集団依存型のアノミー日本人はなぜ生まれたのか


                                               1998/1/28.





      「Artemis Sampler」(http://www.sh.rim.or.jp/~artemis/)というホームページの

     「酒鬼薔薇聖斗を生んだ戦後日本という社会」にひじょうに感銘をうけた。


      戦後日本社会のひずみが仮借なく描き出されている。

      わたしはこういう日本社会への鋭い批判をおこなうサイトを探していたので、

     このページを見つけたときはとてもうれしかった。


      感銘をうけた部分としては、日本人は思春期の思索的懐疑の時期をへずに、

     企業の就職養成下請け機関である学校教育をうけ、そのまま企業や官公庁に就職し、

     精神年齢が大人にならないまま、組織に寄生して一生を過ごし、

     みずからのアイデンティティを育むこともない、

     という箇所がいちばん心につき刺さってきた。


      「酒鬼薔薇聖斗を生んだ戦後日本社会」はこちらから読むことができる。

      「Artemis Sampler」のホームページに行くには、こちらをクリックしてください。



      これに触発されて、ひとつ考えてみたくなった。

      なぜ日本人は組織に依存して、個人を育むことができなかったのか、

     批判能力や政治的な力、基本的人権をなぜ日本人はもつことにいたらなかったのか、

     げんざいのモラル崩壊、アノミー状態をもたらしたのはなにか、といったことだ。


      日本社会はげんざい、規範もモラルも、目的も意味も失われた、

     アノミー状態におかれている。

      どこに行くあてもなく、ただ漂いつづけている。


      官僚のトップたちや大企業のトップたちもつぎつぎと逮捕され、

     戦後日本がめざしたトップエリートたちは権力腐敗と退廃の深淵におちこんだ。

      まるでひとむかし前の政治家汚職と同じようなもので、

     それからわれわれは政治家たちへの信頼をすっかり失い、もはや相手にしていない。


      いまの子どもたちは、あるいはその母親たちは、

     めざしていた目標がここまで腐敗し、退廃したさまを見せつけられても、

     よい大学、大企業、官公庁を目指した受験戦争をつづけるのだろうか。

      まあ世の中、倫理より「カネ」だとわかり切っているからだろうか。


      企業においても、中高年たちがリストラをされ、

     これまでの目標や成功体験といったものは混乱している。

      年功賃金アップを前提に入れたマイホームローンも返せなくなり、

     自己破産や家庭崩壊、自殺が数多くおこり、もはやマイホームの夢も、

     そしてそのための勤勉な勤労の意味も失われてゆくだろう。


      若者たちは目標も規範も失われ、先人たちの退廃した姿を見せつけられ、

     どこにも行くあてのない衝動は、メディアや消費にふりむけられ、

     虚無感と孤独感が増大し、ときには犯罪を犯す。


      トップエリートたちの連続逮捕劇は、自由主義経済をはじめるための、

     これまでの官僚統制経済と成功体験を断ち切るパージ(公職追放)とも考えられるが、

     いったいだれが指示を出しているのかは、わたしにはわからない。

      ともかくこれによって官僚統制経済は断ち切られるのだろうか。

      産業の保護政策は、旧弊な産業を守ることにより、そのために競争力を失い、

     消費者へのサービスを低下させ、それはまた税金の増加へとはね返った。

      このような保護政策は、将来の傷を大きくするのみなのである。



      これまで見てきたような腐敗、退廃、モラルなき集団、規律なき社会といった

     アノミー状況はなぜおこったのだろうか。


      まず第一に答えられるのが、経済成長だけを国民すべての全目的に

     してしまったからだ。

      国民の生活、人生、家庭、地域社会、娯楽、生きがいまですべての全精力を、

     経済成長ただひとつという目的だけに結集してしまったからだ。

      それを日本国民は恐ろしいほど異様なまでに、

     自己の全目的や人生の全目標にすりかえてしまったのである。


      これは戦時経済において、国家総動員法により、物資や鉄製品などすべてが、

     軍需産業に結集されたものと同じことだ。

