過去にわたしの脳髄に電撃を走らせた本十選です。 1997/Spring
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 東京創元社 1600円
「慣習」や「みんながしているからしなければならないこと」、「会社人間」になること、そういった事柄にたいする漠然とした不満や怒りをもっていたわたしは、この本を読んで目が醒める思いがした。
なぜ人々は慣習や大多数の人々の生き方、流行や世論に迎合して、みずからの自由を捨て去ってゆくのか。
フロムは孤独や恐怖、あるいは自分自身を恐れるために、人々は権威や大多数の人々の生き方、世論などに盲従してゆくという。
わたしがこの本を読んだのは、バブル期の「レジャー志向」や「高級志向」に浮かれまわっていたころで、わたしのまわりのあちこちでは、さまざまな慣習や流行への強制、強迫観念がうずまいていた。
わたしはこの本をそのような怒りから読みはじめたのだが、ユダヤ人であるためにナチス・ドイツから逃亡しなければならなかったフロムと、生命の危険などまったくないけれども、わたしの心情は似たようなものだったと思う。
大げさにすぎるかもしれないが、根はまったく同じものだ。
だけど、この本を読んで何年もたったいまから言えることだけど、慣習や世論、流行に立ち向かおうとすることは、かなりの苦痛をわたしの身の上にもたらしてきた。
観念や自分の主義主張にしがみつくことは、苦しみや苦痛をもたらすことを、
この本によって、かなりの代価を払うことになったが、学ぶことになった。
フロムの著書『人間における自由』もかなりの名著である。
この書で学んだことは、他人になすことは自分になすことであり、権威に服従するということは、自分自身を憎悪するということだ。
このような自己破壊は、権威が標的にするスケープ・ゴートの存在のみによって、そのガスを抜くことができるのである。
あなたが悪し様に罵っている「極悪人」はもしかして、 「あなた」自身であるかもしれない。
ジョン・スチュアート・ミル『自由論』 岩波文庫 460円
この本も流行や慣習、大多数の人々の生き方といったものに腹をたてているときに読まれたもので、わたしの心にばりばりとつき刺さってきた。
「多数者の専制」といったものが、いかに個人や社会の才能や個性を奪い去ってゆくことになるか、しごく精緻に分析している。
わたしはそれまで『自由論』なんてものは、歴史上の王の支配からの自由、といったものを告げているものだとてっきり思い込んでいたが、まったくそうではなかった。
まさにわれわれの日常、ふだんの生活のなかにびしびしと入り込んでいる問題なのだ。
こんにちでは、テレビや雑誌などのマス・メディアが、このような問題の多くの原因をつくっており、流行や時代の雰囲気にたいする強制力はすさまじいものがあり、その意味でわたしは多様性を切りひらいてくれるかもしれないインターネットに期待するのである。
あるいは、よりいっそうの画一化や均質化をうながす可能性もあるが。
パソコンに恐怖心をもつ人や、優越感をもってそれらの人をけなす人の存在は、それらの兆候かもしれない――このような恐怖心をあおったり、侮蔑によって、画一化は進行させられるのである。
慣習というのは、人々にさまざまな思考や選択の迷いをとりのぞいてくれるが、多くの人にとっての便益なそのような鋳型は、天才や個性ある人、あるいは社会を動かしてゆくような人には、かれの才能を殺してしまうことになるのである。
この本は1859年の出版で、いまから百年以上も前から現代社会にあるような人間の画一性や均質性といったものが進行していたとは、とても驚きだ。
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
紀伊國屋書店 3090円
この本もバブル期の「高級志向」や「レジャー志向」の強制がかなり激しいころに読まれたもので、人はなぜ消費やレジャーをするのか、消費にはどのような意味があるのか、といったことが説明されている。
