諸悪の根源――法人優遇社会と言語化されない社会


                                                    1998/2/20.



       


    安土敏『ビジネス人生・幸福への処方箋』(講談社文庫/495円)はすばらしい本だ。

    われわれの幸せ感がなぜ喪失しているのか、みごとに説き明かしている。

    評論家や学者ではない、実務的な仕事をこなしているからこそ書ける内容がいい。


    とくに「幸せ感を崩壊させる日本社会の構造」というチャートの、

   因果関係、相関関係をひと目でわかるようにした図がすばらしい。

    ここで紹介できないのが残念なくらいだが、安い文庫なのでぜひ直接見てもらいたい。

    幸せ感を喪失させるおもな原因は、「仕事=際限なき奉仕」と「法人優遇社会」、

   「言語化されない社会・経営」、「野放しオフィス・ビル建設」、

   「システム・アプローチによる問題解決がニガ手」などといったことにもとめられている。


    「仕事=際限なき奉仕」はもうだれだってわかり切っていることだが、

   「法人優遇社会」と「言語化されない社会・経営」の指摘にはおどろいた。

    税制面で法人が個人にたいしてどれほど優遇されているか、

   この国で法人がどれだけ手厚くあつかわれているか、思い知らされた。


    法人では経費が営業経費として課税されないのに対し、個人は全額にかけられ、

   また赤字決算のときには法人税がいっさいかからなく、5年間くりのべることもできる。

    法人は経費としてゴルフや接待、社宅などにカネをつかったほうがおトクなのである。

    つまり法人は生き残るために徹底的に優遇されているのであり、

   個人も「法人のほうがウラヤマシイ」というバカな状況を生むのである。


    また、個人は国家や社会から直接、法的保護をうけていない。

    訴訟はカネも時間もかかりすぎるし、社会的にも容認される雰囲気がない。

    それに対して、会社はカネも優遇課税もあるから、近代国家なみの法的権利をもてる。

    だから個人はそこにもぐりこんで法的保護を得ようとするし、

   税金・年金・健康保険などの手続きは会社がやってくれる。

    中には会社に就職しないとそれらの権利を得られないと勘違いしている人もいる。

    こうして個人は会社に依存することによって法治国家の保護をうける立場を確保し、

   それを失う恐怖心から、会社を宗教的=超権力的な依存対象にまつりあげてしまう。

    しかも会社には退職金と年功賃金という人質が捕らえられている。

    したがって社会の規範と会社の規範が衝突したばあいには、

   迷わず直接自分を守ってくれる会社の規範に従うわけだ。

    こんなところに会社のために犯罪を犯すサラリーマンの原因があるのだ。


    日本にはどうやら個人からはじまる民主主義国家があるのではなく、

   会社からはじまる民主主義国家が存在するようだ。

    近代法治が適用されるのは、個人ではなく、会社いじょうの存在のみだ。

    これではたたでさえ貧弱な個人が会社に抗うすべはないし、

   また言うことを聞いておれば守ってくれるなら、会社を宗教的存在に祭りあげて、

   過労死するまでの滅私奉公に尽くさざるを得なくなるのだろう。


    個人を守ってくれるのは、せいぜい警察くらいのみだ。

    あとの政治とか官庁、役所、裁判所といったものは個人を守ろうとはまずしていない。

    カネのない個人を守ることより、会社にタカっていたほうがよほどおトクだからだ。

    個人が政治や官僚に絶望するのはムリがない。

    どうもこの国は個人を守ろうとすこしも考えたことがないようだ。


    近代の政治や官僚の仕事は、国家の富や軍事力を強めることにあるのであって、

   個人の人権や権利、幸福を擁護することではないようだ。

    個人をこれっぽっちも守ろうなどと、この日本の近代国家には考えもおよばないのだ。

    国家の富・軍事力を増強するためには会社の生産性を高めなければならない。

    とくにイギリスの産業革命から100年遅れた日本では、

   会社を保護して成長させることが、軍事的な増強のために急務だった。

    さもなければ、この国は西洋列強に植民地化されるからだ。


    日本の近代国家の政治や官僚のしくみは、その要請によってつくりあげられたものだ。

    国の軍事力、そのための経済力の増強こそが第一の目的だったのだ。

    したがって個人の人権や権利、幸福を擁護する必要はない。

    近代以降にあらわれた女工哀史や戦死者の群れ、公害病に悩む地域住民、

   過労死する会社人間などのさまざまな個人の犠牲者はその帰結にほかならない。


    かつて日本の戦争は武士たち職業軍人のみの対戦だったのあり、

   農民や町民は弁当をもって関ヶ原の戦いなどを観戦した。

    それが国民すべてが参加するトータル・ウォー(全体戦)に変貌したのは、

   近代国家以降のことだ。

    世界のほかの国では、ほかの国の王が攻めてきても、

   いまの国の重税よりマシだと、外来の王を歓迎した住民たちも多くいた。

    そのような観念が変貌したのは、軍事力は一国の経済力だという認識の誕生と、

   国家と国民の利益と安全が同一だと説くイデオロギーの啓蒙からなのだろうか。

