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■041122書評集 天皇家と日本書紀
■女の身体を生きることのススメ 2004/11/22
『オニババ化する女たち』. 三砂ちづる
光文社新書 2004 720e
女性も自立するのもいいけど、女として生きることも大切だと説いた本であり、現在の仕事とお金さえあれば異性も人間関係もいらないという女性の風潮に釘を刺し、あまりにも自立にふれ過ぎた振り子を戻すにはいい機会になる本だと思った。
女性は女として生まれたのだから性生活や出産のような女性にそなわっている身体をおろそかにすべきではないと説いており、独身街道まっしぐらに進む恐れがある女性には参考になるのではないかと思う。
現代の女性は自分の身体の要求やありようを無視しすぎており、たとえばむかしの女性は月経血をコントロールできたり、出産を病院以外の自宅でおこなっていたということや、性生活をもつことで女性としての身体を満たすことの必要性などが説かれていたりする。
これは商業化や専門家の弊害が、自分の身体を忘れさせているのだということだと思う。生理用の商品や病院への依存により、女性は自分の身体というものにどんどん向き合わなくなり、身体にそなわっているはずの知恵が忘れ去られているのである。お金でサービスがおこなわれる社会は、自分の身体の知恵を無能にしてゆく危険があるのである。
この本でセックスのすすめものべられているが、性道徳もあるのだからむずかしいのではないかとも思った。女性の性はいまでもあいかわらず商品である。商品価値を愛という規範で守っている。性が商品でありながら、自由を楽しむのはむずかしい。女性の自立か依存の度合い如何によって性道徳も変わるだろう。それまでは女性の身体の要求もなかなか満たされない時代がつづくかもしれないが、経済とはいつだって人間性を無視するものだ。
現代にいちばん忘れられている重要なことは、人間はそもそも世代をつなぐために生まれてきたということであると思う。生命のバトンタッチが生命あるものの最大で最優先の目的であるはずなのに、現代ではなぜか「自分を生きること」、「自分の人生を楽しむこと」が最優先になっている嫌いがある。「自分」ばかりなのである。
「子どもをつくること」、「子孫をのこすこと」――そういう人生の使命を世間はもっと再認識するべきだと思うし、やかましくいうべきであると思う。消費やレジャーや自分を生きること、仕事が人生の目的というのは大きな過ちだと思う。
私は思うのだけど、人生は砂のようにこぼれてゆくばかりで、時間を喰い止めることはできず、せいぜい子どもに生命をたくすことでしか人生の存続を果たせないのではないかということだ。一個の生命はあまりにもはかなく、短いのである。慰めは子孫というかたちでしか得られないのだと思う。
自分の生は生命をつなげるための人生であるということを、現代人はあまりにも忘れすぎている。生命の鎖であること、その鎖が外れたらもう後はつづかないことをあまりにも知らなさ過ぎる。物語や伝承、説話としてあまりにも耳に入ってこない。そういう伝承がこの社会には必要ではないのかと自分自身への反省も含めて、私は思う。
「子どもを生み、育てること――それだけが人生の目的である」と捉えることは、無益なものをたくさん欲望させられるこの現代消費社会において重要なメッセージではないかと思う。
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■地方の変貌と崩壊 2004/11/28
『ファスト風土化する日本』 三浦展
洋泉社新書y 2004 760e
いまや地方のほうが消費バカ天国になったと指摘する本である。そしてジャスコのある地域にはなぜか犯罪の多発を見出している。
地方のロードサイドには大ショッピングセンターやファーストフード、ファミレスなとが並ぶ、どこにでもある画一的な風景がひろがっている。もはやのどかでのんびりとした田舎の風景は幻想でしかなく、固有の地域性がうしなわれた画一化したロードサイド・ショップがならぶばかりである。
この三十年間は大都市の中流社会を地方に実現しようとめざしてきて、完成したのが、地方の画一的な風景であり、消費の天国であり、そして地域性の崩壊である。もはや地方は消費にしか楽しみを見出せず、退廃の兆しは激しいのかもしれない。
地方は総郊外化したわけなのだが、郊外が病理的なのは人の働く姿が見えず、消費と私有の世界しかないことだ。郊外というのはまったくぞっとするところだ。人の働く姿がまったくなく、理路整然とマイホームや道路は区画されているのだが、人の生き生きとしているところやなまなましさがまったく払拭されており、生き物としては死んだ町も同然である。そんなところで子どもが育ってゆくと、目標や希望、労働観がまったくはぐくまれない。
