主婦の優劣についての断想集



        新しい優越ゲームの発動    99/12/6.

 人間同士の優越心の競い合いや勝ち負けの競争といったものは、できることならやめられるのがいちばん望ましい。でもそんなことはおそらく不可能なのだろう。ロボトミーなみの宗教的教育か、社会主義政権による大量虐殺か、強制的な人間改造の収容所送りにしか行き着かないのだろう。

 いまはカネや経済の優越ゲームが加熱し過ぎている。いろんなゆがみやひずみが噴出している。みんながカネの優越ゲームに群がることは賢明ではないのだろう。戦後の日本は社会・財界・教育界がこぞってカネの優越ゲームに特化させてきた。

 優越ゲームが加熱し過ぎると、オリンピックに勝つためにひじょうに過酷な訓練をおこなわなければならない哀れな選手と同じになる。勝つためにほかの楽しみや喜び、交遊などがいっさい断ち切られてしまう。発育をとめた東欧のあわれな体操選手のように。優越ゲームに勝つためにはあまりにも多くの犠牲が必要なのである。

 戦後の日本がカネや経済の優越ゲームで多くのものを犠牲にしなければならかったことはみなさんご存知のことだろう。われわれはこの優越ゲームへの特化と集中化を反省しなければならないわけである。満員電車のなかの小学生通勤はさすがにかわいそうに思わないだろうか。

 人間の優越ゲームというのはいろんなものが発動されてきた。知識であったり、体力や武勇であったり、コレクションであったり、異性にモテることであったり、さまざまな優越ゲームが可能である。世界経済での優越ゲームというのはあまりにも地球資源の浪費が大き過ぎる。

 要は人間同士の優劣が競われたらいいだけで、そんなに大きな道具立ては必要ないのである。たぶん、ビー玉とかおはじきで優劣ゲームが競われるのも可能なのである。未開民族の優越ゲームもそういったたわいない道具立てで可能だったからこそ、世界経済の荒波にはまきこまれなかったのだろう。

 カネと経済の優越ゲーム熱を冷ますためには、そこからおりて、ほかの優越ゲームを発動させ、評価する土壌が必要になる。無為や怠惰にもういちど、優越のしるしや賞賛の評価をあたえることができるようになれば、まったく逆のベクトルが働くようになる。

 もうサラリーマンがカッコいいという優越ゲームなんかちゃんちゃらおかしい。みんなでそのほかの優越ゲームと賞賛基準を盛り立ててゆくことが必要なのだろう。カネの優越ゲームではあまりにも人生の犠牲と浪費が大き過ぎる。やってられねェ〜よ。




       虚栄心と労働   99/12/5.

 消費にステータスや階層といったものがあるように労働のなかにもそれがある。現代の労働意欲といったものは人から認められたり、評価されたりする虚栄心や優越願望のなかにあるようである。

 人間はあらゆるものを使って優越心を満足させようとする。そのために切りのないほどモノを消費しようと、地球資源を枯渇させようと、人生の多くを労働や消費によって喪失しようとおかまいなしである。

 われわれは人から認められようと――それも狭い仲間うちでの優越心を満たすために人生の多くをついやし、人生の大半を喪失するのである。

 カネではない、われわれは優越心を満足させたいだけなのである。さげずまれたり、劣って見られることが恐いだけなのである。

 われわれは優越心や劣等感、人と比較することから自由になることがまず第一に必要なのだろう。そうすれば、過剰な消費、過剰な労働、人生の浪費といったことはなくなるのだろう。

 人と比較することに人間の悪、人間の過ちがあるようである。お隣りやだれかと勝った負けたなどと比較することから自由になることが必要である。




     死による人生の中断    99/12/4.

 われわれは死による人生の中断を、人生の計画表に入れない。いつまで生きるかわからない、いつ死んでしまうかわからないから、老後や将来の保障をどこまでものぞんでしまう。

 そして人生の逆転現象がおこってしまう。つまり将来や老後の保障のために働きつづけ、自分の時間も人生も自由も喪失してしまって、ただ老後のローンのためだけに生きるという状態になってしまう。

 メールをいただいたIさんはこういうことをいっていた。

 「いつからか、僕は長生きすることに意味を見出せなくなり、死を随分と手前へ引き寄せて考えるようになりました。そうすると、まず老後というものについて考える必要がなくなります。それから、結婚や世間一般の家庭といったものも特に考えなくなります。・・・人生が随分と軽くなりました。

  例えば、「40代で死んでも、それまでに自分なりに人生を本当に楽しむことが出来ればOKなのだ」と考えると、何十年も働く必要はなくなります。」

 そうか、そういう考え方もできるんだと虚をつかれた感じだ。死んでしまったら、人生になんの責任も義務もなくなり、生活費の捻出といった心配事からすべて解放される。逆に早くに死んでしまったら、手厚くあたためていた貯金や老後の年金といったものはなんだったのだろうか、ということになる。

