学校教育とはなんだったのだろうか……


                                                1999/9/8.



    社会に出て約10年、職業生活に不遇な毎日を送っているわたしとしてはたびたび疑問に

   思わざるを得ない、学校教育とはいったいなんだったのだろうかと。わたしが受けてきた学校

   教育ははたしてわれわれが社会を渡ってゆくために必要な知識や技能をちゃんと身につけさ

   せてくれたのだろうか、いったい学校とか勉強というものはいったいなんだったのだろうかと

   素朴に疑問に思う。


    いま切実に思うのは学校というのは社会に出てから生きてゆくためのスキルや技能を身に

   つけさせる期間であってほしかったということだ。社会とはどういうところで、職業にはどのような

   ことが求められ、また生きてゆくためにはどのようなスキルが必要なのか、そういったことを

   教えてほしかった。


    しかし学校で学ぶのは実社会ではたいして役に立たない科目が多い。算数、国語、理科、

   社会、英語。実社会から見れば、こんな学問は霞を食べて生きてゆくようなものだ。基礎的な

   学力は必要にしても実社会ではこんな学問はほとんど役に立たない。


    たしかにこの世は学歴社会である。高い学歴が就職に有利なのは一般常識である。でも

   実社会にほとんど役に立たない科目で、就職採用の選択基準にされるというのはいったいなん

   なのだろうか。たしかに学問で優秀だった者はほかのことでも秀でている可能性もあるが、

   じっさいの職業というのはペーパーテストのように問題や答えが明確にあるわけではないし、

   複数の場合もあるだろうし、けっして答えがもとめられないということもありうるだろう。畳の上の

   水練では世の中を渡ってゆけない。


    まあこの学問成績と職務遂行能力との違いというのはだれでも気づいていて、だからほんとう

   の意味での学問をもとめないのがこの社会のすっかり定着した慣習だ。学生たちが勉強しない

   のは学業成績がけっして実業界と結びつかないのを知っているからだ。日本社会の学校と産業

   界はこの断絶を知りながら、二枚舌のウソっぱち社会をつづけている。学生がほしいのは卒業

   証明であり、学業の成績でも学問の知識でもない。産業界がそれだけを求めているのはいうま

   でもないことだ。


    このウソっぱちの二重構造というのは残念というか、哀しい。学問探究の価値をまったく軽ん

   じているからだ。学校というのは学問探究の価値を伝達する場所ではないのか。しかし実社会

   では学問ではメシを食ってけないし、職業になんら有利な価値を付与しない。だから産業界は

   成績判別という機会だけを利用して、学生たちを選り分ける。学校界と産業界がまったく違う

   価値観で依りたっていることをこの社会は覆い隠そうとしているかのようだ。ダブル・スタンダード

   (二重標準)というやつか。


    学歴で社会的上昇が見込めるという大衆的憧憬をビルト・インするために世の中の人がよって

   たかって無益な知的饗宴をくりひろげているようなものだ。産業界のウソっぽい学歴ドリームの

   ために無益な学問知識は選別の機会として利用されているだけのことだ。産業界にとって学問

   の価値なんてこれっぽっちもない。学生に詰め込められた学問知識なんて新入社員のみそぎ

   研修によってすべてゼロにされるのがオチだ。


    学校教育というのはわがままになった労働者にほんのわずかな夢を青少年に見させるため

   の猶予期間のようなものだ。ふところがちょっとばかし豊かになった労働者はわがままばかり

   いいよる、しゃーないか、学問で自由とか平等とか機会均等とかそんな夢を見させてやろーや

   ないか、ウマににんじんってやつか、といった具合だ。まじめに働いてくれるならどいつでもいい

   が、学歴が高いものは忍耐と勤勉力と従順さがあるからなおさら産業界にはケッコーなことだ

   というしだいである。


    学校教育は学問の価値を過大評価して教え込むが、産業界にはどうでもいいことだ。こういう

   タテマエとホンネのダブル・スタンダード社会というのは、欺瞞とウソっぱちだらけである。

