全自動分業社会の虚しさ



                                              1997/9.





      われわれの生活はとても便利なものになっている。

      のどが乾けば、自動販売機でジュースを買えるし、

     どこか遠くに行きたければ、電車や車が運んでくれるし、

     食べ物はスーパーがとり揃えてくれているし、

     われわれの欲求のほとんどは、かんたんに満たすことができる。


      だが、このような社会はわれわれにとてつもない虚しさと価値のなさを味わわせる。

      欲求がかんたんに満たされるのは、人生にとっては、あまりにも虚しすぎるのか。

      また人々の欲求を満たすための職業に従事することは、

     われわれに虚しさや自己の卑小さ、無価値さを味わわせる。

      自分の人生は、ただ人にモノを売ったり、モノをつくったり、ネジをはめたり、

     モノを運んだり、これだけの価値にすぎないのかと愕然とさせられる。


      この「全自動分業社会」は強烈に自己の無価値さを味わわせる。


      なぜ、ひとつの職業につくことは、こんなに価値のないことに思えてしまうのだろう。

      われわれはなにを得られれば、満足するのだろうか。

      人間にとって、価値の充実感を味わわせるものはいったいなんなのだろうか。

      満足や充足感はなにによって得られるのだろうか。


      現在の職業生活は、なぜか価値や誇りを見つけにくい。

      だれも評価したり、称賛したりすることがほとんどない、あたり前のことと

     されているからだろうか。

      われわれは人生のどんな場面でも、評価や認知を求めているのだろうか。

      評価や認知をもとめて、若者たちはカッコイイ職種やブランド企業なんかに、

     殺到するのではないのか。

      人は、「ほめられる」ことを目標にしているのだろうか。


      もしそうだとするのなら、たいていの職種では人から評価されたり、

     認知されたりすることはない。

      ましてや企業内ならともかく、一般の人たちに認められるということはまずない。

      製造業や運送業、小売業、土建・建築業――ほとんどの職種は、

     だれにも称賛されることはないし、拍手されることなんてまずない。

      こういったことに、職業の虚しさといったものがあるのかもしれない。


      自分の名前が売れるような職種――芸能界や文学界、スポーツ界、

     といったものには、多くの称賛や評価が集まる。

      だが、たいていの――ほとんどはそうだが――職種には、

     このような評価や称賛はまったくない。

      ただ仕事をしているだけであり、あたり前のことであり、だれも見向きもしない。

      この全自動分業社会では、そのような職種があってこそ、成り立っているものだ。

      だれも認めない。

      インフラ的な仕事は、虚しさが蓄積する一方だ。


      またほとんどの必要や用途が、産業や商売によってまかなわれる社会は、

     人々の関係をビジネス・ライクのようなひじょうに薄情なものにしてしまい、

     われわれにますます虚しさや疎外感を蓄積させてしまう。

      街に出れば、ロボットのように接する店員ばかりに出会う。

      この高度に発達した分業社会は、人間をみんな、

     役割だけを果たすロボットのようにしてしまうのではないだろうか。

      人間らしいつながりはどんどん失われてゆく。

      まるでこの社会は、自分の欲求を満たすためのシステム機械のようだ。


      われわれはほんとうに、このようなうら寒い社会システムを求めているのだろうか。

      社会の成員はすべて、自分の欲求を満たすための道具になり、

     あたたかみややさしさのつながりのない関係になる。


      たしかにこの社会システムはとても便利だ。

      ほしい車や電化製品、本や音楽などはすぐに手に入れることができるし、

     食べたい食事やほしい飲み物もすぐに得られる。

      ひじょうに便利だし、機能的であり、もう手放せはしないだろう。


      だが、孤独感や空虚さは心の底で増す一方であるし、

     社会システムの一部品にしかすぎない職業も、虚しさのみをつのらせる。

      とくに仕事の価値というのが見えなくなってきている。

      自分の仕事が社会に役に立っているのかわからないし、

     意味があるのかすらわからないし、、

     自分の存在の価値とはなんなのか、見出せなくなってしまう。

      機能的で便利すぎる社会は、われわれの生きる意味を奪いとってしまう。


      われわれはこの全自動機械のような社会システムを求めているのだろうか。

      われわれは自分の欲求や欲望がすぐに満たされる社会が、

     最高の社会だとほんとうに信じているのだろうか。

      人間は欲求や欲望の充足のみに生きているのだろうか。

      そしてその欲望は――産業社会に与えられる欲望は、

     果たしてほんとうにわれわれが求めているものなのだろうか。

      われわれは車や電化製品や趣味や、そんなものだけを求めているのだろうか。

      人生の意味とはそのようなものなのだろうか。

      人間の生涯はそのようなものだけを求めるためにあるのだろうか。


      人間はいったいなにを求めて生きているのだろうか。

      現在の社会システムはわれわれの社会的欲望を満たすと同時に、

     食糧や生存のための道具を流通・分配するために存在すると考えられる。

      食糧を社会全般に行き渡らせるためには、人々の欲望を媒介にして、

