97年秋冬から01年初春までの私の超オススメ本をセレクト。
手放しで賞賛できるすばらしい本ばかりです。
「人生・心理篇」もよろしく。
2001/2/8.
猪口邦子『戦争と平和』 東京大学出版会 89/5. 2266e(古本)
戦争について知りたかったことは「国家と戦争」の章にあますことなく述べられている。すなわち民主制と戦争の因果関係だ。民主制というのは、国民全員を平等に、かつ自主的に戦争に駆り立てるためのなくてはならない仕組みなのである。これを無視して、民主制や平等のどこがすばらしいといえるのか?
あと「戦争サイクル」の章もとてもおもしろかった。コンドラチェフの波がピークを迎えるころ大きな戦争がおこるらしいのだ。鉄道が普及した1860年代には米南北戦争、自動車、電気が景気をおしあげた1910年代には一次世界大戦といったように。経済がよくなるときこそ戦争に気をつなければならない。
ロジェ・カイヨワ『戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ』 法政大学出版局 りぶらりあ選書 1963. 2987e
貴族の戦争というのは作法を重んじ、流血の少ない、遊戯あるいは儀式のようなものだった。そして王や貴族だけの限定されたものだった。貴族は新しく生まれてきた銃砲や歩兵を嫌悪していた。際限のない戦争は民主制社会で行なわれるのだということを予感していたのである。
はたして国民のすべてが平等になり、参政権を得たとき、戦争は仮借なき血なまぐさいものになり、国民総動員の戦争になり、そして大量殺戮の目を覆わんばかりのものになった。
カイヨワはこの大量殺戮戦と平等と民主制との関係を強く意識していたようだ。「民主主義は、戦争そのもののために、また戦争の準備のために、国民の一人びとりにたいして金と労働と血を要求する」のである。
もし以前のように不平等が法制化されれば、中世の戦争のように犠牲の少ないものになる。平等と大量殺戮のジレンマをわれわれは解決することができるのだろうか。平等や民主制がすばらしい制度などとバカみたいに喜んでなんかいられない。
瀬古浩爾『わたしを認めよ!』 洋泉社新書 00/11. 680e
フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を読んで以来、認知欲望というものが人間のいちばん根源的な欲望だと思っている。この欲望を理解しないで、人間が理解できるわけなどない。
著者によれば、70年代前半までは家族、性、社会による古典的な承認の時代であり、後半から自己、セックス、金による承認が特権化してきて、90年代にはそれが劣位になり、他人の承認なんかどうでもいい、自分は自分が承認するだけでいいという「反承認」に代わってきたという。
自分に承認されたい、世界に承認されたいという欲望のゆきつく先は、メディアによって「見られる者」になり、世界やおおぜいの者から承認された自分を見ることである。そうでないと飢餓感は去らず、不全感は癒せないのである。
承認欲望の根本は存在の二重性からおこっていると著者は鋭く指摘している。他人にとって自分は無意味で無価値の存在かもしれないが、自分にとってはただひとつのかけがえのない存在である。この根源的不安が、他者への承認というかたちをとるのだ。
私自身も自らの中に強い承認欲望を認める。しかしこの承認欲のトゲは抜き去りたいと思っている。叶うわけなどないのだ。仏教や老荘では自ら劣位や愚鈍になるといった「脱=優越」と「脱=比較」の方法を呈示しているが、自分のそれを根底から抜き去ることは自我の崩壊に等しい恐れを抱いてしまう。いったいどうしてなんだろう……。
ユン・チアン『ワイルド・スワン 上中下』 講談社文庫 91. 各762e
