ホームレス激増とジョブレス社会に思う


                                                1999/6/5.







    完全失業率が5%を越えたそうだ。20人にひとりの割合で失業していることになる。

   さらに20代の若者にいたっては10%を越えているという。10人にひとりだ。不安なことに

   リストラはまだまだつづくという。企業はどんどん人々を掃き出している。ハローワークでの

   パソコン画面での閲覧の待ち時間は長くなる一方だし、転職情報誌の薄っぺらさはため息を

   つくばかりだ。わたしの部屋のスピーカーの下におかれたバブル期の転職情報誌のぶあつさ

   がなつかしい。


    わたしが住む大阪市内での公園のホームレスは去年までは微増の気配であったが、

   今年に入って激増したのが丸分かりで、まるで難民キャンプの様相を呈している。とうとう

   ここまで来てしまったか、ついに大失業時代にほんとうに突入してしまったんだなという感が

   わく。そういう予測は何年か前からあったけど、日常にはべつだんそんな気配は現われなく、

   オオカミ少年ではないのかとわたしは疑っていたのだが、どうやらここにきて本格的に壮絶な

   状況を呈しはじめたようだ。何年もかかってじわじわと予測どおりの状況になることがよけい

   恐ろしい。


    それにしても日本にはホームレスを防ぐためのセーフティネットがどうやらぜんぜん機能

   していないか、存在していないかのどちらかのようだ。失業保険や生活保護などの社会保障

   の網の目をするりとぬけ落ちる人たちがこんなにいるということは、これらの存在はなきに

   等しかったということだ。


    たった10年ばかりの不況だけでこんなにホームレスになる人たちが多くなるというのは、

   この経済社会の脆弱さをもろに露見させたわけだ。バブル期まではホームレスの人たちと

   いうのは一定の数ほどしかいなく、特別な存在だという感もあったのだが、どうも近頃はそう

   ではないようだ。日本の経済システムというのはもっとしっかりしたものだと思っていたが、

   ひとたび調子が悪くなるとここまでかんたんに人々の生活の糧を奪ってしまうのかと驚く

   ばかりだ。


    極論になってしまうけど、ホームレスというのはどこの社会にもいる。むしろホームレスが

   多くいる社会というのがふつうだ。これまでの社会はそういう人たちがほとんどいなく、

   ある意味では息苦しい社会だった。ほんとうに極論だけど、ホームレスになる自由がある

   社会ではなかった。そういうところでは人間どうやっても生きていけるんだ、みたいな勇気と

   いうか励ましがなかったわけだ。だから人々の生き方はいきおい保守的になる。自由さとか

   奔放さ、革新といったものはそういった社会では芽生えない。


    こんなことをいえば、競争社会を激化させようともくろむ政府の宣伝屋みたいなことになって

   しまうが、社会保障のためにどんどん支払いや拘束感が高まってゆく社会よりまだマシだと

   思っている。生活保障ばかりを追っているとまるでオリの中で生かされている気がする。

   戦後50年の経済社会の荒廃やゆがみ、失敗はここに端を発しているとわたしは思っている。

   自由な生き方、社会を築くためにはこういう過程をへなければならないのではないだろうか。


    むろんわたしは金儲けや競争を激化させる社会をのぞんているのではない。ただそういう

   社会は一方では金儲けに励む人たちとそうでない人たちをおのずと生み出すと思う。わたしは

   そこに自由な生き方ができる社会の存立を期待しているわけだ。戦後のようなだれもかれもが

   金持ちや出世をめざせといったような一億総中流志向、会社人間化といった画一的な生き方を

   強制するような社会ではなく、それぞれが思い思いの目標をめざす余地が、そういう社会に

   生まれるのではないかとわずかの希望を託しているわけである。消極的な期待ではあるが、

   ――金儲けをあきらめた人たちの自由という後ろ向きの発想であるが、うまくいくだろうか。

   ……甘すぎるかな。


    それにしてもこのままホームレスの激増をただ放っておくだけでいいのだろうか。アメリカ型の

   自由競争社会をつくるにしても、その過程で放り出される人になんの援助も与えられないと

   いうのは問題だ。これまで政府まかせだった地域住民の人たちは自分たちで何とかしようとか、

   ボランティアをおこなおうという発想をまずもたないようだ。あまりにも政府まかせだった人たち

   は自分たちのまわりで困っている人たちがいても、助けてあげることができない。またこれまで

   の人はおそらく「働かざるもの食うべからず」と思い込んできたからか、ホームレスを本人の

   責任に帰してしまい、まったく無視状態だ。どんどん失業者が放り出されるいまの状況は

   ふつうではないから、発想の転換が必要だろう。いまのホームレスは本人の責任だけでは

