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 ■050305書評集  国家と歴史の優劣感情




 ■「貿易はアニメに続く」をスローガンに     2005/3/5

 『模倣される日本』 浜野保樹
 祥伝社新書 2005 740e

 


 日本のアニメが世界中で受け入れられているのはだれでも知っていることだろう。だけどその影響や浸透のあり方が日本の私たちにはまったく実感できないのである。現地の人のように感じ、捉えることがまったくできないのである。

 だからこういう本を読む必要があるわけだ。ただなにか目新しいことを知るというよりか、確認のために読んだという感が強い。

 こういう本は日本人が書いたものより、ちょくせつ影響をうけた現地の人が書いたものを何カ国も集めた本のほうが適しているのではないかと思う。それも活字よりテレビや映像のほうが適しているかも。

 この本の目玉はハリウッド映画も日本アニメを模倣するようなったということだろうか。でも知っている人はすでに知っているだろう。黒澤明の影響力もあらためて確認させてもらったが、べつに目新しいことではないしね。

 「模倣する」「模倣される」というタイトルにインパクトがあったかもしれない。われわれはここまで来たのかという感をもたらした。模倣の折り返し点にわれわれは来たのだろうか。

 この本の後半部分では模倣する日本の西欧コンプレックスや屈辱的な日本否定や日本嫌いの歴史がのべられていて、自文化をまったく恥のように破壊してきた日本の近代化の歴史に後悔や嘆きを感じさせるものだった。しかしどちらの気もちもわかるものだから、極端に振れるべきではないというしかないだろう。

 さて、日本は<経済大国>から<文化大国>へと転換を計れるだろうか。経済大国への目標はもうなくしてしまったのだから文化大国への転換はおおいにもとめられるところだ。

 でもね、日本のオヤジって時間をなくして仕事だけに邁進することを理想としてきたから、かれらがこれから文化大国の主になれるわけがない。かれらはあまりにも時間抹殺の労働機械なのであり、監獄と思わない労働の檻から抜け出すのは不可能に思える。遊びや文化から仕事が生まれるということは、労働主義者には禁断の考えなのである。

 「貿易は映画に続く」をアメリカ政府はスローガンとしたが、日本も「貿易はアニメに続く」とするべきだろう。

 そしていちばん大事なことは文化とは時間と暇が必要なことである。時間がなければ、裾野の広い文化大国はぜったいに生まれない。時間を労働だけにあてるようなげんざいの経済大国化時間表では確実にムリである。フリーターがのぞむような自由な時間のある社会が、文化大国の基礎に必要なのである。





 ■「♪やさしく唄って〜」         2005/3/6

 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 北田暁大
 NHKブックス 2005 1020e

 


 もっとやさしい言葉を使えよと思った。「アイロニー」だとか「シニシズム」だとかそれだけで意味がわからなくなったし、言い回しはもって回ったように難渋だし、広告とかテレビとかネットなど身近な話題をとりあげているのに理解しにくいもどかしさが多く目立った。学術雑誌にのせているのではないから、一般の読者にわかるように書けよと思った。

 内容は広告とかメディア論とか、テレビ論、ネット論など興味惹かれるものが多くあった。メディアに向かう態度のようなものを描いているわけなのだろうか。理解があやふやだから個別的なトピックには興味を魅かれたが、全体的なもの、テーマの目的がよくつかめていません。

 連合赤軍の反省ばっかりする態度から、糸井重里の「抵抗としての無反省」、田中康夫の抵抗が抜け落ちた「無反省」、つながることが自己目的化した社会への変遷が描かれているようである。

 なんだか反省のありようが消費社会においてどのように移り変わってきたかを主題にしているわけだろうか。たしかに60年代の怒れる若者からそれ以降の従順な消費バカの若者にはずいぶん落差を感じたものだが、その説明をしているのだろうか。

