わたし自身の中の『ハマータウンの野郎ども』


                                                 1999/8/31.

   『ハマータウンの野郎ども』 ウィリス ちくま学芸文庫 


    ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)は、学校に反抗的な少年たち

   がいかに労働階級の仕事についてゆくか、なぜ自ら労働階級を再生産してしまうことになるか

   ということを考察した本である。かれらは労働を無意味なものと見なし、労働への奉仕を極小化

   するために男らしいと見なされる手仕事についてゆくとされている。


    「現代の庶民の労働はすべてくすんだ灰色をしており、とくにどの職種で働こうと思い悩む必要

   はない、野郎どもはこころの奥底でそう見ぬいている。……労働それ自体に特別の意味や満足

   感を追い求めようとやっきになって努力するのとは別の方向を、反学校の文化はさまざまなかた

   ちで少年たちに指し示すのだ」

    「満足を得る前提としての労働にたいする自我の全的投入が、そもそも拒絶されるのである。

   労働と労働そのものへの期待感とは、ともに枠にはめられ、制限され、あたうかぎり極小化さ

   れる」

    「精神労働は貪欲にひとの能力を食いつくそうとする。精神労働は、まさに学校がそうである

   ように、ひとのこころの侵されたくない内奥へ、ますますいとおしく思われる私的な領分へ、遠慮

   なく入りこんでくる。……精神労働への抵抗が権威への抵抗と結びつくことは、少年たちが

   学校的な価値に反撥する過程で学びとったことなのである」

    「「現場で働くこと」や、この社会でからだを動かす側にまわることや、ある独特のやりかたで

   労働力を提供することは、たんに自己防衛のための消極的な選択ではない。それはむしろ、

   少年たちが学校で身をもって会得したものを積極的に肯定する行為である」


    おお、これはまさしく働き過ぎを嫌ったわたしが選びとってきた生きかたと同じではないかと

   思った。イギリスの労働階級の文化と同じ考えをしているなんて思いもよらなかった。そして

   その先に示される将来は現在のわたしがつきあたっている壁と同じものであることを知った。


    「だが、そう遠くない日に幻滅がおとずれると予測してもまちがいないだろう。反学校の文化も

   その一支脈である労働階級の文化は、一般に勝者の誇りに満ちあふれた文化ではないのだ。

   それは元来、妥協と開き直りの産物である。厳しくとげとげしい生活条件のなかで、なんとか

   最善を得ようとする工夫の産物である」

    「ゆるぎない自信に満ちあふれたこの一時期が、彼らのその後の長い人生を不利な方向に

   定める重大な選別の時期にあたっていること、まさしくこの事実に、労働階級の文化の、また

   社会の再生産メカニズムの、大いなる逆説が宿されている」

    「野郎どものいずれ味わう幻滅がどれほど苦いものであろうと、ひとたび選択し終えた労働者

   の人生はいかなる意味でもやり直しはきかない。職場文化の見習工時代がひととおり終わる

   ころ、すなわち、不快な環境で他者の利益のために骨身を削る生産労働の実情がよりくっきり

   見えてくるころ、かつて学校がそう見えたように、職場は監獄の観を呈しはじめる」


    反学校の立場はこのような終末に行き着かざるを得ないのだろうか。社会的上昇や精神労働

   にしか人間の楽しみや喜びはなく、そこにしか労働階級の救いはないというのは疑問である。

   労働階級の洞察や戦略はまったく失敗なのだろうか。たとえそうだとしても、労働や社会的上昇

   の意味なんてものは現代ではとうてい見つけにくいのだから、ほかの選択肢はありうるというの

   だろうか。


    日本の場合にはこのような労働階級の文化といったものはない。かつて一億総中流意識と

   よばれるまで社会的上昇や中流意識が信じられ、ほとんどの人たちが学歴と上昇という夢を

   やみくもに追い求めた。イギリス労働階級のように反労働の対抗精神を吸収するよりどころが

   ひとつもなく、だれしもが学歴と出世競争へとのみこまれていった。この異常さをだれもが問題

