貪欲を戒める道徳や宗教はどこへ行ったのか

                                                1999/5/24.






     貪欲がよいものだという人はあまりいないだろう。だけど金銭や商品、地位をもとめる

    気持ちというのはまさに貪欲のことである。これについてはだれも咎めるものはいないし、

    奨励や称賛すらされているものだ。社会で推奨されているからといって、例外になるという

    わけにはゆかない。


     われわれはひじょうに貪欲で執念深い人間であり、そのような嫉妬深い世界の中で

    生きているというのが嘘偽りのない現実である。企業組織のなかで働いたり、なんらかの

    商売に関わっている人、子どもを進学校に入れようとしている親たちはまさに貪欲極まりない

    人たちである。しかし貪欲でなければ生きられないというのがこの産業社会の現実という

    ものである。企業のなかでは利益や業績を上げなければ食っていけないし、子どもを進学校

    に入れなければ将来が不安であるという事実がある。われわれはこの世界の中でひじょうに

    貪欲にならなければ生きていけないのである。


     どうしてこんないやらしい世界になってしまったのだろうか。かつては道徳や宗教が

    人々の貪欲さを卑しめてきて、そして一定の効果があがっていたのではなかったのか。

    守銭奴や商売人といった人たちを軽蔑してきたのではないか。そのおかげで人々は

    貪欲な競争心や嫉妬心をおこさなくともすんだわけだし、今日に問題になるような公害や

    環境破壊、生態系破壊といった事態をひきおこさずにやってこれたのではないのか。

    宗教や道徳は非合理な面をいくらかもつにしても、自然や人心に畏怖をもつことによって、

    偉大なる成果をあげてきたのではないか。


     それが今日ではまったく破壊されている。経済的貪欲を戒める社会的勢力はまるでない。

    宗教や道徳はどこにいってしまったのだろうか。かつての伝統的叡智はいったいどこに

    消え去ってしまったのだろうか。われわれをそのような叡智で守ってくれる知恵はすでに

    われわれを見捨ててしまったのだろうか。


     おかげでわれわれは朝から晩まで企業組織にこき使われ、貪欲な金銭欲や消費欲、

    出世欲だけに害され、利他心や親孝行といった心は捨てられ、家族も子どももカネが

    かかりすぎて養えないといった状況に追い込まれている。まったく産業者、財界人たちの

    天下である。貪欲と利害だけの産業者たちの支配する世界である。そしてわれわれは

    産業者たちの価値観と目的のみで洗脳され、そのような世界で生きる術しか知らず、

    その価値観でしか生きてゆけないといったありさまである。


     かつての伝統的叡智はもはやわれわれを救えないのか。貪欲を戒める力も効力も

    すっかり失われてしまったのか。われわれの心の中にはそのような叡智に耳を傾ける

    賢明さはもうないのだろうか。


     伝統的叡智はまったく破壊されている。近代化のなかで封建主義や迷信、古い慣習と

    いった罵倒を浴びせかけられて、まったく駆逐されてしまった。まったく息の根を止められて

    しまったのだろうか。近代化や西洋化は時代の趨勢としては抗いようがなかったのかも

    しれないが、伝統的な知恵を崩壊させたことは大きな過ちだったのだろう。あるいは近代

    産業化が終わった時点でふたたび求められるものなのだろうか。


     経済的貪欲さは経済発展や貧困からの脱却、完全雇用といった美文のなかに

    隠されてきた。貧困や封建的差別や不自由、階級社会の不平等といった社会的矛盾を

    撤廃するためには経済的発展や繁栄といったものはおおいに必要だったのかもしれない。

    しかしそれがひきつれてきたのは貪欲や嫉妬心というよからぬ孫だった。悪魔とさえ言える

    かもしれない。われわれは経済的繁栄のために貪欲という悪魔に身を売ったわけだ。


     貧困や経済的不平等からの脱却をめざすという試みは、貪欲や嫉妬心というよからぬもの

    と手を結ばざるを得ないというのはなんとも皮肉なことである。完全雇用や産業的繁栄を

    めざそうとすれば、貪欲という個々人の心の闇を解き放たなければならないというのは

    なんとも奇妙な話だ。しかも自然環境破壊や生態系破壊という、最終的には人間自身をも

    破滅させかねない結末まで用意されている。貪欲さはわれわれの心を害するのみではなく、

    自然環境への破壊をももたすらのである。


     伝統的知恵や宗教といったものはそのために貪欲を戒めてきたのである。貪欲を

    とき放った近代産業社会は、伝統的叡智に劣るものなのだろうか。産業社会はいちど

    その回転をはじめれば、かんたんにはやめることができない。生活の糧を得るためには

    貪欲さを煽ってゆくことでしか成り立たないからだ。


     貪欲さは優越心や競争心を生み、差別や不平等を編み出し、人々の自尊心や誇りを

    傷つけ、恐れや不安の毎日につき落とす。ぜんぜん幸せや安楽ではない。そのような

    心理的な荒波のなかで、またまた流行や技術が生み出され、不安や恐れは増長し、

    自尊心はたえず傷つけられ、悲しみや憂うつのなかで暮らしてゆくことになる。貪欲さや

    欲望を宗教がたえず戒めてきたのは故なきことではない。心はそのような貪欲さに

    よって傷つけられ、苦しめられるのである。近代産業社会はそのような貪欲のエネルギー

    を利用して危ない橋を渡っているわけである。


     心の貪欲さを戒めた道徳があった時代のほうが幸せだったのかもしれない。そこには

    現代人が感じるような心のブレや哀しみはなかったのかもしれない。もう一度、このような

    社会的道徳を復権させることも必要なのではないだろうか。


     宗教や世間の中にはそのような力がなくなってしまったのは周知の事実である。

    社会的道徳が力をもちなおしてくるのを待っていてもしょうがない。自分の心のなかでの

    貪欲さを戒めるしかないだろう。それは社会のためではなく、自分のためにおこなうもので

    ある。そこには伝統的叡智が説いてきた心の平安があるはずである。欲望と消費の社会で

    生きるわれわれはこの世界の悲しみや鬱屈を知っているはずである。かつての知恵に

    耳を傾けるべきではないだろうか。






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