      この戦時体制のための国家総動員法は、戦後の現在にもそのままつづき、

     高度成長期には経済面での成功をもたらしたが、

     一般のわれわれがほんとうに幸福だったかはおおいに疑問だ。


      人生のすべては企業に捧げ尽くされ、朝から晩まで仕事、

     人権も思想の自由も認められない、すべてを統制されたような企業生活、

     子どものころからの就職するための受験戦争――

     こんな非人間的な制度に人生を身ぐるみ縛られて幸福なわけがない。


      つまりわれわれは国家の目標を自分の全人生にしてしまい、

     個人として、人間として、生きる道をすっかり放棄してきたのである。



      たいていのサラリーマンは企業を人生のすべてにしてしまい、

     人生の目的や目標にしてしまった。

      ここに日本人が個人をもたない、企業組織や国家、あるいはスポーツチームなどに、

     自我を埋没させてもなんの疑問を抱かない、恐ろしい心性を育むことになった根がある。

      日本人のたいていの人間は、国家や学校、あるいはマスコミなどに、

     教育や指示されたものを、なんの疑問も抱かずにそのまま受け入れてしまう。

      ここに日本人の精神年齢は12才で、大人にならないと指摘される病根がある。

      つまり個を育てず、ただ親のいいなりに、あるいは企業や社会のいわれるがまま、

     なされるがままの従順な集団依存型の人間になってしまうのである。


      日本人は恐ろしいまでに社会や集団にたいして従順である。

      集団にたいして批判することはおろか、内心にさえそれを抱かず、

     教育・命令されたものを即、自分のものにしてしまう習性がある。

      それは子どもたちが思春期に反抗期をもたないような、

     あるいは動物たちが親離れするとき、おたがいが決闘しあうような、

     そのような激しい段階をへずに、そのまま大人になってしまうことを意味する。

      つまり大人として一度は通り越さなければならない親=社会との、

     あつれきや反抗を一度も経験しないで、大人になってしまうのである。


      反抗期というのは、「個人」が誕生するための前提である。

      それがなければ、親や社会に従順な、個をもたない幼児精神のまま、

     大人集団への仲間入りを果たすことになるだろう。

      つまり親や社会と、自己の欲求や目標は違うのだという懐疑や疑問を内心に抱き、

     葛藤しなければ、個としての自覚=自我が生まれない。

      他人と自己の欲求や利益は、根本的に違うのだという明確な認識が

     生まれなかったら、親や集団の要請と自己の欲求がかんたんに重なってしまう。

      この時期を逸してしまったら、集団にただ流され、なびくだけの、

     個というものがない集団のロボット人間になってしまう。

      日本人はこのように自我をたもず、集団そのものの意志が自我となるような心性が、

     多くの人のこころのなかに育てられてしまっている。


      このような個をもたない社会集団が二度の世界戦争において、

     どのような惨禍をもたらしてきたか知らないものはいないだろう。

      つまり日本人は戦時中の集団心理とまるで同じものを、

     現在までそっくり抱えているということなのである。


      われわれは戦争の表面的な惨禍は反省するが、

     それをもたらした社会心理の特性といったものにまるで気を配っていない。

      まさにこの経済至上主義、会社絶対主義をうみだしているこの心性こそが、

     戦争のときの集団心理とまったく同一のものだ。

      つまり、「全体主義」、あるいは「ファシズム」の心性が、

     そのまま温存しているのだ。

      それがただ経済の「仮面」をかむり、企業絶対主義に転嫁しているだけだ。


      だから、われわれはこの企業絶対主義にぜったいに抗しなければならない。

      それはひとつの試金石である。

      戦時中のような全体主義におちいらないためのバロメーターなのである。

      エネルギーや衝動の中身は同じで、ただ表面的な仮面がすこしばかり、

     上品になんの危険性もないように見えるようになっただけなのである。

      集団埋没主義というのはとても恐ろしいものなのだ。



      個がうまれるためにはなにが必要なのだろうか。

