受験学力と大衆の教養軽視


                                                 1999/9/11.



   この国ではひじょうに残念というか、腹立たしいというか、学問とか教養の価値はそれほど

  重んじられていない。学歴で必要なのは卒業証書なのであり、学問や教養の有無ではない。

  だから学問や教養を身につけるために学校に入ったわけではないから、学生は在学中にほと

  んど勉強しない。(すべての人にはあてはまらないが、一般論として)


   こんなウソの仕組みをいつまでつづけるつもりなのだろう? 学生たちはそれ自体に価値を

  みとめない学問知識の暗記に青少年の大半をついやし、教師たちは子どもたちの頭にパンチ・

  カードを押すだけのような作業をくりかえし、世間の大人たちはなぜ子どもたちは勉強しないのだ

  ろうかと頭を抱え、そして大人たちは教養にぜんぜん価値を認めず、酒やゴルフなどの大衆的

  享楽に身をやつして平気でいる。


   学問的・教養的価値というのはこの社会ではほとんど称賛も賛美もされない。そんな社会な

  のに形だけの学問や教養が子どもの頭にプリント・アウトされ、それによって将来の職業や待遇

  が決まるとされている。学問や教養が実社会ではほとんど評価もされないのに形だけの競争が

  くりひろげられている。


   学問や教養には用がないのだ。選択の機会だけを利用しているに過ぎない。学問や教養に

  純粋な期待をもっている学生や教師には腹立たしいことだが、産業界や社会が学歴を就職の

  選択基準にしてしまっているから、無益な形式競争に走らざるを得ないというわけだ。


   この社会は学歴と職務遂行能力には歴然とした比例があるのかと問うたことがあるのだろうか。

  ランドール・コリンズというアメリカの研究者はあまり関係がないといったそうだが、日本の社会

  や企業はこのことを不問に付したまま、高学歴者を優先的に採用してきたようである。キャッチ・

  アップや協調的経営、平等主義、官僚的体制といった時代の要請に合致していたからだろうか。

  つまり忍耐深く、従順で、記憶力抜群で、規律正しいタイプの人間は受験によって選別できたと

  いうことだ。しかしこれからの成果主義や実力主義の世の中にはどれだけ通用するだろうか。


   学問や教養にはほとんど価値をおかない社会だから、社会のほとんどの人は教養と能力の

  関係を信じてこなかったのだろう。それでも学歴主義がつづいていたのは従順タイプの再生産

  に好都合だったことと、すでに社会的地位を得ている高学歴者たちの自己保身や継続にも有利

  だったからかもしれない。学歴主義の仕組みと階層ができあがってしまっているから、これを壊し

  たくないということだ。


   それにしてもこの社会は驚くほど学問や教養に価値や称賛をもとめない。哲学や思想はほと

  んどの人に顧みられないし、文学や歴史研究、芸術などの価値を認める人はほんの一部に

  過ぎない。高級文化といったものはほとんど評価されないし、多くの人の称賛を受けることもない。


   マンガやロック・ミュージック、映画、テレビ、ファッション、スポーツやギャンブルなどの大衆的

  娯楽と享楽に身をやつしていてもみんな平気だし、恥ずかしいだとか、劣っているとかの感覚も

  ほとんどもたない。これが当たり前であり、「みんな」が享受しているものだから、ちっとも引け目

  も劣等感も感じない。そもそも高級文化が高級であり、称賛されるなにものかであるという意識

  はふつうの人たちの中にはまったくない。こういった大衆社会において近代的な学問による学歴

  主義が病的に加熱しているなんて信じられないくらいだ。学問にたいする情熱が空洞化してゆく

  のはとうぜんともいえる。


   平等な大衆消費文化がみごとに花開いたわけだ。学歴エリートもだいたいはこの消費文化の

  なかに吸収されて、ヨーロッパにあるようなエリート階級文化といったものをかたちづくらなかった。

  まあほとんどの人が中流意識をもつというおめでたい平等社会ができたのだし、階級文化による

  格差や差別が露骨にない社会よりよほどましというものである。


   ただそれゆえにか残念なことに大衆消費文化というのはほとんど受動的なものばかりである。

  みずから創造しよう、探求しようといった気概をまるでもたない。教養への軽視はこんなところに

  あるのだろうか。あくまでも受け身や享受する側にまわるといった消極性ゆえに大衆文化は、

  あまり褒められるべきものではない。みずからつくったわけでも、みずから考え出したわけでも

  ないものに身をゆだね、それを自分のモノや自慢のように見なすのは情けないかぎりだ。


   これはキャッチアップの時代であったという理由も強いのだろう。ヴィクトリア朝や第二次世界

  大戦前にできあがった概念や商品を大衆化するのがこれまでの時代であったから、大衆は