 人生というのは先々に将来の不安のために準備をするより、困ったそのつど人生に対処するのがよいのかもしれない。人間なんていつ死ぬのかわからないのだから、それまでは一生懸命生きるべきであって、将来の準備ばかりに費やすのは人生の浪費になるのかもしれない。

 年金というのはよけいな将来の不安を現実のものにし過ぎてはいないだろうか。これがなければ、なかったかもしれない不安が、逆に創出されてしまったという逆転が起こってしまってはないだろうか。

 将来というのはぜんぜん見えないから、たしかに難しい。

 でも死んでしまったら、それまでの貯金や予定表はなんの意味も役割もなくなってしまうのである。わたしは漠然と将来の予定表に自分の死というスケジュールを入れないようにしてきたが、もし死を早くに組みいれるのなら、将来の積み立てといった準備は必要なくなるだろう。ただそれがいつ来るのかがまったくわからないから、たいへん難しいのだが。

 考えないようにしていた自分の死という将来を考慮に入れるべきなのかもしれない。いつか死んでしまうと思い描いた人生はやっぱり生き方も変わってくることだろう。死を間近に見た大病をわずらった人が人生を大切にするように。





     人が殺されてはじめて問題意識  99/12/3.

 人が殺されてはじめてマスコミや世論はその背景にある問題をとりあげる。今回のお受験(?)殺人にしても人が殺されてはじめて主婦たちのさまざまな問題がやっと表に噴出し出した。

 主婦たちの問題というのはいぜんからずっとあったはずである。お受験ブームや公園デビュー、孤立した子育て、幼児虐待――主婦たちのうっぷんや閉塞状態というのはそうとうたまっていた。わたしだって子どものころから近所の主婦たちの陰湿な関係とかネットワークというものにひじょうに嫌悪と憎悪を感じていた。

 そのような問題がマスコミに出るには殺人しかなかったわけである。逆にいえば、世間は人が殺されるまでは問題を封印したり、表に出して論じようとしない。人が殺されるまで深刻な問題意識がちっとも提起されないのである。

 酒鬼薔薇事件も殺人がおこるまで学校や郊外住宅に潜む深刻な問題といったものをなかなか認識しなかった。こうなれば、問題を認識させるためには殺人しかないということになってしまわないか。世間へのアピールやパフォーマンスのために人が殺されてしまったりしたら、たまらない。

 問題を議論したり、解決しようとする機能がどこか欠落している。ゆがみやひずみがあっても、みんな放ったらかしでそのままの状態でやり過ごそうとする。日常の社会関係での問題解決能力がぜんぜん育っておらず、機能していない。膿はたまってゆくいっぽうである。

 マスコミは殺人が起こるまで問題の深刻さをなかなか認識しえないし、いっぱんの人たちは社会関係での問題の解決方法をなかなかみずから生み出し得ない。商工ローンの問題にしてもマスコミにとりあげられて風向きが変わるまで、どれだけの人が自殺したり、破滅したりして悲劇に苦しんだかわからない。この空隙を埋める努力が、殺人を起こすほど追いつめられる前に、必要なのだろう。

 社会がもたなければならないはずの問題解決能力はどのようにしたら、この崩壊した地域社会において、生み出すことができるのだろうか。個人が自由にいつでも問題を発信できるはずのインターネットに、そのような機能が生まれればよいのにとわたしは考えている。




        主婦の競争と企業の競争と……    99/12/2.

 主婦たちは近所の狭い集団の中で優劣や勝ち負けを微妙に競っているわけだが、これをよくないだとか、はしたないだとか、品性がないといって責め立ててもむだだろう。

 このような人間の優劣とか勝ち負けの上にわれわれの経済はなりたっており、企業もそれを利用して大きくなる。経済というのはこういう人間の優越願望や対等願望といったものを原動力に回っている。

 主婦たちはだんなの経済力や職業、学歴、育ちといったもので競い、また子どもの学力や学歴、発達能力などで必死に競い合う。だんなは企業でほかのライバル企業や市場と競い、主婦はだんなの代わりに消費面でその優劣を披露する役割を背負っている。

 経済というのはすべて人間の競争心がビルトインされてはじめて正常に運行するというわけである。ひじょうに皮肉で、痛ましい現実であるが、人間の経済の一面の事実である。

 競争心をあおらないと経済はうまく回らないというわけだ。ちまたのどんな人も聖人君子になってしまえば、貧乏人が増えた経済と同じようにたちまち不況に陥るし、そのような経済は最終的に経済力のある他国などに支配、制圧されるのが歴史の一面のすがたでもある。

 国際競争のミニチュア版が近所の主婦たちのあいだでおこなわれているというわけだ。劣った人たちはいじめや仲間外れ、劣等感の強打という事態に見舞われる。

 われわれはどうしたら人々の競争や勝ち負けが組み込まれた経済から解放されるのだろう。社会主義は人間の競争心を破壊しようとして、当の人間自体を破壊しなければならなかった。また、経済の根本的な反省から考えるしかないのだろう。




         人生の本末転倒!状態  99/11/30.