われわれは消費やレジャーをなぜおこなうのかということをほとんど理解せずに、「あれもほしい」「これもしたい」としじゅう、思っている。
そもそも「なんのための消費なのか」ということすら疑問に思わず、テレビや広告の紹介するまま、それらの商品やサービスを消費する。
この本はこれらの無知蒙昧なわれわれ消費者の行動や思考を徹底的に否定的・批判的に考察してゆく。
消費がおこなわれるのは、商品の機能を使うためだけではなく、記号――つまり地位や優越の表示を見せつけるためにおこなわれるのだ。
このような自覚をもったわたしは、いっぺんに消費にたいする熱を失ってしまった。
この著者のボードリヤールという人はかなり鋭い人みたいだが、いささか難しいところがありすぎて、わたしはこの本を読んだあと、興味しんしんで『象徴交換と死』という著作を読んだが、ほとんど理解できなかった。
消費社会論の古典的名著とまでよばれる称賛を与えられる本だが、平成不況以降、はたしてわれわれはこれまでのように消費を人生の目標とするような――たとえば、マイ・ホーム、マイ・カー、カラー・テレビといった商品に多くの「幸福」や「望み」を賭けるような人生を送るかどうかは疑問であり、そういった意味で、わたしはこの書からすこし疎遠になっている。
だが、もちろん消費社会は終るわけではなく、これからもこの書は多くの示唆や警告を与えてゆくと思う。
岸田秀『ものぐさ精神分析』 中公文庫 540円
社会の常識や観念、世界観といったものは「共同幻想」である、とはっきりと表に出している本である。
われわれが信じたり、常識として準拠している観念や認識というのは、社会で約束された共同幻想でしかなく、家族や恋愛、国家などありとあらゆるものが、幻想にすぎないという。
わたしもこの考えに賛成である。
社会は、「幻想」や「虚構」を信じ、それを事実として承認し、演じることによって、成り立っているのである。
だけど、多くの人は、この共同幻想を「現実のもの」として、「実在するもの」として信じ込み、そのために多くの争いや殺戮、またいがみ合いなどがひきおこされるのである。
「共同幻想論」はともすれば、実体化されがちなその虚構を白紙にもどす力をもっていると思う。
もちろんこの説自体も、幻想にしかすぎないことを忘れてはならないのだが。
真理や信条にかたくしがみつき、争い合ってきた近代に愛想をつかせて、ヨーロッパ哲学でも、真理をかたく信じた近代(モダン)に対抗して、「ポスト・モダン」という思想がおこっている。
岸田秀はそういう考えをひじょうに明確にうちだした、しかしこのことを多言を要して説明してくれる人はあまりいないなかでの、ひじょうに貴重な存在である。
ぜひ読んでいただきたい著者であるが、エッセーや対談集という形態が多く、すっきりとまとまって、なおかつ全貌をあらわにするような体系化された著作があれば、もっとよいと思うのだが。
浅井隆『大不況サバイバル読本』 徳間書店 1600円
(←【追記】もう信じないよ。オオカミ青年だ)
93年のうちに95年からの大恐慌の予測をおこなった本書は、体が震えるほどとても恐ろしかった。
銀行が1920年代の大恐慌のように崩壊し、金融パニックがおこるというのだ。
このような金融崩壊というのは、世界の覇権が移行するときにおこり、――たとえばイギリスからアメリカに、覇権が移行したときに大恐慌はおこった――今回はアメリカがその座をおりるために、大恐慌はひきおこされるというのである。
95年のうちに大恐慌はおこらなかったが、銀行はつぎつぎと破綻し、このいささか人の不安を煽りたてるようなこの本もいくらかの信憑性をもつことができた。
この著者の後の著作『超恐慌』には、800年周期でアジアとヨーロッパの文明が交代で栄えるという村山節−林英臣の説が紹介されており、いままさにヨーロッパからアジアへの文明の交替期であるというのである。
わたしはこの本を読んでから、ビジネス書や歴史書、文明論などを読みあさるようになった。