生業の風景は住宅地にとりもどされる必要がある。住宅地だけを隔離して分離したところで子どもが育つと、大人の働き、生産するすがたがまったく見えず、実社会の現実の姿とまったく切り離されてしまい、消費とメディアしか知らない、労働という大人に一番必要な活動を知らずに育つことになってしまう。消費することのみで育ってきた子どもが将来生産の場で役に立つことができるのだろうか。郊外の隔離はまったく病理を含んでいるといわざるをえない。
郊外というのは消費と享楽の場であって、子どもはとうぜんの延長として将来はフリーターやニートとして育ってゆくのである。いや、そうなるよう育てられたとしかいいようがない。
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■祟られるヤマト建国の謎 2004/11/28
『天皇家はなぜ続いたのか』 梅澤恵美子
KKベストセラーズ ベスト新書 2001 680e
かなりおもしろい。天皇家誕生にまつわるさまざまな謎をスリリングに解いてゆき、つぎつぎとページをめくらなければ気がすまない推理小説ほどのおもしろさがあった。
天皇家というのは素朴な疑問として平氏や源氏、豊臣、徳川のような権力者があらわれてもずっと存続し、幕府と権力を二分してこられたというのはずいぶん奇妙な話だと思う。時の権力者はなぜみずから天皇を名のらなかったのだろう?
著者はその理由は天皇家は祟る存在であったからだといっている。神社に祭られている神は祟る存在であるから鎮められなければならない。原初の天皇がそのような祟る存在であったことを著者はつぎつぎと解いてゆく。天皇のルーツは悲劇に彩られ、呪い、祟る存在として歴史に怖れられなければならなかったのである。
日本の歴史のはじまりを神社伝承や神社の祭り、浦島伝説、考古学などから解いてゆき、この展開はまったくスリリングであり、説得性があり、鮮やかである。とくに神社伝承や伝説からさまざまな名前の人物が同一人物であることを解いてゆくのは驚きである。
『古事記』や『日本書紀』が抹殺しようとした歴史は、藤原氏の政敵であった物部氏や蘇我氏といったヤマト建国の豪族たちの活躍を隠蔽することだったようだ。
古代史しろうとの私としてはさまざまな登場人物が出てくる上、多くの見解や話に飛ぶので頭がこんがらがる部分も多く残ったが、北九州の征伐にむかった神功皇后(=トヨ)がヤマトに裏切られ、死んだのだが、その後疫病や飢饉がつづき、祟るものを鎮めるためにその息子の神武天皇が立てられたということである。天皇は神のように祟り、怖れられる存在だったから長く系譜が維持されたということだ。
古代史の謎解きとしてはべらぼうにおもしろい本だが、天皇家の存続の謎の部分としてはやはり日本の通史も検討しなければならないだろう。源氏や徳川家などはなぜ天皇をつぶさなかったのか、祟りの伝承だけで守られるなんてことはあるのか疑問がのこる。でも天皇家創立の謎解きは興味が尽きないものである。
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■海人の活躍を追う 2004/12/5
『日本の古代〈8〉 海人の伝統』 大林太良編
中公文庫 1987 1200e
海人というのはスケールが大きく、全国を股にかけた活動領域から各地に及ぼした歴史の影響を無視できない存在であるので注目しているのだが、この本は興味を魅かれそうだったが、あまりおもしろい本だとはいえず、読むのに手こずってしまった。
いくつか覚えておきたい箇所としては、安曇や和田の地名は海洋民と関係のある地名だと思われるのだが、信州の山奥にまでその名があるのは海洋民のバイタリティーを感じさせること、日本の地名・氏名・物名を考えるとき、まず発音を元に考えるべきであり、漢字に跳びついてはならない、春秋時代の越の滅亡期に江南の民が日本にやってきたこと、日本にも海上生活者が明治ころまでいたこと、「さかな」のことばは「酒」と「な(副食物)」からできており、日本の酒宴と海産物には切り離しがたい関係があったことがわかる、などである。
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■『日本書紀』原典を読むために 2004/12/10
『日本書紀の読み方』 遠山美都男=編
講談社現代新書 2004 720e