 現在では年金に入るのは当たり前とされている。でもこれは生涯を守ってくれる心強い守護神なのか、それとも牢獄に縛りつけるくびきなのか、わからないところがある。

 年金というのは収入のないときや失業のときも、また赤字のときも一定の額を払わなければならない。また人によっては働きたくない時間や人生のある時期に空白を願う人もいるだろう。そういう人生の自由な選択を年金は奪いとってはいないだろうか。老後のために働きづめを強要してはいないだろうか。

 健康保険にしても毎月払わなければならない。よく人はタダ(あるいはタダに近い値段)で医者にかかれるというが、毎月払うことによってはじめてその資格を得られる。タダやタダ同然なんてのはウソっぱちである。毎月払えるくらいなら、病気にかかったそのときだけに医療費を払う方が安くつくのではないかと素朴に疑問に思う。

 民間の保険にしても、企業が成り立つくらいなのだから、支払い者は損をしていないかと思う。いつか起こるかもしれない恐れや不安のために月々いくら払うというのは、かなり脅え過ぎている。保険会社のためにわれわれは働いて、貢いでいるといったことになっていないだろうか。また頻発する保険金殺人も保険という制度があるために起こっているともいえないだろうか。

 年金や保険はたしかに将来の不安を軽減してくれるが、ある側面から見れば、まったく本末転倒のありかたになってしまう。年金や保険のために働き、生きているといった逆さまな論理に支配されるようになる。素朴に考えれば、まったくおかしな転倒である。

 これって住む家を与えられるうえに三食メシつきだから、犯罪というリスクを犯してムショに入りたいという人の気持ちになんとなく似ている。ムショに入れば生活は安泰である。福祉国家や社会主義、あるいは企業内福祉というのは表からも裏からも見てもほんとうにムショに似ている。

 マイホームもそもそも住むための家であるはずが、そのローンを払うためだけに働き、生きているといった逆転した人々もたくさんいる。会社だってわれわれが生活費を稼ぎ、楽しく暮らすためにあるはずが、いつの間にか会社のために生きているとしかいいようのない人たちがたくさんいる。消費者ローンにしても生活費や娯楽の足しにするつもりが、いつの間にか消費者金融のために働き、生きるしかないといった状態に追い込まれる人たちもいる。新興宗教にしても不安をとりのぞいてくれるはずだったものが、その教祖のために存在しているといった人たちもたくさんいるようだ。

 そもそも戦後の日本も豊かに暮らすつもりが、カネや会社のために生きているといった状態になってしまっている。みんなで仲良く人生の本末転倒状態に陥っている。

 人生の本末転倒状態から降りるためにはまず素朴な疑問、素朴な思いというものをもってその状態に気づくことが先決である。そしてそこから降りるためにはかなりの心機一転が必要になるようだ。保障や保険を必要とした不安自体がわれわれの敵であり、母胎であるからだ。「いつか○○になってしまうかもしれない」という不安に打ち克つことができるだろうか。あるいはべつの方策でも見つけないかぎり、人生の本末転倒は終らない。




        狭い集団の中での勝ち負け    99/11/30.

 こんにちでは小さな集団の中でみんなから承認を得ることがひじょう大事だし、仲間外れにならないこともそれに優って重要なことだ。いきおい画一化し、同調化してゆく圧力がさまざまにかかってくる。

 こういう集団の同調作用をあざやかに見せたのが、リースマンの『孤独な群集』やホワイトの『組織の中の人間』、リップマンの『世論』、ミルの『自由論』といった本だ。わたしはこれらの本の中のあちこちに自分の姿、および自分が過ごしてきた集団やグループの姿をまざまざと見せつけられた。こっけいでもあわれでもある。

 お受験に必死になる主婦のグループにもとうぜんこの圧力がかかってきたのだろう。こういう狭い集団の中ではほんのささいで微妙な違いや勝ち負けにひじょうに敏感になる。ついにはこの集団の中での勝ち負けや優劣といったものが絶対的なものになり、動かしがたい壁のように見えるようになる。

