「価値崩壊の時代」をどう生きるか

                                            1999/6/18.





     戦後50年の日本の価値観がどんどん崩れ去ろうとしている。右肩上がりの成長神話、

    土地神話、終身雇用、会社人間、滅私奉公、社会保障、護送船団、家庭や学校の幻想、

    といったさまざまなものが崩壊しようとしている。


     ある人にはかつての時代を郷愁して嘆き悲しまれるものかもしれないが、ある人にとっては

    古き因襲の崩壊として悦ばしきものに思えるかもしれない。もちろんわたしには会社主義や

    経済主義の世の中といったものがとてつもなくキライだったから、こういう時代はとてもうれしい

    のだが、だが自分にとって好ましい方向に向かうのか、悪い方向に向かうかはわからない。


     終身雇用の崩壊だと叫ばれているが、出世競争や生き残り競争がゆるやかになるという

    よりか、激化する方向に進んでいるように思われる。わたしは終身雇用が崩壊するのなら、

    これまでの会社人間や滅私奉公に生きるよりか、もっとほかの幸福や価値観に向かって

    ほしいと思っているのだが、どうもそういう方向は現われてきていない。生き残りをかけて

    スペシャリストだキャリアだといった経済的価値ばかりが吹聴されているようだ。そんな煽り

    にふりまわされないで、自分の好きな、あるいは楽な道を選んでほしいと思う。経済的競争

    はこれまでわれわれに幸福をもたらしてくれたことなどあるのかと問いたい。


     金融や中堅企業などのかつてない倒産が巻き起こっているが、これはわれわれの価値観

    を大きく変えるだろう。まるでいままでの安定した時代は終わったのだとだれかに宣伝して

    いるみたいだ。だれがだれに宣伝しているかというと、赤字財政であっぷあっぷしている政府

    や官公庁なのだろうか。マスコミも金融の倒産のたびにこれまでの時代は終わったとアナウ

    ンスするのだが、どうもなにか劇場的でつくり話しめいているのは、政府の広報屋担当

    だったからだろうか。どこかリアリティがないというか、深刻さとかせっぱ詰まった感じがない。

    政府関係や護送船団系だけの騒ぎだからだろうか。


     とはいっても失業やホームレスの増加は深刻である。転職市場はこれほど倒産やリストラ

    の多い時代になってもほとんど開かれていない。現在のリストラというのはエリート社員の

    数をもっとスリムにする、選別するための機会のようである。終身雇用が終ったのではなく、

    その待遇を享受する人たちを減らすということだ。内部昇進のシステムはほとんど変わって

    いないから、外部からの転職はこれまで以上に難しい。実力主義だとか能力主義だとか

    喧伝されても、じっさいのところ本質的な部分は変わっていないと思う。このところを読み

    間違ってはならない。変わる変わるといってもすべてが変わることなどありえないわけで、

    だまされてはならない。


     一流大学、一流企業というこれまでのエリート・コースはどうなったのだろうか。学生や

    親たちはあいかわらずこの目標を追っているのだろうか。なにしろ金融企業が倒産したり、

    たくさんの大企業がリストラをおこなったとしても、新しい成功コースはまるで見えないから、

    混乱するばかりだろう。たしかに成績が優秀であることは世間への優れたパスポートに

    なるに違いない。ただ「どこに所属していたか」ではなく、「なにができるか」の変化は言わ

    れているとおりなのだろうが、これほど難しい転換はない。一朝一夕にして「わたしはコレ

    ができます」なんて急には変われない。


     価値崩壊の時代といわれても新しい価値観はぜんぜん芽生えていない。こういう時にこそ

    新しい価値観を見出したり、つくりだしたりする時代だと思うのだが、なんだかみんな必死に

    かつての価値観にしがみついたり、過去のやり方で乗り切ろうとしている。


     わたしはこういう時代だからこそ、仕事や会社一点張りの価値観から個人の幸福や豊かさ

    に目を向けるべきだと思うのだが、みんなこの不透明な時代をどうやって乗り切ろうかとそれ

    どころではないようだ。必死になって経済的優位を得ようと肩ひじはって生きるより、肩の力を

    抜いて楽に気ままに生きる方法だってある。そういう脱力系の生き方に未来や幸運があるか

    もしれない。経済的優位なんて捨ててしまえ。たぶんそれは旧時代の価値観になってしまう

    だろう。文化や芸術、哲学などはそういった分岐点から立ち現れるのではないだろうか。

    経済的な価値観だけの社会や生き方はあまりにもつまらないアナクロニズムなものだ、と

    わたしは主張したい。


     戦後の人々がめざした価値観はたしかに崩壊している。人々があこがれたエリートの

    優越性とか価値観なんてものはもう魅力を失っている。これは80年代のわたしが学生だった

    ころからもとっくに感じられたものだ。勤勉や生産の価値が内部崩壊しはじめた80年代の末

    に土地や株、高級品、リゾートなどのマネー・ゲームに奔走しだしたころから、かつての価値観

