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2000年秋の書評
性愛市場―総力戦


▼2000/10/30更新分
▼2000/9/27更新分


2000/9/1更新





 辰巳渚『「捨てる!」技術』 宝島新書 00/4. 680e(古本)

 売れているようだが、やっぱり私も「捨てる」ということにてこづっているひとりだ。本棚からあふれでて三列も平積みになっている本をどうしたらいいかわからない。大きな部屋にひっこすか、狭い部屋に本棚を増やすか、あるいは捨てるか。

 本のほかの日用品はできるだけばっさばっさと捨てるようにしているが、ほんと捨てるのはむずかしい。たぶんモノを捨てられない人は良い人であるような神話が抵抗しているのだろう。もったいないという感情はかなり薄れたと思うが、「思い出」という執着が強くなっていることもあるのだろう。

 なんでもかんでも捨てられるようになるとさぞ気持ちがすっきりすることだろう。ついでにいえば、心の中の思考や感情、思い出といったものもぽんぽん捨てていったほうがより幸福に貢献するのも忘れないでほしい。そんなものはどこにもない幻なのだから。




 森永卓郎『<非婚>のすすめ』 講談社現代新書 97/1. 640e(古本)

 この本で驚いたことは、戦後の核家族化は企業の生産性向上のためにおこなわれたということだ。子育てに時間をとられたり、扶養費がかさむようでは企業は利益をあげられないので、その年に生まれた子どもの半数、あるいは出生数以上の中絶が企業の洗脳によっておこなわれたのである。

 ぎゃくに戦時中は兵力と労働力のために「生めよ、増やせよ」で大家族が形成された。われわれの家族のあり方はそのときの国家や企業によってコントロールされてきたのである。国家や企業がここまで浸透しているとは不気味なことだ。

 それにくらべて明治初期の離婚率は四割近くもあり、転職率も世界一だったそうである。明治の時代のほうがよほど「先進的」である。ただそれだけ市場の洗礼が激しかったとはいえるけど。




 岸田秀『性的唯幻論序説』 文春新書 99/7. 770e

 岸田秀が性についていっていることでいちばんインパクトがあるのは結婚は専属の売春婦になることだということである。そしてセックスは無料ではなく、有料であるため男はどこまでも働かなければならず、それが資本主義の原動力になっているということである。

 要は愛や結婚のオブラートにつつまれた幻想を捨てて、その関係を金銭関係や経済として捉えよということである。まったくそのとおりだ。結婚や性はロマンティックなものではなく、あくまでも金銭取引なのだ。

 ロマンティック・ラブや愛といった幻想は、市場経済を隠蔽する煙幕であり、売春婦が嫌われるのは結婚の金銭売買を隠したり、愛は崇高であるというイデオロギーを完遂させるに必要な目印なのだろう。

 セックスが有料であり、女は売り手であり、男が買い手の役割になったから男はどこまで稼ぎ、資本主義の奴隷労働をしなければならないとするのなら、この売り手と買い手の関係をぜひとも洗い直さなければならないのではないだろうか。




 シンシア・S・スミス『女は結婚すべきではない 選択の時代の新シングル感覚』 中公文庫 88. 819e

 興味ひかれる本だった。男の私としては結婚は大多数の女性がのぞみ、安定を欲するものという思い込みがあり、女性がなぜ差別だとか自立だと叫ぶのか実感ではわかりにくいところがあった。この本で他人の生活様式にあわせる窮屈さとか男の影に隠れる生き方のむなしさだとかすこしだけ垣間見えた気がする。

 現在のところ、結婚は社会的に認められたり、安定と信頼をもたらすとか、寂しい人だとか人から「オカシイんじゃないか」と思われたくないという外側の強制力でおこなわれていることが多いようである。

 そういういつわりの強制力をひとつひとつ解きほぐしてゆくのがこの本であり、そういういつわりの皮をはがしてゆくと最後にのこるのは依存したり、寂しさを他人に頼る弱さ、自分の自慢は夫の功績だけというみじめさだけのようである。

 「時を重ねた伝統や行動パターンが、その有効性に疑問を投げかけるというシンプルな方法で、かくも簡単にしぼんでしまうのか、まったく驚かされてしまう」――この言葉はほかの社会慣習についても覚えておくべきなのだろう。




 阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』 ちくま新書 96/10. 660e

 なぜ日本人はかくも宗教、とくに新興宗教を嫌うのか。これは私がぼんやりともちつづけてきた疑問である。この嫌い方は尋常ではない。また宗教なき人類など果たして存在するのだろうか。

 表面的には宗教がなくても、それに近い感情はだれもがもつはずである。その対象がたとえば愛になったり、企業になったり、国家になったり、科学や消費、趣味になったりしているだけだと思う。

 そして日本人は宗教信者であることを隠す。まるで「まとも」ではない人のようである。宗教を「狂人」や「犯罪者」と同じ位置に抑え込んだツケは、きっとあらゆるところにあふれだすことだろう。知は禁止され、カネが至上の価値になり、道徳が崩壊したりしているのは、これが遠因にあると思う。

 この本では近代国家の宗教政策などの歴史が語られていたりするが、深く納得できたわけではない。宗教嫌いというのはもっと卑近なところに根深くありそうな気がする。






 井上章一『美人論』 朝日学芸文庫 91/1. 830e

 これは美人についての本ではない。美人がどう語られてきたかということの本だ。

 明治のころには美人は罪悪であり、バカであるといわれており、現代では美人はほめたたえられ、だれでもなれるものになった。その理由を解いたがこの本だ。

 美人はかつて立身出世男の優越の目印として学業のなかばでも嫁にもらわれてゆき、したがって卒業する学識ゆたかな不美人の嫉妬となぐさめのために美人罪悪論がとなえられたというわけだ。ぎゃくに現代ではマーケットの要請から、だれもが美人になることを目指してくれないと業界は拡大しないということで、美人の民主化がおこっているというわけだ。

 美人観の変遷を、結婚市場と産業市場、教育のつながりからのべたこの本はなるほどなと納得させる本だ。

 おかげで大衆市場と国民国家や福祉国家の関係もこういう見方でつなげられることに気づいた。つまり国民国家や福祉国家は、国民が産業や総力戦に奉仕するためのご褒美であったというわけだ。




 河野貴代美『性幻想 ベッドの中の戦場』 90/3. 667e

 しまった、この本はかつて単行本で読んだのに、またもや文庫本で買ってしまった。それだけ印象がなかった本ということか。

 いまは経済市場と性愛の関係に興味があるので、ちょっと心理的な性愛関係にはあまり興味をひかれなかった。「幻想」と名をつけるからには、岸田秀なみにもっと幻想の剥奪をしてほしかったくらいかな。




 佐藤満彦『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿 科学者たちの生活と仕事』 中公新書 00/8. 840e

 職業科学者というのは自明のものではない。近代の科学者のなかには金持ちのパトロンやほかの職業で生きざるを得なかった人たちがたくさんいる。

 インターネットという新しいメディアはまたもやそういう草創期の時代をつくりだすかもしれず、草創期の人たちの足跡を学ぶ必要が出てきたということだ。




 山田霊林『忘れる技術 いやなこと、悲しいことを』 光文社 知恵の森文庫 66/9. 514e

 「私は、『忘れることの悦び』をかねがね主張している。過去を瞬間瞬間に断ち切ることは、どんなにすばらしいことか。過去に制約される人間は、卑小だ。あとからあとから、猛烈に忘れ去り、切り捨てる。すると、ひろびろとしたスペースに新しい生命感が満ちてくる。空にすればするほど、むくむく、ふくらみ、太ってくるのが人間精神だ」――画家の岡本太郎のことばである。

 この本は仏教からの忘れる技術についてのべた本なのだが、私としては、心理学的な忘れる技術の本を読みたかった。やっぱり仏教ではなく、心理学的な精緻な理論でないと、どうも納得したり、理解したりすることが少ない。

 もうひとこと引用。「ひとたび意識以前にはいりえれば、意識的自己などというのは、大海原の浜辺の砂の一粒にもあたらぬほどのものであることが、実感されます。意識的自己などという迷妄の見解、迷妄の執着以外の何ものでもないものにかかわっていることは、なんとも沙汰のかぎりであることが、悟れてまいります」




