Thiking Essays



     私利私欲と戦後の経済成長


                                              1998/1/10.





     勤勉に働かなければ「悪」とされるような風潮が、この世をおおっている。

     だが果たして勤勉は「正義」なのか。

     金儲けをしたり、出世をめざしたり、自社企業を大きくしたり、

    豪華なマイホームやブランド品をもつことが、はたして「善」なのか。

     無条件に「よいこと」とされていることは、ほんとうに「よいこと」なのか。


     わたしが「会社人間」を嫌ったり、「会社絶対主義」をおぞましく思ってきたのは、

    無条件に肯定されている「金儲け」が、人や社会のためではない、

    「私利私欲」を追求するものでしかないのではないか、

    という根深い不信にもとづいているのではないかと気づいた。


     企業活動というのは、自己の「私利私欲」だけをめざしたものではないか。

     それなのに、この社会ではその企業活動が無条件に肯定されている。


     私利私欲が無条件に「よいこと」「とうぜんのこと」とされているのである。

     「会社中心主義」や「会社への忠誠心」といったものがなにか肯定できないのは、

    このような利己主義にたいする深い懐疑があるからだと思う。


     親が会社を自慢にしたり、大人が会社を誇りに思ったりすることに、

    なんとなく軽蔑の感をもってきたのは、自分の利益だけを追究する、

    えげつない「守銭奴」の顔がみえたからだろう。


     だが逆に、あまりまじめに働かなかったり、賭け事や女遊びに熱中したり、

    フリーターをやっていたり、海外放浪をしていたりすると、

    「自分勝手だ」、「利己的だ」と非難されるような風潮がある。

     わたしにいわせると、あなたたちこそがえげつない「金儲けの利己主義者」だ、

    だからこそ企業社会からドロップアウトしたくなるのだと思うのだが、

    ここは一歩ひき下がって考えよう。


     企業活動は社会に富や便利さをもたらすのはたしかだ。

     アダム・スミスをもちだすまでもなく、経済活動というのはめいめいが自己の利益を

    追求していると「神の見えざる手」によって市場経済が健全に機能すると考えられている。

     「私利私欲」をめざしていると、社会の経済はうまくゆくのである。


     企業活動はたしかにそうかもしれない。

     車をつくったり、電化製品をつくっていたりすると、

    結果的にはほかの社会の成員に企業活動の恩恵をもたらすことになるのだ。

     現代のわれわれが電化製品や機械製品にかこまれて便利な生活を送れているのは、

    めいめいが「私利私欲」な経済活動に走ってきたからだ。


     それにたいしてこれまで非難されてきた女遊びや賭け事というのは、

    社会にとくべつの生産的な結果をのこさなかったからだろう。

     生産や蓄積に価値がおかれている時代には、

    ちゃんと金をまわす役割をもっている活動でも非難されてきた。

     家庭の生活を破壊するのだから、とうぜんだが。


     生産や蓄積に価値がおかれていたから、

    金銭やモノが蓄積されない活動は「利己的」だと非難されてきたのである。

     つまりその時代の社会の要請に合致しないものは、

    「利己的」だとして排斥されてきたのである。


     社会はいま蓄積から消費の時代への転換を迫られている。

     消費することによって生活の糧を得るサービス業に、

    多くの人が従事することになったからだ。

     こういう条件の社会はとうぜん消費を肯定しないと社会がなりたたない。

     金をいろいろなサービス業にばらまいてくれないと経済は回らない。

     生産活動の分が悪いのは、そういう社会的条件の変化があるからだろう。


     いまだにこの社会に勤勉の価値観が蔓延しているのは、

    おそらく生産や蓄積に価値をおいてきた世代がまだ多くいること、

    蓄積のほうが有利な産業に従事していること、などが考えられるだろう。

     直接、最終商品の消費者から金をうけとらない業界には、

    このような気分が温存するのだろう。


     社会は勤勉より消費に価値をおいた価値観に移行するべきだ。

     もうすでに産業構造がそのように移行しているのだから、

    消費を肯定するような社会的規範をつちかうほうがいい。

     それがこれからの日本を繁栄させる道なのだからだ。


     消費は自由な選択ができなければ、マーケットが成熟することができない。

