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041031書評集 古代史事始
■これまでの書評は一ヶ月に一度くらいでしたが、もうすこし更新の頻度を上げようかと思っています。断想集と一本化しようかなとも思いますが、まだわかりません。
■地理・歴史にかんする本 2004/10/31
『万葉集』
角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックス 奈良時代末 533e
古文の教養がまったくない私にとって万葉集を味わうのはたいへんむずかしい。この角川ソフィア文庫では現代訳がつけられているのでたいへんありがたい。というか、意味のわからない詩など読んでも意味がないと私は思う。
私が万葉集に興味をもったのは、けっこう土地の詩を詠っていることだ。いまの私の興味は風景や土地の歴史を味わうということなので、各地には万葉集の石碑が建てられたりして関わりがあるのだけど、その意味をつかみとるのはたいへんむずかしい。ということでこの現代語訳はたいへんにありがたいというわけだ。
古代の各地の風景が謡われているのだけど、私にはあまり味わいを感じられなかった。惜しいというか、残念というか、景観の美しさを味わうには万葉集は欠かせないと思うのだが、その情緒を理解できないのはとても惜しいことだ。
『日本歴史の原風景』 監修石井進
別冊歴史読本 新人物往来社 2003 2200e(古本)
自然の景観や歴史をどのように味わえばいいのかが目下の私の興味だ。この雑誌は日本全国の町の風景や歴史が紹介されていて、こういう本をこそ探していたのかなと思う。
十三湊の風景、岩手県一関市骨寺の航空写真、三国湊の相貌、濃尾平野のありさま、姨捨の棚田の変遷、琵琶湖中之湖の干拓、巻向・藤原京の空からの写真、石見銀山、満濃池、佐賀平野のクリーク、などが紹介されている。
読後としては地理歴史をたのしむというのはむずかしいということだ。その土地が持っている美しさや歴史を知的に味わうというのはやはり現地に行ってみたり、土地にゆかりがないとあまり味わえないものなんだろうか。地元の歴史なんかは知りたいと思うのだが、知らない地の興味というのはそうそうわかないものである。
『「日本の神様」がよくわかる本』 戸部民夫
PHP文庫 2004 629e
古代史を読んでみてはじめてわかったことだが、神社の神様というのはおおくが古代の天皇や豪族であったりすることだ。
天皇や豪族が神として祭られ、われわれはいまだにその神を祭っているとはいったいどういうことなのだろうと思う。現代民主主義者として権力者を神として崇めてよいものなんだろうかと思う。人間を神として祭るような心性は現代のわれわれにはないはずである。
その話はおいておいて、神社の神でおもしろいと思うのは、祭られている神の分布によってその天皇や豪族の活躍圏や活動域が推測できるということである。三輪王朝や葛城王朝、河内王朝、出雲王朝、北九州の国家などの大王(おうきみ)や天皇の足跡がわかるというわけだ。神社の神をこのように見てみるとおもしろいのではないか。
日本人はむかし先祖の霊を神として奉ってきた。とうぜん権力者や天皇も同じように神として祭られるようになったのだろう。権力者には神のような超人的なパワーがあり、日本人はその権力にあやかろうとしてきたわけなのか。
かつてこの国の国開きをしてきた豪族や天皇にはかなりの恩恵や崇拝があってもおかしくはないだろう。しかしそれが神となって祭られるのはいかがなものだろう。歴史の由緒が知られるのは味わいであるが、それが神となるのはいささか疑問を呈さざるをえない。でも歴史を守るのは悪いことではないと思うので、こういう方法でしか歴史は守られないのではないかとも思わなくもない。
『古代日本の謎』 神一行編
学研M文庫 1990 600e
古代史のおもしろいところは、日本の国家の生成のあり方を垣間見れるところだと思う。国家はどのようにできあがっていたのか、とくにどの地方のどの勢力が力をふるっていたのかがわかっておもしろい。
私の興味のあり方は、おもに歴史地理である。地理から各地の歴史を知ることに興味がある。つまり土地や各地の歴史である。この土地にはこのような歴史があったのかと知ることが興味のポイントである。
ただ古代史や歴史の興味を際限なく深めようとは思わない。やはり歴史より現代の社会のほうに考えることに価値はあると思う。歴史へののめりこみには抑制したいとは思っている。
この本は古代史の全般をとりあげていて、だいぶ頭がこんがらがり混乱している私には古代史を整理するにはすこしは役に立った本だ。古代の天皇の名前はドストエフスキーの小説の登場人物みたいになかなか覚えられないし、しかも漢字名がやたら長ったらしく意味もわからないのでなかなか覚えにくいのだ。