   ないことはだれでもわかると思う。地域に助け合うような人間関係ができたらいいのだけど。


    失業者はどんどん放り出されてゆく。リストラや倒産の状況はすごいものがある。しかも

   中間管理職や中高年の失業はそうとう深刻だ。有効求人倍率なんてほとんどないに等しい。

   つまり雇用先がまったくないということだ。どうしろっていうんだ。妻子を抱え、さまざまなローン

   を抱えた世帯主の失業は深刻だ。たちまち生活や支払いに窮してしまうではないか。しかも

   どこの会社も中間管理職や中高年はいらないときている。救いがないではないか。それに

   追い討ちをかけるように人員削減と倒産はひっきりなしにつづく。


    アメリカではリストラされた社員はみずから事業をおこしたり、自営業者になったりする。

   そういうところで雇用創出がおこなわれたわけだが、日本の場合は政府や会社にしがみつく

   ばかりで、あまりそういったアクションはおこならないのだろうな。


    これまで雇用を吸収していた製造業や建設業、流通や金融、運輸といった業界からヒトが

   どんどん放り出され、スリム化されてゆくその業界への転職はむずかしく、しかも新しい業界に

   転職したり、雇用の受け皿となるような業界はなかなか育ってこない。自分のこれまでの

   職歴や経歴を活かすことができず、他業界への転職は経験や知識を必要としており、これでは

   まったく八方ふさがりではないか。


    産業構造の転換期というのはほんとうにヒドイものである。これまで頼みにしていた職種や

   業界があっという間に用なしになったり、消滅してしまったりする。ほんとうのところ、産業とか

   経済というのはこういう要素をもっているものなのだが、戦後の長い成長経済期のゆりかごに

   のたうってきた人たちは勘違いしてきたようだ――いつまでも自分の会社・業界は存続しつづけ、

   雇用と生活保障をしてくれるものだ、だからがむしゃらに滅私奉公するんだ、みたいな思いこみ

   を囲い込んできた。でもこんなのは常識から考えてムリな話しというのがわかるというものだ。

   いつまでも売れつづける商品や製品がないように企業もいつまでも存続しつづけるわけなど

   ない。こんなのは常識である。しかし時代というのは大きな勘違いを許してきた。高度成長期

   というのが歴史上まれにみる異常な時代であるということに警戒しなかったからだろう。

   多くの人がいうように「成功ゆえの失敗」というのはほんとコワイ。


    転換期に生きる残るのはむずかしい。転換期というより、産業消滅期というか、ジョブ消滅

   時代といったほうがいいかもしれない。職はどんどんなくなってゆくのに新しい雇用の受け皿

   はほとんど育っていない。自己責任、自助努力の時代だといわれるが、会社に飼われ、

   実社会で生きてゆくための教育も心の準備もされなかった人たちはいったいどうしたらいいと

   というのだろうか。とつぜん市場社会に放り出されても、そういう世界でどうやって生きていった

   らいいのかもわからない。ワケのわからない混乱した経済のなかでもまれてゆくなかで、

   生きてゆくスキルを実地に学んでゆくしか仕方がないのだろう。


    いや〜、ほんとうに時代は変わってゆくみたいだ。つい何年か前までは社会とか雇用

   環境とかはてこでも動かない不動のものだと思ってきたけど、リストラの連発は世の中を

   変えてゆくようだ。終身雇用なんてものは20%の大企業にしか採用されてこなかったという

   話だが、多くの人たちはそういう神話を信じてきたので、リストラはそういう幻想から目を醒ま

   させるきっかけになるだろう。これまでの社会はそういう神話があったから成り立ってきた

   みたいな部分があるから、これからの社会はかつてないほどの変化を蒙ることになるだろう。

   愛社精神や滅私奉公のような精神は時代遅れのものになり、もっと個人を大切にした生き方が

   求められるようになるだろう。終身雇用を打ち切るリストラというのは名実とともにその宣言

   である。人々はこれから会社より個人を大切に生きるだろうか、それともこれまで以上の

   熾烈な働き方をするようになるのだろうか。


    職のありかたは人々の意識やライフスタイル、行動様式といったものを変えてゆくだろう。

   終身雇用は終身婚と並行してきたし、電車通勤というスタイルは性差分業の役割をうみだした。

   なによりも終身雇用という形態の打ち切りが人々の意識のありようを大きく変えるだろう。

   転職もさかんになり、若者にはもうほとんどない会社への滅私奉公という気分はすたれるだろう。


    常勤の正社員は少なくなり、働く者の半数が契約社員やパートタイムの仕事につくことに

   なるといわれている。これが富と貧の二極分化をもたらすと考えられている。仕事にがんばる

   人はがんばり、そうでない人は趣味や娯楽を楽しめるようになるだろうか。しかしさまざまな

   保障が失われてゆく過程に人々はどのような気持ちをもつだろうか。また物質的な金持ちに