    ともかく近代国家は国民の総力戦を必要とし、国民もそれを歓迎した。

    国家の主をどこかほかの人と捉えるのではなく、一心同体に捉えるようになった。

    その結果、二度の世界大戦において膨大な市民の戦死者の群れを生み出した。


    このような流れが、現在の社会経済体制にとぎれることなく、ひきつがれている。

    一国の経済力の貧弱さは、そのまま他国の軍事力の脅威の増大につながる。

    近代経済は宿命的にそのような要請を背負っている。

    日本の近代国家はまさしくその恐れから出発したのである。


    だが、現代のわれわれはそのような感覚とかなりかけ離れたところにいる。

    経済成長は一国の軍事力を増やすためだという認識より、

   個人や国民を富み殖やすためにあるのだと感じるようになっている。

    われわれはあまりにも平和な時代に生きており、そこに立脚しているのだ。

    その証拠に目的を失った政治家・官僚は私腹を肥やすことに終始している。

    大きな戦争はもう50年以降おこっていないし、冷戦構造は終わった。

    つまり近代国家の目標は現在のところ、その意味も用途も消滅したのだ。


    このような状況で、国家総動員体制の経済戦争は、

   あまりにも意味のないスパルタ的な枠組みにしかならない。

    いつまでもこの枠組みをつづけていると、国民はいつか反乱をおこすことになるだろう。

    そのような行動に出ないとしても、社会精神の崩壊やモラル崩壊は、

   反乱のような惨禍よりもっとびとい惨劇をもたらすことだろう。

    日本人はどうもそのような病弱化してゆく国民の道を選んだようだ。

    まあせいぜい政治家や官僚はやりたい放題のウジ虫社会をつづけていればいいのだ。

    歴史と時代がどっちみち、判決と制裁を下すことだろう。



    言語化されない社会に関しては、これは日本の多くの問題の根源にあるものだと思う。

    日本の社会のしくみやありかた、じっさいにどのように社会が動いており、

   どのように権力が日本を牛耳っているのか、ほとんど言語化されていない。

    なんだかこの日本のほんとうのありかたをさらし出すことは、

   日本のみんなで守っているタブーみたいなものなのだろうか。

    また会社内部のしくみやありかたといった情報は、

   まったく言葉にされない恐ろしいまでの「秘境」のまま、放っておかれている。

    会社内部というのは20世紀最後の日本の秘境だといっていいかもしれない。

    日本のだれもがこの「禁断の地」に踏み入れようとしない。


    わたし自身がこれまでおおく本を読んできたり、フリーターなどをしておおくの職場を

   巡ってきたのは、会社という秘境の奥がまるでわからなかったからだ。

    こんな秘境になにも知らないまま、ひきずりこまれるのはタマッたものではない、

   とわたしはいくつかの秘境に潜入してみたのだ。

    でもあいかわらず、この「秘密の花園」がどのようなものなのか、いまだに不明だ。

    どのような論理や不文律で動いているのか、さっぱりわからない。


    新聞や雑誌、TVなどの会社情報は、安土敏が指摘するとおり、

   投資家や株屋の目で判断された高収益、財務体質のよい会社のことばかりだ。

    学生は就職するさい、この株屋のランキングによって就職先を決め、

   その会社がどれほど社員をこきつかうのかといったことも知らずに就職する。

    そういう情報は新聞や雑誌などはほとんど与えてくれない。

    だいたい高収益の会社ほど、人使いは荒いし、公私混同ははなはだしいし、

   社員を奴隷のようにこき使った結果、株屋のランキング企業までに成長したともいえるのだ。

    わたしの経験でも、大企業の下請けはものすごくヒドイ扱いを受けるので、

   大企業関連の下請けにはもう二度と近づきたくないと思っているのだが、

   この下請けいじめの体質は、その親会社自身にも内包されている体質なのだと思う。

    どうやら大企業はフタを開けてみれば、なんとやらといった状況のようだ。


    働く人にとっての会社情報というものを大切にしなければならない。

    つい世間がよい会社だというブランド企業に就職すると、長時間残業、

   休日・私生活の侵害や拘束などによって一生を棒に振ってしまうかもしれない。

    このような働く側からみた会社情報というのは、企業とグルになっている新聞や雑誌は

   教えてくれないから、インターネットの個人ページなどによって、

   それに抗する情報を集めることができるはずだ。

    雑誌に出ている会社ランキングとえらく違ったランキングが現われることだろう。

    われわれ個人はこのような個人からみた情報をあつめることによって、

   人間として扱われない会社には就職希望者がこないという社会的制裁を与えることができる。

    インターネットはぜひそのための足かがりになってほしい。

    情報はわれわれの一生を救ってくれるかもしれないのだ。

    過労死することもあるのだから、ほんとうにこの情報は命がけだ。


    それにしてもこの社会は言語化されていない領域がことのほか多い。

    おそらくわたしがほしい情報というのは、個人が生きるための社会と会社情報と

   いったものなので、そこらへんがこれまでの言語化された領域とズレるのかもしれない。