     その流通を可能にさせるのである。

      欲望を喚起させることによって、食糧は社会全体に回ってゆく。


      これまでの社会は、ほしいモノや欲望が多くあったから、

     その食糧の分配は、うまく回ってきたといえる。

      だが、先進国のなかでも欲望のネタが尽きてきた現在、

     はたしてこの仕組みをいつまでもつづけてゆくことができるだろうか。

      わたしは拡大や進歩が魅力的なときだけ、

     このような仕組みは継続することができると思うのだが、杞憂にすぎないのだろうか。

      拡大や進歩がとまってしまったとき、つまり魅力が失われたとき、

     このような分業社会は成り立つのだろうか。

      欲望やほしいモノがなくなったとき、

     ただこの分業社会の維持機能だけが、注目されることになってしまう。

      つまり重荷だけが目立つことになってしまう。

      こうなれば、われわれ――とくに若者たちはこの全自動分業社会を

     継続してゆく苦労を背負いつづけられるだろうか。



      高機能分業社会。

      われわれは他の人のための食糧を生産する人だけになり、それを運ぶ人になり、

     管理し、売る人になり、自動車や家電をつくる人になり、配送する人になり、

     それを売る人になる。

      この広大の社会ではわれわれ個人のできることや行うことはますます細分化され、

     微少で卑小な役割だけになり、ますます自分の存在の価値が喪われていってしまう。

      わたしはこの社会では、ただネジを締めるだけの価値になり、

     モノをピストン運動のように配送するだけの価値になり、

     店で商品を売るだけの存在価値になってしまう。

      ひじょうに微少で微妙な意味や価値しか、この高機能分業社会では果たせない。


      人生の価値や意味がどんどん認められなくなっている。

      こんな個人の価値や意味が見出せない社会に、

     われわれは人生のどんな意味をもとめればいいのだろうか。

      われわれは、ネジを締めたり、売り上げを伸ばすだけの人生に、

     どんな生きがいや価値観を見出せばいいのだろうか。


      分業が高度化、機能化すればするほど、

     社会的関係はますます道具的になり、機能的になり、希薄になる。

      わたしはただだれかの欲望を満たすための道具になり、

     他人はわたしの欲望を満たすための道具だけになる。

      他人はただわたしのために食糧や製品をつくり売ることによってのみ価値をもち、

     わたしはただ他人にとって、商品をつくり売るだけの価値でしかない。

      あまりにも機能的・役に立つだけの関係になってしまった。

      わたしは他人にとって、ただ機能的な役割を果たしてのみ、

     価値のある存在になってしまったのである。


      高機能分業社会――つまり欲しいモノがすぐに手に入り、

     欲しいモノがいつでもどこでも手近にある社会とは、

     そのような帰結を示してしまうのである。

      つまりわたし以外の他人をすべて、機械のような存在にしてしまうのである。


      ほしいモノがすぐに手に入れられる社会はとてもすばらしいだろう。

      自分の趣味や必要なモノがいくらでも充実している社会は、

     夢のような生活を送れるだろう。


      だが、われわれは消費者としてだけ生きるのではなく、

     生産者・労働者として、大半の人生を過ごさなければならない。

      つまりわれわれの大半の人生は、モノを運んだり、売ったりする、

     たいして価値も意味も見出せない仕事に押しつぶされてしまうのである。


      かぎりなく便利で機能的な社会のコインの裏面は、

     かぎりなく無意味で無価値に感じられる労働がついて回るのである。


      わたしは消費者として、便利で機能的な生活を享受しようとすれば、

     かぎりなく虚しい労働時間を大量に費やさなければならないのである。

      消費者だけを選択することはできない。

      生産者としての時間を費やさないことには、

     消費者になるためのカネを得ることはできない。


      果たしてことの高機能分業社会は、

     ほんとうに効率的な生活を送れているのだろうか。

      たとえばある程度の距離のあるところに行こうとすれば、

     鉄道などの交通費が必要になり、働かなければならない。

      歩いていけば、目的地にはすでに着いているのだが。


      この社会にはそのようなパラドックスがついて回る。

      われわれはさまざまな、尽きることのない欲望をもってしまったために、

     その欲望を満たすために、はるかに多くの時間を、

     労働に費やさなければならなくなっている。

      欲望を満たすためには、長大な準備が必要なのである。

      それも、虚しく、価値も意味も認められない準備にである。


      科学者や技術者がつくりだす商品やサービスはとても魅力的だ。

      われわれはこれらを享受したいと思うから、働く。

      だが、このような商品やサービスはほんとうに必要なものだろうか。

      とくに現代のように売買されるものが、趣味や娯楽・レジャーに変わってきたとき、

     それらを享受するために、長大な時間を労働に費やさなければならないのだろうか。

       趣味や娯楽のために、われわれは意味や価値の認められない労働に、

      多くの時間を費やすことができるだろうか。


       他人のつくる商品やサービスをほしいと思えば、

      われわれはますます多く働かなければならない。