 あくまでもその集団の中だけであって、ほかとの人とのあいだでは優劣関係が変わってくること、相対的であるということが見えなくなり、またほかの価値尺度や価値観といったものも見えなくなってくる。その狭い集団内での価値観とモノサシが絶対になるわけである。そこに今回のお受験殺人の根があるのだと思う。

 狭い集団の中だけにこり固まるのはひじょうに危険である。ほかの人々の情報や状態が入らなくなってきたら、なおさら危険である。現代のわれわれはこういう狭い価値観と狭いモノサシしか持ち合わせていない。そういう世界はやっぱり苦しいし、楽しいものでもないし、おそらく多くの人が逃げ出したいと思っていることだろう。

 わたしも狭い価値観とモノサシから逃れる試みをいろいろしてきた。もともと金や権力のモノサシでエラくなんかなりたくないと思ってきたから、否定的な価値観で負けてもあまり気にならなかった。狭い集団の中だけで勝ち負け優劣にこだわるようになれば、ほかの価値モノサシで測るということが必要になるのだろう。そういうモノサシをつくるためにはほかの価値観や人々の知識を得ることが必要である。

 あくまでも勝ち負け優劣はひとつの特殊な価値観において序列づけられているということを知ることが大事である。こんなのはその根底の価値観を否定すれば、意味などない。負けても平気になれる。ほかの価値観やモノサシを知るということも助けになる。

 狭い集団の中での価値序列だけでものごとを判断してしまうというのは、こんにちの閉鎖的な集団内ではひじょうに多くならざるをえないと思うのだが、たえずほかの価値観やモノサシから情報を得るということも大事になってくるのだろう。

 人間なんて金や学歴、所属集団などの外面的な違いはあっても、ほとんど違いなんかないものである。そういった勝ち負け優劣に血まなこになることこそがあわれである。勝者もやはり敗者になることを恐れる自分たちと同じ弱い人間なのである。人間の価値序列に距離をおけるようになれば、しめたものだ。





      お受験競争と主婦の狭い世界   99/11/29.

 路傍の人間にとってはお受験が殺人までひきおこすとはとても考えられないのだが、お受験や主婦の階層競争みたいなものは壮絶なものがあるようである。

 でもこの事件はこの世代のお受験とか偏差値、学歴や育ちなどのさまざまな社会問題を含んでいるといえる。主婦の密室育児とかひじょうにせまい交友関係、そのなかの序列順位、など閉鎖的にならざるをえない地域社会や専業主婦の問題点がいっきょに集まっている。

 たぶんこういう緊密な集団やグループのなかの競争や嫉妬の関係というのはひじょうにたまらないものがあるのだろう。専業主婦は同じ子どもをもつ仲間で朝から晩までいっしょにいなければならないという窮屈な関係もあるようで、男のわたしはつねづね主婦たちの狭い世界をかわいそうだなと思ってきた。こういう集団の同調強制というのから、わたしは必死に逃げてきたし。

 主婦のお受験競争というのはなんとなくわたしにもわかる。やはりこの世代がそうであったように、わたしのおかんも子ども時分にそうとうの習いもの教室へわたしを通わせたわけだ。ピアノやらスケートやら英会話教室やら水泳教室やら、イヤミったらしいったらありゃしない。(そういえば、近所の主婦の悪口ばかりいうおかんもいやだったな)

 けっきょく、わたしの場合はほとんど身につかず、おかんもあきらめて身の程を知ったようだ。最期あたりにしぶしぶ唯一わたしの得意であった絵の教室に通わせたが、自分の好みと合わなかったようで長くはつづかなかった。習い事というのは母の見栄がだいぶ入っていて、将来のことも考慮しているのかもしれないが、しょせんは世の中を知らない主婦のことだ、めくらめっぽう撃ちみたいなものがある。

 将来のスキルを身につけるより、狭い集団のなかでの優劣順位や序列といったものがひじょうに大事になってくるのだろう。ただ勝ち負けを競いたいわけだ。現在の変動する経済状勢を考慮に入れるのなら、学歴や有利な学校に入れるよりか、経済スキルをどう身につけるかということが重要になるのだが、主婦たちはそういう世界とつながっていない。かろうじて学校選別という社会の出入り口だけでつながっている。視野がどうしても狭いのである。

 主婦と教育ワールドという、ちょっとビジネス・ワールドとズレているんではないかいという時代錯誤の空間のなかで、優劣序列だけが競われるというのは、親より先の時代を行かなければならない子どもたちにとってはひじょうに大きな損失だろう。「どのように生きたいのか、なにをすることが楽しみなのか」、そういった自己認識がなければ、経済社会を生き抜くのは難しいだろう。そういう目標や認識の自分さがしをさせないで、目の前にある学歴競争だけの優劣にとびつくのはいまや危険である。

 主婦の世界にいろいろな問題が集まっているようである。公園デビューや幼児虐待、密室育児、地域社会の崩壊、たぶんこれは団地化や郊外住宅化といった時代からはじまっていた問題なのだろう。

 経済偏重社会がもたらした問題なのだろうけど、隔絶した地域社会をどう再興するかということを考えなければならない。でもそんなことは難しいから、主婦が狭い世界だけではなく、ほかの世界につながって多様な価値観や社会の流れを知るということが大事なのかもしれない。




       世界自体には意味も価値もない   99/11/28.