      やはり集団や常識といったものに、懐疑や疑問を抱く心性が必要になるだろう。

      集団と自己の利益や欲求はあくまでも違うのだ、重なることがないのだ、

     という認識をもち得ないかぎり、日本人のなかに個人が生まれることはないだろう。

      そして批判や権利を口に出し、行動して、はじめて日本人は、

     精神的な大人になり、個人をもつことができるようになるだろう。


      そうなるためにはおそらく、政府や企業が与えるアメ――カネや老後の保障、

     といったものがただ国家や企業を肥え太らせているだけで、

     個人の幸福やゆたかさにはなんの貢献もしない――、

     ということを悟らなければならないのではないだろうか。

      われわれはこれらの安定や安心のために、みずからの魂や心、あるいは人権を、

     非人間的な組織に売り払ってきたのである。

      このような無責任な選択が、後続世代の幸福をどれほど奪ってきたか、

     子どもたちにどれほどの惨劇を与えてきたか、胸に手を当てて反省すべきだ。


      個人がない集団に基本的人権なんかあるわけがない。

      そもそも個人が存在しなかったら、なにも守る権利がないではないか。

      企業集団のなかでまったく個人の人権や権利といったものがないがしろに

     されてきたわけは、やはり個人というものがまるで存在しなかったからだろう。


      この社会において個人がまったく尊重されなかったのは、

     ほかにもわけがあると思われる。

      やはり、「カネ」だけが唯一の権力になってしまったからだろう。

      政治は企業などの富をもつものの「カネ」によって買われ、

     カネのない個人は人権を売り飛ばされようが、蹂躙されようが関係ない。

      カネがあることだけが自分の身を守る唯一の方法であり、権力だからだ。

      だれもが血眼になって、受験戦争や大企業をめざすのは故なきことではない。


      ともかく日本人には批判能力や政治的実行力というものがまるでない。

      サラリーマンになれば、その組織にたいして批判的になることはまずない。


      なぜこんなふうになってしまったのだろうか。


      長時間残業をサービスでしたり、過労死するまで働いたり、身も心も企業に捧げたり、

     うしろに縄が回るまで企業の利益に邁進したり、ときには不祥事のために自殺したり、

     なぜここまで日本人は企業に身も心も魂までをも売り払ってしまったのだろうか。

      そしてなぜわれわれはそこまで企業に蹂躪されて、

     なにひとつものを言わず、黙って盲従しつづけるのだろうか。


      そもそも自分に人権なぞそんな高貴なものは備わっていないと思っているのだろうか。

      企業にメシを食わせてもらっているいじょう、

     人間にはなんの人権も権利もない、というのだろうか。

      自分の実感として、このような気持ちが強いかもしれない。

      終身雇用という暗黙の慣行があれば、一生面倒をみてくれるわけだから、

     そういう後ろ向きの思考習慣におちいってしまうのかもしれない。


      国から学校教育という施しをうけ、卒業すればなんの迷いもなく企業に就職し、

     あとは企業が生涯を保障してくれる。

      すべてをおぜん立てされ、与えられた役割と自我になんの懐疑も抱かずに、

     たいていの日本人はこれを受け入れる。

      これでは日本人のなかに個人はうまれないし、深い懐疑を抱くこともない。

      ちゃんと従順に言うことを聞いておれば、一生は安泰だからだ。


      すべては社会が与えてくれる。

      われわれは赤ん坊のようにただ与えられるものをこなしてゆけばよいだけだ。


      中央官僚がその大元のコントロール指令塔となり、

     企業を統制し、学校を統制し、税金制度によって女性を家庭生活に縛りつける。

      すべては中央官僚、あるいは政府が、企業や社会のありかた、

     はては個人の生き方や人生まで拘束してしまっている。


      学校制度はたしかに貧富の差もなく知識を与えるが、

     子ども期の自由な生き方、公教育をうけない自由を与えない。

      健康保険、年金制度は、一生を企業勤めに拘束されることを余儀なくさせ、

     もしかしてもっと自由な生を送れたかもしれない人生を拘束する。


      だけど、たいがいの人はこのような自由に思いもおよびもせずに、

