2000年春に読んだおもしろい本
ほか
2000/3/31更新
鷲田小彌太『大学教授になる方法』 PHP文庫 91/1. 524e
自分の興味とぜんぜん違う雑作業の仕事をしていると、「ガ〜ッ! 自分の好きなことをして暮らしてぇ〜!」と思わずにはいられない。
わたしは教育者にはなりたいともなれるともとても思われないが、研究だけならできるかもしれない。大学院にいったり、教授になる道は開かれているのだろうか。
なんだか非常勤とか助手とか助教授とかかなり道は険しく、時間もかかるみたいである。カネも時間もたんまりといるみたいである。
まあどんなものかなとのぞいてみただけで、へたな夢は描かないほうがいいのだろう。でもこれからもずっと自分の好きでもないつまらない仕事に貴重な時間と人生を奪われつづけるのかなぁ〜。。。ホヘヘヘ。
クリストファー・ラッシュ『ナルシシズムの時代』 ナツメ社 78. 2500e(古本)
いくつかの本に参考文献としてあげられていたりしていたので、いちど読んでみたいと思っていたのが、たまたま古本屋で見つけることができた。
まあ、リースマンの『孤独な群集』と似ているといえなくもない。さまざまな分野や現象の社会批判や分析をおこなっている。ナルシズムといえば、わたしは「誇大自己」について考えたかったのだが、この本ではそのことについてはあまり言及されていなかった。
読みたかったアメリカでのセラピーの普及現象について、権威や伝統、家族を批判したり、不安や欠如におとしいれることによってセラピストや専門家はかれらの機能を奪ってきたのだと批判している。
どんな商売や商業も、欠如や不安がないと商売がなりたたない。どんなよい顔をしたやさしいセラピストも医者も教育家もみんな同じである。商業というのはそこに欠如をつくりだすためにまず爆弾を放り込むのである。
いくつもの鋭い批判や分析はあるのだが、二段組の大部の著であるのでさまざなことについて語られていて、頭のなかで印象が薄れてゆく〜。。。
岡原正幸『ホモ・アフェクトス 感情社会学的に自己表現する』 世界思想社 98/12. 2300e
翻訳がほとんど出ていない貴重な感情社会学の本であり、この本を読んで感情というものはあらためて問題にされなければならないテーマだと思われた。
海外の学者の説が紹介されているのはよかった。フォヴィンケル、エリアス、ヴォウタース、メストロヴィッチといった人たちである。(もちろんエリアスいがい翻訳はない)
フォヴィンケルという人は「政治的賢さ」と「美しき魂」とという人格モデルをみいだした。前者は絶対君主社会でふるまいと心情が合致しない人格、後者は現代の感情と行動が一体化することが理想とされる人格である。「美しき魂」ではウソも悪いことも考えられないわけである。
メストロヴィッチは現代は「大量生産された感情」「パッケージされた中古品の感情」が大量に出回っていると分析している。感情というのはとっくのむかしに「商品」になっていたわけである。
感情社会学というのはひじょうに知るべき必要があると思うのだが、翻訳はほとんど出ていないのがとても残念である。感情というものは社会にいかに利用されているかと知らないと社会にうまく利用・コントロールされるだけである。
中島梓『コミュニケーション不全症候群』 ちくま文庫 91/8. 580e
てっきりコミュニケーションがへたな若者についての分析だとずっと思い込んできたけど、ぜんぜん違うじゃないか。
この本の一大テーマはこの選別社会に「受け入れられるか」をめぐっての適応・不適応のさまざまなありかただと思う。
オタクは女から選別される恐怖や選別社会を拒否し、内宇宙に閉じこもったゲリラであり、女性たちのダイエットや拒食症は「人肉市場」に過剰適応したすがたであるという。
現代では「見られる」ことを完全に支配した個人が勝者であり、「他人の好感」のなかにしか自分の「居場所」はないと思い込んでいる。まことに実感できる言葉であり、だからわれわれは苦しいのだろう。
この本は現代社会のありようを知るようには、ひじょうに鋭い分析や文章がたくさんつまっており、生き苦しさを感じるのなら読まれることをオススメしたいと思う。
大平健『やさしさの精神病理』 岩波新書 95/9. 650e