  受け身的文化に身をやつすことができた。学問や教養はそんなに必要ないし、創造する喜び

  や探究心より、娯楽を享受するほうが魅力的ではあったのだろう。テレビやマンガ、ラジオ、車

  はつくる苦しみより享受する楽しみのほうが大きいということだ。商品や企業組織ができあがった

  なかで与えられる楽しみとしくみに従事しなければならなかった時代だったわけである。こういっ

  た時代には教養や学問は探求されるための道具や手段ではなく、飾りやパスポートのような

  役割を果たすのみだったわけだ。


   いままで根本的な変革を必要としなかったということだ。過去の遺産で食いつなげてきたから、

  われわれは受動的娯楽のみに浴することができたというわけだ。あるいは大衆社会というのは

  そもそも大多数が享受者で、創造者はほんのわずかしか必要ないのかもしれない。


   これから変革と変化が必要な時代に創造的な人間が必要だといわれるが、創造的な人間と

  いうのはいつの時代も少数しか必要ないのかもしれない。大多数の人間に必要なのは娯楽を

  享受することと従順に反復作業や単純作業をくりかえすことではないのか。あまり独創や創造

  が必要な時代だといわれても、現実とのギャップは拡大するのみだろう。少数の者が独創的で

  あったらよいのだ。


   創造者を評価する風土があるのならたしかに独創的な創造者は生まれやすいだろう。しかし

  現実に求められるのは従順さであり、規律であり、過去の遵守なのではないだろうか。そういっ

  たタイプの人たちは大衆文化の受動的享受を好み、教養や創造力をさして評価しないというわ

  けである。どちらかといえば、いまの社会はそういった人たちのほうが大多数なのではないか。

  社会は過去の反復を求めており、べつだん創造力を必要とはしていないということだ。


   教養や学問を評価しない社会というのはほんとうのところ人々にそれらを期待していないので

  ある。大衆的娯楽を享受しておればいいのだ。創造者や変革者であるよりは、享受者であれば

  いい。そういった社会的要請が大衆的娯楽を支えており、教養のなさに羞恥を感じない社会を

  かたちづくっているというわけだ。大衆的娯楽の「お客さん」であればいいのであり、まちがっても

  その社会に震動をもたらすような教養は身につけてほしくないというわけである。これが大人や

  若者がたいして本を読まないでマンガを平気に読む社会の現実の姿ではないだろうか。


   マンガやロック、テレビが教養や知能をもたらさないという意見には必ずしも与しないが、批判

  力や洞察力はやはり欠けているだろうし、どうしても現状維持イデオロギーであることは否めない。

  受動的なお客さんでよいわけである。社会はこういったお客さんを大量に欲している。


   こういった社会のなかで、学問や教養を身につけさせる教育によって選別がおこなわれている。

  いっそマンガやテレビの知識量や娯楽量によって選別したほうがいまの時代に適しているので

  はないかと思わないでもないが、そのほうが時代の適応性や感性がよく測れると思うのだが、

  前時代的な学問教育はつづいている。多くの人が日常の中で価値も評価もしない学問教養に

  よって学歴選別されているわけだが、これは時代錯誤なのだろうか。学問や教養が役に立ったり、

  身についておおいに得をしたということはない世の中であいかわらず学問は教えられている。

  学校教育で教えられるものはもう古すぎるかのもしもれない。


   学問や教養が評価も称賛もされない社会で、それが十数年も教え込まれ、学歴や職業の選別

  基準にもちいられる。なんだかヘンだし、ひじょうにムダなことのように思える。アスファルトに舗装

  された道路に馬が走っているような気がしないわけではもない。


   まあかなり混乱した文章になってしまったし、わたしのなかでもなにをいいたいのかもよく整理

  されていないのだが、学問と一般的な教養のギャップについて疑問に思うことを吐露してみた。


   教養の価値の低さと一般大衆が必要としている知識や娯楽にはあまりにもギャップがあり過ぎる

  のは疑問に思うが、これは大衆がレベルダウンしているからなのか、それとも社会はもうかつての

  学問や教養をそんなに必要としていないということなのだろうか。






  参考文献

    苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ 学歴主義と平等神話の戦後史』 中公新書
    中島梓『ベストセラーの構造』 ちくま文庫

  リンク
    「学歴とアイデンティティー」 富山大学の学生さんの卒論。
    「第一章 日本の学歴社会をめぐるいくつかの論争」はおもしろい。


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