日本人はこれからなにをめざすのか




                                              1997/10/27.




    これからの日本人はいったいなにを目標に生きてゆくのだろうか。

    先がまるでみえない。

    どのようなことに価値をおき、どのような生き方をしてゆくのか、まるでわからない。


    車や家電を手に入れる消費の時代はとっくに終わってしまった。

    そのあとに来るべき時代――目標がまるで見えない。

    これは世界的な流れだ。

    このままでは、世界的な大不況になるのは必至だ。


    車や家電の消費社会のつぎに来るものはいったいなんなのか。

    この問題にわたしはずっと頭を悩ませてきたが、まるで答えが出ない。


    インターネット上で、学術や芸術などの文化が花開くかもしれないと思ったときもあるが、

   まだ実用的な段階ではない。

    しかし、わたしはそういう時代が来てほしいと思うし、

   モノの消費から内面の豊かさに向かうのは、好ましいことだと思う。


    ただ、よくいわれる心の豊かさとはいったいなんなのか、よくわからない。

    芸術やら学術やらを楽しむことが、心の豊かさなのだろうか。


    この日本では、ヨーロッパの高級芸術を受容しようとしてもむりだ。

    新しい時代には新しい芸術が受け入れられる。

    それはやはり現在のサブ・カルチャー――マンガやテレビ・ゲーム、ロックなどから、

   現れてくるのではないだろうか。

    いまでこそ、それらは若者向けのものと思われているかもしれないが、

   いつか必ず、活字文化や絵画芸術を凌駕するときがくる。

    どんなメディアも、幼稚な時代をへて、高級なものとして

   受け入れられてゆくのではないだろうか。

    現代の高級芸術――クラシックや絵画といったものも(推測でしかないが)、

   最初は子供向けのものから始まったのではないかとわたしは思う。


    ただこれからこのようなマンガやゲーム、ロックだけを楽しむだけに、

   人々は生きてゆくのだろうか。

    これだけでは、社会の成員は満足しないかもしれない。


    もっと大きな目標や勇気のあるものを人々は求めてゆくのではないだろうか。

    あまり考えたくないが、やはり軍人的なメンタリティが求められてゆくのではないだろうか。


    戦後の時代は生産・消費拡大という夢があり、

   多くの人の情熱や熱意はそこにそそがれた。

    だが、それらの消費計画が完成してしまったら、

   人々の情熱はどこにその出口を求め出すだろうか。


    人間は目標や情熱の対象をたえず求めつづける。

    幸運なことに、今世紀には車や家電、会社のような情熱の対象があった。


    しかしいまはそんなものはどこにもない。

    人々は夢の喪失した状態に意気消沈している。


    だれかがなにか、将来のわくわく、うきうきするような、心踊るものを創造しなければならない。

    さもないと情熱の対象を見つけられずに人々はどんどん意気消沈し、

   情熱のほとばしる出口をなんとかどこかに見つけ出そうとするだろう。


    15世紀のヨーロッパなら、木綿や金銀を求めての大航海という夢があった。

    あるいは中世なら、神の救済という至上の目的があったかもしれない。

    日本の戦国時代では、天下取りの壮大な夢があった。


    現代にはそういう大きな夢がまるでない。

    タネが尽きてしまった。


    そして経済が不況に落ち込み、生産や消費の機構がうまく機能しなくなる。

    そうなるとどうなるか。


    アメリカでは貧困層の犯罪の増加が目立つが、

   国や共同体レベルにそれを移行してみると、

   他人の富を略奪するという方向に進むのではないだろうか。


    ちょうど、情熱のそそぎこむ対象のないところに、

   国家の略奪を正当化する思想が、とうぜん現われる。

    消費や会社という情熱の穴のあいたところに、

   正当化された戦争という、壮大な情熱が現われる。

    生産や消費の情熱の空白に、そういう対象は入りこんでくるのではないだろうか。


    そうならないためには、われわれは血まなこになって、

   新しい平和な情熱の対象を創造しなければならないのではないだろうか。

    だれかが大衆や国民を魅了し、ひっぱるような壮大な夢を、