原典の『日本書紀』を読むために参考にしたいと思った本で、たいしておもしろいわけではなかった。神話にあるスサノオの乱暴はあの世への移行のための儀礼的行為であったこと、古代人にとって雄略朝は歴史の出発点であったことなどはなるほどと感心した。
さあ、原典を読むぞ。といってももちろん講談社学術文庫の現代語訳だけど。
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■『日本書紀』上巻を読み終えての感想 2004/12/17
『日本書紀〈上〉』 宇治谷孟訳
講談社学術文庫 1150e
現代語訳であるからつっかえることもなく、読みやすかった。日本最古の歴史書を一度は読んでおくのは悪いことではないと思った。歴史書というよりか、天皇記であり、荒唐無稽な神代記があったりして、社会全体の歴史に視野がおよんでいるわけではないのを残念に思うが。
この書の私の読み方としては、すでに何冊かの古代史の推理や推論を読んでいるから、その説の確認という意味合いが強かった。でもその推論が正しいかどうかはまったくのところ確認するどころではなくて、ただたんに物語に乗せられて読んだにすぎないというほかないが。
個人的に気になったのが地名である。私の古代史の興味の出発点は歴史地理であるから、天皇や豪族がどこで活躍し、どこをどうめぐり、どの地点にあらわれたのか、ということを重点的に読んだ。ゆかりのある地名を探っていたわけである。これで歴史史跡めぐりも楽しみがふくらみ、地理勢力の理解も増すというものである。
神代記というのはまったく理解できない。神の生まれ方も水をそそいだときに生まれたり、煙から生まれたり、剣をがりがり噛んだときに生まれたりして、物として理解したらいいのか、人間として理解したらいいのかかなり不明だった。
また神の物語の中に天皇や豪族の祖先たちがまぎれこんでいたりして、史実か、由緒の正当化のための架空物語として理解していいのかもよくわからなかった。祖先たちを神格化するなんてこんなのアリかと思うが、古代の日本人たちが霊魂や先祖の神を信じていたりしたのなら、突出した絵空事でないともいえるのかもしれないな。
天皇や豪族の名前がまたへんてこりんである。地名が読めたりして参考になる部分はありがたいが、この名前は漢字の意味合いからつくられたのか、それともたんに当て字なのか、むずかしいところである。神日本磐余彦天皇(かみやまといわれびこのすめらみこと)、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、端歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)、など漢字の意味があるのか、あてずっぽうな当て字なのか、判別しかねる。
まだまだ私には天皇の名前と行動がなかなか一致しにくいが、九州征伐が後のほうの天皇の話に出てきたのは疑問に思ったこと、最大の天皇陵の仁徳天皇が后の嫉妬に多くを割かれているのは笑えるなと思ったこと、雄略や武烈はなぜ残虐な天皇に描かれなければならなかったのか、などが疑問に残った。
『日本書紀』は天皇が書かせた歴史書であり、真実が描かれているかはたいへん疑わしいところである。そういう疑問を解いてゆく技量はもちろん私にはない。歴史家の推理に天皇の真実のすがたを探ってもらうほかない。饒速日尊、神武天皇、崇神天皇、神功皇后、継体天皇などが興味の魅かれる人物なのであるが、この『書紀』からはもちろん現代の歴史家が疑うような真実のすがたが読みとれるわけではない。
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■『日本書紀』下巻を読み終えての感想 2004/12/19
『日本書紀〈下〉』 宇治谷孟訳
講談社学術文庫 1150e
この巻になると天皇よりほかの者の記述が多くなってくるようである。
この書でおもしろいところは、教科書でしか知らないような歴史が、いにしえの人の言葉や観察で書かれていることであり、リアルさや真実さが重みを増していることである。
蘇我氏と物部氏の仏教と国つ神の対立、聖徳太子の憲法十七条、蘇我入鹿による山背大兄王の急襲、そして入鹿の暗殺と、かなりリアルな物語が読める。
圧巻なのは大海人皇子(天武天皇)と大友皇子の政権争いである。吉野から宇陀につき、伊賀にいたるというあたりはかなり迫真を帯びている。
孝徳天皇の詔(みことのり)はすばらしかった。高貴なる者の責任が感じられる文面である。
ほかに天文観察や天災、地震、奇妙な獣やあらわれの記述も多く、それを政情にあわせて重ねていたりして、当時の思想や世界観を感じさせるものであった。
