無銭旅行の『電波少年』にたくされた願望


                                                  99/9/14.



   以前から書きたかったのだが、TVの『電波少年』はなぜウケるのかということだが、理由を

  探し出せばけっこうむずかしいし、我田引水になりそうで二の足をふんでいたのだが、同じような

  番組も増えてきたことだし、まあ思いつく程度のことをのべてみたいと思う。いまさらながらである

  が、まあ以前はなぜか書けなかったので、そのへんはご了承のほどを。


   『電波少年』というのはご存知のとおり猿岩石とかドロンズに大陸横断のヒッチハイク旅行を

  課した笑えるドキュメンタリー番組である。いまではシベリア鉄道かスワンボードとか超能力

  生活とかの企画を(番組がふたつになって)やっている。わたしは前からけっこう好きで、「インタ

  ーナショナル編」でカストロのヒゲを切りにいったり、ロシアのジリノフスキーやダイアナのパパラ

  ッチを叩きにいったり、アンコーワットやピラミッドの補修を手伝ったりしていたころから観ていた。

  国際社会を相手によくここまでおふざけのチョー大胆不敵な企画をしたものだと、これを考え出

  した日本人の放漫さ、国際感覚の脆弱さにあきれかえったものだが、個人的にはたいへん楽し

  ませてもらった。


   若手の芸人が労働条件も身体拘束もまったくおかまいなしにテレビ出演させられるのはヒドイ

  と思いながらも笑っていたし、これはイジメの構造ではないのかと思いながらも、おもしろいので

  観つづけていた。まあこれはテレビ番組全体で若手芸能人をイジメるような企画がおもしろいの

  であって、ホンネのところでわれわれはそういったことにゲラゲラ笑っていたわけだ。これが人間

  の本性だから仕方がないじゃないかと開き直って観ていたが、最近は感覚が麻痺してしまって

  なんとも思わなくなってしまった。サクセス・ストーリーになったということもあるだろう。劣悪や劣

  位のものが王になるといった神話の構造と似ていなくもない。


   ヒッチハイク旅行によって大陸を横断するなんてことは昔なら思いもつかなかった壮大な夢だっ

  ただろう。これはやはり会社の出世の夢とかマイホーム願望とかが潰えた時代にしか思いつか

  ない企画だろう。国内にそういった夢があるのなら、まず人々は自分たちの生活や仕事に目が

  向くはずである。だけどそういった夢ははるか昔に終わっており、閉塞状況、若者の未来の生き

  かたが見えない時代になって、ヒッチハイク旅行は若者にわずかな光をさしのべたわけだ。


   なにも何日も食べるものがない無銭旅行などしなくても、国内ならアルバイトなどいくらでも

  仕事があるはずである。でも仕事にありついてもつまらない毎日の反復、会社と家の往復、

  孤独な生活、といった無味乾燥な日々がつづくのは目に見えている。そんなのなら、たとえ仕事

  や食べ物が手に入らないでも知らない国、知らない土地を渡り歩いて刺激に満ちているほうが

  おもしろいではないかと思うものだ。海外のヒッチハイク旅行の人気はやはり日常の生活のつま

  ならさにあるわけだ。


   なんらかの仕事につけば衣食住はじゅうぶんにまかなえるし、たくさんのモノや娯楽に囲まれて

  平穏無事に生きてゆくことができる。しかしこういった安定安寧な毎日はくりかえしていると、

  これほど死にそうに退屈なことはない。それに比べて無銭旅行は今日明日食うか食わざるかと

  いったぎりぎりの毎日を送っており、そんな退屈さとは無縁だ。


   過剰や飽食に飽きた人間たちには皮肉なことに戦後の人たちが必死に逃れてきた貧窮状態

  に刺激や楽しみを見出したのである。欠落や欠乏のぎりぎりのところに飽食の時代に生きる

  われわれには見えなくなっている目標や目的があるというわけだ。ほんとうに皮肉なことだが、

  われわれは戦後直後にはごろごろと転がっていたと思われる貧困や貧窮の生活のなかに

  楽しみや喜びを見出したのである。


   もちろんこれはあくまでもテレビであって、じっさいに人々がそういう貧窮に陥れられたわけで

  はないからげらげら笑って観ていられる。若者のなかにはこの『電波少年』を観て、じっさいに

  どのくらいの人がこのようなヒッチハイク旅行を試みたのだろうか。海外旅行に行く人は多いし、

  無謀な事故や事件に遭う旅行者の話もたまに聞くし、以前よくいたストリート・ミュージシャン

  なんかはテレビ番組の影響であんなに増えたと思われるので、けっこうたくさんいるのだろう。


   必ずしも実行には結びつかないかもしれないが、ヒッチハイク旅行ブームというのはこの日本

  にも「ヒッピー的状況」というものがやってきたのだという感を思わせる。豊かさの懐疑や否定が

  アメリカに20年も30年も遅れてやってきたかのようだ。ようやく日本もヒッピーの気持ちがわかる

