平成不況にたたずむアリときりぎりす

                                                   1999/6/29.





    働き者のアリと怠け者のきりぎりすという童話はそれなりの説得力をもってきたわけだが、

   現在の雇用崩壊の時代に来て、あまりうかつに信じられない話になってきた。どうもアリの

   ようにこつこつと働いていても、報われないようなのだ。もちろんわたしはあまり好きな話では

   なかったので、これ幸いと反論を加えたいと思う。


    だいたいアリは年中、活動しているに対して、きりぎりすは冬のあいだは卵をのこして死滅

   してしまう。それをアリのように備蓄しなかったからといって、きりぎりすを非難するというのは

   あまりにもむちゃくちゃだ。季節の活動のしかたがぜんぜん違う生き物を比較するというのが

   どだいムリなこじつけというものだ。冬に冬眠するカエルを掘り起こして、「怠け者!」と非難

   したってまるで意味がない。


    冬というのは生き物にとってはとてもキビしい季節で、こういうときには活動を中止してしまう

   のが多くの生物の戦略だ。爬虫類は冬眠してしまうし、哺乳類の一部もそうである。寒い冬に

   体温を維持するということは飛躍的に食糧を必要とするわけで、あまり効率的ではない。

   種の戦略として冬に活動停止してなにが悪いというのだ? 同じ土俵にひきずりだしてくる

   相手ではない。勝負がはじめからついているというより、そういう生き物なのである。


    もちろんこれは人間についてのたとえ話であるわけだから、人間界の話にもどるとしよう。

   アリはこつこつと勤勉に働くものの象徴であるわけだが、それだけでは評価されない時代が

   やってきた。逆にこつこつとやるだけで給料が増えてゆくのはお荷物だという時代になった。

   勤勉なアリはぽいぽいと捨てられるようになった。葉切りアリはきのこを栽培するアリの一種

   だが、死んでしまったアリを山のようなごみ場に冷酷に廃棄処分してしまうそうで、まったく

   このような光景が人間界にもくりひろげられている。


    またアリが象徴する勤勉さは、きりぎりすの音楽のような楽しみをつくらない。働きアリという

   のはじつのところ過去の楽しみの遺産を食いつぶして働くのであり、またゆえに未来の楽しみ

   や方向を食いつぶしてしまうのである。現在のような供給過剰の需要がぜんぜんない社会を

   つくりだしてしまうのである。きりぎりすはヴァイオリンを弾いて、人々に楽しみと方向を与える

   ことが必要なようである。アリの勤勉さは方向が決まっている時代にだけ通用するもののよう

   である。


    アリは冬に備えて備蓄するわけだが、このような計画的人生もかなり危うくなってきた。

   こつこつ貯めたものが将来何倍にもなって返ってくるという保証はないし、資産も値下がりする

   可能性もあるし、蓄積がかならずしもよいことだとはいえなくなってきた。何十年も先のことが

   かなり見えなくなり、どうなるかなんかわからない。先のことに備えるといっても、その先が

   どうなっているかわからないので、いまの貯えが役立つのかも損するのかもわからなくなって

   きた。明日とも知れないデフレ時代というのは蓄積すら、逆に危ういのである。ため込んだ

   ものも将来まったくなんの役に立たないということも現実的になってきた。


    アリのように将来の備えて貯蓄するというようなライフスタイルも心配になってきたわけだ。

   童話の意味はきりぎりすのような刹那的な享楽にふけるなということだが、将来の計画なんか

   建ちそうにもないから、刹那的に生きざるを得ないという時代がやってきたのかもしれない。

   何十年も先のことは人間には予測の限界を越えている。もうそうなったら、きりぎりすのように

   いまを楽しむしかない、明日の心配なんかしてもはじまらない、というようになるかしかない。

   きりぎりす的生き方は先行きのわからない時代には賢明なのかもしれない。(宗教ではいつも

   明日の心配なんかするなといってきた。明日のために今日を犠牲にするのなら、一生、人生を

   生きることができないのでいつの時代も賢明な生き方なのかな?)


    またこれからの時代というのは新しい楽しみや目標が求められる時代でもある。アリのように

   こつこつと生きようとする人たちが増え過ぎたために、どうも将来もとめられる楽しみや喜びが

   まったくなくなってしまった。きりぎりすはそういった人たちに音楽を奏でてやらなければなら

   ない。なんのために生きているのか、なにを目標に生きるのか、といったことをきりぎりす型の

   人たちは示してやらなければならない。人を楽しませたり、感動させたりできるのは、きりぎりす

   的な人たちだけであり、われわれはいまそういった人たちが必要なのではないだろうか。


    冒険と実験の季節が必要というわけだ。人間はアリのように働くだけでは満足しないし、

   楽しみや喜びを求める生き物である。そしてそのような楽しみがなければ、現在のような

   経済的衰退期を迎えるしかないようである。こういう時にこそ、将来に向かっての楽しみや

   喜びが模索されたり、創造されたりすることが必要なのである。


    アリのように働きづくめで生きるのは反省することが必要である。自分のことばかり考えて

   貯蓄ばかりに励んでいたら、経済的繁栄も人々の楽しみや目標も見出せなくなってしまう。

   きりぎりすは人々の心を豊かにし、将来の目標を与える豊穣さを抱え持っているのかもしれ

   ない。アリばかり褒めたたえる社会はモノばかりつくって貯蓄ばかりに励み、てんで人々の

   楽しみや喜びも与えられず、経済活動が冷え込むばかりではないのだろうか。きりぎりす的

   な生き方に日本人は学ぶ必要があるのではないだろうか。そういう実感が社会に芽生える

   ことが求められていると思う。


    平成不況はアリときりぎりすの立場を一筋縄でゆかない関係にした。アリのように働きつづ

   けて幸福になれるのだろうか。アリときりぎりすが双方的に補い合うことが、人間社会には

   必要なようである。このままでは冬になってアリは過労死どころか、備蓄すらできなくなって

   しまう。きりぎりすは夏に人々を楽しませる音楽を奏でなければならない。




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