■日本海側の町並み 2004/11/3
『日本海道 西・東』 芸術新潮編集部編
新潮社とんぼの本 1986 各1100e(古本)
私は日本の各地のことをあまりにも知らなさ過ぎる。しかし市街地にはあまり興味がない。どこでも同じように思う。自然の景観に魅かれる。市街地以外の山奥や海浜にもたくさんの村や町があることにいまさらながら驚いている。
そういう自然に囲まれた人びとの暮らしや営みを見てみたいと思うのだが、旅行というのは金がかかりすぎる。観光というのもあまり好きではない。空しかったりする。
ということでせめて日本の各地の写真が多用されたこの本をながめてみることにした。とくに日本海側の町を連ねたことには、廻船が日本の主要な交通路だった時代を思わせ、往時を偲ばせてくれる。
東巻には富山、糸魚川、新潟、酒田、津軽などがとりあげられ、西巻には出雲、城崎、若狭、能登などが歩かれている。いろいろな町があり、風景があり、歴史がある。やっぱりじっさいに行ってみないとな。
■イデオロギーから物語の時代へ 2004/11/6
『物語消滅論』 大塚英志
角川oneテーマ21 2004 743e
80年代後半にイデオロギーが氷解したあと、物語の因果律が社会を支配するようになったという指摘はたいへんに興味魅かれるところだが、この大塚英志という著者はあまり社会学的な視線ではないのか、なぜか私の好みから外れる。
あまりにも自分や自分の思考に執着しすぎるというか、これをおたくの特質というのか、自分ひとりだけの穴を掘って満足している気がして、私には意味が了解できないところがたびたび出てきて、言葉についてゆく気をなくすのである。
「物語消費」やグインサーガのような虚構の物語に埋没する時代を指摘した点にはたいへん興味を魅かれるのだが、この人の探索の仕方、文章の追及の仕方がどうも私の肌に合わないみたいである。
こういうこともあるが、「大きな物語」の終焉のあとの時代を描こうとした本は、ほかに読んだ記憶でも、ずいぶんと不透明な印象しかのこさないようである。
■現代と歴史の本 2004/11/5
『お金に「正しさ」はあるのか』 仲正昌樹
ちくま新書 2004 700e
貨幣についての本というのは魅力的な問いかけがないとなかなかおもしろくならない。貨幣はあまりにも身近にありすぎて、問いかけの必要性があまり感じられなくなってしまうからだ。つまり謎や疑問を長く維持させる問いがほしいわけだ。
この本はそういう意味では深い興味を示させる問いかけはあまり感じられなかったといえると思う。ただ、ファウストやドラキュラ、村上春樹の『海辺のカフカ』などを分析の対象にしたあたりはおもしろい。ドラキュラが貨幣の支配欲の象徴とも読めるという指摘はなるほどと思った。
いちばん印象に残った言葉は、世の中にはさまざまな価値観があるが、貨幣というのはその均衡を保つための有効な尺度を提供するメディアであるということである。均一化、画一化できる尺度が貨幣によって生まれたわけだ。
だが、はたして人と人の価値観が同じ尺度で測れることなどあるのだろうか。自分の価値観を見つけたら人の価値観などにまどわされたくないものだ。つまり「売れる」「高い」「金をたくさんもっている」だけで、ものごとの判断なぞしたくないものである。他人の価値尺度と関係のないところで自分の価値基準を生きたいと私は思う。
『消された王権・物部氏の謎』 関裕二
PHP文庫 1998 514e
天皇家より先にヤマトを支配していた物部氏周辺の疑惑をスリリングに解いてゆく、あちこちに謎の仕掛けのある推理小説のような本である。
私は古代史はほとんど知らないのだが、どうも天皇家が描いた『日本書紀』にはいろいろなウソがしかけられていて、天皇家に不都合な歴史を抹殺しようとしていたらしい。その装飾を解いてゆくのがこの本のおもしろいところである。
私にしてみれば、なぜ天皇家が書いた歴史書でしか古代史を知ることができないのかと疑問に思うが、ほかに歴史書はないのかと思うが、まあそうなっている以上は仕方がないというものだろう。
まあ、天皇家というのは物部氏が築いた王国を盗み取るようなことをしたらしいので、それを歴史書から抹殺し、自分たちの正統性を知らしめる歴史書を書いたようなので、後世の私たちは歴史の真実はどのようなものだったのかと頭を悩ませるようになったらしい。ほかに歴史書がのこっていないのがたいへんに悔しいことである。
■都会と探偵の関係 2004/11/8
『都市は他人の秘密を消費する』 藤竹暁
集英社新書 2004 700e
ほう、そうか、都市が探偵小説を必要とするようになるのかと感心した本である。都会人は探偵的・推理的人間にならざるを得なくなるのである。