軽い気持ちで中国の親子三代の話と思って読みはじめたが、最後まで読まなければ気がすまなくなるほどひきこまれた。ノンフィクションだから、文章を読みながらじっさいの写真像をなんども見比べたりもした。読んでいる途中、読み終えたあと、呆然となってしまって、頭がこの話からひきはなせないほどだった。
なにがスゴかったのか。どんな人もこの人はどんな運命をたどるのだろうとひきつけられる展開なのだろうか。あるいは親から聞いた話をまるで自分が経験したかのように鮮やかに語る手腕なのだろうか。
歴史に翻弄され、牙をむくのは、順調に出世していたかに見えた両親が文化大革命によって迫害され、労働キャンプにおくられるあたりからである。これはほんとうにかわいそうだった。そしてありとあらゆる人たちが迫害され、批判され、暴力をうけた文化大革命という異常な時代を、いまの中国人はすべて経験しているのだと思うと、なんだかその経験の重さと残忍な過去を思わずにはいられない。
中国というのは歴史大河ロマンが似合う。この激動ぶりは社会主義制度によるものなのか、それとも中国という大地と歴史によるものだろうか。
ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学』 ちくま学芸文庫 1951. 950e
「戦争のめまい」の章は圧巻だ。「殺戮の喜びがどんな点で宗教的な法悦と似てくるか」「戦争は、人間に宗教的な感情を付与する。戦争は人間に、すべてを小さく遥かなもののように思わせる。戦争は魂を回復させる。戦争は、正義の分配という卑劣な観念を斥ける。戦争を離れては、人は「ささやかな汚らわしきもの」にすぎない」
「そこでは社会的な負担が消滅する。すなわち目的のために悩み、衒おうとする懸念、不平等の苦悩、不平等の地位、孤独な努力、助力なき闘い、決断のための疲れ、使命への疑惑、どんな努力どんな果断でも満たされない欲求、誘惑の展示、状況の低調さとその変化の緩慢さ、これらはみな消滅する」
「戦争は、人間を祭りのときと同じような熱狂へと誘っていく。戦争はこんにちの世界が生んだ≪聖≫である」「社会と法とであまりにも長く抑圧されていた本能が、ふたたび本質的なもの、聖なるもの、崇高な理由を帯びるようになる」「生産の時期にいためつけられた本能は、戦争の開始とともに、その復讐を見出そうとする」
「新しい時代が展けた。それは激しい様相の国家戦の時代である。この激しい戦いには、国民の全部が参加する。国家は戦争のため、市民にその財産と血とを要求する」「あらゆる他の諸目的、あらゆる他の財、すなわち財産・生命までが、国家に集中され、国家に吸収される」
「戦争はすでに、農業・工業・財政・科学の総動員を前提としている。戦争はもう市民生活の奇生物ではない。かえって全市民を吸いとる存在になってきた」「戦争は今世紀における、神秘的な絶対者である」
圧倒された。戦争による宗教的な法悦、聖なるもの、近代戦、総力戦といったものがこの本ではあますことなくのべられている。われわれはこのような時代に生き、そしていまだその総力戦の経済システムのなかで生きていることをぜったいに忘れるべきではない。
岡原正幸『ホモ・アフェクトス 感情社会学的に自己表現する』 世界思想社 98/12. 2300e
翻訳がほとんど出ていない貴重な感情社会学の本であり、この本を読んで感情というものはあらためて問題にされなければならないテーマだと思われた。
海外の学者の説が紹介されているのはよかった。フォヴィンケル、エリアス、ヴォウタース、メストロヴィッチといった人たちである。(もちろんエリアスいがい翻訳はない)