         ホモ・コムニカンス
 今村仁司『交易する人間 贈与と交換の人間学』 講談社選書メチエ 00/3. 1700e

 贈与と交換を問うことはひじょうに重要であると思う。生産や消費、あるいは人間関係といったものの根源を支えているのはこの贈与交換の関係である。いぜんからずっと興味があったのだが、なにを問えばいいのか、どんな答えを求めているのか、かなり難しい。

 今村仁司がこういう本を出してくれたことはとてもうれしかったが、どうも私の求めている問いと答えではないようだ。いやはや、ひじょうに残念だ。




 栗本慎一郎編著『経済人類学を学ぶ』 有斐閣選書 95/10. 1648e

 交換と贈与といえば経済人類学である。そしてカール・ポランニーである。トロブリアンド諸島のクラ交換であり、ポトラッチが有名である。この本によって贈与と交換がなにであるか、すっきりとわかったわけではない。




 山田昌弘『近代家族のゆくえ 家族と愛情のパラドックス』 新曜社 94/5. 2300e

 この本は近代家族の「方程式」であり、「法則」の本である。家族の役割や機能、目的や用途といったものが図式的にわかるようになっている。したがって個人的な家族のいざこざやケンカといったものの原因はこのなかに見出せるかもしれない。

 家族の図式的な理解をさせてくれるということでこの本はとてもいいし、愛情の意味と機能を説き明かしてくれることでかなり参考になる。しかし近代家族にたいする批判やメッセージといったものが感じられないためか、なんだか印象が弱くなりがちだ。




 ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学』 ちくま学芸文庫 1951. 950e 

 「戦争のめまい」の章は圧巻だ。「殺戮の喜びがどんな点で宗教的な法悦と似てくるか」「戦争は、人間に宗教的な感情を付与する。戦争は人間に、すべてを小さく遥かなもののように思わせる。戦争は魂を回復させる。戦争は、正義の分配という卑劣な観念を斥ける。戦争を離れては、人は「ささやかな汚らわしきもの」にすぎない」

 「そこでは社会的な負担が消滅する。すなわち目的のために悩み、衒おうとする懸念、不平等の苦悩、不平等の地位、孤独な努力、助力なき闘い、決断のための疲れ、使命への疑惑、どんな努力どんな果断でも満たされない欲求、誘惑の展示、状況の低調さとその変化の緩慢さ、これらはみな消滅する」

 「戦争は、人間を祭りのときと同じような熱狂へと誘っていく。戦争はこんにちの世界が生んだ≪聖≫である」「社会と法とであまりにも長く抑圧されていた本能が、ふたたび本質的なもの、聖なるもの、崇高な理由を帯びるようになる」「生産の時期にいためつけられた本能は、戦争の開始とともに、その復讐を見出そうとする」

 「新しい時代が展けた。それは激しい様相の国家戦の時代である。この激しい戦いには、国民の全部が参加する。国家は戦争のため、市民にその財産と血とを要求する」「あらゆる他の諸目的、あらゆる他の財、すなわち財産・生命までが、国家に集中され、国家に吸収される」

 「戦争はすでに、農業・工業・財政・科学の総動員を前提としている。戦争はもう市民生活の奇生物ではない。かえって全市民を吸いとる存在になってきた」「戦争は今世紀における、神秘的な絶対者である」

 圧倒された。戦争による宗教的な法悦、聖なるもの、近代戦、総力戦といったものがこの本ではあますことなくのべられている。われわれはこのような時代に生き、そしていまだその総力戦の経済システムのなかで生きていることをぜったいに忘れるべきではない。




 多木浩二『戦争論』 岩波新書 99/9. 660e

 私としては、戦争のなかでも、現在の経済至上主義システムをつくりだした「総力戦」「国民総動員体制」というものだけに興味がある。

 この本では日本は「軍隊国家」として形成され、けっしてヨーロッパ諸国のように国民が主権者ではなく、天皇が主権者であったという指摘くらいだけが目をひいた。




 西谷修『戦争論』 講談社学術文庫 92+98 900e

 「この戦争においては「国民」の生活全体が戦争遂行のために「動員」され再組織された。産業は挙げて軍需工場や兵站基地と化し、日常の私的活動は国家によって制約され、情報管理とイデオロギー統制によって人間の内面までもがその体制に組み込まれ、戦線は面となりあるいは空間となって社会全体に浸透したのだった。この「全面戦争」からはだれも逃れられない」

