規範なき、あなたまかせ日本人の悲劇


                                                1998/2/5.




      この日本は規範と権威がまったくないアノミー社会になってしまった。

      日本人の個々人のなかから、規範や権威、目的意識といったものが、

     まったく失われてしまった。

      意味も価値も、規範も、ぽっかりと空隙になった日本人がここそこかしこにいる。


      なぜこうなってしまったか。

      官僚と政府が近代以降、あまりにも日本人をリードしすぎたということになるだろうか。

      近代化政策、富国強兵、殖産興業――これらはすべてお上がひっぱってきた。

      日本の民衆はそれらにただ従い、黙々とついてゆくだけだった。

      これが最近まであまりにも成功しすぎたのだ。

      しかも全国一律の国民学校教育は、日本人の、上のいうことにはただ従う、

     批判も文句もいわない、記憶力だけが抜群で、思考力なしの自己表現のできない

     アノミーな日本人の性質にいっそう磨きをかけることに貢献した。


      日本人個々人のなかにはなんのアンテナも羅針盤もない。

      ただ政府や官僚が方向や指示を与えてくれるか、

     アメリカとヨーロッパの真似とうしろをついてゆくだけでよいだけだった。


      これでは日本人のなかから、方向感覚や方向決定能力、

     思考力やみずからを律する自律心といったものが失われるのはとうぜんだ。

      日本人は方向感覚をみずからもたない空っぽな人間になっていたのだ。


      官僚主導型国家は、西洋化政策においてはあまりにも成功しすぎた。

      そのようなめざすべき方向や目標がしっかりと定まっている時代には、

     空っぽのみずからの規範をもたない日本人はおおいに役にたっただろう。


      が、そのために目標なき転換期にぶちあたったとき、

     羅針盤のない日本人はあたふたとドタバタ喜劇をくりひろげるしかない。


      近代化以降の日本は比喩的にいうなら、

     けわしい大雪のつもった山脈を、官僚たちがリーダーとなってつき進む、

     隊列のようなものだった。(『八甲田山』とか『野麦峠』の映画みたいに)