    は終焉してしまっていた。しかし新しい価値観も生まれず、新しい社会にも転換できずに、

    この社会はぼろぼろと崩壊しだした。魅力的な中心がなくなってしまったのだ。


     社会は変貌を希求しているのに新しい社会の枠組みもヴィジョンもない。しかたなく、

    ツマラナイ社会の枠組みがわれわれを拘束して、ますますやり切れなくさせている。


     発展途上国の発想やシステムを変換しなければならないのだろう。発展途上国では国の

    富を増やすために全能力がその目的に結集される。そのしくみが人間を幸福にしない

    システムをつくりだすのだ。曲がりなりにも豊かになった現在、政府は企業の富を推進させる

    役割から、個人の幸福をあみだすために企業を抑制するべきなのである。そういう役割を

    自覚できない政府なんていらない。この転換はいったいいつになったらできるのだろう?


     こういう時代をわれわれはどうやって生きていったらいいのだろうか。旧来の堅実な生き方

    もまだまだしっかりしているように思われるし、一方ではリストラなどでその無益さや徒労さ

    がバクロされても、まだそのような生き方のモラルは頑迷に人々を捉えて離さないようだ。


     価値崩壊の時代というのはひじょうに生きづらいのかもしれない。価値が成長している時代

    には成功や憧れのパターンに一直線に向かえばよかったのだろうが、それが崩壊する時代

    というのは中枢にしがみつくのもヤバイし、脱落してゆくのもまだまだ恐怖が大きくて、

    生き方のモデルというものがひじょうにつかみにくい。かつての成功コースや大企業に

    しがみつこうとしても、管理社会的呪縛はとてつもなく窮屈でツマラナイものだ。それでも

    旧来のコースから脱落したり、落ちこぼれたする恐れもたまらなく大きい。たしかに社会と

    いうものはひじょうに保守的でなかなか変わらないものである。信頼や信用といった本質的

    な人間の間柄を失うことはいつの時代でも避けなければならないことだ。


     わたし自身は会社や労働主義といっものをひじょうに嫌ってきたので、職業生活はかなり

    アバウトな遍歴をくり返してきた。人間らしい、自分らしい生き方をしようとしても、最終的には

    職業に依存しなければならないわけで、いろいろ苦労はたえなかった。一方では読書とか

    ものを考えることとか自分の好きなことに没頭することができたが、やはり世間一般の人同様、

    脱落することの怖れも強かったといわざるをえない。勤勉主義を捨てて、自分の好きなように

    生きるのはやはり難しいものである。でもじっさいに毎日のくり返しである会社勤めは自分

    のなかでは価値観が崩壊しているから、やはり耐え難いものであるが……。


     日本人はまた分岐点に立っているのだと思う。これまでどおり勤勉に会社や国家のために

    働くか、ビンホーや不安定のなかに自由や自分の好きな生き方を見出すか、といったことだ。

    たいていの人は勤勉にしがみつくと思うが、はたしてこのコースに夢のある未来を創造する

    力があるのか、多くの人々を吸引するような魅力的なヴィジョンはあるのだろうか。


     自由な生き方にはもちろん堅実さや安定なんかまず望むべくもない。自由で好きな生き方

    をしているから、そういうゼイタクなものは得られないと観念するしかない。そしてそういう

    不安定に甘んじるしかない生き方が歴史的には当たり前のことであって、戦後の50年間の

    なにもかも保障が必要だという考え方は異常ではなかっただろうか。この社会的救済のため

    にわれわれ日本人はゆとりや安らかさといったものを失ってきたのではないか。あまりにも

    「カタブツ」すぎる社会はわれわれに生きる気力と楽しみを奪ってしまったように思えてならない。


     価値崩壊の時代を生きるのは一筋縄ではゆかない。どういう人生コースが成功したり

    有利であるといったことは一概にはいえない。そういう不安定なものは捨ててしまって、

    自分の好きなように自由に生きればいいといいたいところだが、価値観が変貌する社会に

    おいてもそれがどれだけ許容されるかは難しいところだ。


     たいへんにわかりにくい世の中になったということだ。われわれはこのような時代をどの

    ように生き抜いていったらいいのだろうか。まあ、変化を楽しみ、過去をなつかしがらずに

    いさぎよく捨てる、苦悩や傷は捨てる、といった基本的な処世訓を守るしかないだろう。    


     わたしにはこれまでの価値観が崩壊するということは、(バラ色の未来か陰鬱な未来かは

    べつにして)、これほどまでにめでたいことはないのだけれど――。あれほどまでにしっかり

    していたと思われた価値観やあこがれのエリートがぼろぼろと崩れ去ってしまえば、

    もう笑うしかないだろう。みんなが祭りあげていた価値観なんて、しょせんは幻想にしか

    過ぎなかったということを露呈する、これほどまでに魅力的な時代、瞬間というものは、

    めったに出会えるものではないのだから。





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