 「総動員(トータル・モビリーゼーション)」の時代は第一次世界大戦の時代から自覚されはじめた。そしてその芽生えはかつて国王の国から国民主権を奪取したフランス革命の国民からはじまる。国民の国土となった国家はみずからが守らなければならないのである。そうして「総力戦」と「総動員」の国家システムは作動しはじめる。そしてそれは民間人の殺戮をも意味する。なぜなら国民すべてを破壊しないことには戦争は決着がつかないからだ。

 われわれの社会や国家はこういう根源的な基底に制約されている。そしていまもなおその「総力戦システム」は生産や経済という名のもとに営々とつづいているのである。われわれの日常や生活、労働といったものはいまもなお、この総力戦システムに規定されているのである。この総力戦システムは「解体」できるのだろうか……。




 栄沢幸二『「大東亜共栄圏」の思想』 講談社現代新書 95/12. 631e

 この本のなかで現在の経済システムにつづく「総力戦・総動員体制」といったものの起源やありかたといったものを読み込みたいと思ったのだが、うまくとりだせたわけではない。

 それにしても戦争にみちびく言説が、物質主義や拝金主義、利己主義の西洋批判だったというのはまるで時代を感じさせなかった。私も同じことをいってきたからである。近代西洋批判が国家主義につながる経路については要注意と反省が必要だな。




 西川長夫『国民国家論の射程 あるいは<国民>という怪物について』 柏書房 98/4. 2500e

 「国民国家」というのは国民全体を総力戦・総動員の全面戦争にみちびくための装置である。ということで国民国家をぜひとも問うてみたいと思ってみたのだが、あんがい「国民国家」と名を冠した書物は少ない。いや、全面戦争や総動員経済とのかかわりから捉えた国民国家論は少ないというべきか。

 この本は「脱=国民化」をめざすと告げられているように私の問いと近いところにあると思ったのだが、ほかに本もないので読んだのだけど、問いが満足させられたわけではない。



▼2000/10/30更新




 桜井哲夫『戦争の世紀 第一次世界大戦と精神の危機』 平凡社選書 99/11. 720e

 第一次世界大戦の時代に生きた知識人の反応がいろいろ出ているが、なにをいいたい本だったのかよくわからない。




 岡野守也『自我と無我 個と集団の成熟した関係』 PHP新書 00/10.660e

 「無我」は「滅私奉公」なのだろうか。だとしたら「無我」は忌避されるべき思想だろう。しかし「無我」というのは人間存在や存在に実体がないということである。

 日本仏教では「無我」は「欲や執着のない人格」としか認識されてこなかっために深い混同がおこったということだ。無我は「我」のあるなしだけをいっているのではなく、人間だけを意味しない存在全体についての「空」も含まれているのである。

 そういう疑問を解いてくれたこの本はありがたいが、政治とか社会についての批評は風呂敷を広げすぎた感じがした。




 『なりたい! ライター』 大栄出版社編集部 99/8. 1200e
 『なりたい! 編集者』 大栄出版社編集部 98/10. 1200e

 編集とかライターのスクールにいってみようかなと思って読んでみた。こういう本というのは読んでいておもしろいものではなく、つい心は文章を離れて天翔けてしまうわけだが、杓子定規な解説ばかりではなく、職業にたいするわくわく、うきうきする想像力を発火できるような本のほうがよいのではないだろうか。




 司馬遼太郎『「昭和」という国家』 NHKブックス 99/3. 1160e

 軍国主義としてたちあがった近代国家の内実というものを知りたかった。そういう点に関してはあまり参考にならなかった。

 司馬遼太郎という人は私にとって歴史的な興味から接近することがたまにあるのだが、ぱらぱらと本をめくってみてもなにかいまひとつ興味がひかれないところがあった。まあ、歴史の簡明な視点はたまに参考になるが、なんだろうな、あまりにも日本と同一化しているというか、「個」がないというか、そんな感じに違和感や問題意識の違いを感じるのだろうか。国や地域の自慢を自分のことのように語る人は軽蔑しているし。