 世界自体には意味も価値もない。人間がただ判断や意味づけをしているだけである。世界自体はこの世の自然や出来事、ものごとにいっさいの価値も序列も意味づけもおこなわない。あるように在り、おこるように起こるだけである。

 自分の世界において、判断や意味づけをしているのは自分自身だけである。自分が世界を区分づけ、階層づけ、細分化しているだけである。

 世界自体にはこの世でおこる出来事や物事のいっさいに意味づけも価値づけもおこなわない。なんにもない。ただ空っぽがあるだけである。

 怒りや悲しみ、悩みはすべて自分の判断からつくられたものである。世界自体にはなにもない。そしてそれらの感情に悩まされたり、苦しまされたりするのは、自分自身だけである。世界そのものにはなんの関わりもない。

 ときには意味も価値もない世界に憩うのも悪くないだろう。われわれは他人の趣味や行動のなかに無意味さや無価値さをときどき感じることがあるのだが、そのまなざしを自分に向けてみてはどうだろう。自虐的になっては元も子もないが、意味も価値もない世界は安らげるものである。裁きも、評価も、優劣も、事実もなんにもないからである。




        いつから書物はなくなる?   99/11/28.

 インターネットは革命的に産業のかたちを変えてゆくといわれている。たとえば書物はネットから送信されるようになったら、印刷所もトラック業者も卸売も小売店舗も必要なくなる。著作料だけでよい。音楽やゲームなどのソフトはとくにそうだ。代理店や不動産、銀行、郵便局なども(旧来のかたちでは)不必要になる。

 こういうヴィジョンはもっているのだが、それが現実のものになったり、旧来の産業を駆逐するようになるにはなかなかタイム・ラグがあるようだ。未知数の新しい船に乗り換えるべきなのか、それとも古い船のほうはまだまだつぶれないし、完全になくなるとは限らないから、古い船にのっていたほうがよいのか、けっこう迷うものである。(といってもわたしには度胸も技能もないから古い船で指をくわえているしかないが)

 産業はまったく変わってしまうのだろうか。そして世の中の風向きがまったく変わるのはいつのことだろうか。Eメールというかなり便利なものがあっても、みんなが郵便局から鞍替えしてしまうまでまだまだ時間がかかるだろうし、ソフトのネット送信にしてもいまようやく書物のコンビニ配送がはじまったばかりだ。可能性と現実の浸透にはまだまだ時間差がある。

 新しいボートはまだ早過ぎてだれも乗らないで沈んでしまう可能性もあるし、おおぜいの人がいっせいに新しい船にのりかえる分岐点のような時はいつやってくるのだろうか。まだパソコン自体が浸透していないからもう少し先のことになるのだろうか。

 わたしは新しい産業にのりだしてゆく勇気も知識もないが、このホームページで少々のこづかいでも稼げるような時代がきたらいいのになとたくらんでいる。たんなる趣味や嗜好で稼げるようになれば万々歳だ。そんな時代はくるのだろうか……?。




        「フツウ」人の終わり    99/11/26.

 フツウ人の将来の雲行きはどうも怪しいようだ。スペシャリストではないと生き残れない時代がやってきた。フツウ人はなんら専門的技能をもたず、社交的能力だけで企業内政治を渡ってきたわけだが、そういう技能はコンピューターにおきかえられつつある。

 竹内洋はこういう転換期をつかまえて、オタク・バッシングはじつは専門的能力にたいするフツウ人の脅威からおこったのだといっている。つまりオタクが嫌悪から重用される時代へのうねりを、深いところで恐れていたということだ。社会的勢力をもつフツウ人が最期のもてる力をふりしぼって、オタク排斥をこころみたというわけだ。

 時代はどうもフツウ人ではのりきれない。オタク熱によって新商品や新アイデアをしぼりださなければならない時代になった。今世紀の自動車や飛行機、鉄道といったものはさいしょはひじょうに奇妙なオタッキーな人たちの楽しみであり、創造であったわけだから、いま、時代はそういう草創期のオタク熱をふたたび欲しているというわけだ。