フォヴィンケルという人は「政治的賢さ」と「美しき魂」とという人格モデルをみいだした。前者は絶対君主社会でふるまいと心情が合致しない人格、後者は現代の感情と行動が一体化することが理想とされる人格である。「美しき魂」ではウソも悪いことも考えられないわけである。
メストロヴィッチは現代は「大量生産された感情」「パッケージされた中古品の感情」が大量に出回っていると分析している。感情というのはとっくのむかしに「商品」になっていたわけである。
感情社会学というのはひじょうに知るべき必要があると思うのだが、翻訳はほとんど出ていないのがとても残念である。感情というものは社会にいかに利用されているかと知らないと社会にうまく利用・コントロールされるだけである。
岡原正幸・山田昌広他『感情の社会学 エモーション・コンシャスな時代』 世界思想社 97/3. 1893e
貴重な感情社会学の本である。山田昌広の『感情による社会的コントロール――感情という権力』がとくによかった。感情は自分の意志でコントロールできないがゆえに自己意識や個性とみなされているということや、感情は自然に発生するものでありながらある状況では感じなければならない「感情規則」があるという矛盾、また感情は近代にとって合理的・理性的でない野蛮で動物的なものと考えられていたのに喜怒哀楽のない人生はつまらないと思われていたりすることなど、感情に対する疑問と不可思議さが噴出した。
感情は自然でコントロールできないものという知識は、人々の行動を統制するための有効な道具となってきたのである。感情にたいして無知であることは恐ろしいことかもしれない。(逆に感情労働、感情管理として社会や企業に利用される場合もあるが)
しかし残念ながら70年代アメリカからはじまった感情社会学という学問は、おもな学者、ケンパー、ホックシールド、コリンズといった人たちの著作はほとんど翻訳されていない。早く翻訳してほしいものだ。
梅棹忠夫『わたしの生きがい論 人生に目的があるか』 講談社文庫 81. 460e(古本)
ブラボーな本だった。この本が書かれた(語られた)70年代前後というのは生きがい論がブームだったそうだ。高度成長が終焉にさしかかり、目的や生きがいが見失われてきたからだろう。いまでもこの状況はほとんど進歩していないようである。
この本でインパクトに残ったのは三点ほどある。ひとつは自由競争や立身出世を明治からめざしてきた民衆のエネルギーが結果としてきずきあげてしまったのは、それらを全否定するような官僚組織であったというくだりである。生きがい感がなかったり、閉塞感が強いのはそういうことである。
もうひとつは梅棹忠夫は生きがい論を語りながら、生きがいを否定するような老荘思想に接近していることである。有用なこと、役にたつことは、つまらないことだ、役に立つことをいかに拒否してゆくか、そういうことが重要であると語っている。意外である。
さいごは書くことに値打ちがある文学が増えるといっていることだ。だれも読まなくても書くことに作者の生きるはりあいが与えられるというわけだ。マスコミや情報産業の大衆化・アマチュア化がおこるということだ。これはインターネットの個人コンテンツでちゃんと証明されたわけだ。
笹川巌『怠けものの思想 80年代の行動原理』 PHP研究所 79/9. 980円(古本)
よくこんな本を見つけたものだ。でも「怠けものの思想」というのはひじょうに大事だと思う。怠慢や怠惰のなかにカネや効率ではないもっと大切なものがあるはずである。そこにこそ、ラディカルな問いかけがあるというものだ。
この本では怠け者とその讃歌がずらりと並べられている。ポール・ラファルグ、バートランド・ラッセル、物草太郎、三年寝太郎などがとりあげらている。怠け者をあつめた本というのはあまり見つけられないので、けっこうありがたい本だ。もっともっと怠けものについて追求したいと思ったのだが、昨今の書店ではほぼ見当たらない。
