中国市場化における優越と劣等


                                                1999/5/17.






     中国の市場経済化というのはひじょうに印象深いものがある。自給自足や貧困であった

    内陸部の農村がどんどん市場経済に巻き込まれて、金持ちとそうでない人たちの格差が

    歴然と現われはじめている。民間企業に勤めたり、市場の気運をうまくつかんだ人たちは

    それまでの20倍もの収入を得て、郷里に「どうだ、これでもか!」といった具合の豪邸を建て、

    それまでの貧しい暮らしの人たちのみすぼらしさを白日のもとにさらけ出す。


     NHKのTVではこういう中国内陸部の市場経済化の様相、金持ちとそうでない人の格差、

    かつての国営企業の末路、といったドキュメンタリーをよく流している。そのたびになんだか

    目頭があつくなるというか、複雑な感情が入り乱れる。


     市場のなかで必死に生きようとする人たち、あるいは一攫千金を夢見てみずから商売を

    打ち立てたり、都市の近代的な工場でたこ部屋のようなところで生活して働く女性たち、

    豊かさを夢見て沿海部の都市にぎゅうぎゅうづめの電車で出稼ぎに出る人たち――

    中国人たちはいまそういうすさまじいエネルギーや哀切さをかもしながら、やみくもに

    豊かさをめざそうとしている。


     一方では生涯や雇用を約束されていた国営企業の破産や消滅という事態をむかえて

    苦悩する人たちや市場化や豊かさからとり残された村々なども存在するわけだ。政府に

    指示されてある国営企業に何十年も勤め、雇用も老後も保障されていたのにとつぜん、

    そこから放り出される人の苦悩やとまどい、不安といったものはものすごいものがあるだろう。

    これまでの貧しい自給自足に近い農村生活に慣れきった人たちも、どんどん変化してゆく

    まわりの状況に深いとまどいを覚えることだろう。


     市場化という趨勢のなかで、これまでの国営時代の生き方や自給自足に近い農村生活の

    なかで暮らしている人たちと、そして器用にもたくましく市場や営利企業のなかで生きてゆこう

    とする人たちの格差が歴然と現われてきている。中国では豊かになれる人はどんどん先に

    豊かになれというスローガンが掲げられている。


     豊かさをめざすエネルギーはすごいものがある。かつての高度成長を迎える前の日本も

    こんな様相をしていたのだろうか。だけど雇用や老後を保証されていた国営企業が

    どうにも立ち行かなくなったり、倒産したり、人々が放り出されたりするさまは、まさに

    現在の日本がおかれている状況とまったく同じではないか。日本には蓄積された富が

    まだまだ多くあるようだが、遅かれ早かれこういう状況はやってくるのだろう。中国の市場化

    というビッグ・パワーはそういう脅威にますます追い討ちをかけるのはまず間違いない。


     これら中国の様相を見ていて思うのは市場化というのは圧倒的なんだなということだ。

    金持ちと貧困というのは一目でわかる。明確にその差が現われる。豪邸、近代的な都市や

    工場、テレビや電話、そして貴金属――それに比べて旧来の貧しい農村の家や暮らしは

    圧倒的にみすぼらしく、あわれであり、悲哀を誘ってやまない。市場経済というのはこういう

    格差を冷酷に残酷なまでに表わす。貧しい農村のとなりに立つ豪邸や近代工場というのは、

    ほんとうに冷酷ということばがぴったりだ。まるで心理的な劣等感を打ち込む核弾頭みたい

    なものである。


     近代化というのはこういう貧富の格差が明確に表わされるから、かつてのヨーロッパの

    人たちは平等や社会主義といった理想を打ち立ててきたのだろう。市場化にとり残された

    人たちの痛みや哀れさはものすごくよくわかる。貧しい村のとなりに近代的な豪邸が

    立ったりでもしたら、穴にでも入りたくなる気持ちがしそうだ。


     それにしてもそういう物的な優越をめざした豊かさはほんとうにめざすべきものなのかと

    思う。物質的な優越はほんとうに目に見えてはっきりするものだが、中身は空っぽである。

    物質に頼り、ますます外側に頼るから、心は外界にほんろうされっ放しで、劣等感や不満に

    さいなまされるばかりである。物質的な優越は心を一時も安らかにはしてくれない。

    豊かになれば、今度は歯止めもなく、維持のための労働に縛られ、目的も意味も失われた

    毎日のくり返しのみが残される。中国人たちは近代化がたどりついた先進国の苦悩や空虚さ

    といったものをどれだけ知っているというのだろうか。おそらくそういう苦悩は上り坂の自分たち

    とまったく関係のない哀れな老いぼれたちの嘆きにしか思わないのだろう。


     豊かさの憧れというのはそれが目に見えるものだからこそ、圧倒的である。そして貧富の

    格差、貧しさの目印、劣等感というのは目に見えてはっきりとしている。豊かになってゆく

    なかでの貧しさというのはほんとうに目立つし、強烈な劣等感を駆り立てるのだろう。

    豊かさというのは残酷な優越感だ。貧しい人たちの誇りや伝統を打ち砕く。伝統に充足し、

    分を知り足るを知ることに満足してきた中国人たちの平穏や誇りをこなごなにする。

    もし豊かになろうとする人たちの目的がたんに心の優越感なのだとしたら、物質的な優越感

    のみを目指すべきものなのだろうか。


     優越感を競い合いたいのなら、もっとほかの方法はなかったのだろうか。金銭や物質的な

    ものではなく、もっと知恵のある競争ゲームはないのだろうか。しかし豊かになろうとする

    中国人の奔流はもうどうにも止めようがないようである。


     ところで日本では豊かになるという大目標は終わり、優越感を競い合うようなゲームは

    ほとんどなくなってしまった。過去の成功コースや中古品の人生コースしか残されていない。

    この退屈な夢のない社会はどこに行こうとしているのだろうか。


     苛烈な競争をとりもどして、ふたたび優越競争を盛んにしようとする試みが最近から

    おこなわれている。金銭や物質的な優越記号はもうほとんどインセンティブにはならない。

    知識や情報の優越競争というのはどれだけわれわれの情熱を駆り立てることができるの

    だろうか。やはりあの中国人たちのような溢れ出る豊かさのパワーというのは、この日本に

    ふたたびとり戻そうとすることはかなり難しいのだろう。


     文明は豊かさのある一点を越えれば、貧しさのなかに平安を見出そうとする衝動を

    もつようだが、先進文明はそのような地点にたどりついたのだろうか。ギリシャやローマ、

    唐といった文明の爛熟期を迎えるとストア哲学やキュニコス派(犬儒派)、キリスト教、

    老荘思想、仏教といった貧しさや無為のなかに心の平安をもとめようとする流れが盛んに

    なってくる。これはヨーロッパ近代では暗黒の中世とよばれている。もはや豊かさのなかに

    優越をもとめられなくなった時代には、貧しさや心の豊かさのなかに優劣ゲームを仕掛ける

    ようになるのだろうか。こういう思想の中にあの中国人たちが感じたような圧倒的な優越感

    というのものは存在するのだろうか。


     貧しさのなかに優越感を表わすことなんて、現代のわれわれにはまず無理なように

    思える。われわれにとっては劣等感の象徴のなにものでもないからだ。しかし物質的な

    優越感を感じられなくなった時代には、そういうなかにこそ優越の根が潜んでいるものなの

    だろうか。まあしかし、そういう時代になるのにはまだまだ幾多もの紆余曲折を経なければ

    ならないのだろう。金銭や物質的成功をもとめる世の中なんてもうたくさんたけど……。






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