 ただフツウ人たちはなかなかこの時代の変化に対応しようとしない。フツウ人養成教育機関に子どもの夢をまだ託そうとしている。つまり規格的大量生産時代の人材養成機関たる学校コースである。フツウ人はもともとも子どもたちがもっているはずのオタク熱を削いで、欠点のない丸い人格をつくりだそうと日夜こころみている。

 わたしもやはり母親からフツウ人になるための特訓をうけた。わたしは子どものころマンガを書いていたのだが、母親から「友達と遊べ」「外に出ていけ」といつもどなられていた。いまではフツウ人にならなければいけないけど、どうもずるずると脱落してしまうという中途半端な規格外の人間になってしまった。もしオタッキーのままマンガを書きつづけていたら、金持ちになれたかも。。。とひそかに思っている。

 近代的産業が成熟してしまった現代、新しいフロンティアをつくりだすものはいままでにないものをつくりだすオタク的才能が必要である。インターネットの爆発的広がりをもたらすのもやはりオタクである。フツウ人はやはりオタクのような超人的粘着力・執着性を削がれたためにそういう力はない。

 しかしオタクであっても必ずしも成功するとは限らない。他人にはまるで理解できない趣味に興じたり、商業的にはまったく通用しないオタクの趣味もあるからだ。だからフツウ人たちはやっぱり安定堅実がいちばんとフツウ人の孫を製造すべく今日も長所も短所もない平均的人格をつくりだそうとしている。

 ただオタクであることはたいへん幸せであるかもしれない。オタク人は世間体や見栄などいっこうに気にせずに自分の楽しみを追求できる。これは世間体を恐れまくるフツウ人とはすごく対称的である。(だからこそフツウ人に嫌われたのだが)。オタクは世間体を超越しているから、自分の楽しみさえ追求できれば幸せであるというたいへん幸福な人である。

 フツウ人は人に嫌われるのが恐かったり、世間体が悪くなるのを気にするから、自分の楽しみや趣向に生きることができないので、たいへん自分らしくない一生を送ることになる。しかも見栄を飾る道具もいまでは種が尽きてしまって、会社ではリストラだ。フツウ人にはたいへんツライ時代がやってきた。





      「なんのために生きているのかわからない」  99/11/25.

 「なんのために生きているのかわからない」――4時間も5時間も残業させられて嘆く大学OBの嘆きである。いまはなおさらリストラでカットされた人員で従来の業務をこなさなければならない。若者の多くはこんな嘆きを感じていることだろう。

 これが日本のほんとうの姿である。現実の実状である。こんな言葉を吐かせる日本という国はどんなに異常なことか。そしてその歪みがぜんぜん世論にも政治にも反映されない。どこでこんなにイカレてしまって、どうしてだれも声をあげられず、必死に耐えるしかないのだろうか。

 労働者はこの国では孤立無援ということを悟らなければならない。マスコミも企業や金持ちの都合の良い意見をみんなに洗脳するだけだし、政治なんかもっとそうだろうし、労働組合とか裁判所なんてものもやっぱり権力の御用聞きである。

 この国は国家権力全体で労働者を「なんのために生きているかわからない」、「会社や国家のために生かされている」人材に囲い込もうとしているし、学校だってじつのところこういう労働者を大量生産するための下請け機関にしか過ぎないし、それを変えようとする手段も頭もすべて奪われているというわけだ。

 いったいどうやったら変えられるのだろうか。労働者の権利や人権、権力といったものはいったいどこにあるのだろうか。

 もうこうなったら怨恨を逆転させて「企業とお国のために死にますぅ〜!」と心入れ替えて自虐的に喜んで生きるか、ジョブ・ホッパーや怠け者労働者になって生活苦に苦しむしか方法はないだろう。

 現実とはキビシイ。学校で習ったような圧制とか虐待とかの歴史は教科書とか大昔に終わった出来事ではなくて、まさにわれわれの日常の生活にあるものだ。社会に出れば、こんなことはだれだって無償で、無期限に学べる。ついでに報奨金も与えられる。




         閉塞時代の文学史    99/11/24.