勤勉についての小咄をひとつ。「いい若者が昼間からごろごろ寝やがって。働いたらどうだ」「働くとどうなる」「金持ちになれば寝て暮らせる」「そんならもう寝ている」――アホみたいである。
加藤秀俊『生きがいの周辺』 文春文庫 70/11. 260円(古本)
もう30年前の仕事と人生についての本だが、驚くほどいまの感覚とぴったりだし、いまわれわれが抱えている問題とまったく同じものだ。現代は竜馬の時代のようなフロンティアがなくなった、仕事というのはプライドを傷つけられること、あれもこれもになりたい自分、「〜がほしい」より「〜でいいです」を優先する社会、仕事をすぐやめたがる若隠居文化など、いまとまったく変わらない仕事の周辺について語られている。30年前もいまと同じような感覚・悩みに捉えられていたんだなと納得。
それでもその後、働き過ぎは加速し、手厚い社会保障に釣られるように若者は超堅実・保守的に生きるようになった。そしてこれらの問題群にたいする答えを社会は見つけられず、またもや同じ問いにつきあたろうとしているように思える。ただし、人手不足の当時とちがって、こんどは人々がつぎつぎとクビを切られるリストラ時代だが。
日下公人『新しい「幸福」への12章 経済と人生哲学の接点から』 PHP研究所 88/1. 1200円(古本)
日下公人の幸福論なら読みたいと思っていたのだが、あいかわらずスルドイ言葉がいくつもあって驚くばかりだ。この人はまさか天才じゃないかと思ってしまう。
人生にはビジネス型人生とかぶら菜型人生と芸術家型人生があるといい、ビジネス型では要求が高すぎたら引き下げることが肝要、獲得した後のことが見えてこないといわれている。
かぶら菜は仏教の努力や喜びを否定する態度で、失敗や不幸の後悔に気をつけなければならなく、芸術家型はこれからの利他的な生き方として考えるべきだという。
ほかに日本人が働き過ぎで自由がないのは会社が仲間とその老後を守るための集団になったからだということや、権力や財力をもてば自由になれるのか、ほしいモノをつくると弱みができるなど、考えさせられる指摘がなされている。
貧困からの脱出という経済的向上心はもう終わった21世紀型の幸福をつくりだすのはひじょうにムズカシ〜イ! 平成不況という経済的脱落のなかから生み出してゆくしかしょーがないのかな?
この本に刺激されて考えてみました。幸福の「歯止め」論について――。
だめ連編『だめ連宣言!』 作品社 99/2. 1500円
これはぶったまげた。「ダメ」であることをギャグにしてしまう開き直りはすごい。だめ連というのは職がなかったり、モテなかったり、といったさまざまなダメな人たちの交流会であるそうだ。
もちろんわたしがとてもうれしかったのは、「仕事なんかやってられましぇ〜ん』といって、いかに働かないで生きていこうかと考えるだめ連の人たちである。「週に五日も働いていたら、おもしろいことなんか、なにもできないのですよ」といった宣言は、ある意味では禁句なので、よくぞ思い切っていってくれたと思う。
わたしもどうやってサラリーマン社会から逃れようかと思ってきたし、だけど「まとも」からはみ出たり、将来の不安も積み重なって、いろいろ悩むことが多かったので、こういう人たちの集まりがあったというのはとても心強いかぎりだ。
「だめ」を恐れて囚われて生きるより、開き直って自分の好きなように生きるほうが幸せなのではないだろうか。かれらの生き方は閉塞社会の突破口になってくれるだろうか、いや、つまんないサラリーマンの画一的な生き方をぜひともブッつぶしてほしいものだ。応援してるよぅ〜!