     選ぶ自由があり、生き残る競争があれば、サービスはその性能を向上させてゆく。

     それなのに自由な選択ができない社会が温存しているのはなぜか。


     やはり大量生産社会に基盤をおいた官僚統制経済があるからだろう。

     かれらは生産者に有利な政策を多くとり、結果的に消費者の自由な選択を奪っている。

     そしてそこには、市場経済の旺盛な成長力はない。

     またさまざまな生き方、価値観の多様さを許さない。

     官僚には時代からの大きな転換がつきつけられている。


     さて経済を大きな目からみればこのようになるかもしれないが、

    われわれ一般の人間はそんな大きなものの見方はまず必要ない。

     われわれはもっと狭い視野の世界に生きている。


     げんざいのたいていの人は、自分の会社と学校という狭い世界のなかだけで、

    閉じ込められている人がほとんどだろう。

     そして自己の生活や利益がその世界だけにつながっているとしたら、

    ほかの社会のことはたいてい没交渉か、無関心になるだろう。

     おもにテレビという情報機関によってこの社会の出来事を知っているが、

    それがブラウン管のなかだけの一種の「虚構」にしか過ぎないことを――

    自分の世界とはまったく無関係の世界であることを、薄々感じている。

     これが現代のわれわれの現実だ。


     かつて企業活動は社会に貢献する大きな使命をもっていたかもしれない。

     自社の企業生産が即、国家の富に直結したような時代もあったのかもしれない。


     だが、げんざいのわれわれ労働者にはそのような手ごたえはまるでない。

     社会は大きくなりすぎ、組織は複雑になりすぎ、

    権限は手の届かないところにおあずけだ。


     われわれは自分の仕事が社会に貢献しているのか、

    ほんとうに社会のために立っているのか、

    だれかの役に立っているのか、まるでわからないところにいる。

     仕事に目的も意味も、そのやりがいも、組織や社会の巨大化により、

    まったく見えなくなってしまっている。


     わたしの手に残されたのは、ただ自己の利益――所得や地位の増大という、

    ちっぽけな、あまり意味のない役割だけをもとめられるだけだ。


     このような社会への貢献も意義もみとめられないポジションにいるわれわれに、

    はたして会社や仕事というものが、私利私欲に根ざしたものではない、

    と言い切れるだろうか。

     けっきょく、金儲けとは他人から富やカネをむしりとる、

    私利私欲な強欲でしかない、という気持ちが大きくなり、仕事を軽蔑するようになる。


     われわれ大人たちは子どもたちに自分の仕事が、

    自分の私利私欲ではない、社会の役に立っているのだ、

    と胸をはって言えるだろうか。

     自己の私利私欲を肯定して、なんのやましさも感じずに、

    子どもたちにそのまま伝えつづけることができるか。


     子どもたちは、自分勝手な、利己的な人間になるなとたいがいは教えられる。

     他人を思いやったり、他人を傷つけない、道徳的な人間になるようにしつけられる。


     だがそのように教える親自身が、

    私利私欲の金儲けや会社の仕事に猛進しているのだ。

     子どもたちはこの矛盾を敏感に感じとって、親や大人を軽蔑するようになる。

     若者たちの「オヤジ狩り」にはこのような道徳観の制裁という意味があるのかもしれない。

     利己主義者になるなという親自身が、私利私欲の亡者なのだ。

     はたして子どもたちはこの道徳のパラドックスに耐えられるか。


     われわれ若者たちが転職をしょっちゅうくりかえしたり、

    なかなか定職につけないのは、このような道徳にたいする違和感が

    あるからかもしれない。

     会社生活とは私利私欲に走った、利己的な生き方なのだという思いが、

    拭い切れない疑惑として、われわれ若者の心に残っている。

     「会社人間」という生き方は、私利私欲の極限のすがたにみえるわけだ。


     おそらく中年のサラリーマンにはそういう意識がないと思う。

     かれらはきちんとした定職につき、安定した職業生活をいとなみ、

    妻子をやしなうということが、至上の「道徳」になっている。

     それがかれらにはどうやら、木がはえたり、太陽がのぼったりする、

    自然な現象であることのように思われるようだ。

     だからリストラというのはかれらにとって、自然界の崩壊にも近いショックなのだろう。