     政府から与えられた役割をなんの疑問も抱かずにまっとうしようとする。

      ちゃんと学校教育をうけておれば、有利な企業に就職できるし、

     会社で職務をちゃんとこなしておれば、生活も老後も安心だ。

      こうしてサラリーマンは青年期に批判も懐疑も抱かないまま、

     人権や権利、あるいはよき人生、よい社会はどのようなものかという懐疑も抱かずに、

     政府や企業に与えられた役割をちゃんと受け入れてゆく。

      いまではメディアと消費がとても魅力的なので、

     それ以上に疑問や懐疑を抱くことはない。


      こうして日本人は与えられたものだけに満足する者だけに満たされた。

      政府やマスメディアだけがものごとを決定し、指示し、命令し、

     あとの人間たちはみなそれに従うだけの人間になってしまった。

      われわれの日常のまわりには、だれも決定し、自分の意見を通す者はいない。

      父親たちはなにもいわない。

      ただ権威やマスメディアがなんらかのことを言うと思っている――

     あるいはそれらと同じことをおうむのようにくり返すだけだ。


      これは異常な事態だ。

      だれも自分の意見をもっていないし、言おうとも、通そうともしない。

      マスメディアだけが意見をいい、正義を決め、権威を通そうとしている。

      日常のいっぱんの人たちはなにも言わない。

      ただ、マスメディアだけが電波塔から命令と指示を流しつづけている。


      日常のなかで生活している人たちから、

     権威や力といったものはまったく失われてしまっている。

      父親や母親には権威も意見もまるでないし、学校の教師の権威も、

     驚くほど凋落しているし、地域にも権威をもった人は存在しない。


      われわれの日常生活、あるいは地域社会、郊外住宅地から、

     まったく権威や力といったものが失われてしまっている。

      地域社会は、まさにアノミー状態におかれている。

      そしてその真空地帯になんらかの力を伝えているのはマスメディアだけであり、

     しかしここにも権威や権力というものよりか、

     よりいっそうのアノミー状態が増幅された情報が流されているだけだ。


      この社会はまったくアノミー状態におかれている。

      まったく驚くべきことだ。


      しかもこの戦後の日本社会は、経済成長ただひとつだけを目的にして、

     あとはいっさいを無視した制度だから、その目的がある程度成功し、

     そしてそのつぎの段階にいたろうとした瞬間、

     まさにアノミー状況の深淵に落ちこまざるをえない。


      経済成長だけをただひとつの目標に削ぎ落とされた社会は、

     そのほかのモラルや規範がまったく欠落・排斥されてしまっている。



      戦後の日本人はただカネだけに釣られてきたわけだが、

     その経済偏重社会のために、まさにアノミー社会になってしまった。

      無規律、無規範、無権威、無モラル、無伝統の、

     なんにもない空っぽの社会を――経済成長という大義名分のために、

     育て上げてしまっていたのだ。

      この社会には、規範も権威もすっかり失われてしまっていたのだ。


      むかし五無主義(無気力、無感動、無関心、無責任など)という言葉が

     青年を揶揄する言葉としてささやかれたことがあったが、

     これはじつは社会の「規範力」の喪失にそのまま対応していたのではないだろうか。


      この社会は恐ろしくなるほどアノミー状態になっており、

     かろうじてその紐帯をつなぎとめているのは、

     経済・企業活動だけではないのだろうか。


      そしてしかもその紐帯をつなぎとめていたと思われる日本型経営――

     終身雇用、年功序列、家族的共同体といった制度は、

     いままさにぼろぼろと崩壊しはじめている。

      これを維持することなんてもはや不可能だ。

      これらの温情主義的経営が保たれていたのは、

     あくまでも冷戦構造下における大量生産方式が有効なときだけだ。


      冷戦構造は終焉し、世界から軍隊(=カネ)はひきあげられて、

     ライバルの失った軍事技術競争は一段落し、世界市場のパイは縮小し、

     それにつられて全般的な技術・消費競争も急速に冷えてゆくことになるだろう。