だめ連ホームページ 機関紙「にんげんかいほう」が読めます。
つげ義春『無能の人・日の戯れ』 新潮文庫 88/5(無能の人) 552円
『無能の人』というのは売れないマンガ家が石屋になったりする生活苦のマンガである。たしか映画化されたと思うし、吉本隆明が解説を書いたりして評価されているんだろうけど、う〜ん、どう感想を書いていいのかわからない。
主人公はたえず商売を考えているのだが、どれもこれもうだつがあがらず、奥さんからは貧乏の家庭によくあるように罵られ、最後には乞食詩人に憧れたりする。
高度資本主義にとりのこされた無用の人たちを執拗に描く。清貧や無用であることを誉めたたえるのではなく、たえず奥方から罵られたり、生活がままならないといった状況を描くが、無能や無用の用が失われてゆくことを嘆いているのか。
役に立ったり、有用であろうとするプレッシャーが先鋭化してゆくなかでの、ささやかな抵抗なのだろうか。
宮本常一『生業の歴史』 未来社 日本民衆史6 65/2. 2060円
たくましくも、したたかに生きてきた民衆の生きざま。これぞ日本人の歴史というものだ。学校の歴史の教科書は、政治屋の歴史ではなく、これにすべきだと思う。
人々はこういうふうに生きてきたんだなとわかると、なんのためにもならない政治的歴史よりよっぽど生きてゆくための勉強になる。どうやって生きてゆくかということが一般の人々にはもっとも必要な知識なのだ。世間で生きてゆく知恵が身につかないから、われわれはだれもかれもがサラリーマンにならなければならないというバカな生き方しかできないのだ。
この本では山に生きる人、海を生業にする人、旅のにない手、行商人とか流浪の民、出稼ぎとか職人、乞食などのさまざまな生業がひじょうにわかりやすい文体で書かれていて、ああ、われわれのご先祖さまはこのような生き方をしてきたんだなととても感慨深くなる。
民衆の生きざま、暮らしの立て方、悲哀がまざまざと目の前に浮かんできそうな秀作である。学校の歴史では民衆なんか存在しないも同然だけど、ここでは懸命に、器用に生きてきた人々の姿が、讃歌を送りたくなるほど、生き生きと描かれている。
ジークハルト・ネッケル『地位と羞恥 社会的不平等の象徴的再生産』 法政大学出版局 91. 4300円
恐れや恥ずかしさといった感情は個人にとっては害をおよぼし、むだなものである。それなのになぜ感情があるかというと、社会規範や慣習を守らせるためにあるようである。生得的にあると思われていた感情も、じつは社会規範を遵守させるための装置なのである。では羞恥とは? 羞恥は地位秩序を守り、地位誇示をあらわにする戦略である。
そういったひじょうに興味ある地位と羞恥について考察した本書は、サルトルやフーコー、ジンメル、エリアス、セネット、ブルデューといった社会学者を批評しながら論じているのだが、だいぶ難解でわたしにはなかなか得られるものが少なかった。いやはやひじょうに興味あるテーマをあつかっていて残念であるが、このような羞恥への考察は社会的権力からのやみくもな拘束から逃れられる洞察をわれわれに与えるきっかけになるだろう。
それにしても法政大学出版局の本は高い! 装丁を薄っぺらなものにして安くできないか。
中野孝次『清貧の思想』 文春文庫 92/9. 485円
人生観を揺さぶられるすばらしい本である。金儲けやビジネスだけの卑しい日本人ばかりになったこの国でも、かつては世俗や財産、名誉、地位を捨てて、あえて持たないことで心の自由や優雅、高潔さをめざした尊敬できる人たちがたくさんいたことを教えてくれる本である。
鴨長明や良寛、蕪村、芭蕉、吉田兼好、西行といった人たちの生き方が紹介されている。かつての日本人にはそういった高尚な理想があったのに、現代人はなぜそのような系譜をすっかりと忘れ去ってしまったのだろうか。企業やテレビ、雑誌などの圧倒的な影響力(強制力)を無視できないだろう。