 個別的なトピックとしては、消費バカの80年代に10代を送った私には連合赤軍は興味をもてない、糸井重里が過激派だったとは知らなかった、『元気が出るテレビ』からテレビの裏側を見せる番組がはじまったことは覚えておきたい、2ちゃんねんはつながることが自己目的化しているからメディア批判は話のネタにすぎない、近頃もりあがったナショナリズムもそういうことではないのか、等々ひとつひとつのトピックはかなり興味の魅かれるものだった。

 でも使う言葉が難しいから深く理解したいと思う気にならない本だな。個別の題材はもっと追究したい、知りたいと思わせるものは多くあったのだけど、なにぶん基礎用語がわからない私が悪いのか、著者の排他的態度が悪いのか。まあ、メディア論、ネット論としてはたいへん興味を魅かれる題材をあつかっている。

 著者は71年生まれでもうこの世代がたくさん本を出しているのだと思うと、67年生まれの私のなにも生み出してこなかった日々が少々後悔の念を刺激されるのである。





 ■人はなぜ国家を自分と見なせるのか    2005/3/10

 『民族と国家』 松本健一
 PHP新書 2002 720e

 


 イデオロギー対立の時代にはナショナリズムの問題は影を潜めていたが、こんにちその情念が噴出しだした。そのような時代の変容を知るには、多くの例や歴史が語られているカタログ的なこの本は、なかなかよかった。

 近代的なナショナリズムがはじまったのはフランス革命からだった。貴族しか軍隊のいない国に比して国民全体が軍隊になれば、その国はめっぽう強いことになる。だから国民には自由や平等や参政権や人権が与えられることになった。ナショナリズムはそれゆえに強化されたのである。

 西欧列強の植民地支配や帝国主義はそのパワーゲームのドミノ倒しだったのだろう。それが戦争による凄惨な結果をもたらしたあげく、東西イデオロギー対立が終焉すると、西欧に勝手に線引きされた各国からナショナリズムやパイトリオティズム(郷土愛)が勃興することになる。

 民族や国家とはなにか、ナショナリズムやパトリオティズムとはいったいなにか、人はどのような共同体意識や記憶をもてば安定するのか、といったことがらがいままさに問われなければならなくなっているわけである。

 私としては他国と競合したり、戦争しなければならなくなるナショナリズムやパトリオティズムはなくすことはできないかといったことなら考えたいと思うのだが、国家や国際情勢についてはあまりにも勉強不足だ。国家意識が希薄な私がナショナリズムについて問うのもむずかしい。

 私がこの本を読んだのは、なぜ人間は国家や民族に優越や偉大さを求めるのか、という問いからだった。人間はふつう身体や家や家族ていどを自分の「範囲」だと見なしているものだが、国家や民族にまで範囲を拡げ、そこに過剰な優劣感情や執着を見せることがある。

 「それはあなた自身のことではないではないか」といいたくなるのだが、人は国家のような強大なものに同一化する。そういう補償機能の意味を問うてみたいとおもったのである。

 民族や共同体や国家を自分と見なすことはひとつの病理現象ではないのか。観念や想像力による病ではないのか。大きな集団に権力を求める心性というものから、われわれは離れることができるのか。

 小さな個人の存在でありながら安定をもつことがわれわれにはできないのだろうか。そういう問いが世の中の安寧をもたらすと私は思うのだが。





 ■国家の優劣感情から解き放れたい      2005/3/12

 『攘夷の韓国・開国の日本』
 呉善花(お・そんふあ)  文春文庫 1996 514e

 


 金達寿の『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)を読んでいらい、日本は韓国人がつくったという説の疑惑をずっとひきずっている。まるで日本の始まりがからっぽになった感じがする。

 この本は韓国生まれの日本在住の著者がみずからのルーツやさすらいのアイデンティティをたどりつつ、韓国人が日本をつくったという説の検証をおこなってゆく。

 日本は韓国より先に先進国家になったから、韓国では古代日本は韓国がつくったという俗説が優位主義をくすぐるものとしてふつうに受け入れられているらしい。それはアメリカとインディアン、オートスラリアとアボリジニのような差別図柄なわけである。先進国家のお手柄はわれわれが与えたのだという劣等感の補償である。歴史にはそういう政治力学があたりまえのように働く。