      目標と方向感覚をもっていた官僚たちは、吹雪のなかの雪山を

     けんめいに日本人たちをリードしてきただろう。

      だが嵐がやみ、雪どけがはじまった野原に到達したとき、

     リーダーは役割の喪失に気づきまいとし、民衆はどこにいってもいいのに、

     行くあてもなく呆然としている。

      春がおとずれた気持ちよい野原を、まるで厳寒な冬山のように、

     きまじめにリーダーたちは隊列をひきつれ、民衆たちはそれに従おうとした。


      しかし子どもたちはもう春が来て、どこにいってもいいことを知っている。

      ただかれらには、それを言葉にする能力と表現力がない。

      むやみな暴走と情動的な暴力に走るしか、表現力をもたないのである。

      官僚統制国家教育が、かれらの舌と頭脳をすっかりと奪いとってしまっていたのだ。

      しかも官僚たちは利権と生活を手放したくないから、

     意地でもこれまでどおり、かれらをしがみつかせておこうとする。


      大人にしたって変わらない。

      現実をしっかりと捉え、言葉にする能力をちゃんともっているといえるだろうか。

      自分の考えや意見、方向感覚といったものをもっているだろうか。

      学者もヨーロッパ知識の輸入に夢中になり、現実を見ていないし、

     あるいはこの国の現実を見て、かかんに批判や改善を訴えてきただろうか。

      わたしが驚くのは、現代にこれほど大きくなり、一般人の全生活をおおっている

     企業というものに、ほぼ批判的・学術書的なメスを入れていないことだ。

      かれらは現実の問題と格闘することをやめて、

     庭いじりと盆栽いじりだけにひきこもってしまったのか。

      一般人がこれほど不快に異様に思っている企業社会に、

     なんの手も打とうとしないのはなぜなんだろうか。


      この100年間にたっぷりと染みこんでしまった、

     官僚まかせ、あなたまかせの日本人の性質は計り知れないほど深刻だ。

      われわれ日本人は政治やら立法やら司法やらをすべてお上にまかせてしまった。

      まあその程度ならいいかもしれないが、

      日本人はそのような権利をあずけたときに同時に、

     みずからの方向感覚や規範、倫理感といったものもいっしょに棚上げしてしまったのだ。

      みずからの内なる道徳律を失ってしまったのだ。

      それだけでなく、思考力も表現力も、人生の生き方を決める能力も、

     国家教育によりすっかりと削りとられてしまった。


      ますます暴力的になる学生たちになんの規範も正義もしめせない教師のすがたは、

     まさにこのアノミー社会そのものを写しとっているのではないだろうか。

      ツケはかならず、支払わなければならない。

      しかもそれは人間の社会精神といったものが相手だから、

     経済軍国化のかたすみで喪失した社会精神・社会規範といったもののツケは、

     あまりにも高い。


      日本人はみずからの内なる規範を政府や官僚たちにあずけたと同時に、

     規範や秩序の「番人」となることをやめてしまった。

      地域社会や郊外住宅地から、規範や秩序を維持しようとする番人の役割を、

     だれもかれもがみずからの心のなかから追放してしまった。

      父親もそれを放棄し、母親も失った。

      放棄したというよりか、規範や権威をぽっかりと失ってしまったというほうが近い。

      まさにアノミー社会が到来した。


      大人たちは規範の番人をやめたのではなく、その力をもてなくなったのである。

      それは先にのべたように政府や官僚たちが、行政や立法をおこなうことによって、

     その権威や役割をとりあげてしまったというのもあるだろう。

      規範の番人の役割は、近代政治において、

     その役割を分業・委譲してしまわなければならなかったのである。

      それは外側だけでなく、個々人の心の中からも失われてしまったのだ。

      地域社会や親たちから、規範力や秩序維持能力が失われた。


      そのほかに考えられるのが、企業の経営形態や序列が、

     大人たちの力を無力化したという面も否めないだろう。

      父親や母親たちは、企業のなかでは役員や上司にただ命令・指示されるだけの、

     力も権威ももたないちっぽけな無力な存在にしかすぎない。

      みずからの力も自信もうしない、法の番人であることを不可能にしてしまった。

      この企業組織のなかにおいて、自分の力や規範力はなにひとつない、

     という思いは、地域社会や郊外住宅地での規範をみずからが守ろうとする

     動機や自信を失わせるだろう。


      印刷媒体の発達やラジオ電波、テレビなどの情報伝達機関は、

     地域に生きる個々人の規範力をさらにいっそう無力にした。

      これらのマスメディアはそのなかで決められた規範や正義を、

     大量の人間たちにコピーすることができる。

      その規範をコピーされた大量の人間は圧倒的に強い。

      「多数者の専制」といった状態は、19世紀あたりから恐れられてきたものだ。

      マスメディアの規範や正義の決定力があまりにも強すぎ、

     また目まぐるしく変わるため、個々人はなんの決定権も権限も失った。

      個々人の規範の番人の力はほとんど無力化される。


      ほかに都市化の進展も見逃すわけにはゆかない。

      都市はまったく無関係の人たちがよりつどう、無関心な人たちだけの集まりになった。

      それぞれの人たちの利益や生産の場は、企業だけにつながっている。

      近隣と没交渉になり、だれも地域の規範とか規律を守ろうとしないだろう。

      中世イスラムの歴史学者イブン・ハルドゥーンはこの段階をへて、

     文明は拘束力をなくし、滅亡するといっている。


      いじょう、この社会がアノミーになったのはこのような理由が考えられる。

      地域社会や親たちの規範の番人の役割が失われたのは、

     行政などによる分業体制の徹底化、市場原理の浸透、マスメディアの強大な力、

     都市化の進展、こういったものによるのだろう。

      このような権力の集中化は、地域に生きる個々人の規範力や秩序維持力、

     あるいはみずからの規範や規律を失わせるのに十分だった。

      規範は少数の支配者たちにゆだねられた結果、

     みずからの心にそのような規範をもたない人間が大量に生み出されてしまったのだ。

      まさにアノミー社会の到来だ。


      分業社会はなるほどさまざまな仕事をよりわけて、たくみに組み合わせるが、

     社会の規範においては、その分業・委託・集中化によって、