この本は刊行当時ベストセラーとなったが、その当時わたしはヨーロッパかぶれで、日本の古文ばかり出てくる本には手が出せなかったのだが、最近とみに忙しくてその飢餓感が逆にこの本を手にとらせた。今までこの本の中身まで知らなかったことは残念なことだったと思う。
竹内靖雄『「日本の終わり 日本型社会主義との訣別』 日本経済新聞社 98/5. 1600円
閉塞日本社会の総決算のようなよい本である。とくに年金制度や医療保険はもうダメだとあっさりと切ってくれたことはありがたい。著者は、福祉国家は家族を無用化するという人々の「意識革命」をなしとげたことが、とり返しのつかないことだとみる。「国家になんでもかんでも甘えん坊」になった人々の行く末は、国家といっしょに沈没するまでみずからの依存体質のなさけなさに気がつかないのだろう。
この本の著者は自由市場主義者であるようだが、日本型社会主義のかずかずの破綻の理由づけにはおおいに肯けるのだが、自由主義者ゆえの説明には感心しない。わたしも市場主義にしたほうがいいと思うが、なぜなら決まりきった人生コース、生涯を拘束される会社人生や会社至上主義は官僚型社会主義にその原因があるからだと思うし、市場主義にもどせば逆に金儲けだけではない価値観も生まれると予想しているからだ。
個人の自由な生き方や生活までも拘束する日本型社会主義はもう終わるべきだし、その前にまず人々はこの国はみんなでいっしょに仲良くの「社会主義」だったことに気づかなければならない。そのためにものすごく窮屈で強制的な集団主義(会社主義)が人々を覆っていたのである。青年期に感じる将来にわたる重圧感はこれをなくさなければ拭い去れない。
『大江戸生活事情』 石川英輔 講談社文庫 93/8. 544円
これはオススメの本です。殖産興業の近代政府以降、封建社会、後進性の悪役に仕立て上げられてきた江戸時代ののどかな、豊かな暮らしの見直しを図った本である。
江戸時代は貧困の暗黒時代だと思い込まされてきたが、はたして現代日本は国が富んでも個人は貧しく犠牲にされたままだし、民主主義政治がとても機能しているようには思われないし、エコノミック・アニマルでぜんぜん生きている意味がない状態なので、江戸時代のほうがよほどよい人生、自由な生き方を満喫できたのではないだろうか。
経済主義、軍国主義の近代社会のネガとしての江戸社会を見直すべきだ。
『正統の哲学 異端の思想 「人権」「平等」「民主」の禍根』 中川八洋 96/11. 徳間書店 1900円
衝撃の書である。人間の解放をうたったルソーはじつはスターリンなどと同じく全体主義者であり、フランス革命は平等などのスローガンとともに自由や生命を抹殺する革命であり、全体主義国家ロシア革命の先駆けにほかならなかったという書物である。
平等や民主は善いものだという先入観がすっかりひっくり返ってしまう本だ。平等をもとめたり過去の伝統を破壊してしまうと、個人は丸裸で放り出され、国民の要求によって無限大に肥大化してゆく国家権力に蹂躪される結末に陥る。権力を抑制していた伝統的な中間組織が破壊され、守られなくなった個人は、フランス革命やソ連、ポルポトなどの大量虐殺の憂き目に遭う。
ひじょうに説得力のある書であり、納得できるのであるが、保守主義という立場には、いささかの混乱といくらかの疑問が残る。
この書は民主とか平等という概念による過ちの歴史が一望できる優れた書である。
保守主義について考えてみました。「理想社会というパラドックス」
『さらば! 貧乏経済学 新しい豊かさと幸せを求めて』 日下公人 86/9. PHP文庫 420円(古本)
これはすばらしい本だ。ぜひみなさんに読んでもらいたいが、絶版?
