産業主義に呪縛するもの


                                              1999/5/14.






     なんでみんなこんなに働くんだろうと思う。晴れた日に川べりに寝そべっていると、

    追い立てられるようにけたたましくトラックや自動車が走り回っている。みんな何に

    駆り立てられて、あんなに気違いじみて働こうとするのだろうか。人生の貴重な時間が

    浪費されるように思わないのか。いったいなんのために働いているんだろうと思う。


     その理由をいろいろ考えてみた。まず一番目にあげたいのはやはり儲かるからだろう。

    注文や仕事がたくさんあり、企業規模や給料をあげることができるという期待があるから

    だろう。貧しくて、仕事もない国の人は働かない。皮肉にも、豊かで儲かるという好条件が、

    われわれをワーカーホリックに駆り立てる。この条件はあんがい大事で、高度成長期が

    なかったら、日本人はこんなに働かなかっただろう。この時期を知らない若者はとうぜん

    労働意欲が落ちる。


     老後保障がない恐れというのも強い。産業構造の変貌により、従来守られてきた家族

    扶養や地域扶助といった紐帯がつき崩されてしまった。頼りになるのは自分の稼ぎだけで

    ある。たったひとりで生きていかなければならないという不安はかなり大きなものである。

    国民年金は精神的な面で完全に失敗している。信頼もないし、家族のような情緒的ケアを

    まったく果たせていない。自分の代で貧しくても老後は子どもがなんとかしてくれるだろうと

    いった安心はなく、けっきょくのところ、自分の稼ぎで老後を守らなければならないわけだ。

    必死に働かざるを得ないだろう。


     会社との雇用関係において守られる権利や慣習がないというのもある。働き出せば、

    この日本社会の個人はだれにも守られない。法的権利はないし、仕事を抑制するような

    ほかの社会的慣習・文化的条件といったものがなんら存在しない。企業より強い超越的な

    存在や文化がないゆえに個人はだれにも守られない。その上、これまでの人々は企業を

    庇護してくれる存在だと勘違いしてきたから、ますます守られない。個人は企業との関係に

    おいて一方的に丸裸のまま蹂躪されざるをえないという背景があり、この恐れが盲目的な

    企業奉仕をもたらす。


     仕事以外の崇高な目標やおこなうべき慣習もない。つまり仕事以外に費やす時間の使い方

    を知らないのである。なんにもすることがないから、とりあえずは会社に行けば仕事が与えら

    れるし、暇もつぶせる、しかも稼げるという人たちも多い。こういう人たちはけっこういるようだ。

    なんだかかなり情けないが、この社会は仕事以外の価値観や社会的慣習といったものが

    ほぼゼロだし、それに寛容であったり、賞賛するような社会風土がないから、企業社会の

    牢獄に閉じ込められざるをえない。それだけ文化や精神が発達しなかった貧困な社会風土

    だったということだ。


     歯止めがないというのもある。どれだけ稼げば気がすむのか、どれだけ消費すれば気が

    すむのか、どれだけ豊かになれば手を休めるのかといった歯止めがまるでない。ゴールライン

    をどこに引くのかという了解もないし、それを考える頭すらない。これくらい貯まったからもう

    いいや、このくらいの豊かさでじゅうぶんだという意識がまるでない。まるで頭をちょん切られた

    交尾中のカマキリみたいに機械運動に余念がない。どこにも経済拡張主義にたいする

    ストッパーがないことがこの日本をおかしくしている。


     また計画的人生観にも問題がある。明日のために今日の命を捨てるといった人生観が

    過剰になっているため、今日を楽しむことができない性質をつくりだしている。まるで極楽に

    いくために現世を否定するといった仏教観と意外にそっくりである。明日を怖れ過ぎるから、

    今日を生きることができない。未来に賢明であり過ぎたために逆に人生を捨て去るという

    のは皮肉なものだ。こうなったのは人生にはとつぜんの中断がない、病死したり、事故死

    したりといった要素がまったく考えられていないからであり、長寿をまっとうしようと思えは、

    ただひたすらに生きてゆく安泰を願うことになり、それが今日の人生を絞め殺すことになる。

    未来のハイウェイコースを構想できたばかりにわれわれは人生を失ったわけである。


     技術文明なくしては生きられないといった要因もあるだろう。われわれはこの技術文明を

    はずれた生きる術をまったく見失ってしまった。経済競争や産業変貌の荒波の中でも、

    それに必死にしがみつかざるを得ないだろう。もうこんな生活なんていやだと思っても、

    いきなり野に出て生活できるわけなんかないわけだから、意地でも金銭収入がいる。

    その気まぐれな荒波の中で生きてゆくためにはその動向を知らなければならないという

    ことで、やみくもな流行依存や大衆盲従がおこなわれるわけだ。文明は楽ではない。

    いくつもの巨大文明が滅んできたのもわからないこともない。


     忘れてはならないのは、人並みでありたいという欲求である。人より貧しかったり、

    流行りのモノが買えなかったり、車や家が買えなくなる恐れが、われわれを強烈に産業

    主義に縛りつける。さげずまれたり、劣等に見られたり、低い身分としてとりあつかわれる

    恐れや怒りが、われわれをがむしゃらな労働に追い立てる。そしてその逆恨みとしての

    ルサンチマンが優越願望として、新しい優越記号を日に日に生み出してゆく。優越と劣等

    にはまるで歯止めがなく、切りがない。際限なく優越と劣等ゲームはおこなわれる。

    そういう中で、みずからの生も心も、人生も失われてゆくというわけだ。人間というのは

    名誉や面目のためにはみずからの生命さえ投げ打つ愚かな存在である。生命より、虚構の

    自我が大事であるというのは、人間の一番愚かな性なのだろう。


     われわれをこんなに働かさせている理由をいくつかひろいあげてみたのだが、どれも

    これもが複雑に絡み合っていて、ただひとつの原因は見極めにくい。ただ若者たちはオヤジ

    たちの会社人間ぶりをひじょうに嫌っているわけだが、この企業社会ではそんな不満は

    かんたんにもみ消されてしまう。この労働主義社会はテコでも動かない。戦後にビルトイン

    された経済拡張主義がいまだに猛威をふるっており、経済界の権力層の要請もあって、

    個人や国民を無視した奴隷労働国家はどこまでも際限なくつづいている。政治や官僚は

    財界と手を結び、どこまでもわれわれを酷使しつづけている。


     このようなシステムは変えることができるのか。なんらかの方法はあるのか。政治や官僚

    たちのみがわれわれを抑えているのではなく、われわれ自身にもこのシステムを存続

    しようとする意志があるから、国民たちはおとなしく黙っているのだろう。こんなガマンならない

    経済至上主義であるのに。


     そこでわれわれを産業主義に縛りつけているいくつかの理由について考えてみた。

    われわれ国民にも能がないともいえる。仕事以外にすることがなかったり、企業や政府に

    生活や老後の保障を要求する気持ちが強かったり。そういう弱みにつけこまれて、

    若者にはおおよそ信じがたい経済至上主義がいつまでも存続しつづけている。


     こんなシステムから脱け出すためにはわれわれ自身の心の中を再点検してみる必要が

    ある。われわれ自身がこのシステムを存続させている張本人ではないのか。おそらく

    世代によってその差はかなりあると思われるが、新しい世代はいったいつまでこの

    経済至上主義にガマンしつづけられるのだろうか。





     


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