     規範にまったく責任をもたない、あるいはみずからの心に規範をもたない、

     大量の大人たち・親たちを育てるのに貢献した。


      社会の規範というのは、分業したり、委託したりして、

     個々人のなかからその役割と規律を奪いとってよいものなんだろうか。

      政治や官僚、裁判所、警察、マスメディア、そういったものに委託された、

     個々人の規範や規律、良心、正義感といったものはまったく権限がなくなり、

     責任をもたされなくなり、ついには心の中から溶解してしまうのだろう。


      規範や規律にたいしてまったく責任をもたない大量の人間が生み出され、

     無力で権威をもたない大人たちが地域社会にばらまかれる。

      そしてそのことを敏感に感じとった子どもたちが教師たちをおどし、

     ときにはサラリーマンのオヤジから金をぶんだくり、両親たちに暴力をふるう。

      地域や郊外から、規範の権限を奪われた大人たちが大量にいることを、

     子どもたちは敏感に感じとっているのだろう。

      そしてこの規範委託社会は、個々人が暴力や傍若無人なふるまいに、

     たいそう弱くなっていることを知っている。

      警察なんてその場にいなければその効力をもたないし、

     たとえたくさんの群集が見ていようが、かれらには規範の権限がなく、無力だ。

      子どもたちの暴力はそのような社会の弱体化した部分に、

     見事につけこんでくるのだろう。


      個々人の中に、規範の権限をとりもどすことが必要なのかもしれない。

      この番人の役割を個々人がもうすこし強くもたないと、

     地域社会からは規範が失われるし、家庭からは権威が失われる。

      個々人は規範からあまりにも無力化しすぎたのだ。


      そのためには政治や官僚などに集まる規範の権限を、

     もうすこし緩める必要があるかもしれない。

      かれらにすべて分業委託されてしまえば、地域や個々人、家庭のなかから、

     規律を守る権限が失われ、ますますモラル・ハザード(社会的規律の弛緩)が

     強まるだろう。

      中央官庁の権限をもっと弱くし、地方に権限をもっと委譲するべきだし、

     われわれ個々人も地域に権限が与えられれば、もうすこし自分の力を自覚するだろう。


      それからわれわれ一般人たちも、みずから規範の権限や発言権を

     強めてゆく努力をするべきだ。

      お上や官僚、政府、マスコミなどにあまりにも依存しすぎた結果、

     われわれはどんなに無力になり、あわれな盲従する人間の群れになったか、

     胸に手をあてて考えるべきだ。

      これは自分たちの権利や権限を放棄しているにひとしく、

     社会にアノミーをもたらしてしまった元凶であることを忘れないでほしい。

      これまでの政府や企業はたしかに魅力的な夢を与えてくれたかもしれないが、

     もうそんな約束はご破算だし、時代はこの流れを打ち壊す方向に進んでいる。

      これいじょう、無力さをアピールしていれば、

     われわれはただ虐げられるだけで、そして社会規範はますます弱まるばかりだろう。


      マスメディアにかんしてはひじょうにむづかしい。

      マスメディアはものすごく力をもち、個々人の権限や規範をかんたんに

     奪い去ってしまう。

      個々人はまったく無力だし、マスメディアの気まぐれな暴風に流される、

     ボウフラにしか過ぎない。

      ますますわれわれはマスメディアの暴風に吹き流される可能性がある。

      われわれはもうすこし、このマスメディアの狂暴な力というものに

     自覚的になるべきだし、無自覚にメディアに盲従する自分たちの哀れなすがたに

     気づくべきだ。


      マスメディアはそれだけ魅力的であり、捉えて離さないということもあるが、

     われわれはもうすこしこのメディアにかんして賢明にならなければならない。

      インターネットがなんらかの足かがりになってほしいと思う。

      マスメディアの暴力的な力に痛い目に合ってきたのは、

     なにもあらぬ疑いをかけられたり、スキャンダルを騒がれた人だけではない。

      流行遅れをけなされたり、みんながもっているものをもてとか強制されたり、

     ネクラだと犯罪者呼ばわりされたり、恋人がいなければ病的あつかいされたりと、

     だれでも一度は精神的に痛い目に会わされているだろう。

      犬になりきれる人や価値観がたまたま合致した人は平気かもしれないが、

     だれもがそうだとは限らない。


      企業にかんしてもわれわれはあまりにも無力だ。

      規範や規律、道徳、倫理といったものをみずから守らせるような、

     なんの力も権限もない。

      われわれはただ企業組織の論理と市場論理になぎ倒されるしかないのか。

      このままではわれわれは規範の番人となるような力をもてないだろう。


      どうすればいいかはむづかしいところだ。

      転換期の企業社会はこれからどうなってゆくか未知数だし、

     変貌してゆく企業組織はどのような権力ヒエラルキーをつくりだしてゆくかわからない。

      楽観的に考えれば、ドラッカーやトフラーのいうように知識社会に移行し、

     知識という生産手段を労働者みずからがもち、

     家と職場がいっしょになるような段階を迎えているかもしれない。

      そのときには地域の個々人の規範の権限はもうすこしとりもどされるだろう。

      だが、そのような形態はまだまだ遠い先のようだ。


      この社会は規範や規律をみずからの心にもたない、

     アノミーな人間にみたされようとしている。

      それは規範の権限や実行力を、専門業者に委託してきたからであり、

     規範のソフト面も、マスコミに奪われてしまったからだ。

      小さな村ではそれらの決定や実行はそれぞれ村の住人にゆだねられていたが、

     大きくなりすぎた社会においては、専門家に委託された。

      そのために規範に責任をもたない、しいては心に規範をもたない大人を育てた。


      小さな村に帰れということはかんたんだ。

      だが世界経済や技術・メディアの進展は、われわれの努力や願望を

     いともかんたんにおし流してしまうだろう。

      この大きな流れに刃向かおうとするのではなく、

     そのうねりの意味や変容の方向を正確に読みとり、

     それに対応する規範や規律のつくりかたを検討してゆくべきだ。


      このエッセーではここいらで一応、終えることにする。





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