Thinking Essays



    ビッグ・バンが必要なのは国営品の人生だ


                                                1998/3/8.




     10数年前の東欧の四角い車を覚えているだろうか。

     世界に受け入れられていた日本の洗練された車に比べて、すごく古くさく感じたものだ。


     しかし日本人の人生は、あの東欧の車のままであちこちを走り回っている。

     つまり選択肢のまるでない「国営品」の人生のまま、生きている。


     われわれ日本人がなにげなく生きている当たり前の人生コースというのは、

    まさに国営品のほかにまるで選択肢がない国の専売品ではないだろうか。


     いい学校に入って、いい会社に入ってという人生しか選択肢がない。

     まったくほかに生きかたがなく、ひとつも選べもしない。

     これが国営品の人生ではなくて、なんといえるのか。

     こんな古くさい、時代おくれの選択肢でしか生きられない人は、

    社会主義国の国営企業の「同志」でしかない。


     そう、われわれは社会主義の国営品の人生を生きているという事実に

    気づかなければならない。

     人生にまるで選択肢がないというのは、まさに社会主義国家ではないだろうか。


     いまビッグ・バンが必要なのは金融業界だけではなくて、

    まさにわれわれの人生ではないだろうか。


     このような目で見てゆくと、金融業界の護送船団方式とか、

    官僚への接待・癒着といった問題がとりざたされているが、

    これはかれら金融業界だけの問題ではなくて、まさに日本人ひとりひとりにも、

    直接につきつけられている課題なのではないか。

     これはまさにわれわれ日本人個人個人の生き方が問題にされているのではないか。


     われわれ日本人の人生も、官僚や政府によって守られてきた。

     自分の勤めている会社や業界などの保護や規制、または学校や教育、

    老後保障や健康保険など、国民への多くの護送船団方式があった。

     もちろん個人には犠牲を強いられたり、ある産業だけが優遇されたりと

    いろいろ不公平や腐敗の極みがあるわけだが、われわれ国民はなんらかの恩恵を

    かれらから受けてきた、あるいは期待してきたのではないだろうか。


     そのような保護がとりはらわれようとしているのが金融業界であって、

    あのドタバタ汚職劇は、もし国民の人生も自由化されたとするなら、

    あんなふうにみすぼらしくバタバタと悲喜劇をくりひろげるかもしれない。

     もしあなたが急に明日から政府のかずかずの保障がなくなる――

    年金も医療保険もなし、学校もなし、となったら、どう対応するだろうか。

     国民の特権を利用して、政府パッシングの世論をまきおこし、

    最終的には、ワイロとかの罪でひきはなされることになるかもしれない。

     そこまで金融にしろ、国民にしろ、政府と癒着してきたのだ。


     もし政府の保障がない個人の自由化・ビッグバンの波がやってきたら、

    たしかに不安なことかもしれない。


     だが若者や新しい世代はこれまでの国営品の人生や組織というのは、

    どんどん息苦しく、やりきれなく思うようになっている。

     人生を幼少期から老後まで、だれかに一生を拘束されてしまうからだ。

     また中古品の着古した人生しか送れない。

     これはたまらない。

     ものすごく息苦しく、不幸なことだ。

     なぜならたったひとつの選択肢しかない人生なんて、

    人間として生きるうえでの自由がまったく存在しないも同然だからだ。

     生まれながら、監獄の鎖につながれているのと同じだ。


     かつての人たちがもとめた保障や安定はぎゃくに、

    子どもたちをその誕生時から鎖につなぐ監獄にしかなっていない。

     むかしの人が必死になってもとめたかずかずの保障が、

    まさか子どもたちにどんな苦しみと足カセを課しているのか理解もできないだろう。

     政府から保障や安定をあたえられることはとてもすばらしいことと思っているからだ。

     だが、親たちが安心して赤ん坊を入れたベビー・ベッドは、

    赤ん坊自身には煉獄のカマドになっている。


     けっきょく、政府の保障する条件というのは、

    政府の指定するコース――よい学校に入って、よい会社に入って――

    でしか得られない。

     そうするとますます競争と息苦しさがあいまって、脱落者が増えてゆく。

     登校拒否や学校中退の増加はこのことを現わしているのだと思う。


     また政府の保障の意味も、国民が豊かになるにしたがって、

    その存在意義も失われていった。

     もう政府が保障しなくても、国民は豊かな生活を送れるようになっている。

     そんな時代に政府の保障をもとめて一心不乱によい学校やよい会社をめざせ、

    というのはあまりにもムリがありすぎる。

     こんな時代に政府の国営品の人生は、あまりにも窮屈で古くさすぎるのだ。


     電化製品や車、ファッションなどの商品はいくらでも選べるのに、

    人生となるとたったひとつの旧弊な中国人のような国民服しかないというのは、

    あまりにもギャップが大きすぎ、バカらしすぎる。

     商品でこんなに選りどりみどりに選んでいる国民が、

    たったひとつの人生コースしかないというのは、どこかおかしいと感じるだろう。