 山之内靖他『総力戦と現代化』 柏書房 パルマケイア叢書 95/11. 4078e

 市民社会や福祉国家は軍事国家と対極のものではなく、同一のものであるかもしれない。そういう点から総力戦や社会システムといったものを捉え直さなければならない。

 市民社会と軍国主義が同一のものであるという認識の整合性を私は求めているのである。あまりにも逆転した関係に見えるが、じつはおたがいなくてはならない相補性の関係にあるようなのである。だから総力戦と現代化というこの研究は私にとっては貴重なものである。

 総力戦と現代について示唆ある知識を与えてくれるが、ちょっと私にとっては細かい研究書すぎて、もうすこし簡明な断言がほしかった気がする。




 アンソニー・ギデンズ『国民国家と暴力』 而立書房 99/11. 4000e

 どデカクて、ぶあつくて、高いがっしりした本で、それだけで畏れ入ってしまう本である。

 私は戦争と国民国家のつながり、交換関係といったものを知りたかった。あまりそういう本が見つからず、そういうことを濃厚にいってそうなこのギデンズの本をともかく読んでみた。論理が迷路のようで、断言とか主張がなかなかくみとれず、私の知りたいことがところどころに出てきたが、目的が達せられたわけではない。




 若桑みどり『戦争がつくる女性像 第二次世界大戦下の日本女性動因の視覚的プロパガンダ』 ちくま学芸文庫 95/9. 950e

 戦時下のプロパガンダ絵画は恐ろしいものである。といっても、いまの時代も社会の常識や理想という総力戦のプロパガンダをうけているに違いないので、これを過去に終わったものと見なさずに、そのまなざしや不気味さを現在にも適用すべきだと思う。それでこそ過去の検証ははじめてその意味をなすというものである。

 女性は戦時下に献身的に働いた。プロパガンダのみが原因ではなく、ふだんはつまらない育児や家庭にとじこめられているが、このときばかりは公的、社会的な仕事を与えられ、政治的な意見も反映されたのである。女性の権利と地位の向上がこういうことに利用されることは警戒するべきだし、そして平等や民主制といったものはこういう機会に実現されることがあらためて思い知らされる。

 権利や地位の獲得というものは個人にってほんとうに求められるべきものなのだろうか。国家や産業の利益に与するだけではないのか。




 安彦麻理絵『快楽であたしたちはできている』 光文社知恵の森文庫 97/7. 457e

 女性のコンプレックスとかふだんこだわっているささいな世界観とかがわかって、女性の視野がいっきに展けたような気がした。




 笠原真澄『つくづくいい女ほど男運が悪い』 光文社知恵の森文庫
             00/6. 533e

 この本はタイトルの勝利だな。なんで「いい女は男運が悪いのか?」と思わせてしまう。中身は著者の恋愛話である。





 大澤正道他『戦争の世界史』 日本文芸社 98/10. 1400e

 全世界の戦争史に絵画と写真をふんだんにもりこんだ本である。鑑賞するだけで価値がある。




 別枝篤彦『戦争の教え方――世界の教科書にみる』 朝日文庫 83. 720e

 なんだか戦争の理論的研究の本って驚くほど少ない。書店に並んでいるのは個別の戦争とか戦争責任とか軍術の本ばかりみたいである。私が知りたいのはそんなことではない。

 ということで各国の教科書の紹介とともに理論的知識ものせられているようなので、この本を手にとった。まあ、しかし意図が違うようなのでちょっと。。。




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 2000年夏の書評2「華厳―仏教―量子力学」

 断想集総力戦と国民国家 

 断想集終身愛と「有料セックス資本主義」 
 
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「捨てる!」技術











『「非婚」のすすめ』 森永卓郎 講談社現代新書












『性的唯幻論序説』 岸田秀 文春新書
















女は結婚すべきではない―選択の時代の新シングル感覚












































『美人論』 井上章一 朝日文芸文庫
































































交易する人間(ホモ・コムニカンス)―贈与と交換の人間学







経済人類学を学ぶ






近代家族のゆくえ―家族と愛情のパラドックス












『聖なるものの社会学』 カイヨワ ちくま学芸文庫









































戦争論




























































自我と無我―「個と集団」の成熟した関係


























「昭和」という国家









総力戦と現代化












国民国家と暴力










戦争がつくる女性像





   
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