 著者は飛鳥や北九州、出雲などの古代史跡をたどりながら、みずからの履歴を重ねつつ、渡来人がどのように日本に定着していったのかを探る。古代史は在日韓国人としてのアイデンティティの安定として働くのである。彼女は中立的な立場をとろうとするが、ホンネとしては先進構図に喜びを感じているようである。

 ともあれ、この本を読んで私は朝鮮人が日本をつくったなどとの説にそうこだわる必要はないと思えてきた。げんざいの在日二世、三世でも、ほとんど日本に同化しているものである。ましてや古代の何世代もへた渡来人に何国人かと別ける必要もあまりない。またとくに海洋民族などは陸地による国境別けなど意味のなさないものだから、現代の国境意識からも当時を見ても仕方がないというものだろう。

 朝鮮からの渡来人は多く来て、先進文化をもたらしたが、現代の先進・後進国家のナショナリズムでこの時代を判断することはできない。たしかに多くの渡来人が来たのだが、朝鮮人が日本を支配したと考えるのも、あまりにも現代のナショナリズムで古代を見すぎである。

 そういう優劣感情でしか歴史を判断できない、語れないという自分の心持ちに、哀れさやみじめさを感じるのである。私はなぜ国家の優越を心の安定として必要とするのだろうか。私は国家と一心同体の存在ではないし、国家とは別の存在である。国家との同一化という呪縛からぜひとも解き放たれたいものである。

 さて日本は支配した地域の神を排除しようとせず、支配者の神より高く祭られることが多くおこなわれてきた。出雲や大和でもそうだった。こういう構造から日本の支配の方法が見えてくるのではないだろうか。それは海から神がくるという信仰や、海外から先進文化をとりいれる素早さ、八万よろずの神のような宗教的寛容さへつながってゆくのではないだろうか。

 なお、この本は第五回山本七平賞を受賞している。





 ■司馬遼太郎から日本人の歴史観がみえるか    2005/3/13

 『司馬遼太郎。人間の大学』 鷲田小彌太
 PHP文庫 1997 457e

 


 私は司馬遼太郎の小説はほとんど読んだことがない。だからこの本を読んで司馬遼太郎がなぜこんなに人気をもっているのか、または日本人の歴史観を探られればいいなと思った。

 私はなんとなく司馬遼太郎の本は好きではなかった。もともと歴史モノよりSFのほうが好きだった。歴史はダサいように思えた。

 歴史好きはナショナリズムの香りもしたのだろう。歴史が全否定された未来モノのほうが正義のように思えたのだろう。歴史を愛することは軍国主義につながるキケンなことだ。そういう警戒も歴史を否定した未来主義にはあったのだろう。

 そう、私にとって歴史はナショナリズムなのだ。偉大なもの、優れたものを歴史に見いだそうとすることは、私にとっては禁じられたことなのだ。だからいま歴史を読もうと思っても、批判や警戒心ばかりがわきあがってくるのである。そのタブー視の呪縛はよいことなのか、悪いことなのか、問いなおすことも必要だろう。

 さて、この本はたんじゅんに司馬文学の魅力をたのしませてもらった。合理主義の『国盗り物語』、『花神』大村益二郎の数奇な人生、『坂の上の雲』の国家の上昇期、『新史太閤記』の嫉妬の避け方、『菜の花の沖』のビジネスの平等性――こんな物語だったのかとか、こんなことが語られていたのかとか、なかなか興味をひきつけられるものだった。

 司馬遼太郎は日本の歴史の中からすばらしい人や立派な事績をひきだしてきたわけである。戦争に負けて、アメリカや西洋のコンプレックスに自己否定ばかりおこなわれている時代に、日本人の自信をとりもどす歴史物語を提供したのである。それは高度成長する日本のビジネス社会におおいに歓迎されたわけである。