 現代と同じように国家目標に到達したあと、明治の閉塞状況はどのようになっていったのか。文学史から読み解いてみたい。(ただし文学史の詳細なところは勉強不足なので表面的なことだけ)

 夏目漱石の『三四郎』が卒業することになる明治44年には大卒者は二人に一人以下しか就職できない状況になっており、いまと同じ空前の就職難だ。会社の昇進ポストにしても「頭がつかへて居る」状況だった。

 漱石はそのあと『それから』や『彼岸過迄』に就職しない「高等遊民」を登場させた。石川啄木は明治43年に『時代閉塞の現状』を書いている。

 評論家の奥野健男はこのような閉塞状況にはデカダンス芸術と耽美主義文学があらわれるといっている。鬱積のはけ口は強烈な刺激に向かうというわけだ。谷崎潤一郎とか永井荷風である。

 芥川龍之介は大正五年にデビューし、昭和二年に「将来に対するぼんやりとした不安」という言葉を残して自殺するのは有名な話だ。

 破滅者とか性格破綻者、余計者の文学もこのころあらわれる。葛西善蔵や藤沢清造、広津和郎といった人たちだ(あまり聞いたことないな)。

 プロレタリア文学が大正なかごろからあらわれ、昭和五年ごろには最盛期をむかえるが、昭和七年から特高による弾圧がはじまる。しかし現代にはマルクス主義のような大きな思想が育っているだろうか。

 そして昭和十年ころから無頼派の太宰治とか坂口安吾、織田作之助とかがあらわれる。破滅とか破綻、堕落をつきすすめていった人たちである。かれらは戦後まもなくの混乱期に自殺したりする。

 現代もこういう文学史上にあらわれたような精神的経緯をたどるのだろうか。明治と昭和の国家目標到達後の閉塞状況、高等遊民の出現、金融恐慌、あるいは大震災、天皇崩御などあまりにも似た出来事が出現するので、時代はふたたびある一定の精神のパターンをたどるように思えて、不気味でならない。

 参考文献:奥野健男『日本文学史』(中公新書) 竹内洋『立身出世と日本人』(NHK人間大学)



       半年働いて、半年休む    99/11/23.

 「半年働いて、半年休む」――これは工場業務請負のNK社がアルバイト情報誌に出している広告である。

 たしかにこれは夢のような生活だ。半年も自分の自由にできる時間を得ることができるのだ。旅行好きな人や趣味とかなにか勉強したい人にはたまらないだろう。

 若い世代ならなおさらこういう生活をしたいだろうし、これを正社員でやっている人もいるらしい。半年働けば失業給付も受けられるし、自分の好きなこともできる。

 仕事は大都市圏から離れた地方の工場生産でたぶん大半はライン作業で、みんなやりたがらないからこういう甘い広告を出して人を誘っているのだろう。

 いっぱんの勤労観念からいえば、こういう働き方は受け入れられないだろう。ただし、若い人のホンネとしてはこういう働き方をしたい人も多いはずである。しかし大半の企業はみっちりと働く勤労観念をもっているから、ほかの企業からはだんだんと受け入れられなくなってゆく。

 二十代前半ではこういう働き方もできるだろうが、やはり三十とかを過ぎてきたら、だんだん働き口がなくなってゆく。工場生産ならなかなか手に職といったものがつきにくいし、いつまでもできる就労形態ではないのだろう。

 たいへんうらやましい生活であるのだけれど、将来をきっちりと計画づける人、将来の不安に負ける人にはまちがっても近寄ってはならない働き方なのだろう。

 一生こういう働き方ができるのならわたしだってやりたいが、企業というのは三十を過ぎるとどんどん門戸を閉ざしてゆく。残念ながらいまの段階では流動的な転職市場といったものはまったく育っていない。年をへるにしたがって腰を落ち着ける職場を見つけるべきである。(中高年でリストラされれば、元も子もないが。。。)




       英語メールの困惑   99/11/23.

 たまにEメールに英語でのメールが送られてくるのだが、英語力がないのでなにが書かれているのかわからない。ほとんどセールスだと思うのだが、ときになにか深刻な事情でも絡んでないかと不安になるときもある。

 一度送り主に送ってやろうかと思った。「日本人だから英語なんて読めない。日本語でメールしろ!」

 迷惑千万な話だ。国際語の放漫だ。。。 せめてセールスには相手国の言葉に翻訳するとかの配慮はもてないのだろうか。相手国の事情に無頓着でセールスなんかうまくいくのか。(英語を十年近く勉強しても身につかなかったわたしが悪いのか?)



      金持ち優先は豊かさをもたらすか   99/11/23.

 護送船団や企業社会主義をやめて競争原理を導入するのがこれから日本の生き残る道とされる。わたしも会社人間や企業主義社会を破壊するという点で、そのほかは差しおいて賛成だった。

 でもこれはリストラや中流階級の没落、失業、自己破産、ホームレスの増加などの現象を見ていると、どうも利益優先主義ではこの先悪くなる一方だという感が強くなるばかりだ。この痛みは一時的なもので金持ちが豊かになれば、ほかの国民も豊かになるといったアメリカやイギリスの先例に望みを託すことができるのか。

 おかげでアメリカは好況だということだが、株価などの表面的なことだけで、じつは国民の大半は貧困家庭に転げ落ちているというのが現状である。株高とナマ身の人間のサイフはちがう。マスコミはなぜかこういう現実を捉えない。マスコミはいまの大企業や金持ちに有利なことしか伝えないからだ。