森真一の『自己コントロールの檻』を読んで「人格崇拝」や「傷つきやすい自己」について関心をもったのだが、この本では個人のやさしさが会話調で書かれていて、ちょっと問題を感じられなかった。
梅棹忠夫『情報の文明学』 中公文庫 88/6. 648e
インターネットの登場であらためて情報の意味が問われるようになったが、この本での情報の対象は昭和30年代の草創期のTVだった。
梅棹忠夫は原理的な思考をかんたんな言葉でつきつめるのが得意だが、『情報産業論』という情報についての先見的な文章を書いて、それをめぐっての過程がこの本の中心になっているようだ。
ものすごく感銘した洞察や指摘はなかった。
安本美典『人づきあいの心理学』 PHP文庫 81/7 520e(古本)
とりたててとりあげる本でもないと思うが、人づきあいより創造性のほうを擁護していることには好感はもてた。教科書的な心理学の引用が多かったが、こういう本がむかしは売れたのだろうか。
岡原正幸・山田昌広他『感情の社会学 エモーション・コンシャスな時代』 世界思想社 97/3. 1893e
貴重な感情社会学の本である。山田昌広の『感情による社会的コントロール――感情という権力』がとくによかった。
感情は自分の意志でコントロールできないがゆえに自己意識や個性とみなされているということや、感情は自然に発生するものでありながらある状況では感じなければならない「感情規則」があるという矛盾、また感情は近代にとって合理的・理性的でない野蛮で動物的なものと考えられていたのに喜怒哀楽のない人生はつまらないと思われていたりすることなど、感情に対する疑問と不可思議さが噴出した。
感情は自然でコントロールできないものという知識は、人々の行動を統制するための有効な道具となってきたのである。感情にたいして無知であることは恐ろしいことかもしれない。(逆に感情労働、感情管理として社会や企業に利用される場合もあるが)
しかし残念ながら70年代アメリカからはじまった感情社会学という学問は、おもな学者、ケンパー、ホックシールド、コリンズといった人たちの著作はほとんど翻訳されていない。早く翻訳してほしいものだ。
高橋由典『感情と行為 社会学的感情論の試み』 新曜社 96/7. 2472e(古本)
感情社会学の文献が少ないこと、古本屋でたまたま見つけたからこの本を読んだのだが、最初の章がむずかしかったり、「羞恥論」のように個別感情を分析するのも興味深いと思ったのだが、それいじょうの感銘はなかった。
2000/2/27更新
森真一『自己コントロールの檻 感情マネジメント社会の現実』 講談社選書メチエ 2000/2. 1500e
げんざいの心理主義化してゆく社会を批判的に考察した書で、わたしはかなりうちのめされた。関連書や参考文献をたくさん読みたくなったひさびさのヒット作である。
心理主義化してゆく状況をフーコー的な権力・自己監視の視点で読みとくというのは驚いた。心理学というのはかならずしも人を救済させる知恵だけではなく、権力のよそおいももっていることを思い知らしめた。これからもこういう視線で心理学を捉えるということもたえず必要だと思った。
ほかのキーワードは「人格崇拝」と「合理化(マクドナルド化)」である。この社会は個人の宗教化と聖なる自己の高度化・厳格化がおこっており、この規範が厳しくなっているために「キレる」若者が増えているということである。合理化は社会や組織の段階から、個人の心理・内面化へとうつりかわっているということだ。
この本はほんとうにわたしに衝撃を与えた。心理学や自己啓発を批判的に捉えるという視線はほとんど欠落していたからだ。だけど心理学や犯罪報道などの心理還元主義や内罰化には迷惑や憤りを感じていたので、この方面からの批判はぜひとも必要だと思った。問題は個人の心や人格だけにあるのではなく、やはり社会矛盾や社会状況からひきおこされていると考えるほうが妥当だからだ。
心理学が強くなっている時代というのは、政治や社会、経済の変革能力がまったく欠如している証拠である。現状維持と適応と順応だけが絶対化される時代である。哀れな現代人は自己の内面を責め、攻撃し、変革するしかないというわけだ。
小浜逸郎『「弱者」とはだれか』 PHP新書 99/8. 657e