都市が発達するとおおぜいの人が流入してきて匿名性が増し、知らない人だらけになる。そういう密集地では探偵のように人のことを見分けたり、瞬時に推理したり、判断して行動しなければならなくなる。だから探偵小説や推理小説は流行するというのである。
ニュースやワイドショーの発達もそうである。他人の秘密を読み、行動を読み解くことで、自分の行動も律しなければならない。こうしてうわさ話やゴシップは都会人の必要な情報となるというのである。
都市はどんどん大きくなる。そして隣の人も街行く人も知らない人ばかりになる。われわれはどう考え、どう行動し、どう世間を渡っていけばいいのかわからなくなる。探偵小説や推理小説、ニュースやワイドショーはそういった不安をやわらげる役割を果たすというわけだ。
私は推理小説とかほとんど興味がないのだが、社会学はたいそう好きである。やはりこの都会の中でどう生き、行動すればよいかわからないからだろう。
私は読書ばかりしていて、たまに自分が行動するより観察ばかりしていると思うときがある。人生の当事者であることからあまりにも逃避しすぎているきらいがなきにしもあらずだ。探索はあくまでも手段であることを忘れないようにしよう。
■天皇家以前のヤマト国王 2004/11/15
『消された大王 饒速日(ニギハヤヒ)』 神一行
学研M文庫 1993 540e
もし天皇家以前にヤマト王国を築いた大王が存在し、天皇家がそれをひた隠しにしていたとするのなら、それを暴くことができればたいそうスリリングな話になることだろう。
この本は神社の伝承からそれを探ってゆくたいへん興味魅かれる本である。神社に祭られている神(つまり天皇や大王)は『記紀』が隠そうとした真実をいまにつたえているかもしれないのである。
饒速日という大王は出雲から大和入りし、葛城山麓に王朝を築き、のちにやってきた天皇家より絶大な権力や崇拝を誇っていたようだ。後世の天皇家はその事実を歴史から抹殺しようとしたが、各地に散在する神社はぬぐいきれない痕跡をのこしていたというわけである。
天皇家より先に広大な地域を支配する大王が存在していたというだけでもたいへん心躍る話である。古代史は謎だらけだからあれこれ推測する楽しみがある見本のような本だといえるだろう。
■超古代史などの本 2004/11/20
『日本超古代史が明かす神々の謎』 鳥居礼
日本文芸社 1998 1300e(古本)
買ったときにはわくわくしたが、読んだあとにはがっくりきた本だ。『記紀』より太古に存在する古代文献から超古代史を探るという本で、トンデモ本でもいいからすこしでも太古の有益な歴史がわかればいいと思っていたのだが、やっぱりトンデモ本にしか属せないものだなとがっくりきた。
日本の古代の歴史といえば、天皇家が編纂した『古事記』と『日本書紀』しかないのだが、とうぜん時の権力者が描かせた歴史書なんか信頼できないはずである。たとえていうならヒトラーやスターリンやポル・ポトが歴史書を書いているようなもので歴史がどんなに歪められるかわからない。
そもそも時代が違うといえ、自分たちの祖先を神にするような人間が信頼できるわけがない。いまならイカレた新興宗教家のたわごとに一蹴されるだけである。
ということで『記紀』以外の古代文献の存在はどこかに残っていてほしいと思うのだが、この本にとりあげられている『ホツマツタエ』、『先代旧事本紀大成経』、『竹内文献』、『上記』、『富士文献』などはかなり後世の偽作の可能性が散見されたので、かなり信憑性が薄いように思われた。
歴史のトンデモ本というのは想像力や期待の飛翔を誘うのでまあ楽しめると思うが、イエスやモーゼが日本に来ていたという話にまでなると、あまりブッ飛びすぎていて、もうすこし疑いにくい偽作をつくってくれたほうがわくわく楽しめるじゃないかといいたくなる。古代文献にはかなり強い知の楽しみがあると思うのだけど。
『九州水軍国家の興亡』 武光誠
学研M文庫 1990 620e
朝鮮や中国から文明がつたわってきたとするのならより早く九州に国家ができるというのはとうぜんの話だと思う。その国家のなかからどの国がヤマト国家をつくっていったのだろうか。宮崎県の日向からとなっているが、有力な国家、伊都国や奴国などは北九州である。だから逆に日向の国家は瀬戸内海や近畿に目を向けられたのだろうか。九州甘木市と奈良の地名の多くの一致があるが。
この本は中国江南からの航海民や九州の航海民、玄界灘の国々が紹介されているが、さして興味は魅かれなかった。
『日本古代史「記紀・風土記」総覧』
別冊歴史読本事典シリーズ 新人物往来社 1998 2200e(古本)
ひさびさに最後まで読み進められなかった本(雑誌)である。古代史のいろいろなことが事典として載せられているが、いまのところ歴史は推理形式でないと楽しめないのかもしれない。事実羅列はおもしろくない。
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