   に思っているし、その苦痛をも味わっているはずなのだが、だれもこの競争から降りられない。


    社会の表向きのイデオロギーに反抗的な文化や集団がほとんど皆無だからだろう。そういった

   意味では将来が閉ざされたり位階秩序に閉じこめられているにせよ、イギリス労働階級文化の

   存在はあなどれないだろう。少なくとも個人の能力不足や劣等感に帰着されない自負をかれら

   はもつことができるからだ。


    反学校の文化は学校のイデオロギーに懐疑をもっている。

    「……しかも、そうやって手に入るもの自体がまた、はなはだ意味に乏しいものであったとした

   ら! 対抗文化の価値観に照らせば、成績証明がもたらすものは掛け値なしの祝福ばかりとは

   かぎらないのである」

    「よりよい機会が教育によって創出されるということも、社会的上昇移動は基本的に当人の

   努力しだいであるということも、また、学校時代の成績がよければそれだけ将来の可能性が

   開けるということも、もとを正せば根拠のない一片の教育神話なのだ」

    「成績証明がその持ち主にふさわしい質の労働機会をもたらすという観念がもともと虚構に

   近いものだといえるだろう。産業労働の大部分は基本的に無意味だと野郎どもは考えている。

   現代のあらゆる形態の労働はすべて同質で選ぶところはないとする認識において、さらに、にも

   かかわらず公認のイデオロギーに同調して職務を生きがいとすることのむなしさを知る点におい

   て、ここでも少年たちの洞察はおおむね的を射ているのである」

    「全員が成功するわけではないという矛盾はけっして明らかにされないし、優等生のための

   処方箋を劣等生が懸命にこなそうとしても無効であるかもしれないことについては、学校は

   おし黙っている」

    「反学校の文化は少年たちの肩から順応への圧力と能力主義の重荷を取り除く」


    学歴社会というのは巨大な砂上の楼閣である。努力すれば報われる、成績がよければ社会的

   上昇がみこまれるといわれても必ずしもすべての人がその恩恵にあずかれるわけではないし、

   その先にある労働の無意味さや日常生活の荒涼さも考慮に入れられているわけではない。

   目の前の競争にはとりあえず熱心になるが、その先にあるものがはたしてすばらしく、だれに

   とっても切望するなにかであるとはとても思えないのである。われわれはどこまでもつづく砂漠

   のなかで夢想的な競争に魅せられているだけかもしれない。


    ハマータウンの野郎どもはこういう競争からさっと身をかわすことによって、そして一般的な

   価値ヒエラルキーを転倒させることによって、みずからの自由と自負を手に入れ、そしてそれは

   労働階級の再生産へと導かれることになるとこの著者は分析している。


    日本ではこういった対抗文化は育たず、だれもが社会的上昇の夢を見て、学歴競争と

   ワーカーホリックの病理はとどまるところを知らない。学校への反抗はすさまじいものがあるの

   だが、大人文化のなかにはそういう反抗の芽がまるでない。それがこの社会を生きにくくさせ、

   多様で自由な生を拒む要因になっているのだが、かつての反抗的な少年たちはどこに消えて

   しまったのだろうか。


    ハマータウンのように反学校の文化と労働階級の文化がつながっているとしたのなら、

   日本でも反学校の文化はりっぱにあるのだから、その先のつながりはどこに吸収されてしまっ

   たのだろうか。一億総中流意識というステレオタイプ像がそういった文化的結集をさまたげて

   ているのかもしれない。日本の場合、かれらは劣者や落ちこぼれという意識が強くて、表向き

   のイデオロギーを転倒させる自負や優越心をまるでもてないのだろうか。


    中学校時代の反学校の文化というのはほんとうにすさまじかった。わたしは80年代はじめの

   校内暴力が吹き荒れる時代に中学生として過ごしたのだが、勉強せずに教師とのケンカや

   もめごとに明け暮れる毎日がつづいたものだった。そういった不良学生は反体制のような文化

   をもっていたはずなのだが、かれらはこの職業社会のなかにどのように消えていったのだろうか。


    中学校というのは生徒同士が暴力的に階層社会をかたちづくる最初の社会であることを