     自分たちの生き方が「私利私欲」に見えるとはとても思われないだろう。

     勤勉な生き方が道徳なのだから。


     だがわれわれにはそれが私利私欲の生き方に見える。

     勤勉に働かなければ食えなかった時代と、

    豊かな時代に生まれ育った者たちとの違いだろう。

     豊かな時代に生まれ育った者たちには、

    がつがつした、私利私欲の生き方がもうガマンできないのである。

     勤勉の倫理がうしなわれたのではなく、

    私利私欲の経済活動がもう肯定できないのである。

     時代背景が違えば、善であったものも悪に見えるものだ。


     経済活動というのは利己的行動なのか、それとも利他的行動なのか。

     われわれの利己的になるなという道徳と抵触せずに、

    共存できるだろうか。


     時代的要請という点からみてみると、

    無謀な経済活動はもう社会に貢献する活動では、まるでない。

     だがわれわれは経済活動をしなければメシを食えないわけだから、

    全面的にこの価値を否定できるわけがない。

     利己的な活動と社会的な貢献がクロスできるところを求めなければならない。


     これからの時代、戦後のような経済成長はもう見込めないはずだ。

     これまでの経済成長は冷戦構造という「戦争状態」のために――

    戦争は物価高をもたらす――未曾有の繁栄をもたらしたのだ。

     アメリカの卸売物価指数の歴史をひもとくと(『大いなる代償』を参照)、

    独立戦争や南北戦争、世界大戦のときに物価はことごとく急騰をもたらしている。

     そしてそのあと約20年ほどは物価の転落を経験している。


     戦争がこの50年の経済繁栄をもたらしたのであり、

    社会主義と資本主義というライバルは物質消費の繁栄ぶりを武器にして、

    おたがいのイデオロギーを見せびらしつづけた。

     それを象徴しているのが、ベルリンの壁ができあがるまでの両体制の、

    消費の繁栄を宣伝する映画合戦だ。(NHK『映像の世紀』)

     この消費の繁栄というのは、両体制の武器、あるいは勝ち負けのモノサシ、

    だったのかもしれない。


     それが冷戦が終われば、その役割を終えてしまう。

     世界から軍事費がひきあげられ、全般的な価値の急落をひきおこす。


     このような物価、株、土地、消費の価値といったすべてが急落する時代にあって、

    勤勉や生産の価値はもうそんなに必要ではない。

     大量生産の論理も要請も必要ではない。


     戦後の日本人が生産や消費に必死に励んできたのは、

    このような大きな背景があったからだと思われる。

     バブルのときにも、株や土地の値上がりというあまり実体的ではないものによって、

    われわれは高級品やブランド品志向にたけり狂った。

     そういう背景が、われわれの志向や行動をそそのかすのである。


     これからは背景がすべてがしぼんでゆく時代である。

     経済活動も、なにをやっても儲かるような時代はしばらくはやってこないだろう。

     どんなに私利私欲に経済活動に走っても、

    あまり消費欲を刺激できない時代に入ってゆくだろう。


     パイが小さくなり、経済的に困窮するような事態にたちいれば、

    私利私欲な経済活動は、社会の道徳から大きな制裁をうけることになるだろう。

     下り坂の経済には、それに合致した道徳観ができあがる。


     そのときには私利私欲のこれまでのような経済活動、道徳観は、

    大きな転換を迫られるだろう。

     われわれは社会や世の中にためになる道徳観というものを――

    この戦後の50年の繁栄のためにすっかり麻痺したものを、

    もう一度、かえりみることが必要なのではないだろうか。





                                          (END)




      経済と道徳の相克というのは、大きな問題であることに気づいた。

      わたしの頭のなかでは、正直のところ、あまり整理されていない。

      またこのエッセーのなかで、企業集団の倫理退廃や社会倫理の崩壊を

     とりいれたかったが、うまく機会をつかめなかった。

      なんらかの文献があれば、参照でもして、また考えてみたいと思う。

                                      ――Ueshin.


   |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system