しかしこの人の一連の「赤本」シリーズは、不安産業のようなところがあり、つぎつぎと出る新刊本はあいかわらずなので、すこし距離をおいて見たいのだが、わたしの読書傾向をビジネス書や歴史書関係にがらりと変えてしまうほどに影響力はあった。
アルヴィン・トフラー『第三の波』 中公文庫 900円
わたしは長らく、企業に支配されたようなこの社会にたいするイラだちをずっともちつづけてきたが、この本は、そのような社会形態ができあがった理由を明確にのべ、また未来にできるであろう社会や労働形態にひじょうに期待をもたせてくれた。
トフラーはこれまでの工業社会では、規格品的な人間や考え方、また時間にきっちりとした性格、大企業や権力の集中、そういったものが必要とされてきたという。
だが、第三の波といわれる情報社会においては、そのような大量生産型の仕組みは用をなさないという。
いまの消費者がみんなと同じモノを欲しがるわけなどない。
多様化に向かう時代においては、長すぎる電車の列は急には曲がりきれないのである。
この本はすぐれた未来学の名著であるが、それもさることながら、これまでの社会形態のできあがった理由を明確にしてくれた点で、わたしはおおいに魅力を感じるのである。
在宅勤務やフレックス・タイム制といった労働形態が予測されており、一生働きづめで終る「会社人間」にならなくてもすむと期待をいだかせてくれた。
また続刊の『パワー・シフト』も合わせて、情報化がこれまでの組織や権力のありかたを根本から無意味にしてゆくとい予測には驚かざるをえなかったし、コンピューターに興味をもったのも、もちろんこれらの本のおかげである。
堺屋太一『知価革命』 PHP文庫 460円
堺屋太一は、歴史や文明に対する認識や見識がものすごいと思う。
歴史や文明の隠されている意味や価値をよく、みいだしてくるものだと感嘆する。
この本のなかの文明論の卓越したところは、モノの豊かさに価値をみいだした古代社会と、社会的主観に価値をみいだした中世社会とを、現代と対比させて当てはめているところである。
現代はもちろんモノに関心があり、モノをたくさん貯えたほうが偉い、労働はきっちりと勤勉にこなしてこそ一人前であるという、古代と共通の価値をもっているが、中世ではモノにたいする関心が薄くなり、思弁的・主観的な要素が強くなり、労働にあまり価値をおかずにかなりの休日をもつ社会であった。
これからは情報化とあいまって、そのような時代がやってくるという。
とても結構なことじゃないか。
勤勉や生産至上主義、あるいは労働に価値をおく考えというのは、じつは人間にそなわった根本的な条件なんかなのではなくて、あくまでもその時代の価値観に適合した考え方でしかないのだ。
21世紀には、中世のようなのんびりとした社会がやってくるのか、期待したい。
もう、こんな「会社」と「労働」だけが、人生のような社会なんてまっぴらだ。
日本はあいかわらず、国や共同体のために人生を投げうったような、「軍国主義」と、同じ間違いを犯しているのだ。
なお堺屋太一の透徹した歴史観を知りたいのなら、『現代を見る歴史』『峠から日本が見える』がおススメである。
リチャード・カールソン『楽天主義セラピー』 春秋社 2060円
この本こそ、わたしをブチのめした「NO.1」に選ばれる本で、それまでヨーロッパ思想の影響をうけて、ものを考えることに価値をおき、悩みや問題にたいしても考えることをくり返し、そのために苦痛や苦悩を継続させてきたことにはじめて気づかせてくれた記念碑的な本である。
わたしにとって、客観が先にあるのではなく、主観がまずはじめにあると認識をひっくり返してくれた、コペルニクス的転回をひきおこした本といってよいだろう。
この本のなかでは、否定的なときにものを考えるとますます否定的な思考が出てくるから、落ち込みや問題があったときには、まず思考を捨てろといっている。
また頭の中で捉えていることが、たんに思考にしか過ぎないこと、しかも悲しみや怒りなどの感情はその思考にもとづいてあらわれるから、もしその思考が自分を苦しめるのなら、思考を捨て去れといっている。