   学問自体に価値があるのではなく、よい学校に入ったかどうかだけが重要な選択基準になる

   わけである。それ自体になんの価値もない学問を習得するということは無益な苦痛以外のなに

   ものでもない。


    この社会は巨大なウソの二重構造社会をかたちづくっているわけである。学歴で高い収入

   高い地位が得られるとカンバンを立てる社会は、それ自体になんの価値もない学問によって

   競争させるというわけである。学歴に夢を与えた社会は産業に教育という巨大なコストをかけ、

   また親たちにも多大なコストと負担をかける。子どもたちもそれ以上の苦痛と負担を味わって

   いることはいうまでもない。社会は学歴上昇という夢を与えるために多大な負担と多大な廻り道、

   本人に苦痛と苦悩を与えなければならなくなってしまったわけである。


    実社会にぜんぜん役立たない学問を極めたものがエライという常識になったのはなぜなの

   だろうか。職業高校より普通高校、専門学校より大学、というように実利的な学問よりそうで

   ないほうがもてはやされる。学校というのは職業を忌避する運動でなりたっているようである。

   そして産業界にはずぶのシロウトとして教育され、こんにちではひじょうに問題になる市場価値

   のないエリートの大量生産とあいなる。これから必要な個人で実社会を渡ってゆく産業スキル

   がまったく形成されないというわけだ。


    こういう二枚舌社会は市場原理が盛んになるいわれているこれからを生きるにはひじょうに

   問題である。教育の理想と産業界の必要がてんで噛み合っていない。教育は実利的なもの

   からますますかけ離れ、産業界ではこれまでの庇護と保護の社会をやめ、自己責任で生きて

   ゆけといっている。えっ? そんな殺生な! 実社会で役に立たない知識を詰め込んできたの

   は学校ではないか。いまさらどうやって変身できるというのか。


    ということで新しい時代の波にそぐわなくなった学校教育とはいったいなんだったのだろうか

   と思わざるを得ないというわけだ。自分のなかには実社会を渡ってゆく知識・スキルが明らかに

   不足している。市場や産業のなかで生きてゆくスキルというのはどのようにすれば身につくの

   だろうか。商売の才能や才覚といったものはペーパーの知識でどれだけ伝達できるというのだ

   ろうか。


    学歴社会というのは大幅な変革が求められているのだと思う。もっと実社会や産業の知識

   や価値がホンネのところで教えられる必要があるのだと思う。タテマエではどうしても実社会

   からかけ離れた知識の詰め込み競争に転嫁してしまい勝ちだが、個人にも市場価値が求め

   られる社会にこのような教育で社会を渡っていけるというのだろうか。学校にも会社にも頼れ

   ないとなったらみずからスキルと知識を磨いてゆくしかないのだろうか。


    産業社会で生きてゆくスキルが早くから教えられるのなら、選別基準として学問が利用され

   なくなり、学問探究それ自体の価値はほんらいの意味をとりもどすことだろう。卒業証書ほしさ

   にまったく勉強する気のない学生が入学しなくてよいよう企業は選別能力を鍛え直す必要が

   あるのだろう。


    学歴社会というのは巨大なウソのダブル・スタンダード構造でなりたっている。学生たちは

   いつか巣立つことになる産業社会にとってぜんぜん役に立たない学問で競争と選別をおこな

   わざるを得なくなっている。こういう欺瞞と乖離がおこなわれるようになったのは、学歴による

   社会的上昇という神話があったからだろう。しかしこれからは神話のメッキを剥がしてゆかない

   ことには産業の発展はありえないだろうし、個々人の無駄な勉強は終らないし、将来、路頭に

   迷う心配は立ち去らないというものである。






   参考になる本

    苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ 学歴主義と平等神話の戦後史』 中公新書
    学歴差がひきおこす不平等には敏感だが、学歴取得以前の不平等には目をむけない社会。


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