この世には格差と序列というものが必ず存在する。しかし戦後の社会は平等主義や差別バッシング、民主政治を理想として掲げてきたから、そういう社会をまじめに信じてきた人々は現実との落差にどえりゃあ〜傷つき、驚き、バカを見るだけだろう。現実や上下格差を肯定・順応するための苦悩期間が長くなるだけである。
差別というのは平等観念が生まれ、強くなっていったときに目立ち、そしてその苦痛がひきのばされるかたちで歴史のひどい差別がクローズ・アップされてくる。平等のネガとして差別はたちあらわれる。
理想がある。現実がある。そのはざまにおいて弱者の利権を獲得してゆく者たち、あるいは理想を信じて現実にうちのめされる者たちが出てくる。理想としてのあるべき社会像ははたしてわれわれに現実の生きやすさ・現実のありようを教えてくれただろうか。
さて、わたしは自分の日常とかかわりのあることを興味の中心とするのでこの弱者論にはいまひとつ問題意識をもてなかったのだが、ふつうの人にとってはそういう日常の格差や序列とどうつき合うかというがいちばん問題ではないのかとわたしは思う。(ところでこの本が書かれたのは小林よしのり『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』の影響だろうか。ほとんど読んでないが、問題を投げかけているみたいですね)
天野正子『「生活者」とはだれか 自律的市民の系譜』 中公新書 96/10. 720e
生産者優位にあまりにも傾きすぎたこの国では「生活者」という言葉はとても大事である。その生活者が語られてきた系譜を、三木清、新居格、今和次郎、思想の科学、溝上泰子、大熊信行といった人たちをとりあげて語っているのがこの本である。
市井の人や庶民たちをとりあげようとする運動は大切だと思うが、この本は全体として興味のありそうなことが語られていたが、いまいちインパクトに欠けるというか、批判精神がぬるいようで、印象に欠けた。
梅棹忠夫『わたしの生きがい論 人生に目的があるか』 講談社文庫 81. 460e(古本)
ブラボーな本だった。この本が書かれた(語られた)70年代前後というのは生きがい論がブームだったそうだ。高度成長が終焉にさしかかり、目的や生きがいが見失われてきたからだろう。いまでもこの状況はほとんど進歩していないようである。
この本でインパクトに残ったのは三点ほどある。ひとつは自由競争や立身出世を明治からめざしてきた民衆のエネルギーが結果としてきずきあげてしまったのは、それらを全否定するような官僚組織であったというくだりである。生きがい感がなかったり、閉塞感が強いのはそういうことである。
もうひとつは梅棹忠夫は生きがい論を語りながら、生きがいを否定するような老荘思想に接近していることである。有用なこと、役にたつことは、つまらないことだ、役に立つことをいかに拒否してゆくか、そういうことが重要であると語っている。意外である。
さいごは書くことに値打ちがある文学が増えるといっていることだ。だれも読まなくても書くことに作者の生きるはりあいが与えられるというわけだ。マスコミや情報産業の大衆化・アマチュア化がおこるということだ。これはインターネットの個人コンテンツでちゃんと証明されたわけだ。
國分康孝『人間関係がラクになる心理学』 PHP文庫 89/4. 467e
いま、わたしは人間関係に疲れているからなんとかその窮屈感から逃れたいと思っているのだが、どんなことを知りたいのかは自分でもよくわからないので、とにかくこの本でも読んでみることにした。
著者はだいたい論理療法をベースに語っていて、いろいろ役に立ちそうな思考のテクニックが語られていたのでいつか活用できるようなときがくるかもしれない。論理療法というのは「人に嫌われたら世も末だ」と考えるのではなく、「嫌われるに越したことはない」と考えなおすテクニックのことである。
ところでこの本では人とうまくつきあうテクニックは書かれているが、わたしの心はすっかりラクになったわけではない。あ〜、集団関係から逃れたい〜! いぜん、わたしは隠遁思想とか読んでいたから、よけいにしんどいのかなぁ。。。
G・ミケシュ『没落のすすめ 「英国病」讃歌』 講談社新書 78/12. 420e(古本)