ともかく思考がわたしを苦しめてきたこと、思考は思考でしかなく、それが頭の中から消え去れば、わたしを苦しめるものはなにもないと教えてくれたのだ。
わたしはこの考えにうちのめされ、ヨーロッパの精神分析はいったいなんだったんだろうか、と疑問には思われずにはいられなかった。
ここからわたしの思考にたいする探究がはじまり、思考のこのような性質をつきつめている人を探し回ることになった。
西洋系の人ではなかなか見つけられず、自己啓発系の人たちが、「思考が現実をつくる」といっているが、この人たちはたんに世俗的な成功をめざすために言っているにすぎない。
だが、ローマ時代のエピクテトスやマルクス・アウレーリウスといった人たちも、思考を捨てることの安らかさをうたっていたのである。
思考を捨てろといっているのは、やはり仏教系の知識であり、ここからラジニーシやクリシュナムルティ、ケン・ウィルバーといった人たちを追究するわたしの読書遍歴ははじまったのである。
ジッドゥ・クリシュナムルティ『生の全体性』 平河出版社 2200円
思考とはなにか、思考の否定的側面を探っている人はどこかにいないか、と探し回っていたときに見つけた人がこの人で、とてもぶったまげた。
「思考とは時間である。過去からの運動である」といった言葉には面食らうし、「わたしとは思考の運動ではないのだろうか」といった独特の表現には、かなりの注意力と理解力が必要になる。
だけど、この人のいっていることはものすごいことであり、深く味わえば味わうほど、その意味の深みを増してくるものだ。
この人ほど、思考の否定的側面を追究している人はいないだろう。
クリシュナムルティは、思考は「過去」や「既知」のものによってうみだされ、したがって、「あるがまま」や「現在」を生きられなくさせているといっている。
また過去からの観念やイメージが、われわれの牢獄になっているともいう。
かれのいっているいちばん大事なことは、不都合な思考を制御するのは、それと同じ思考であり、そのために苦痛や悲劇がうみだされるという。
つまりわたしのなかには、「わたし」と「制御されるべき思考」があるのではなく、制御するわたしなどいなく、不都合な思考があるのみなのである。
このことにただ受動的に気づくことである、とクリシュナムルティはいう。
これはわたしにとってはとてもむつかしく、とてもかれのいうようにかんたんに受け入れることはできない。
だけどクリシュナムルティという人は、ものすごい人だと思う。
あまりにも「超越」しすぎているために、この教えを実践することは容易ではないのだろう。
クリシュナムルティの一連の著作、『自我の終焉』、『生と目醒めのコメンタリー』といった本はいずれも名著で、なんども読み返し、深く味わい尽くしたい本である。
なおかれは「宗教家」とよばれているが、わたしは優れた心理学者であったと思うし、ヨーロッパには越えられない「セラピスト」であったと思う。
ケン・ウィルバー『無境界 自己成長のセラピー論』 平河出版社 2060円
この本はとても驚いた。
前半では、「境界」がうみだすさまざまな対立がのべられており、後半では、その境界を癒すための方法がブック・ガイドつきで紹介されている。
禅仏教やヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派、あるいは神秘思想などの宗教を、西洋心理学と同じ線上(スペクトル)におき、一段とすぐれた意識の状態にみちびくための方法と位置づけているのである。
なによりも、究極の意識の状態、つまり宗教の悟りといったものが、どのようなものであるか、いかがわしい宗教用語でまぶさずに説明してくれたのはありがたい。
それまで神や仏をなぜ信じられるのかまるでわからなかったわたしは、けっきょく、それが無境界――境界をとっぱらった状態での、世界との一体感である、ということを知ることができて、宗教にたいする偏見を少しは払拭することができた。
宗教の目的は、「救い」や「依存」をもとめることではなくて、究極的には、「変性意識」や「普遍意識」を得ることだったのである。