 でもそんなものでも私の中に教育された軍国主義の警戒が融けるわけでもない。ビジネスの成功や会社中心主義でも否定の目が根づいているものだから、歴史人物の英雄視すら否定されるべきものに思える。誇りや優越心はもってはならないのである。

 よいことなのか、悪いことなのか、いまの私には判断できない。権力や権威を警戒する心性は否定されるべきではないのはとうぜんのことである。ただそれが自分の人生を否定するような方向に加担しているとなったら、反省することも必要だろう。私の中のそのような傾向は健全な知恵なのか、教育された否定なのか、もう少し探る必要があるのだろう。





 ■憧憬されるアメリカの欠点もしっかりと見よ。     2005/3/17

 『日本人と武士道』 スティーヴン・ナッシュ
 ハルキ文庫 1997 580e

 


 武士道について書かれた本だと思ったら、九割方は日米貿易摩擦によって書かれた日米関係論のような本だった。「だまされた」と思わなくもないが、まあアメリカ人からみた日本社会批判は読むべきものがあることはある。

 日本はアメリカの真似ばかりしているが、アメリカの欠点をしっかりと見よ、慣習や伝統のような日本にもよいところがあるといった保守主義のようなことがいわれていた。おもには日本社会批判が興味を魅かれた。

 たとえば日本は集団主義でアメリカは個人主義だから、日本は恥だ、アメリカに学べとよくいわれるが、アメリカはかなり画一主義の国なのだといったことがいわれたりする。

 日本では主体性の発揮が理想とされるが、主観的という言葉は侮蔑の言葉である、日本人の主体性とはマスメディアの世論だと皮肉られたりする。日本人の重厚な感情は公的に表現されず、私的生活にくすぶっているのである。

 日本人が日本のことしか見ないのは、「人類愛を訴える世界的宗教」がないからだというのはなるほどと思った。

 「延命への欲望」を絶つことによって、生を充分に享楽することができるという逆説がある、といったことがいわれている。

 それにしてもこの本は80年代のビジネス書のようなもので、『ラストサムライ』が公開されてから文庫になったようで、むりやりかつぎ出されたような本であるのはちょっとあざとい商売に思える。日米貿易摩擦ってそうとう騒がれたが、こんにちはイラク情勢ですっかり姿形を失ってしまって、いったいどこにいってしまったんだろう。





 ■人は戦国武将になにを見るのか      2005/3/21

 『戦国武将 頭の使い方』 小和田哲男
 知的生きかた文庫 2001 533e

 


 この本を読んだのはもちろん戦国武将の活躍を知りたいのでも、仕事に活かそうというのでもない。なぜ経営者やサラリーマンは戦国時代を読むのかという問いからである。

 現代の会社と戦国武将ってそんなに似ているのかと思う。経営戦略や人事戦略には似ているかもしれないが、スケールや殺戮という点ではだいぶ異なる。ヒロイックに戦国武将に重ねるのは浅はかなナルシズムだと思うのだが。小粒で小さなサラリーマンが戦国武将に重ねるさまはあまりにも誇大すぎるというものである。

 歴史というのはまったく現在のことだと思う。歴史に自分たちの姿を投影しようとする。これはナルシズムの生んだ架空物語としかいいようがない。歴史の真実なんか人は必要ないのではないかと思う。

 ひとつ気づいたのは戦国武将は全国に割拠していたわけだから、けっこう地元の郷土愛(パトリオティズム)を満足させられるのではないかということだ。各土地の武将たちは地域の人たちの優越心を満足させるのである。

 戦国武将とはおのれのヒロイズムの幻影なのである。仮面ライダーやウルトラマンとなんら変わりはしないヒーロー願望が歴史像をつくるのである。




2 0 0 5  B E S T B O O K

 ■国民作家の会社軍国主義という認識の欠如。       2005/3/21

 『司馬遼太郎と藤沢周平』 佐高信
 知恵の森文庫 1999 514e

 


