってはならない負のイメージなのである。そしてそれが侵略の正当化や義務にもちいられるのである。

 手前勝手な「優越と劣等」という図式をもっているかぎり、国家規模での虐殺や侵略は終わらないと思った。また知識には優越主義と差別主義が深く染みこんでいることに警戒しなければならないと思った。「優れた私たち」という考え方の恐ろしさを、深く反省しなければならない。

 この本では食人種やファノン、スピヴァクといった人たちが紹介されていて、平明な入門書となっている。

 ▼参考リンク
 ヨーロッパ人による「歴史の改竄」という問題 - るいネット





 ■私とは相性の悪い人。       2005/5/23

 『「伝統」とは何か』 大塚英志
 ちくま新書 2004 680e

 


 伝統がさいきん必要からつくられたことや、柳田国男の政治性など、興味魅かれることや銘記したいトピックなどいくつかあったが、なにかぜんぜん核心に近づいていない気がしてならなかった。いろいろ寄り道してどこに行こうとしているのかてんでわからない。どうも私は大塚英志という人は合わないのかもしれない。『おたくの精神史』ももっと抑制して削りとってくれと思ったし。





 ■否定から放漫の日本文化論へ       2005/5/27

 『「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー』 青木保
 中公文庫 1990 533e

 


 日本文化論は山のように出ている。その内容に埋没するのではなく、時代によってどのような説が主流になったのか客観的に見る視点は必要である。時代や人々が必要とした言説や「イデオロギー」がどのようなものだったのかよくわかるからである。

 戦後まもなくは「否定的特殊性」の時代であり、ベネディクト『菊と刀』や坂口安吾『堕落論』、桑原武夫『現代日本文化の反省』が出た。55年から63年には「歴史的相対性」の時代とされ、加藤周一の「日本文化の雑種性」、梅棹忠夫「文明の生態史観」が代表的なものである。

 64年から83年は「肯定的特殊性」の時代とされ、中根千枝『タテ社会の人間関係』や作田啓一「恥の文化再考」、土居健郎『甘えの構造』、濱口恵俊『日本らしさの再発見』、村上・公文・佐藤『文明としてのイエ社会』、ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』などがとりあげられている。

 84年からは「特殊から普遍」の時代であり、尾高邦雄が『日本の経営』を反省的に再論をおこない、デールが『日本的独自性の神話』を、ウォルフレンが「日本問題」を書いた。

 自分たちを否定的に見る見方から、相対的になり、肯定的になり、放漫になり、アメリカとの貿易摩擦で批判的に叩かれる歴史がくりひろげられたわけだ。

 著者は日本文化礼賛に生理的な嫌悪感を覚えたそうだが、この本はどちらかというと批判的ではなくて甘口の客観分析のように思えて、ちょっと退屈だった。もっとイデオロギーとしての、ナショナリズムとしての日本文化論を支配や権力の正当化の神話として読み解いてほしかった。でないと反省や興味が強くおこらないと思うのだが。





 ■なぜ「文明優秀説」は問われないのか      2005/5/31

 『国境の越え方―国民国家論序説』 西川長夫
 平凡社ライブラリー 1992+01 1300e

 


 「文明」や「先進国」という言葉はものすごく差別的な言葉である。「先住民」や「後進国」をおとしめ、差別するばかりか、階層をつくり、ときには支配の正当化や虐殺がおこなわれたりする。

 なぜそれらの「優秀イデオロギー」が疑問にさらされたり、反省されたりしないのか、ふしぎに思う。「文明優秀説」はあまりにも当たり前すぎて、問われることもない。危険である。

 問うてみれば、あんがいかんたんな言葉や説明で事足りる気がするのだが、なぜならそれはだれもが自明なものとして感覚で知っているからだからだ。われわれはどの国が先進国でどの国が劣っているのか肌で知っている。そしてどの国をバカにするかわかっている。その自明性が問われないことがおかしい。

 この本はその文明や文化を問うた本だが、まだ思索中というか、検討中の感じがして、すこし消化不良になりそうだ。ただ文明や文化を政治批判的に読み込んだ重要な内容をもった本であることはまちがいない。

 この本は「国境」や「国民国家」を解体することが目標なのだろうか。文明や文化という概念はそれらを強化する方向にはたらいてきたのである。それを批判的に読み解いている。

 私はこのあと先住民像や植民地についての本を読みたいと思う。文明が劣悪視するそれらの表象のなかに優越と劣等を序列づけるイデオロギーを読みとりたいと思う。私はこの階層づけ、差別する価値基準の解体をめざしたいのである。

 名文をひとつ。
「知あるいは文化には本来的に他者に対する支配の意志が内在しているのではないか」





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参考までに精神分析の流れを。



   
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