のっけから、教会から解放された個人はふたたび国家に隷属するようになったなどと、社会の意識のさまがわりがのべられていて、圧巻である。
もう10年前以上の本だが、貧乏経済学から抜け切れないのは今も同じだ。貧乏経済学というのはモノがない時代にいかに金持ちになるかという経済学で、こんな発想に凝り固まったままでは、もうつぎの時代は乗り切れない。
工業化の論理では生産と貯金が増えてゆくだけで、こんなオヤジの発想ではもう経済や社会を盛りあげてゆくことも、不況から脱出することもできない。消費や文化の開発は生産の増強よりもっと人間的な能力が必要になるが、オヤジの論理が高圧的になっているこの社会ではまず望むべくもない。
むかしは怠け者が犯罪視されたが、これからはクソまじめなオヤジが犯罪者だ。人々の楽しみや好みを剥奪するオヤジ社会は、工業化の論理とともに棺桶入りだ。
『寂しい国の殺人』 村上龍 シングルカット社 1800円
「近代化が終わったのにだれもそれをアナウンスしないし、個人的な価値観の創出も始まっていない、だから誰もが混乱し、目標を失って寂しい人間が増えている」――こういう村上龍の発言は、もろ手をあげて賛成する。
近代化が終わったのにマスコミもサラリーマンもおじさんもだれもそれを告げない。しがみつくものがなにもないから、だれもが終焉した近代化の目標にしがみつく。早く大人たちはそのことを認めて、個人的な価値観を創出することだ、システムを変えることで個人が変わる時代は終わった――というのが村上龍のメッセージだ。
この本は近代化の総決算という意味でとても重要なメッセージを告げている。「これから日本をどうするのか」なんてことは問わない、個人的な価値観の時代にはそんな問いは不毛だからだ。あるイタリア人はいった。「近代化が終わったことはすばらしいことだ、おめでとう」
村上龍のいっていることはほんとうに重要なことであり、日本人のだれもがこのことの重要性に気づかなければならないと思うのだが……。
村上龍の話を聞くといつもつまらない会社とつまらない人生について考えたくなる。ということで「「会社」という日本人のただひとつのよりどころ」。
『ビジネス人生・幸福への処方箋』 安土敏 講談社文庫 495円
われわれの幸せ感がなぜ崩壊しているのか、その理由を探ったすばらしい本。その原因を「法人優遇社会」や「言語化されない社会・経営」、「仕事=際限なき奉仕」などに見出している。
あまりにも感銘したので、エッセーでもういちど検討してみました。「諸悪の根源――法人優遇社会と言語化されない社会」をごらんください。
『アダム・スミスの失敗 なぜ経済学にはモラルがないのか』 ケネス・ラックス 草思社 2500円
経済を道徳から考えてみるにはこの本はひじょうにいい。こんにちの道徳的崩壊がおこったのは、利己心を称揚し、その前提になんの疑問も抱かない経済学がもたらしたのだと著者はいう。
利己主義の思想がアダム・スミスの真意をいかにゆがめてきたか、どのような歴史をへてこの思想は受け入れられてきたのか、語られている。
この著者の経歴がふるっている。精神分析のカウンセラーをしているうち、現代人の悩みや不安のおおくが、経済的なものによっていると感じ、経済学を研究するようになったそうだ。
経済学は、このまま人の心や感情、道徳心を失ったままでいいのか。
『これからの10年』 日下公人 PHP研究所 1500円
日下公人は発想がひじょうに突飛である。だから常識とかあたり前にこだわらないで、おもしろい。
この本の中でおもしろかったのは、憧れられる生活がこれからの輸出産業にならなければならないといったことや、会社に飼われる会社人間が増えすぎたために人間活力が低下したとか、もうサラリーマンは多すぎるから、女にモテないといったことが語られている。
考えてみたらあたり前のことを言っているに過ぎないのだが、そのあたり前のぬるま湯につかっている自分たちのほうが悲しい。
『これからの経済人生学 7つの予言』 川北義則 青春出版社 1100円
これからの経済激変期にわれわれはどう生きていったらいいのか。とうぜん、いままでの生き方や価値観、ステータス、横並び志向を――そんなイヤミったらしい生き方を捨てることだ。
この本の中では、マイホームという幻想から脱け出す、安定・計画という生き方の時代は終わった、銀行や保険の神話も崩壊、といったこれからの生き方を指し示す予言がいくつもあげられている。
他人との平等、優越意識を競ったタテマエの時代から、自分の好きなもの生き方だけを選ぶホンネの生き方をしようではないか。他人がなにを買おうがなにをしようが、ドーデモいいじゃないか。私にいったいなんの関係があるというのか。自分の価値観、生き方をじっくりと育て直すべきだ。
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「超オススメ本特選集 人生・心理篇 97―01」
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