 金持ちや企業に有利な社会がどんどんかたちづくられてゆくというわけだ。市場原理や企業の利益優先ははたして貧困者や失業者、社会荒廃や社会不安をほんとうに救えるのだろうか。目先の利益を追うだけで社会的責任を切り捨てるだけではないのか。とれるだけとって、あとはほったらかしにする畑のようなものではないのか。

 国内市場に売るところがなくなると企業家は戦争をしかけるしかないとホブソンの『帝国主義』は警告している。このまま金持ちのやりたい放題がつづき、国民の購買能力がどんどん失われてゆけば、人の命などかまわない企業家のことだ、てんで絵空事であるといえない気がする。

 たしかに競争原理は必要だし、しかしナマ身の人間はかんたんには職種替えはできないし、市場原理と保護政策の相克というのはひじょうに難しいし、どちらの意見も一面では正しいように思える。でもこれって金持ちに都合のよい考え方に洗脳されているだけなのか。

 労働者は金持ちの考え方の片棒をかつぐと自分の身を破滅にみちびく。労働者と貧乏人という身のほどをしっかりとわきまえるべきだ。マスコミも政治家もとうぜん金持ちの太鼓もちである。だまされてはいけない。むかしの人は労働者と資本家は対立するものだというしっかりとした見解をもっていたが、いまの人たちはなぜかクビを切られても仕方がないと経営者と同じ考えをもつようになっている。われわれはすっかり洗脳されている。

 わたしの頭のなかにはふたつの対立する考えが渦巻いていて(ビジネス書VS社会正義みたいなものかな……)、どっちが良いのかという解決はなかなかつかないけど、ふつうの人としてはいまの社会は人間的な道徳観とか正義観といったものが欠如していると思う。そのしっぺ返しのコストはのちのちひじょうに高くつくのは、経済学者や経営者たちの利益主義の狭い頭の中では計算できないようだ。




     金持ちのしたい放題でない社会の想像力    99/11/22.

 やっぱりこの世の中は金持ちが強い。圧倒的に強い。好況のアメリカでもリストラはいぜん盛んだということだが、先進国で脅える人たちを見ていると、金持ちの権力の圧倒的な差を思い知らされる。資本家や経営者の権力といったらいいのか。

 この世の中はそういう金持ちや経営者たちのさじ加減、ツルの一声しだいのようである。

 日本の場合ならいまのリストラ時勢に加え、人格・時間のすべてを捧げ尽くさなければならない労働者の人生もかれらの権力しだいで勝手に決められる。働く時間、生き方、自由といったものはすべて企業の権力によって決められる。

 日本の場合はとくに金持ち以外のほかの勢力・権力といったものがまるでない。だからどこまでも金持ち連中のしたい放題である。不幸なことに日本は後発開発国であったから、政治家や政府もみんな金持ち連中と結託し、かれらだけに有利な仕組みと有無を言わせない制度をつくってきた。

 だからわれわれは金持ち以外が権力をもつ社会というものを知らないし、そんな社会があるのかさえすら想像もできない。金だけが絶対的な権力と保護をもつと信じ込んでいる。

 でも金持ちだけがしたい放題の権力をもつ社会だけが人間の社会だとは限らない。宗教はそういった勢力に拮抗し、いまの社会では理解できないほどの権力をもっていたこともあるのだし、武士や軍人が権力を強くもっていた時代や国もある。いまインドネシアあたりで「海賊」なんて時代がかったものが出現しているが、こういう荒々しい力をもつ地域もあるのだ。

 やっぱりパワー・バランスが必要なのだろう、三権分立みたいな。金持ちだけがのさばる世の中ではなくて、知識層や宗教人がそれなりの権力や勢力をもって牽制したり、軍人がまたそこに介入したりする、そういった適度な権力の緊張関係がよりよい社会をかたちづくってゆくのではないか。

 金持ちや経営者だけが力のもつ社会は人々のクビはかんたんに切る、生活や家庭は保護しないドライですさんだ世の中をどうしてもつくってしまうし、社会はカネだけを崇拝する悲壮な精神を培養してしまうし、世論やマスコミだって金持ちや経済だけに都合のよい意見や考え方だけを流布するようになるだろう。

 金持ちだけがのさばるような権力は、ほかの社会勢力などによって抑制される必要がある。日本は徹底的にそういう勢力を破壊してきたのだろう。いまの金持ちだけが絶対的に権力をもつ社会しかないと思うのはやめにして、ほかの権力や勢力もある社会もあるのだと想像することも必要である。




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 つぶやき断想集 第三集

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