   思い知らされた。一部の不良学生たちがわがもの顔で授業妨害や逸脱行為をくり返し、

   ほかの生徒たちはおとなしくじっと耐えながら、かれらのやり放題にビビリながら過ごすよう

   なところだった。かれらはハマータウンの野郎どもと同じように一時の優越感とともにこの

   社会での劣位とされる仕事のなかに消えていったのだろうか。


    ちなみにわたしは不良学生たちのように荒れることはなかったが、もちろん学校の教師や校則

   にいい思いをしなかったし、成績はホント悪かった。数学とか理科が決まって14点とか18点とか

   の低い点数をとっていた。マンガを書いたり、音楽ばかり聴いたり、SF映画ばかり観ていて、

   勉強したり就職したりすることへの目的意識をてんでもっていなかった。職業観もまるでなかった。

   こんななかでわたしは反学校や反労働への意識をなぜか培っていった。いつの間にかイギリス

   の労働階級のような労働観を身につけていたというわけだ。


    勉強することや学歴を得ることになんの意味があったのかとこの社会に出てみてあらためて

   思う。職業に過剰に没入したり上昇志向を否定してきたわたしには、学歴を得ることの意味が

   てんでなかったのだ。はじめからこういう方向をはっきりと意識していれば、よけいな勉強や

   ムダな時間を費やすにすんだかもしれない。ヘンな上昇志向や職業貴賎なんかに惑わされず

   にすんだかもしれない。


    わたしの中にはふたつの矛盾した考えがせめぎ合っている。落ちこぼれたり、劣等と思われる

   社会的ポジションにつきたくないという思いと、働き過ぎや出世競争に呑み込まれるだけの

   人生を送りたくないという思いだ。一方を避ければ、一方の極に傾いてしまうという居心地の

   悪さをたえず感じている。決着はおそらく低いポジションに甘んじながら、そこに価値や意味を

   見出してゆこうという方向に落ち着くことになるのかもしれない。労働の無意味さは払拭される

   ようには思えないし、労働に生きがいを求めて過剰に働いたり競争したりする方向はとても

   わたしの性分ではないと思うからだ。ハマータウンの野郎どもと同じである。


    階級観とか世間での序列順位というのはひじょうにあやふやである。絶対的に堅牢にあると

   いう見方と、はたしてそんなものが正確に序列づけられるのかという見方がある。学歴競争や

   学校教育というのは前者の立場をとっており、たいていの人はそんな社会観を信じながら

   勉学に励むわけだが、個々人の幸福の感じ方や適性や性格というのは十人十色であり、

   はたしてこのようなステレオタイプ的な社会観で人の生きかたを律するなんてことはできるもの

   なのだろうか疑問に思う。みんながみんな社長や大金持ちになるだけが人生の目的とは思って

   いないだろうし、世間的に劣位とされる仕事に適性や人格の合致を感じる人もいるだろう。

   自分に合った生きかたをするさいに学校や世間が序列づける価値観といったものがいちばん

   の妨害になっているような気がする。


    ホール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』では反権威の立場が劣位な労働階級の

   再生産をおこなってしまうと悲観的な見方をとっているのだが、われわれにできる抵抗という

   のは、たいがいその程度くらいのことしかない。自分を企業や産業の論理や介入から守る

   すべはそのくらいのことにしか見出せない。とにかく自分を守るしかないのである。世間的な

   価値序列から脱落してゆく以外、産業社会から身を守るすべはどこにあるというのだろうか。


    社会的に不利な労働階級の再生産をおこなってしまうという問題点はあるにせよ、日本にも

   このような対抗文化の精神集団があればいいのになと思う。表向きのイデオロギーを転倒した

   価値観に優越心や自負をもつ集団があれば、競争・上昇一辺倒の社会から身を守る心のより

   どころを見つけられるというものである。そういう正直な人たちがいてこそ、社会はその自由さや

   生きやすさを醸し出すというものである。

    


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