まあ、げんざい、日本も英国病(先進国病)にかかったということだ。働かなくなったり、もう貧乏でもかまわないといったような「オトナ」になれれば、日本も成熟したというものだ。そのくらい達観してくれないと、労働機械としての犠牲の多い意味のない人生を送ることになる。
この本はイギリスをいろいろ皮肉っているが、ひとこと引用。「貧乏な社会ほど休日が多い。貧困な社会は、しばしば宗教的な社会でもある。政治がなんとかしてくれるなどという期待は、とうの昔に捨てて、神さまにだけにすがっているのだ」――日本人は政府や経済に期待をたくしてきたから、働き過ぎをやめられなかったというワケか。
日下公人『逆読者法』 知的生きかた文庫 2000/1. 533e
ユニークで突飛な発想をする日下公人の読書法ならいちど読んでみたい気がする。いちばん大事だと思ったところは問題意識のワナをしかけて本を読めというところである。そうすれば必要な情報は逆にむこうからやってくるものである。よく聞く科学者の発明の「ひらめき」も、こういう必死に考えつづけたあとにはじめて訪れるものである。
もうひとつ本はその著者の都合を考えろということである。著者自身が重要性や仕事の拡大をねらっているのなら、とうぜんその内容は大げさや重要性をおびたもの、深刻なものになる。この著者の都合というロジックを見抜けということである。
スマイルズ『自助論』 知的生きかた文庫 1858. 440e(古本)
福沢諭吉『学問のすすめ』とともに明治の青年を奮い立たせた『西国立志編』というこの本を、「勤勉」を刷り込ませた張本人として批判的に読みたかった。
だいたい伝記とか偉人伝とかからの引用が多く、よくある自己啓発書とほとんど変わらない(いまから読めば)と思った。まあそれぞれのエピソードにはそれなりに感動するものがあって、そうかもしれないなと、あまり批判的には読めなかった。
佐藤綾子『パフォーマンス人間の自己表現』 成美文庫 85/10. 505e
現代は効率化や人格崇拝などが進んで、やさしさや内省などの拘束着が身をつつんでしまってなかなか自由に自己表現ができなくなっているようである。自己表現をパフォーマンスとひらきなおって捉える視点も必要かもしれない。
この本はゴフマンとかターナーとかの学者を引用してなかなか学術的でもあったので読んでみたが、早くも印象は薄れつつあるようだ。
横森理香『恋愛は少女マンガで教わった』 集英社文庫 96/7. 457e
たぶん男のわたしも少女マンガの影響をいくらか受けていると思う。アニメの『キャンディキャンディ』に熱中したり、アネキのマンガを読んだりして、少女マンガ風の一途な恋愛感情といったものを知らず知らずのうちに刷り込まれていたと思う。
ゲンジツを知ったオトナの目から見ると少女マンガは恋愛のカンチガイと誇大妄想の宝庫である。著者はそのブッとび具合を見事に解説してくれて、この本はとてもおもしろい。
カンチガイと誇大妄想はときには恐ろしくなる。自分にはすばらしい才能が眠っていて、それをコーチが発掘するという物語は『エースをねらえ!』などにあって少女はダイスキなわけだが、自分はこれだけの人間ではないという想いはこんなところで植えつけられたのかもしれない。
少女マンガというのは女のエゴイズムと全能感をどこまでも満たす空想である。エゴがどこまでも満たされるひじょ〜に自分の都合だけが通る空恐ろしくなるくらいの物語りである。オトコはたえず二人が愛してくれて片一方がダメだったらもう一方に落ち着いたり、努力しなくても足長おじさんのような存在が助けてくれるといったタナからボタもち的物語りが満載されているというわけだ。でもそのなかにはひじょうに深い人生観とか恋愛洞察とかがつめこまれていると著者はいっている。
エゴと自己都合だけが通るマンガはたしかにとても楽しくて満足するものである。でもゲンジツというのは、たいがいその逆であり、またどちらでもなく、こういうカンチガイの刷り込みはよいことなのか、よくないことなのかちょっと考えさせられた。
どこまでも満足できない人間をつくりだしたとするのなら、やはり不幸なことだろう。エゴと自己都合が通る認識をつくってしまうと、たいがいのゲンジツはガマンならなくなってしまう。刷り込まれたエゴに振り回されているのに気づかない結果になってしまうかもしれない。でも人はずっと昔から自分の思い通りになるマンガや空想が大好きなのである。
