豊かさとは、働かなくてよいことではないのか


                                                1999/7/26.




    豊かさとは、働かないでよい暮らしを手に入れることではなかったのか。しかしわれわれの

   社会ではどうも違うらしいようだ。年々忙しくなり、ますます働いてばかりいて、しまいには過労

   死だ。働き過ぎをやめようとしたら、みんなが怒り出して一人前ではないとか人間ではないとか

   ふまじめだとかいって、白い目で見る。まるで戦時中の「非国民」と同じあつかいだ。


    働き過ぎがひとつの至上命令になってしまっている。働きつづけることが人間の義務であり、

   責任であり、生涯であるようだ。では、なんのために働くのか。目的も目標もない。意味や価値

   なんてものもない。ただ働かなければならないから、働かなければならないのだ。思考停止に

   陥った日本人にはもはや目的地も意味も理由もない。戦争拡大に陥ったあのときと同じように。


    成熟したヨーロッパ人やアメリカ人には働いて金が貯まったら、ヴァカンスや休暇を楽しんだり、

   引退して人生を楽しもうという大人の生き方がある。しかし日本人はそれがないばかりか、

   そういった生き方を白い目で見る。ただ働きつづけることが、宗教的使命や社会的徳といった

   崇高な目的のない風土の社会において、強制されつづけている。


    豊かさをただ金をたくさん貯めることやモノをたくさんかき集めることだと日本人は勘違いした

   ようだ。これでは切りがないし、いつまでたっても満足感もないし、働き過ぎがやめられない。

   そもそも目的がイカレている。人間の幸福をこんなことに設定したら(個人の幸福ではなく、

   国家権力の拡大だった?)、いつまでも目的は達成されないし、幸福感はまるで味わえないし、

   働き過ぎはいつまでたってもやめられない。


    豊かさの目標を見失った日本人はいま踊り場に立たされている。いや、もっとずっと前、10年

   や20年も前にこういった問題につきあたったはずである。金をたくさん貯めること、モノをたくさん

   集めること、そういった目標には満足しなくなっていた。そういった時代には土地や株などのそ

   れ自体は目的ではないマネーゲームに狂奔する結果になる。株や資産運用が盛んになる社会

   というのはもうすでに成長や目標がなくった時代の証拠である。


    そういった時代になっても日本人には豊かさというのがほんらいは何だったのかということが

   わからなかったようである。いや、そもそも考えたり、問いかけたりすることもできなかった。

   思考停止状態どころではなく、脳死ジョータイである。お香をあげたいくらいだ。


    はたして世の中は平成不況という長いトンネルに入った。個人消費がこれから盛り上がるか

   はむずかしいところだが、長期的に見てわたしはもう以前のような大ヒット群はしばらくはない

   と見ている。階級は富裕層と貧困層に二極化するといわれている。成長経済が終わり、循環

   経済や成熟化社会とよばれる段階に入ったのだから当然だろう。リーディング産業や花形産業

   がその富を回して、ほかの業界も潤すといったことがむずかしくなったのだから、富に与かれな

   くなる人も増えるというものだ。


    金をたくさん貯めたり、モノをたくさん集めることが豊かさの目標だと思っている人たちには

   たまらない時代だろう。あるいはマジメな会社人間とかよい会社に属することが自分のアイデン

   ティティに必要な人たちにはとってもたまらないことである。深刻で、恐ろしい先行きしかない

   未来に思えるかもしれない。


    しかしよく考えてみたら、ほしいモノもほとんどない時代なのだから、そう脅える必要もない

   はずである。むかしのようにテレビやクーラーや冷蔵庫やマイホームといったほしいモノがほ

   とんどなくなってしまったのだから、べつにそんなにシャカリキになって働く必要はないという

   ものである。


    こういう時にこそ、もう一度考え直してほしいというものである。豊かさとはほんらいなにを

   意味したのかということを。金やモノに囚われていたらわからなくなるが、働きつづける人生

   ほど貧しい生き方というのはないのではないだろうか。われわれはいつの間にか、働くこと

   だけが富への近道だと思っていた。だけどいつまでいっても働くことから降りられない。これっ

   てまったく岩を上げては落とすシーシュポスの神話と同じではないだろうか。


    豊かさの定義を見直すべきである。あるいはなんのために働いているのかということを

   考えなおすべきである。われわれは働くための労働だけに毎日を追われている。これは

   豊かさとは程遠い。貧困という言葉はあたらない。人生の貧困であり、労苦と苦痛の連続

   だけである。目標や目的がまちがっている。


    豊かさとは働かなくても暮らせる有閑階級のことではないのか。労働から解放された毎日、

   働かなくても暮らせる生活を豊かさというのではないのか。それをほんとうの意味での豊かさ

   と呼ぶのではないだろうか。


    仕事から解放されることを豊かさと定義するのなら、われわれの目標は明確だ。どうすれば、

   働きづめの毎日から解放されるかということが豊かさへの道しるべだ。できるだけ金で買える

   楽しみや喜びは排除してゆき、いかに貨幣に巻き込まれない楽しさや喜び、豊かさを見出すか

   ということがわれわれの楽しみになり、好奇心になり、自己表現になり、そして文化になる。

   まあ、ヒマつぶしが文化を生み、芸術や思想という高級で高尚なものを生み出すというわけだ。

   産業や商業が生み出したつくりものの享受文化ではなく、われわれ個々人の文化創造力が

   花開くというわけである。


    働かない豊かさを手に入れるには現下の社会ではいくつものハードルがある。現在の働き

   過ぎのドライブは老後生活への恐れによって引き起こされているといっても過言ではない。

   また富裕と貧困という金とモノによる優劣基準というものが現存しており、その劣位におかれる

   恐怖というものがある。またあまり働き好きではない怠け者という評判や履歴を得ると、企業

   組織から受け入れられないという恐怖もある。


    これらの恐怖がわれわれから、ほんらいの豊かさへの接近を遠ざけている。わたし自身も

   これらの恐怖にすくめられて、働かない自由という欲求と衝突しあっている。そしてやはり正直

   なところ、生活のために働きづくめの貧しい毎日に帰っていかなければならなくなっている。


    だから願うのは、多くの人が豊かさというのはカネやモノをたくさんかき集めてくることでは

   なくて、労働から解放された毎日であるということに気づいてくれることだ。多くの人々がそう

   いった豊かさを目指すようになると、社会も方向を変えてゆくだろう。わたしは人々が少しでも

   早くそういった意識をもつようになることを心から願っている。


    豊かさというのは、働かなくても暮らせることである。労働から解放されることである。


    金やモノをいくらでもかき集めようとすると、そういった毎日はぜったいに手に入らず、

   働きづくめの貧しい生涯だけが待ちかまえている。だからわれわれは労働の解放を豊かさと

   見なすのなら、カネやモノで得られる豊かさというものに適当なところで歯止めをかけることが

   必要になる。老後への保険とかカネで買える自由を際限なく求めていたら、どこまでいっても

   働きづくめの生涯から逃れられない。豊かさの目標を定義しなおそうと提言するゆえんである。


    これからはカネと労働からとき放れたところにある、自由と豊かさを目指すべきである。それ

   こそが人間らしい生き方と豊かさというものである。





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