■国民作家の会社軍国主義という認識の欠如。 2005/3/21
『司馬遼太郎と藤沢周平』 佐高信
知恵の森文庫 1999 514e
司馬遼太郎は国民作家といわれ、経営者やサラリーマンにいまだに多く読まれ、崇めたてまつられている。私は司馬遼太郎にナショナリスティックなにおいを感じとるし、あまり興味を魅かれたことがない。
なぜ多く読まれたのだろうか、司馬遼太郎はなにをいっていたのか、ということをいま知りたいと思っている。
それで批判ならこの人ということで、佐高信のこの本を読んだ。ただ佐高信という人は批判や悪口ばかりいっていてこんな人生が幸福なのかという疑問があるし、批判の基準軸みたいなものはひじょうに薄っぺらだと思っているから、留保したい部分はたくさんある。ただ企業批判をつづけた数少ない人としては称賛に値すると思うが。
この本の中で司馬が読まれたのは、高度成長期の経営者のエゴイスティックな功利主義に、国民国家の壮大な発展に貢献するという位置づけを与えたからだ、という色川大吉の指摘にいちばん納得した。つまり司馬は経営者の功利主義を国家に寄与するものだと思い込ませたのである。国家のために尽くした日本の偉人は私であるという錯覚を与えたのである。罪深い作家である。
もうひとつ明記しておきたい部分は、司馬は軍国主義の反省から小説を書きはじめたというが、戦前は戦争によって国民を踏みつぶしていたことようなことが、げんざいの会社によっておこなわれているという認識がスポーンと抜け落ちているという佐高の指摘だ。これはかなり重要な問題だ。
軍国主義を反省したような人が、なぜそれを会社でおこなっているような経営者に支持されているのか、おかしな話である。色川は本当に反省したのなら、あんなにおめでたい小説なんか書けるわけがないといっている。
私も会社主義がずっと嫌いだったが、そこに戦前と変わらない軍国主義を見たからだと思う。軍国主義を反省した国民が会社の中で同じようなことをやっている、その根深い不信感が私の会社忌避への感情をつちかっているのだと思う。たぶんそれは増えつづけるフリーターやニートの気持ちの奥底にもあるものだと思われる。
軍国主義や国家主義がほんとうに終わるのはいつのことだろう。そのときまでは会社や仕事に無条件に邁進することができないように思う。それらに利用されるような仕事や人生とはいったいなんの意味があるのだろうかという意識がぬぐい切れない。
司馬遼太郎は軍国主義を反省しようとしたのかもしれないが、国家主義という枠組みからは抜け出れなかった。国民を踏みつぶす戦前となんら変わらないしくみを批判するばかりか、おおいに称賛する結果におちいってしまった。第二の敗戦の戦犯である。そして会社の中で若者たちや国民を踏みつぶす都合のよいイデオロギーになってしまった。
司馬は晩年小説を書くのをやめ、エッセイに専念し、国民作家としてくだらない国を導いたと反省していたようにいわれるが、死後その称賛はますます高まっているように見える。司馬が導いた経済軍国主義の反省が省みられないのなら、若者や庶民はこの国からどんどん離反してゆくことだろう。司馬が反省した同じくびきをたどっているように思えてならない。
なお、この本は司馬遼太郎が支配者の目線で見るのに対して、藤沢周平は庶民の目から見るからよいといったような浅い批判基準で書かれているが、司馬遼太郎を批判したという点で読むべきものがあると思う。とくに石川好と色川大吉との対談によいものがつまっている。
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