平等とはほんとうにいいものか


                                                 1998/5/24.




    平等とは果たして善なのか。

    この国では自由より平等のほうが求められる。

    自由が少々圧迫されても、平等のほうがより大事なようだ。

    人の自由な生き方・ライフスタイルを剥奪しても、平等のほうがより望まれる。


    若者たちにとって果たして現在は居心地のいい状態なのだろうか。

    みんなが同じような暮らしや生活をし、同じような趣味や行動様式をもち、

   価値観や評価も経済でのモノサシひとつしかない。

    不気味で、圧迫的で、異様に見えないほうがおかしい。


    このような歪みはどのように芽生え、どこで発生してきたのか。

    このような現在の結果を招来させたものは歴史上のどのようなものなのだろうか。


    平等、なのだろうか。

    みんながみんな同じであることを理想とした結果なのだろうか。


    平等思想はルソーによって唱えられ、マルクスによって国家の手にゆだねられた。

    経済での平等、政治での平等が求められ、民主主義ができあがった。

    平等があまりにも強く求められたばあい、階層や序列は悪になり、

   その要求は国家権力と手をむすんで、性急な過去の破壊がおこなわれた。

    平等の要求は自由を奪うばかりではなく、正義の名のもとに生命すら奪ってきた。


    問題は、平等な社会は果たして幸福な社会かということだ。

    みんなが同じような人たちに満たされた社会がはたして楽しい社会といえるだろうか。

    不気味で、不自由な、おもしろ味のない社会ではないのか。


    もちろんそんな心配はご無用だ。

    どんなに平等をもとめても、けっきょくは不平等はどこでも発生するからだ。

    もっとも皮肉なことは、平等をもとめたために国家に権力が集中し、

   逆に不平等がそこに巣食ってしまうということだ。

    経済的な平等をもとめていたら、政治や権力での不平等を国家にもたらしていたというのは、

   ソ連共産社会で明確になったことだし、日本でもそのようなことがおこっている。

    平等という看板はほかの不平等の目隠しになる。


    平等なんかもとめて得られるものだろうか。

    権力者が公平に分配して配分することなんてできるのだろうか。

    もともと人間という動物は序列や優劣をもとめてやまない生き物であり、

   ひとつの不平等の剥奪は、同時にほかの優劣競争の出発をうながすだけではないのか。

    生来の人間性を無視して平等社会をつくろうとしても不可能ではないのか。

    知性万能主義がまかりとおった18世紀から20世紀という時代は、

   完璧な平等社会が人間の知性によって完成できるという思いこみに満たされた時代だった。


    かつては経済的レベルと政治要求の平等という明確な目標があった。

    みんながみんな同じものをもとめた。

    それが問題なのである。

    その結果、この社会は優劣のモノサシや目標がまったくひとつに統合されてしまった。

    価値観や評価のモノサシが現在では経済というたったひとつのモノサシしかない。


    現在の社会が経済というモノサシひとつしかないのは、この平等思想の結果なのか。

    ほかの文化や芸術、宗教、人格や個性という多様で豊穣な価値観が、

   この社会からまったく駆逐されてしまっている。

    おかげで尊敬や畏敬の念が抱けず、名誉ある人や立派な人間といった、

   憧れられる人物像が破壊され、だれもが低俗なレベルになんのやましさも抱かない。

    カネという量で測れるものでしか、この社会では評価されない。

    有効や有益、効率といった条件価値だけがこの社会を呪縛している。

    経済での平等をもとめた歴史の結果、この貧困な単一価値はできあがったのだろうか。


    経済での不平等という物語が、社会での評価を画一的なものに集結させたのである。

    人間の価値は経済という単一価値のみで測られるようになった。

    正義と悪という単純な物語に脚色されたために、多様な価値観が追撃された。

    平等にとって人々を序列化・優劣化する価値観は不平等の根源であり、悪だからだ。

    さまざまな価値観を追撃した廃墟には、カネという哀れな量的なモノサシだけが残った。

    人間の価値が質ではなく、量で測られる。


    不平等を根絶させようとした社会は、金という量的なモノサシだけを突出させた。

    権威や多様な価値観は、不平等の根絶という正義のために破壊された。

    科学という量的に測られる客観的な世界観だけを絶対だとした知識も、

   多様で豊穣な価値観を根絶させるのに役立ったのだろう。

    近代の科学や思想の流れや運動は、カネの価値だけを突出させた歴史に

   ことごとく貢献してきた。

    近代というのはカネの正当化にすべて収斂するための時代だったのだろうか。


    カミもホトケも信じられない、カネだけが信じられる――その正当化があらゆる方面、

   科学や政治・社会思想でおこなわれた時代だったのか。

    カネという絶対的に生命を保証するものを国民・大衆ひとりひとりにすべて

   ゆきわたらせるのが、近代化の社会思想の目的であり、民主化だった。

    つまりカネの民主化だ。

    こうして近代の流れをみると、かつての宗教の歴史にもあったように

   カミやホトケの専門家集団の独占から、一般大衆への民主化に似ているといえる。

    だれもがカネ(カミ)という生命の保証をもとめ、争った時代だったわけだ。

    それが国家の力添えという方法論を得て、カミの民主化がおこなわれた。

    カミを国民ひとりひとりに平等に分配・配当するのが近代の理想となった。


    カネは国民に等しくゆきわたらさなければならない。