      大量生産市場も成熟化しており、新しいテクノロジーも70年代以降、

     生まれないようになっている。


      社会規範がまるで欠落したこのアノミー社会に、

     最後の紐帯であった企業共同体がいままさに崩壊しかかろうとしている。


      この日本社会になにが残るというのだろうか。


      われわれ日本人は、官僚や政府(つまりお上)の指示・命令するものを

     ありがたくいただき、うけたまわるだけで、

     それに疑問を抱いたり、批判を口にすることはほとんどなかった。

      ただ与えられるだけで、自分でなにかをつかもうとか、なにかをはじめようとか、

     人生の生き方や目標というものをみずからで編み出そうとはほとんど思わなかった。

      社会や企業、マスコミに与えられたものをなんの疑問も抱かずに、

     ただその与えられるがままに生きてきた。

      現在の大半のサラリーマンはそのように生きているのではないだろうか。


      そして個人は育たず、責任ある大人も親もうまれず、

     批判能力や政治的な力、人権といったものもほとんど育まれず、

     組織や集団の中で、個人の自由や人権、権利といったものは踏みにじられてきた。


      自分で個人というものをつくらず、ただ組織集団に寄生的によりかかり、

     それによって生き長らえようとしたから、個人を守る権利を擁護できなかった。


      ただ日本社会はあまりにも経済に特化しすぎたために、

     経済いがいの権威や権力をもつことができなかった――

     たとえば市民社会や宗教、道徳――ということも、

     われわれを組織にしがみつかざるを得なくしている大きな要因である。

      守られるものがなにもなかったら、人権が蹂躙されても仕方がないだろう。

      政治にしても、われわれ個人を守るというよりか、

     カネのある企業や団体を守る、個人と敵対するような関係になってしまった。

      なんらかの方法で個人が守られないと、

     この社会はおそらくすさまじいまでの状況を迎えるのではないかと思う。

      いつまでも非人間的な生活に耐えられるわけがないのだ。


      カネに釣られ、与えられるものだけをうのみにしてきた日本人は、

     すっかり経済軍国化したこの社会に、

     いっさいの社会規範、権威、モラルといったものがすべて失われていたことに、

     ようやく気づきつつある。


      この社会はまったくアノミー化していた。

      そのことに愕然としたのは、やはり酒鬼薔薇聖斗の首狩り事件だった。

      郊外住宅地や学校ではアノミーが完全に浸透しており、

     政治や官僚、金融や大企業ではモラルが退廃してしまい、

     サラリーマンのアノミーはじょじょに進行していることだろう。


      権威や規範、モラルがすべて失われてしまっていたのだ。


      これらが失われてしまったのは、経済一極化がそれを促進したというのもあるが、

     産業や経済がもたらす必然的帰結なのだろう。

      なぜなら産業というのは、規範や権威を打ち壊すことによって、

     発達してゆくものだからだ。


      新しい産業はそれまでのヒエラルキーや権威、秩序といったものを、

     いともかんたんにうち壊していってしまう。

      権威とか秩序といったものは、たわいないもので象徴づけられるものだが、

     それはだいたい稀少品をもつことによって表示されてきていた。

      たとえば中世ヨーロッパにおいては大量印刷ができないために

     僧侶に権力が付与されていたし、イギリス近代では中国やインドから輸入される、

     高級な絹や綿が上層階級のシンボルだった。

      日本ではこれまでずっと西洋のモノや知識をもてば、尊敬されてきた。


      そのような権威や秩序をうち壊してゆくのが産業であった。

      そしてそれらの制約がいっさいなくなってしまったのが現代であり、

     モラルや規範といったものを後ろ盾する知識も、その権威を失ってしまった。


      権威や規範のまったくないアノミー社会がもたらされてしまったのである。


      「わたしゃ知〜らないっと」。



                 (終わり)



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