       そうするとますますわれわれは自分の時間をもてなくなるし、

      自分の人生を他人のために捧げ尽くさなければならない。

       王様になりたいと思ったがために、奴隷の時間の方が長すぎたといった具合だ。

       われわれはみんな王様のように豊かな消費生活を送りたいと夢見たが、

      モルモットのようにただ車輪を回りつづけているようなものではないだろうか。


       他人のつくったモノを得ようとして、大半の時間を労働に奪われるか、

      それとも他人のサービスをあきらめて、自分の時間をたいせつにするか。


       これまでの時代は、アメリカ的消費生活に代表されるように、

      他人のつくった車や家電がとても魅力的だったから、

      それらの目標のために働くことができた。

       だがこれらの目標がほぼ全家庭に行き渡った現在、

      ただ労働や自己の無価値さだけが目立つようになってしまった。

       あれもこれも欲しいと欲張った社会は、

      ものすごく高密度な労働社会を置き去りにしていったのである。


       われわれは王様のつもりでアメリカ消費生活を手に入れたが、

      気づいてみたら、ただ産業奴隷の毎日が、

      自分自身の人生を奪いとってしまっただけではないのだろうか。


       あれもこれもほしいという欲望の肥大化は、

      あれもこれもしなければならないという、

      高密度な労働社会をもたらしたのではないだろうか。

       つまりほしいモノがすぐに手に入る分業社会は、

      人生の大半はその果実を得ることより、

      労働に費やす時間のほうが多いのである。


       これではまるでほしいモノの奴隷ではないのか。

       われわれがモノを所有し、支配しているというよりか、

      ほしいモノに支配されてしまって、振り回されているに等しい。

       つまりわれわれは欲望を支配しているのではなく、欲望に支配されているのだ。


       われわれはこのような状態から脱しなければならない。

       モノに支配されのではなく、モノを支配しなければならない。

      生産や企業に支配されるのではなく、それらを人間が支配しなければならない。

       本末転倒である。


       われわれはこれから、あれもこれもほしいと欲望を燃え上がらせて、

      人生の大半を生産や労働に費やす人生を送りつづけるほうがよいのか、

      それとも、欲望の数を減らして、自分の人生をとりもどしたほうがよいのか。


       もちろん、自分の人生を自分の手のうちにとりもどすに越したことはない。


       自分の人生をとりもどすに従い、現代社会の機能的だけの関係から、

      そうでない部分もとりもどせるだろう。

       なぜなら、あれもこれもほしいと欲望するわれわれの心が、

      この機能だけに特化した社会を生み出してきたからだ。


       機能だけに特化した社会はとてもぎすぎすしていて、薄情で、よそよそしい。

       たとえば機能的に機械化された工場なんて、

      とてもあたたかみのある場所とは思えないし、

      スーパーやコンビニの機能的な店員も、よそよそしくてとてもさみしい。

       機能的で合理的すぎる会社の人間たちは、やはりとてもドライだし、

      家族が経済的な機能だけでつながっていたとしたら、残酷すぎる。

       機能的でない関係はすべて排斥されるからだ。

       ムダや余剰な関係は、すべてカットされる。

       そのような関係は、人間らしさを失った、損得だけの間柄をつくりだしてしまう。


       このような機能的な関係は、ほしいモノがすぐに手に入る便利な分業社会を、

      われわれが求めたからではないだろうか。

       われわれはこの便利さとひきかえに、人間のつながりやあたたかみ、

      機能的でない、ムダやゆとり、役に立たない部分を切り捨ててきたのではないだろうか。

       機能的すぎる社会は、人間の心の豊かさを、

      極限まで奪いとってしまうのである。


       われわれはこの便利な社会の、このようなコインの裏面を

      反省してみるべきではないだろうか。


       これからは機能的でないもの――ムダなものや余剰なもの、役に立たないもの、

      といったものをおおいに、この社会にとりもどしてゆくべきではないだろうか。


       さもないと人々の心のつながりはますます失われてゆき、

      人々の心の中から、社会の規範や規律、道徳心といったものが失われてゆくだろう。

       人々は人間を道具や利用的価値からしかながめられない社会にますます嫌気をさし、

      この価値観に反逆するかたちとして、犯罪が多くなるだろう。

       人々の精神は荒廃してゆき、すっぽりと社会のなかのつながりが抜け落ち、

      無秩序状態が現れてくることになる。


       ほしいモノがすぐに手に入る機能的な分業社会は、

      一面ではとても便利ですばらしい社会のようにも思えるが、

      人間を道具や機械のような存在にしてしまうので、

      社会的関係をぶちぶちに分断してしまうのである。


       社会のなかの成員ひとりひとりがその一体感を失ったとき、

      社会的機能はもはや維持することはできなくなるだろう。




                                      (終わり)
    




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