世界との一体感を信じることができないとしてもこの本は、時間が現在しか存在しないこと、あるいは自分の内と外はないという、西洋心理学ではほぼ見受けられない新たな認識を紹介してくれるだけでも、一読の価値はあると思う。
「過去」も「未来」もないし、他人は「わたし」の思惟であるということに気づくことは、ひじょうにセラピー効果のあるものなのである。
この本は西洋心理学の要約としても読むことができ、「仮面」と「影」の統合、「自我」から疎外された身体の統合としての「ケンタウロス・レベル」、といったものをすっきりとまとめることができる。
だが、それ以上のレベルに興味をもつことは間違いなしである。
なお、この人の著作である『意識のスペクトル』は、よりくわしい内容となっている。
――以上が、「わたしをブチのめした十冊の本」である。
だいたいバブル期の残滓が残るくらいまでは、社会学や現代思想ばかりを読んでいて、経済不況が深刻になってからは未来学やビジネス書、そして長引く不況期にはトランスパーソナル心理学を読むようになった。
あとから振り返ってみて、時代の雰囲気に反応していることに気づいたが、その当時はともかくそれらの知識を知りたい一心だった。
このような経緯のなかから、あえて十冊だけを選びとったのが、以上の十冊である。
このほか候補にもれたが、わたしにかなり影響を与えた本を二冊つけ加える。
アルトゥール・ショーペンハウアー『幸福について』 新潮文庫 360円
この本はわたしが人間関係を築いてゆく上でのかなりの影響をあたえたが、そのためにかなり手痛い目に合わなければならなかった。
社交関係を軽蔑し、孤独になることを奨めているのだが、集団に属しないということは、おおくの苦痛をもたらすものなのである。
この点でわたしはふたつに引き裂かれなければならなかった。
集団というものは、そこに属しなければ、かなりの敵意や悪意をあらわにするものなのである。
だから、この本はわたしにかなりの悪影響をあたえた本であり、あまりおススメできない本なのであるが、もし読むとするのなら、わたしはこのなかに書かれていることをあまり「信条」にしすぎないことを奨めたいと思う。
たしかに人間や社会関係にかんする洞察はかなり鋭いのだが、服用するさいには、使用上の注意が、「要必要」というわけである。
ヘンリー・ソーロー『森の生活』 岩波文庫670円、講談社学術文庫
フリーターをやっていて、正社員にならなければならないと考えたときに出会った本がこの本である。(木原武一『続大人のための偉人伝』の紹介による)
ソーローは生涯をフリー・アルバイターとして暮らした人で、仕事や経済にたいする考え方はひじょうにはっきりとしたものをもっていた。
「仕事、仕事というが、われわれは大切な仕事などしていない」
「もし私もたいていの人びとのように午前も午後も社会に売るということになれば、人生はわたしにとってはもはやなんの生きがいもないものとなるにちがいない」(前掲書からの抜粋)
こんなことばに出会って、正社員になる気なんかまずなれない。
ほかに鉄道にかんして、それに乗るための労働に費やす時間があるのなら、歩いてゆくほうがよほどよい、とまで言い切っている。
このような労働にかんする批判は、ひもとけばもっとたくさん出てくるのだが、この考え方は、消費や労働にかんするわたしの態度にひじょうに影響を与えた。
「カネをあまり稼がず、つかわず」といった信条をもつようになったのだが、文明を捨てるわけにはいかないし、現代ではそのように生きるのはむつかしく、また将来や企業社会との折り合いをつけるのは容易ではない、と感じるようになってきた。
「いったい、なんのための労働だろう? われわれは消費やレジャーのために労働しているのだろうか?」
労働にかんする多くの疑問をもたらす書物であり、その批判の爽快さにはこころよいものを感じるのだが、われわれの労働社会は、あいかわらずテコのように動かない。
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