   なるというモチベーションははたして将来にありうるのだろうか。ともかく儲かる人たちとそうで

   ない人たちの落差が歴然とするむきだしの競争社会の時代がやってくるようである。戦後の

   ように工業社会のモデルといったものが存在しなくなったのだから、雇用や保障は守れなくなる

   社会がやってくるのは当然の成り行きである。すべての業界に順調な拡大再生産が見込まれ

   ることはもはやないからだ。


    変化と激動の時代のようである。われわれはこのような時代にどのように生き残っていった

   らいいのだろうか。職はどんどん失われてゆき、将来や生活の保障もままならない時代だ。

   ひとむかし前までは考えれもしなかった変化がひたひたとやってこようとしている。これまでの

   会社主義社会に守られてきた人たちにはたまらないだろうし、そういった管理社会にやり切れ

   なさを感じてきた若者には朗報かもしれない。ただ、会社にぶらさがってきた人や働く意欲を

   なくした若者がこれまでの会社主義社会によってつちかわれてきたわけだから、突然の時代の

   路線変更は寝耳に水といったものだ。変化になかなか適応できないだろう。


    金融関係の会社がどんどんつぶれてゆくように、われわれの生活自体も守られなくなって

   ゆく。職を失い、レベルダウンの転職を余儀なくされたり、なんのセーフティネットにもひっかか

   らずに路上生活へと落ちてゆく人もたくさんいるかもしれない。おいおい、政府や企業はほんと

   うに人々をまったく守らないのか、住居や食べ物が得られなくなっても見捨てたまま、放って

   おこうとするのだろうか。ホームレスが激増し、いまは男の者たちが多いが、そのテントの中に

   家族や子どもが住まざるを得なくなるような状況になっても、政府や企業はなんの手も差し

   伸べないつもりなのだろうか。路上に人々がごろごろ寝ているような壮絶な社会がもう一度、

   再現されようとしているのだろうか。落ちることにかけては底なしのような社会である。ほん

   とうにこんな社会がやってくるのだろうか。


    変化は始まってしまった。もうむかしのなつかしい時代には戻れない。新しい時代の

   変わりようを見極め、その変化に適応してゆくしかないようである。変化を嘆いたり、過去を

   郷愁しても時代はなにも聞き入れてはくれない。傷を大きくするだけである。


    さあ、どうやって生きていこうか。わたしも迷うばかりである。わたしには手に職がなにも

   ないし、あまり優れた働き手ではないし、だいいち働くのが嫌いだときている。てんで

   ポジティヴではないし、ネガティヴから物事を発想するし、逃げや消去法から人生を歩んで

   きたような気がする。自信や自尊心という高級なものはあまりもちあわせていない。そのくせ、

   反抗心や反集団主義だけはやたら強いひねくれ者だ。屈折してしまったのだから仕方が

   ない。これからは世間の冷たい目を気にせずにあまり働かないでもすむだろうか。そういう輩は

   貧しい生活に甘んじるしか仕方がないのだろう。自分の好きなように生きられたらいいのだけ

   れど。


    政府は戦後直後のような貧しい社会をつくりだし、そのハングリー精神によって高度成長

   を巻き起こそうとたくらんでいるのだろうか。従来の常識なら人々は貧しさを怖れてきたが、

   豊かさを一度は経験した人たちはもう一度しゃか力になって働こうとするだろうか。それとも

   もうあきらめて貧しさの中で楽しみや悦びを見出してゆくことになるだろうか。もちろんわたし

   が願うのはこれまでのようながむしゃらな労働主義の社会ではなく、もっと人間らしい、

   仕事以外の生きがいや楽しみ、時間をもてるような社会になることだ。そのような生き方を

   求めようとすると仕事があまりない貧しい生活に甘んじるほかないのかもしれない。


    この社会はいったいどういうふうになってゆくのだろうか。人々の生活基盤である雇用が

   どんどん失われてゆく。その速度に追いつくような雇用創出はぜんぜん立ち上がっていない。

   受け皿がない労働市場に人がぽいぽい放り出されるようなこの社会にはどのような未来が

   待っているのだろうか。

  





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    リンクです。「ホームレス問題から見えてくる働き方の周辺」
     ホームレスの原因は経済的脱落のみではなく、過酷なノルマや労働条件から、
    働きたくないという選択を選びとった人たちが増えてきたと論ずるスグレた文章です。
    たしかにわかる。家族とか世間体とかのしがらみから解き離れたら、だれもあんなツライ、
    イヤなことの多い仕事なんかつづけられないよ。

    一年前のエッセイ 「平成不況について思うこと」 98/6/20.

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