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011006書評集

▼2001/10/6更新



 『壊滅日本 17の致命傷』 鎌田慧 講談社文庫 98/9. 533e(古本)

 新聞ネタに近い話題はどうも私の興味をひかない。事件・事故はあっという間に忘れ去られる。考えてもしょうがない気がする。




 『階級にとりつかれた人びと』 新井潤美 中公新書 01/5. 700e(古本)

 階級なんかどのように分けられるのだろうか。正確に分けようなんかないから、ほんのささいな違いを際立たせる必要が出てくる。あると思えばあるし、ないと思えばない。人と比べるということは同じレベルであることを図らずも吐露している。人との比較という悪夢にとりつかれないほうがいい。




 『心のシンプルライフ』 ヒュー・プレイサー VOICE 2000. 1700e

 心の心配や不安を捨てる知恵やテクニックは、学べるならいくらでも学びたい。人生にとってこれほど重要で知っておくべき心のテクニックはほかにないと思う。でもけっこうそういう本は少ない。

 この本は、心の毒素、感情の凝り・固まり、惨めさ、わたしわたしオレオレ、葛藤、正直さなどを捨てるエクサザイズが紹介されていて、待望の書が出たという感だ。

 リチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』を超える本でないと思うが、つい忘れがちになる捨てるテクニックについて復習はできた。

 ひとつ気にかかったのは、自我・エゴを自分ではない勝手な暴君であると見なしていることだ。エゴは自分ではないのだろうか。他者からいつも切り離そうとし、つながりを拒否するエゴは――私はこれを頭の中の思考と見なすが――じつは「よそ者」なのだろうか。思考のいうことをいっさい聞かないとしたら、……それは解放なのか、それとも自己の消滅なのだろうか……。




 『お釈迦さまの肩へ』 ひろさちや カッパブックス 01/7. 838e

 言っていることはものすごくいいことだと思う。「頑張ってはいけない」「競争の渦に巻き込まれるな」「自分と他人を比較するな」「会社や組織を突き放せ」「よけいなことは考えない」「ほどほど、いいかげんがいい」――涙がちょちょぎれるほど、慰められる言葉群だ。

 右肩下がりの下り坂の時代にはとてもぴったりした知恵だと思う。ただ、ひろさちやの文章はどうも感銘や驚きがなく、あっさりと読み終わってしまう。落とし処やねじりとか、突き放しがどうもない。森毅のような人に言わせたのなら、辛辣に常識の馬鹿が笑えたと思う。かなり惜しい文章である。




 『マイホームレス・チャイルド』 三浦展  クラブハウス 01/8. 1500e

 団塊ジュニアは「脱所有」をめざす。これには驚いた。かれらも新人類世代と同じように消費志向にそまっているものだとてっきり思っていたからだ。

 かれらは家や家電、自動車や家庭をもたない生き方を志向している。かれらは親に所有されていた経験があるから、所有は束縛や苦痛に感じられる。だからかれらはあえてモノをもたず、ストリートに生きる。それを三浦展は「ホームレス主義」とよぶ。

 こういった価値観が近代的価値観の崩壊ともに若者のあいだに台頭しているという。これが事実であり、長期的にも進行する事態となったら、この日本社会は大きな変貌をとげることになるだろう。所有の束縛を捨てた世代にはどんな未来がまっているのだろう。

 この本はおもに団塊ジュニアの行動や生態、価値観を分析し、そこから脱所有や近代的価値観の崩壊、脱郊外などの動きを見据えたという点で、とてもおもしろく、驚嘆に値する内容をふくんでいる。ひさびさに心躍った本だ。

 若者の脱所有の流れをもっとくわしく知りたいと思ったが、いまのところそれを捉えた本はまだあまり出ていないみたいである。ほんとうに若者は脱所有、脱消費をめざすのだろうか。




 『「携帯電話的人間」とは何か』 浅羽通明[編著] 別冊宝島Real014 01/5. 1219e

 「我われは「消費」を捨てて「つながり」を求める!」――そうか、携帯電話というのは社会を変えてゆくかもしれないんだなと思わせた一冊だ。

 消費というのは人を孤独に陥れる。人は消費するごとに孤独になってゆく。その孤独は最先端流行の連帯感によってカバーされたり、職場共同体の連帯によって癒されていた。携帯電話の登場はこういう迂回路を必要としなくなるかもしれないのだ。

 まだまだ携帯電話が人間や社会のありかたを変えるとはいえない段階なんだろう、この雑誌はすこし中途半端な感がいなめなかったが、ゆっくりと人間の微妙な関係やつながりを底のところで変えてゆくんだと思う。




 『「家族」と「幸福」の戦後史』 三浦展 講談社現代新書 99/12. 660e

 郊外が少年事件の多発地帯ということで注目をあびているが、私も郊外は嫌いである。大阪の郊外だが、主婦たちの監視社会とか、平均への強制力とかがひじょうにうっとうしく、やっぱり私は十年ほど前に郊外から逃れてきた。

 郊外はなんでこんなに息苦しいのかということがこの本でいくつもの原因がのべられているが、やっぱり大量生産の画一化・規格化の思想や計画がいたるところに浸透し、はりめぐらされているからだろう。大量生産の規格製品の舞台のうえで大量規格品の洗脳をたっぷりと日々そそぎこまれれば、逸脱と規格外の不安にさいなまされずにはいられないだろう。

 郊外なんかだめだ。人々の働く姿が見えない。雑然とした、混沌とした、汚い、汚れた部分を整理しすぎている。職住分離の理想なんか、生の現実を知らない子どもたちを生み出すだけだ。

 郊外の家族も哀れである。「家族があったから家電が売れたというよりも、家電を買うことによって家族になることができたのだ」。郊外でつくられた大量消費時代の大量家族はますますその囲われた生き方に生の尊厳や自由を傷つけられることだろう。




 『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』 宮本常一・山本周五郎=監修 平凡社ライブラリー 59/11. 1359e(古本)

 いまの豊かな社会が日本の常識ではなく、この本に描かれているような貧しい時代がずっと日本のスタンダードだったということに改めて気づかされる。

 掠奪、飢饉、乞食、風土病、間引き、姥捨てなどの貧しい日本のエピソードがたくさん語られている。しかし私はこれを残酷や貧困だけの一言だけでは片づけたくないと思う。

 これこそが人生だと思う。飢えたり、病気にかかったり、野垂れ死んだり、これが生き物たる人間に課せられた運命だと思う。悲惨の一言で必死に逃げようとしても、こんどはぎゃくにそれが人間本性の拘束や束縛に転化してしまうのだ。

 だからこの『貧しき人々のむれ』はある意味では人生の自然な教科書のようなものだ。たっぷりと学ぶものがあると思う。そしてもしこれから経済がどこまでも下り坂を転げ落ちるようになったら、人生の覚悟の書としても味わうことができるのだと思う。






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壊滅日本17の致命傷


階級にとりつかれた人びと―英国ミドル・クラスの生活と意見




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お釈迦さまの肩へ―ひろさちやの幸福論








『マイホームレス・チャイルド』 三浦展 クラブハウス



















「携帯電話(モバイル)的人間」とは何か










『「家族」と「幸福」の戦後史』  三浦展 講談社現代新書
















『日本残酷物語〈1〉貧しき人々のむれ』 宮元常一監修 平凡社ライブラリー






   
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