    わたしがいちばん恐ろしいのは、非言語的な情緒や論理で、

   社会やものごとが動いているという未知の地図のない世界だ。

    ある職場や集団に入るとき、マニュアルではなく、言外の行動や習慣によって、

   まわりを察知し、その場に馴染んでゆかなければならないというのは、

   たいへんな骨折りだ。


    この社会がじっさいにどのように動いているのか、だれに牛耳られているのか、

   言葉で捉えられないことは恐ろしいことだ。

    だから学生たちはとりあえず言語化された株屋ランキングの会社に就職しようとするし、

   母親たちは子どもたちを有名大学などに押し込もうとする。

    まるで真っ暗な映画館で出口に殺到する群集のパニックのようなものだ。

    受験戦争というのはなんだかパニックに似ていると思っていたのだが、

   やっぱりこの世界がまるで言語化されないことにもその原因があるのだろう。

    まっ暗闇だ。

    TVや新聞のつたえる情報はステレオタイプか、事件事故のかかわりくらいだ。

    われわれが日常のなかで属する会社や社会についての情報は、

   ほとんど言語化されなく、体当たりで覚えてゆくしかなく、賭けみたいなものだ。


    この社会が言語化されないのは、集団が閉鎖して外部に情報をもらさないようにする、

   なにかそのような体質が固まっているからだろうか。

    情報や言葉を禁忌するような習慣・雰囲気がどこかにある。

    言語化されない世界は文書にも記録にものこらず、

   その場にあらたに参入するものはいちいち非言語的な慣習を、

   ホディランゲージや身の振り方、行動の仕方、人々の動きかたによって、

   学んでいかなければならなくて、あまりにも非効率で、過去の学習の蓄積がのこらない。

    情報や言葉にかんしては、日本はまだ鎖国したままなのだろうか。


    批判や自己主張があまり歓迎されない社会は問題だ。

    過去の誤りや失敗をいつまでも正せないし、同じ惨禍をなんども経験しても、

   またもやふたたびくり返す、救いがたいバカな人間を生み出すからだ。

    なんだかブッ壊れてしまったおもちゃの反復行動みたいなものだ。

    これはあまりにもヒサンだが、日本社会はあまりに和とか秩序とかを求め過ぎたため、

   批判も懐疑的洞察を働かせることができなくなってしまった。


    批判や懐疑こそが社会を活性化し、進歩の原動力になるものなのに、

   どうしても日本人はこの力を封じ込めたいらしい。

    変わりたくない人や社会は、世界の流れからとりのこされるだけだ。

    思考能力も、まだ言葉のないものごとを言語化する能力も歓迎したくないらしい。

    そのような能力こそ、いままでの退屈した閉塞した社会状況を突破する道があるのに、

   どうもこの力を解放したくない勢力・社会風土があるようだ。


    こうして日本社会の情報・知識のインフラストラクチャーは蓄積・進歩することもできず、

   何世紀も前の非言語的慣習の世界によって生きてゆくことになる。

    マクドナルドのマニュアルがあればかんたんに仕事が覚えられるのに、

   日本社会はあいかわらず身体で仕事を覚える中世的な学習方法に固執している。

    日本の企業集団はあまりにも閉鎖的で、業務や知識の発展を阻害してしまう。

    知識や技術といったものは「秘教」にするよりか、

   集積・蓄積されることによって発達してゆくものだ。

    中世ギルドのように閉鎖的な職業集団を維持していたら産業革命はうまれなかった。

    日本企業は内部情報を秘匿することによって、みずからの停滞性や後進性を

   ただ後生大事に抱え込み、みずからの首を絞めることになる。


    言葉や自己主張のへたな日本人はまた、制度的チェックを有名無実化してしまう。

    これではせっかく設けた防波堤がなにも機能しなくなってしまう。

    こうしてチェック機関の働かない会社や集団はいたるところで暴走してしまう。


    日本人には論理力や思考力、コンセプト創造能力、ディベート、発表能力が必要だ。

    でもその前に日本の社会風土のなかには、これらの能力を封じ込めるような

   雰囲気や抑制といったものがあるようだから、この撤廃のほうがまず先だ。

    そのような抑制力とはなにかといったことは、またいつか考えてみたいと思う。



    いじょう、法人優遇社会と言語化されない社会について考えてみた。

    これらふたつの制度や慣習がどれほどわれわれ個人の幸福を奪っているか、

   切りがないほどである。

    なんとかこれらを撤廃、変革させてゆくことはできないものだろうか。

    みなさんもいっしょにぜひ考えてください。

    このエッセーの内容の多くは、この安土敏『ビジネス人生・幸福への処方箋』という本に

   よっているので、安い本なので読まれることをおすすめしたいと思います。







       そのほかの参考文献


         渡辺昇一『歴史の鉄則』  PHP文庫

         アンドリュー・シュムークラー『選択という幻想』 青土社

         堺屋太一の諸著作 PHP文庫/新潮文庫ほか




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