江下雅之『ネットワーク社会の深層構造 薄口の人間関係へ』 中公新書 2000/1. 840e
インターネットの人間交流的なことを捉えた本は少なかったから、こういう本は早く出ないかと思っていた。
インターネットができる前にすでにそれを欲する生活変化があったというのが著者の考えである。プレ・インターネットとしては雑誌・ラジオの投稿や個人情報雑誌、ダイヤルQ2などで用意されていたということである。交流や人間関係の自由市場がすでにはじまっていたというわけである。
また創作で遊んだり、メディアで遊ぶことをインターネットは大幅に拡大したのである。
血縁や地縁などの「宿命的」な関係が崩壊するにつれ、メディアを利用した薄口な人間関係がはじまる土台がととのっていたということである。なるほど、ネットに「人間関係市場」ができあがるということか。趣味とか好みは土地とか空間のへただりを越えようとしているわけである。個人のつながりや情報は地域や所属集団の縛りからますます離れてゆくことになる。
饗庭孝男『日本の隠遁者たち』 ちくま新書 2000/1. 660e
日本の隠遁者をまとめてくれれば、ありがたい。能因と西行、長明と兼好、芭蕉、山頭火と放哉がこの本では紹介されている。
しかし古文ではなかなかその味を味わえず、山頭火の句はいいなぁと思ったくらいだ。ところで山頭火の生涯を映画とかドラマにしてくれないかなあ、感動するのになあ。
小林多喜二『蟹工船・党生活者』 新潮文庫 1929/32 240e(古本)
時代は大正・昭和初期に似てきているということで、その時に流行ったプロレタリア文学に範を求めようと思った。
『党生活者』というのは労働運動をする男の話で、ストライキやビラをくばるだけでスパイや逃亡者のようなこせこせ隠れた生活をしなければならないというのは、いまから読めばまったく被害妄想に侵された男みたいに思えた。こんなので虐殺されなければならなかったというのは、日本というのはなんて国だったんだと思う。
これから日本はリストラや失業、景気が悪くなっていけば、プロレタリア文学や貧乏文学が流行るのだろうか。それともコマーシャリズムやポップ・カルチャーにおかされて、現実から顔をそむけたノー天気な雰囲気のままやってゆくのだろうか。(まあ、それもよし)
坂口安吾『堕落論』 角川文庫 1946. 430e(古本)
現代と似た昭和初期にはデカダンス文学が流行ったということで、無頼や退廃というのはどんなものかと読んでみた。
あまり参考にはならなかったが、学ぶべきよい言葉もあった。日本ではボタンひとつ押すだけですむものを、一日中苦労して汗を流して、それを汗の結晶だとか勤労のよろこびなどというと批判しているが、いまでもそのバカげた耐乏の美徳は生きのこっているようだ。
「もとより人間は思いどおりに生活できるものではない。愛する人には愛されず、欲する物はわが手に入らず、手の中の玉は逃げ出し、希望の多くは仇夢――」
「夫婦は苦しめ合い、苦しみ合うのが当然だ。慰め、いたわるわりも、むしろ苦しめ合うのがよい。私はそう思う。人間関係は苦痛をもたらす方が当然なのだから」
このくらいばっさり悲観的に思い込んだほうが、むしろ不幸や悲嘆にくれなくてすむというものだ。それ以上のよいことは儲けものだから。
加藤秀俊『余暇の社会学』 PHP文庫 84/2. 510e(古本)
あいかわらず次なる社会目標が生まれないままだが、余暇論のなかにはその萌芽があるかもしれないということで少し古い80年代のこの本を手にとった。
ヴェブレンとかラファルグの話はいまでも興味津々である。あと遊びについて考えたカイヨワとかホイジンガの話、遊びはもともと宗教とか聖なるものとつながっていたことなどが話されている。
余暇論が流行ったとき、社会はつぎの目標を見出すべきだったのだろうが、そうならずに社会は迷走と不況をこの十年ずっとつづけている。豊かになって生きがいを喪失したわれわれはなにをめざすべきなのか、ものすごく難しい。
99年秋に読んだ本「職業と学校ほか」
|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|
|