 司馬遼太郎は国民作家といわれ、経営者やサラリーマンにいまだに多く読まれ、崇めたてまつられている。私は司馬遼太郎にナショナリスティックなにおいを感じとるし、あまり興味を魅かれたことがない。

 なぜ多く読まれたのだろうか、司馬遼太郎はなにをいっていたのか、ということをいま知りたいと思っている。

 それで批判ならこの人ということで、佐高信のこの本を読んだ。ただ佐高信という人は批判や悪口ばかりいっていてこんな人生が幸福なのかという疑問があるし、批判の基準軸みたいなものはひじょうに薄っぺらだと思っているから、留保したい部分はたくさんある。ただ企業批判をつづけた数少ない人としては称賛に値すると思うが。

 この本の中で司馬が読まれたのは、高度成長期の経営者のエゴイスティックな功利主義に、国民国家の壮大な発展に貢献するという位置づけを与えたからだ、という色川大吉の指摘にいちばん納得した。つまり司馬は経営者の功利主義を国家に寄与するものだと思い込ませたのである。国家のために尽くした日本の偉人は私であるという錯覚を与えたのである。罪深い作家である。

 もうひとつ明記しておきたい部分は、司馬は軍国主義の反省から小説を書きはじめたというが、戦前は戦争によって国民を踏みつぶしていたことようなことが、げんざいの会社によっておこなわれているという認識がスポーンと抜け落ちているという佐高の指摘だ。これはかなり重要な問題だ。

 軍国主義を反省したような人が、なぜそれを会社でおこなっているような経営者に支持されているのか、おかしな話である。色川は本当に反省したのなら、あんなにおめでたい小説なんか書けるわけがないといっている。

 私も会社主義がずっと嫌いだったが、そこに戦前と変わらない軍国主義を見たからだと思う。軍国主義を反省した国民が会社の中で同じようなことをやっている、その根深い不信感が私の会社忌避への感情をつちかっているのだと思う。たぶんそれは増えつづけるフリーターやニートの気持ちの奥底にもあるものだと思われる。

 軍国主義や国家主義がほんとうに終わるのはいつのことだろう。そのときまでは会社や仕事に無条件に邁進することができないように思う。それらに利用されるような仕事や人生とはいったいなんの意味があるのだろうかという意識がぬぐい切れない。

 司馬遼太郎は軍国主義を反省しようとしたのかもしれないが、国家主義という枠組みからは抜け出れなかった。国民を踏みつぶす戦前となんら変わらないしくみを批判するばかりか、おおいに称賛する結果におちいってしまった。第二の敗戦の戦犯である。そして会社の中で若者たちや国民を踏みつぶす都合のよいイデオロギーになってしまった。

 司馬は晩年小説を書くのをやめ、エッセイに専念し、国民作家としてくだらない国を導いたと反省していたようにいわれるが、死後その称賛はますます高まっているように見える。司馬が導いた経済軍国主義の反省が省みられないのなら、若者や庶民はこの国からどんどん離反してゆくことだろう。司馬が反省した同じくびきをたどっているように思えてならない。

 なお、この本は司馬遼太郎が支配者の目線で見るのに対して、藤沢周平は庶民の目から見るからよいといったような浅い批判基準で書かれているが、司馬遼太郎を批判したという点で読むべきものがあると思う。とくに石川好と色川大吉との対談によいものがつまっている。





 ■利権の綱引きとしての歴史      2005/3/26

 『こんな「歴史」に誰がした』 渡部昇一 谷沢永一
 文春文庫 1997 552e

 


 このコンビはなんなのだろうな。歴史には学ぶべきものがあるのだが、日本を美化したり、敵対者を屈折した論理で中傷するときには、トンデモ本の部類に入れざるをえない言い方をする。そこで信用がガタ落ちだ。