     男は会社に一生釘づけ、女は家庭に一生釘づけ、得られるのはおもちゃだけ――

    なんかおかしいなぁと感じずにはいられないだろう。

     まだその不満が明確な意識になっていないだけだろう。

     国営品の人生の役割はもうすでに終わっている。


     なぜこんなに国営品の人生が、ここまで一国のほとんどの人に

    課せられるようになったのだろうか。

     国営品の人生が、社会で生きるためのゆいいつのパスポートになってしまっている。

     だから学校というのはひじょうに苦しい空間になっている。


     国家というものがものすごく信頼されてきたのだろう。

     国家のお墨付きをもらってはじめて、社会でよい職を得る権利を得られる。

     狭き門と国民からの信望がひとつになって、

    国営品の人生は多くの人が得ようとするチケットになった。

     国家の信頼が絶大な時代だったのだ。


     国が選別する人間を企業は競って採用してきた。

     それだけ国のお墨付きが信頼されてきたのだろう。

     だが学校が選別するのはペーパーテストのよしあしだけだった。


     実社会の技能を必要とする企業はおおむねその選択基準を採用した。

     国の威力がこの社会すべてに浸透している。

     この国は社会主義の国ではないのか。


     われわれ国民にしても、あまりにも政府を信用し過ぎる社会主義国の人民みたいだ。

     国の選別や国が与えること、国の要求などにあまりにも素直に応え過ぎる。

     国営品の人生になんの疑問も抱かないばかりか、ますます希求する方向に走る。

     みんながみんな国のお墨付きをめざして、かけ馳せ参じる


     社会の現実が厳しかったり、自分ひとりの力で食べてゆくのは、

    たしかにむつかしいことかもしれないが、自分ひとりの力でやっていこうとか、

    自分の生きたいように生きるとか、生き方の選択とか、

    みずからの気概といったものがまるでない。

     ますます依存したり、順応する方向にばかり向かう。

     ほんとうにこの国の人たちは大丈夫なんだろうか。

     白状すれば、わたし自身もそんな自立的な生き方ができるとはいえないが、

    横ならびとか大勢順応主義とか、寄らば大樹の陰のような生き方はしたくないと思っている。

     不様だし、なさけないし、みっともない

     でもこの国の人はほとんどそう思わないらしい。

     神経が麻痺しているのか、そこまで飼い慣らされたのか、

    それとも依存が国民のとうぜんの権利だと思っているのだろうか。


     でも国家と国民が相思相愛の時代はもう終わった。

     このような国民を保護し、生活を保障するようなやり方は財政を破綻させるし、

    保護政策は産業の方向がすでに決まっている時代にだけ有効な方法だし、

    この政策のバックボーンとなった社会主義国家は崩壊した。

     時代の流れがすべてこれまでの政策と衝突するようになっている。

     もうこのような依存と甘えの世界を形成することは、

    世界の流れからいってもう不可能になりつつあるのだ。

     ヨーロッパの真似とうしろをついてゆくだけでよかった近代化の時代は終わった。

     またヨーロッパとアメリカもこれからの方向を手探り状態だ。

     世界的に社会の意識はひとつの踊り場を迎えている。


     日本はこれまでで守られてきた世界から、

    自分の足で歩き出さなければならない。

     もう手本を示してくれるランナーは見当たらず、そうするしかないのだ。

     なさけない話だが、日本ははじめて大人の段階に踏み入れたのだ。


     国営品の人生というのは、子ども向けの「乗り物」だったのだろう。

     どこに行ったらいいかわからない、なにをしたらいいのかわからない、

    どう生きればいいのか教えてもらわないとわからない――そういった人たちのための、

    時代に適したひとつの羅針盤だったのだろう。


     でももうどこにもその羅針盤はない。

     また、選択肢のない国営品は新しい世代には大きな足カセとなってきた。

     若い世代には国営品の人生はジャマものになり、不要なものになりつつある。


     この国営品の人生をゆいいつの人物評価の基準にしている上の世代は、

    もうこの絶対化された基準を打ち破るのはむつかしいかもしれないが、

    若い世代はこの基準に縛られず、自分独自の人生を切り開いてゆくべきだ。

     この国営品の人生から脱け出せば、古い社会からはなかなか受け入れられない

    かもしれないが、自分の人生を生きたいと思った若者たちはどんどん自分の人生を

    切り開いてゆく努力をしてゆくしかない

     世の中はひじょうにゆっくりとしか変わらないかもしれないが、

    世の中はたぶんこの方向に変化してゆくだろう。

     国営品の人生は、エリート神話の崩壊とともにどんどん値を落としてゆくだろう。


     戦後の民営化は、JR、JT、NTTとおこなわれ、最近は金融業界(?)の民営化が

    おこなわれているが、日本人の人生の民営化と自由化はいつおこなわれるのだろうか。

     国民自身がまだまだ望まない?

     選択肢と自由と望みのない人生がそんなにいいのだろうか?

     安定の代償が、つまらない人生の鎖というのはあまりにも高すぎる。


     ビッグバンが必要なのは、まさにわれわれ自身の意識ではないだろうか。





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