   創造しなければならない。


    ヨーロッパの経済の中心は、ヴェネチア、アムステルダム、ロンドン、ニューヨークと、

   移り変わっている。

    新しい経済の中心はそれぞれ、文化やライフスタイルの魅力を

   ひっさげて登場してくる。

    たとえば、イスラムのハーレムや豪華な商人たち、イタリアのルネッサンス文化、

   オランダ風の高級住宅、イギリスのジェントルマンやティー・タイム、といったものだ。

    人々はそれをめがけて、いっせいに走り出す。


    いまでは東南アジアの人たちが、アメリカや日本のライフスタイルをめざしてまっしぐらだ。

    自動車や家電、マクドナルドやハリウッド映画、あるいはカラオケ、マンガ、ファミコン。


    もしかしてアメリカや日本が文化の魅力をつくる時代はもう終わってしまって、

   つぎなる時代の魅力はこれらアジア諸国がつくりだす時代に移行してしまったのかもしれない。

    われわれが後進諸国と思っている国々から、新しい魅力はつくられてゆくのかもしれない。


    経済の中心の移行とは、高度成長をおこなっているときがじつは絶頂期で、

   あとは衰退でしかないのだが、この時期がいちばん繁栄しているように見えるのかもしれない。

    じじつ、アメリカや日本の若者の勤労観はかなり怠慢や保守的になってきているし、

   アメリカでは中産階級の没落や貧困層の犯罪がかなり目立っている。


    新しい金持ちの魅力は東南アジアから生み出されてゆくのだろうか。


    身近な例では、ファッションの流行なんかは若者がつくりだすが、

   ある程度の年をとってしまったら、とても突飛な格好はできない。

    そうして、若者の流行が順々に年上に浸透してゆく。

    日本はすでに流行をつくりだすほど、若くないのかもしれない。


    ただ、年をとってしまった国や社会は、知識は生み出しやすいかもしれない。

    文明でもその衰退期には、多くの文化的遺産をのこすものだ。


    東南アジアは新しい文化的魅力を創造してゆくのだろうか。

    ヨーロッパの文化とアジアの文化が合体したら、おもしろいものが生み出されるかもしれない。

    しかし日本から生み出された商品はほとんど文化的臭いを脱色されたものばかりだ。


    だが、これまでのような物質商品のなかから、魅力あるものを創造できるだろうか。

    われわれ日本人は一応の物質消費時代を終えてしまって、

   新たな物質商品に魅力を見出せるだろうか。


    これからの時代、いったい日本人はなにをめざすのだろうか。

    未来の萌芽は、現在もうすでに生まれ出ているのだろうか。


    文化や芸術、ソフトといったものが、われわれの生活の重心を占めるような、

   高級な時代がやってくるのだろうか。

    あるいは物質消費時代から、精神や心が重視された中世のような、

   宗教的社会が形成されるのだろうか。

    宗教的物語がこれからの人間に信じられるとはあまり思われないのだが。


    いくら頭を悩ませても、わたしにはその手がかりがつかめない。

    これからいったいどのような時代がやってくるのだろうか。


    わたしの望みとしては、物質商品によって地位やステータスを表わす時代は終わって、

   テレビや書物、ビデオ、音楽、ゲームなどのメディアによる、

   心の内面を重視する時代になってほしいと思う。


    われわれはテレビや書物のようなメディアにたいそう魅力を感じてきた。

    それに比べて、モノをつくったり、売ったりする会社や店はたいそう見劣りした。

    インターネットによって、個人がこのような情報を発信できる時代になった。

    それは大きな可能性をもたらすものであると思う。

    この世界がもっと拡大し、魅力あるものになり、多くの者を惹きつけ、

   なおかつ、これで生計が立てられるような時代になればいいと思う。


    そのような時代は近いうちにやってくるのだろうか。

    ともかく新しい魅力をつくれないでいると、

   この世界は二度の世界大戦をへなければならなかった20世紀の時代を

   くり返さなければならないのかもしれない。




                               (終わり)


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