    不平等があってはならないと有利な地域社会や特権階級、

   特権的家族などのかたよりの均質化と破壊がおこなわれる。

    カネの平等分配が理想となってその偏りをもたらすすべてのものが破壊され、

   カネというモノサシと評価だけが突出化し、絶対化する。

    つまりカネの絶対化だ。

    ほかのモノサシや評価を失った人たちはそれを求める人と社会だけを再産出しつづける。

    カネの奴隷を再生産するために最適な社会システムができあがる。


    平等化がもたらしたものは人間の低俗化・低級化だけではないのか。

    無秩序・無規範の放埓な人たちだけを生み出したのではないのか。

    もちろん歴史には不平等や暴力、支配といった悲惨な現実があったわけだが、

   平等を実現するにしたがって、人間の高貴さや気高さといった誇りは

   失われていったのではないだろうか。


    平等な社会は人間のレベルを落とす反面、不平等はできるだけ追放される。

    権威や序列も消去される一方、恣意的で場当たり的な正義や規範――

   つまり自己中心主義や利己主義がまかりとおる。

    不平等な社会では人間の権威や名誉が保たれる反面、

   支配や暴力がまかり通るという大きな代償を支払わなければならないのかもしれない。

    その状態のどの側面をピックアップするかという問題である。

    近代の平等をめざした社会は階層社会の悪の側面ばかりを強調してきたわけだ。

    その代償として権威や名誉といった人間の高貴さといったものを失った。

    あるいは社会の毅然とした規範やルールを失わせてしまった。

    おかげで要職につく人でも名誉よりカネと快楽を追究する人たちだけに満たされた。

    社会が名誉や高貴さを評価せず、カネの多寡だけで人を測るのだから当然だが。


    平等化の風潮は現在もつづいており、これが正義であるという固定観念も

   かんたんには人々の心の中から消え去りはしないだろう。

    わたし自身も不平等があれば、ついいら立ちと平等を反射的にもとめている。

    階層や序列がわたしの前に立ちふさがるとすぐに平等や民主的ではないと

   腹をたてるわけだが、そのような要求は同時に権威や名誉といった尊厳も破壊する。

    いたるところにある不平等もたまらないが、平等社会はどこかにいびつな圧力がかかって、

   自由が尊重されないし、人は他人とそっくりであることにガマンもできない。

    どちらのほうをとるほうがいいのだろうか。    

    平等化の流れは行き着くところまで行き着かなければ気がすまないのかもしれない。


    現代は経済の平等も政治での平等も――もちろん不平等はあちらこちらに残っているが、

   かつての目標はかなり達成されたのではないだろうか。

    そうすると今度は社会の活力や原動力を失い、国家が国民の平等を保障できなくなった。

    近代というのは国民の不平等を原動力に国家の権力がかなり集中した時代であったが、

   政治経済での平等を達すると、国家はどんどんと信頼を失墜していった。

    平等な社会は人々の夢や希望まで平等に奪いとったのではないか。


    「人間の不平等にふたたび敬意が払われるようになる時がこよう」と鋭い名句を

   ブルクハルトは吐いたそうだが、その時はもう間近に迫っているのかもしれない。

    もちろんまだまだ不平等に目くじらをたてる風潮も根強く残っているが、

   平等化がもたらした人間の堕落を反省してみると、立ち止まって考えたくなるだろう。


    平等思想は経済とカネだけのモノサシ・評価だけの社会を生み出したし、

   国家権力の肥大化をもたらし、人々の自由や尊厳を奪ってきた。

    名誉や高貴さを失わせたのも、権威や不平等を嫌った平等思想のためではないのか。

    現代の政治腐敗や官僚腐敗、自堕落な人間、ルールなき社会をもたらしたのも、

   やはり平等をもとめた社会の帰結ではないのだろうか。


    平等思想のみがそれらをもたらした唯一の原因だとは言い切れないかもしれない。

    それは市場社会や資本主義社会の帰結かもしれないからだ。

    市場はより多くの消費者をもとめ、貴族や宮廷の限られた顧客より、

   壮大なマーケットである大衆に顧客を求めるだろう。

    市場原理の落とし子が平等思想だともいえるわけだ。


    こうして平等の拡大、権威や規範の破壊がおこなわれ、平等が曲がりなりにも

   達成されたとき、すべてが破壊された社会に人はなにを見出すのだろうか。

    優越や上昇が禁じられた社会は、人間の希望や夢を生み出せるだろうか。

    だれもが同じような人間に満たされた社会に人々はなんの目標を見出せるだろうか。


    われわれは不平等は悪だという固定観念をもっており、

   たしかにそのような信念にも信憑性がある。

    だがその反面、高貴さや権威といった人間の優れた部分も破壊してきた。

    不平等の中にこそ、権威や名誉といった尊厳も存在していたのではないのか。

    平等にはよい側面もあるが、不可分としてある悪にも気をつけなければならない。


    人間社会はどんなに平等をめざしても、どこかに必ずその抜け道を探し出す。

    人より優れたいという優越願望を心の中から追放することはできないからだ。

    優越願望は経済の原動力であり、それが枯渇すると経済は活力を失う。

    現代はそのような時代ではないだろうか。

    だとするのなら平等より不平等が――つまりその悪の側面ではなく、

   社会の活力をつくりだしたり、創造力を発揮させたり、高貴さや権威といった、

   不平等の効用が求められる時代ではないだろうか。


    平等が失われることを郷愁して悲しむ時代ではない。

    現代は平等ゆえの悲しさや哀れみを感じる転換期なのではないだろうか。





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