げんざい、私が読んだ数冊の古代史によると、この『日本書紀』の記述はかなり疑われていて、ここに書かれていることとはまったく違う天皇像や歴史像が描かれていたりする。こういう推理や疑惑のほうが古代史を楽しませてくれるわけだが、私の力量不足でこの『日本書紀』からはなかなか真実のすがたを知ることはできないと思った。そのとおりに信じてしまうのである。
とにかく正史としての『日本書紀』を読んだのだから、推論が大きく広げられている現代歴史書の比較検討もすこしは可能になったわけである。そういう意味でこの『日本書紀』は読む価値があったわけである。
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■神社の神とはなにか 2004/12/21
『日本の神々―古代人の精神世界』 平野仁啓
講談社現代新書 1982 660e
神社には古代の天皇や国王が祭られている。そこから古代の権力者や勢力圏を知ることができたりする。そのような見方をすると神社は魅力的に見える。
しかしその前に日本の神とはひじょうに不思議な存在であり、なにが祭られており、どのような性質が神に値するのか、よくわからないところがある。そもそも神社になにが祭られているかすら多くの日本人は知らないだろうし、なぜその存在が神になったのかもわからず、神社に参拝したりする。奇妙である。
日本の神々を解くこの本――縄文人の神観念からはじまり、神社の神分析には期待したのだが、失礼だが、なんの結論も見出せないエッセイに終わっているような気がした。日本の神とはやっぱりよくわからないのである。
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■日本の呪物崇拝と呪力信仰を理解する 2004/12/25
『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』 土橋寛
中公新書 1990 700e
古代人の行動や考え方を知るには、呪物崇拝(フェティシズム)や呪力信仰(マナイズム)を知らなければ多くを理解することはできない。いまの日本社会にもその信仰が深く残っていることはいうまでもないことだろう。言葉からそれを探ったこの本はいろいろな発見をもたらすだろう。
「ケガレ」は「気涸れ」であり、生命力・霊力(ケ)が枯渇した状態のことをいい、山見や花見は生命力を強化する呪力信仰であり、天照大神の天岩戸に隠れた神話は冬至の季節に衰えた太陽の生命力を回復させるための呪術的儀礼であったなどの話が読める。
古語を多く読まされて私にはだいぶ理解できないところが多くあったが、日本の神や古代の権力者にまつわる世界というのは神秘めいていていまの私にはそこはかとなく魅力的なのである。
おっと、きょうはクリスマスだ。クリスマスにこんな本を紹介するなんて。クリスマスはこんにちの日本では男女の交合をうながす性信仰のような日になっているが、キリスト教はそんなことを奨める宗教だったのか。キリストも童貞で、母マリアも処女で。。まっ、どうでもいいーか。
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■歴代天皇の宮都を探る 2004/12/30
『神々と天皇の宮都をたどる―高天原から平安京へ』 高城修三
文英堂 2001 1800e
奈良や大阪の古代と関わりのありそうな土地に行っても、古代天皇の宮都がどこにあったかちっともわからず、近くに寄ったとしても素通りするばかりである。
この本は歴代天皇一代一代の宮都あとを探り出し、地図で図示していてくれるからありがたい。いまは田んぼやふつうの住宅地でしかないそこが、古代には歴代天皇の荘厳な宮廷や官邸があったところだと想像することは古代史のひとつの楽しみではないか。
大阪に住んでいる私としては難波宮は公園となっているからすぐわかるが、応神天皇の大隈宮(東淀川区)がどこにあるかわからないし、継体天皇の樟葉宮(枚方市)の場所もわからないし、称徳天皇の由義宮(八尾市)もさっぱりわからない。いまはなんでもない場所が天皇の宮があったところだと知ることはひとつの驚きである。
古代天皇の宮都はだいたい飛鳥や葛城山麓、三輪山麓に固まっているが、その場所の変遷にさえ豪族たちの勢力争いがうかがえるのである。
またこの本は、歴代天皇の行動や活躍がなかなか一致しない私には、一代ごとの活躍や論点が記されていて、だいぶ参考になった。
古代史のなかでもとくに地理上に点や線を見つけたい私にとってはかなり満足のゆく本であった。
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