職業生活に自由はあるのか

                                                 1999/6/20.






      自由を知らない者は井の中の蛙と同じである。想像力がまったくない。



     サラリーマンには自由がない。人生が時間に縛られ、自由の可能性すら想像できなく

    なってしまう。もしかして晴れた日には空の下で遊ぶことができたかもしれないのに、

    もしかして気分が優れない日には一日中眠ることができたかもしれないのに、そういった

    自由はまったくない。仕事や会社が王であり、主人であり、君主であり、われわれは奴隷

    であり、臣下である。


     こういった機械的反復の毎日に慣れ切ってしまうと、おおよそ可能性も選択肢も思い浮か

    ばなくなってしまう。想像力をまったく失ってしまう。現代のたいていの人はそういう奴隷的

    な生き方、存在のありかたに慣れ切ってしまい、自分が人生の主人公であること、自由な

    行為の主体であること、そうありたいと願うことすら、ありえなくなってしまった。恐ろしいくら

    い想像力が失われてしまっている。


     われわれは自分の人生の主人なのである。そして自由に行為や思想、人生を選んでよい

    はずである。だが現実のわれわれはなんの疑問も抵抗もなく、産業的社会へと呑み込まれ、

    機械的反復をくりかえす人間へと製造されていってしまう。


     現代における自由とはいったい何なのだろうか、ほんとうにありうるのだろうか。われわれ

    に与えられている自由は消費選択の自由であり、職業選択の自由くらないものである。

    おおよそ時間のなかの行為の主体でありえないし、自由な主体でもない。自由は時間の

    なかの行為の選択にあるのではないか。自由に時間をつかう可能性に自由があるのでは

    ないか。労働者に与えられた自由な時間はほんのわずかな休日に消費選択の自由が与え

    られているだけであり、ほかの大半の時間はわれわれの自由の手にはない。


     われわれにはまやかしの自由が与えられている。産業社会の自由とはあくまでも産業

    社会内においての限定された自由である。自由というよりか、拘束された管理された生で

    ある。消費選択内での自由であり、残されたわずかな休日の自由のみである。われわれは

    人生の大半において、自由な行為の主体ではない。産業社会での拘束された生が、われ

    われの一生である。


     これほどまでにわれわれの生の自由が奪われたのはなぜか。自由より、消費や地位、

    職業、生活保障といったものが大事になったからだろう。われわれは職業やモノや生活の

    安定のために自由をまったく捨て去ったのである。当然といえば当然のことである。自由より

    生活の糧や明日の生活の安心のほうが大事である。そしてわれわれはその安心や欲望の

    ために今日の時間的自由のまったくないがんじがらめの人生を産み出すにいたったわけで

    ある。職業や金銭がわれわれの自由をかぎりなく凌駕してしまった。あとは囚われの城壁

    から出ることが死よりも恐ろしい脱落にも思えてしまうようになったというわけである。


     そのような生活のなかでわれわれはまったく自由を想像する力を失った。自由なんてもの

    の可能性すら考えられなくなった。そういうことを考える輩は、マジメではないのであり、

    不謹慎なのであり、怠け者と考えられるようになった。自由の可能性はみんなで寄って

    たかって土中の中に埋められてしまったのである。自由に生きる者は、人々のやっかい者

    になった。ヘンな話しである。自由はみんなで寄ってたかって排斥するものになったのである。

    この国の人たちは自分の自由を求めないというビョーキな人たちばかりだ。フリーターや

    海外放浪、アマチュア・ミュージシャンをやっている人ならだれだって知っている。ここは

    北朝鮮かいな……。


     たしかにもっと現実的な頭に戻せば、自由に生きることなんかまず不可能である。職業を

    得たり、職務を忠実にこなすためには、勤勉実直に生きることがまず求められる。企業や

    世間の要請や要求どおりに生きなければ、たちまち食いっぱぐれるかもしれない。現実の

    重みにたいして自由なんて言葉はまったく夢想者の白昼夢でしかなくなる。たしかにそう

    なのだろう。自由なんか夢想していたら、就職面接で侮蔑されるのがオチだ。


     ただ自由の想像力だけは忘れないでほしい。もしかしてわれわれはもっと自由に生きられ、

    自由に行為していたかもしれないのだ。そういった自由がわれわれにあったかもしれないと

    という可能性だけは覚えておいてほしい。




     (自由について書いてみたら、現実からまるで乖離したポエムを書いている気になった(泣)。)


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