  社会状況になったということだ。ただし日本にはそこまで度胸のある若者はそんなに多くないだ

  ろうし、一国だけでそのようなムーヴメントをつくりだすような力はない。日本の若者にできること

  はせいぜい登校拒否かひきこもりとよばれるアパシー、あるいはフリーターと(ホームレスも含ま

  れるか)といった消極的・脱落的なスピンアウト程度のものである。


   じめじめしていて、いかにも湿潤系のドロップアウトであるが、ご先祖さまに「うらめしや〜」の

  幽霊がいるとおり、けっこうコワイものである。底抜けしてしまうような、海の底から足をひっぱら

  れるような恐ろしさがある。明確に否や反抗をつきつけないが、理由や意味もなく、精神的空洞

  化・崩壊化がじわじわとやってきそうで、よけい始末が悪い。日本的和の社会、やさしさと思いや

  りの社会は不満や批判を処理できず、内部腐蝕が進行するのみである。不満や反抗を表から

  なくしてしまっても、内攻してしまうのでは解決にはまったくならない。


   さて『電波少年』のヒッチハイク旅行者たちは日本に帰ってきてからはあまりパッとしない。

  「一発屋」とまでよばれている。かれらは芸によって人気者になったわけではないから、当然

  なのかもしれない。これを日本の会社と一般の旅行者にたとえるのなら、日本の現状を象徴

  しているかのようだ。海外で放浪したりしたときには輝いていたのかもしれないが、日本に帰っ

  てきてもてんでパッとしない。これは若者にとってはほんとうにツマンナイ国だということだ。

  あるいはその若者自体がつまらないのかもしれない。


   若者たちはこの状況をどう突き抜けるだろうか。海外旅行がさかんになるということは世界の

  さまざまな生活様式や知恵に触れるということであり、若者はその知恵をひっさげて日本の

  生活を変えてゆくかもしれない。一昔前はとくに女性であるが、旅行に行けばブランドばかり

  買いあさったり、観光地ばかりに向かったわけだが、これでは世界の知恵や生活は身につか

  ない。ヒッチハイク旅行は消費以外のなにかの価値観を見つけてくるかもしれない。


   無銭旅行は人間の原点に帰る旅でもある。食べたり、働いたり、寝たりすることのひじょうに

  素朴で単純な人の営みを思い知らせるものである。そういう生活ではなぜ定着的で豪勢なマイ

  ホームが必要なのか、なぜ何枚も着飾るファッションが必要なのか、なぜ何十年も先の貯金の

  ためにまで働かなければならないのかといった原初的な懐疑をもたらしてくれるものだと思う。

  モノ的には豊かになったわれわれはそういった根本的なことをもう一度考えてみなければなら

  ないのだろう。そうしないとやりたいこともほしいことも何も見えてこない。豊かさというのはそう

  いう根本的な欲望すら見えなくさせてしまうものである。


   さてわれわれはこの先、なにを求め、なにを得るべきなのだろうか。会社や消費の夢にさしたる

  展望がのぞめなくなった現在、なにに楽しみを見出すべきなのだろうか。


   猿岩石やドロンズは豊かな消費社会から身ぐるみ剥がされてハダカのまま、未知の大陸に

  放り出された。かれらはなにもない状態、一からはじめなければならなかった。それはまさに

  現代の若者の心理状態そのものでもある。そしてそこで働いたり、現地の人に助けてもらったり、

  自分たちの芸で身をたてたりと、ときには何日も食べ物がなかったりと裸一貫で生きて食べる

  ことを学んでいったわけだ。ある意味では背水の陣をしいたベンチャー的な生きかたである。


   豊かな社会でまったく見えなくなった生きること、食べること、働くことの根本的な営みを

  裸の状態で垣間見たわけである。この社会ではホント、そういった基本的なことが見えない。

  学校行って会社行って働いてもくもくもく……といったふうにいつのまにか人生を流していて、

  流されるまま生きてゆかざるを得ない。無銭旅行はそういったオブラートに包みこまれた生活

  から、そのまゆをひきはがしたわけである。


   われわれはこの旅からこれからの生きかたを学べただろうか。あるいは見つけられずにアウ

  トローや漂泊者としてさまよいつづけるしかないのだろうか。日本の社会は90年代に入って、

  漂流しはじめ、そして漂泊の終点はいまだどこにも見出せないようである。会社という定住地

  から放り出された人はどんどん増え、漂泊をはじめる・はじめざるを得ない人は増えてゆく一方

  である。猿岩石やドロンズはこういった漂流者たちの先陣を切ったわけである。漂流者たちは

  この社会に新しい知恵や財宝をもたらすだろうか、それともただ漂いつづけ、どこまでも流されて

  ゆくだけだろうか。われわれの漂泊はまだ終らない。








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