 日本の歴史教科書はたしかに暗黒史観やコリア史観といったものに毒されていると思う。しかし過去を暗黒にするのはけっして陰謀ではなくて進歩するための批判であるのだし、コリア史観は反日のためではなく、戦時中の日本人自身の反省があるからとり入れているのだと思うのだが。かれらの中傷は屈折して感情的すぎるのでかれらの人間性自体を疑いたくなる。

 自虐史観は戦後からおこったのではなくて、西洋コンプレックスがなせるものだと思う。進んだものをとり入れようとするときにはどうしても自己反省が必要になる。それはけっして自虐とよばれるものではないと思う。なぜこういう物言いしかできないのか。反省を拒否したら進歩はないし同じ過ちをくりかえすのではないか。

 日本人の歴史の誇りや美点を教えることは大切だと思う。しかしそのおかげで国民は戦時中に痛い目に会ったので警戒するのはとうぜんだろうし、誇りや自慢は向上心を終わらせるだろうし、品性に欠けるように思われる。

 ただやっぱり国民のひどい歴史ばかり教えられるのも現代の限定されたしあわせは感じられるかもしれないが、あまりこの国土で生きてきたことに幸運を感じないだろう。これは現政権の利益にかなう歴史像なのか。歴史はどんな面からも見れるから、まずは執筆者の利益と意図をまず読むことが必要なのだろう。

 歴史というのは現代人の利益や満足、価値観からつくられているものである。こういう歴史の書き方はだれが利益を得て満足するのかという視点をもつことが必要なようである。科学のような主観なしの客観性など歴史や人文社会に求めるのは不可能だとますます思う。

 さてこの本は歴史の読み物としてはなかなか興味魅かれるものがあった。

 教科書は29代の欽明天皇を始祖としているらしい、仏教が入ってきたとき先祖が救われないのは困るから仏は先祖の神の姿として現れてきたという本地垂迹説ができたということ、武士は土地の私有権を永代に守るために名を重んじるモラルができた、明治維新は開国によって密貿易をしていた長州と薩摩の利権が失われることからおこった、などいろいろ楽しめる歴史が読める。





 ■なぜ司馬遼太郎は読まれたのか        2005/3/29

 『司馬遼太郎―幕末・近代の歴史観』
 KAWADE夢ムック 2001 1143e

 


 こまごまとしたエッセイや評論がのせられていて、べつに読むべきものはない雑誌のように思われた。歯ごたえや手ごたえが感じられないものばかりだった。私が司馬遼太郎ファンではないからかもしれないが。

 私がこの雑誌を読んだのは、司馬はなぜ読まれたのか、どんなおもしろさがあるのか、という問いからだった。司馬遼太郎から日本人の歴史観や歴史好きの理由が探られればいいなというもくろみからである。

 司馬のいくつかの特徴としては代表作が高度成長期に書かれ、読まれたということ。『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』はまさしくこの時代である。日本のすばらしき、美しき人物を描き、上り調子のサラリーマンを鼓舞したのである。

 ヒーローや英雄を描き人気を博したのであって、彼の執筆動機である愚かな国の原因の解明から読まれたわけではない。理想をたくした人物を描いたがゆえに彼の執筆動機はみごとに外れたのである。

 司馬遼太郎はイデオロギーや思想が大嫌いだったことがこの雑誌のあちこちからわかった。これはおそらく日本人の歴史好きにも通じるところがあり、思想が嫌いがゆえに歴史の人物から国家や社会を語ろうとするのだろうと私は思った。歴史人物で思想をおこなうのが日本人の特徴なのだろう。

 司馬はこの国が愚かになってゆく昭和の時代を小説にしなかったそうだが、楽天的に読まれる英雄像をつくったがゆえに国民作家となったのだろうが、愚かさの原因を提示しなかったという点で彼は失敗のわだちを埋めることはできなかったといえるのではないだろうか。





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