なぜ人より優れたり、勝ちたいと思うのか

                                                   1999/4/30.






     われわれはなぜ人から認められたり、賞賛されたすることを望むのだろうか。なぜ人より

    優れたい、勝ちたいと思うのだろうか。われわれは子ども時分から人より優れていることや、

    人に勝つことを教えられて育つ。反対に落ちこぼれることや負けること、軽蔑されることを

    たいそう恐れて育つ。


     大人になるとこの意識はもう無条件のものになり、疑われることも、疑問に思われることも

    ない。いつも勝ち負けを競い、勝ち負けだけで人を判断し、そして勝ち負けだけで自分を

    勝ち誇り、あるいはみずからを負け犬として蔑む。


     現代のわれわれは人から賞賛されなかったり、世間から注目もされず終わってしまう人生に

    強烈な怖れを抱いている。自分がそういう人間でしかないのかと気づくと自我がこなごなに

    砕かれてしまう。自分の人生や存在は価値も意味もまったくないものに感じられてしまう。

    だから人は必死に有名になろうとしたり賞賛を得ようとやっきになるのだ。タレントやバンドの

    オーディションに駆けつける人やTVに出たがる人、そしてこのインターネットのホームページも

    その衝動のあらわれだろう。みんな世間から注目されようとし、そしてそうでなければ、

    自己の存在価値はないと思っている。


     世間から注目されることが自分の価値なのである。世間の眼目を得られない人でも、

    まわりの人たちや会社の人たちに注目されることを望んでいる。会社の成績やブランド品、

    あるいは海外旅行やレジャーの思い出や経験によってその賞賛は得られる。そしてそれらの

    賞賛や優越を得られない人はいつでも自我の欠損や消沈にさいなまれる。


     われわれはいつも人より勝ったり、優れたりする賞賛を得ようと必死になっている。なぜ、

    われわれはこんなに他人の賞賛を得ようとし、そして得られなければ自我が砕かれてしまう

    のだろうか。われわれを駆りたてるものはいったい何なのだろうか。


     世間のあらゆるところで勝ち負けが喧伝されている。TVやマスメディアでは富や成功を

    得た人がもてはやされ、スポーツでは勝ち負けだけが伝えられ、学校では成績の優劣で

    ふるいわけられ、歴史では勝者や優秀な人間のみが名を残し、親は近所での子どもの

    優劣を過敏にはやしたてる。すべてこの世の中は「勝ち負け」と「優劣」に彩られている。

    この社会は優劣のシステムで成り立っているわけだ。


     この世は「勝者」の世界である。勝者のための世界である。そして勝者の洗脳の世界だ。


     われわれはこういった勝敗と優劣の洗脳の社会の中に生きているので、世間の賞賛や

    注目に一喜一憂するというわけだ。世間の価値観と自己の価値観は切り分けることが

    難しいくらい一体化している。ゆえにわれわれの自我は世間の勝ち負けの奔流に翻弄される

    のだ。「勝ったり優れたりしたらおまえはエライ、負けたり劣っていたらおまえは悪い」という

    具合だ。これはまったく自分自身の価値観になってしまっているので、われわれは必死に

    この怖れに駆りたてられてあちこちを騒ぎ廻るというわけだ。文明というのはこういう哀れな

    人間の闘争心の慰めみたいなものではないかと思う。


     われわれはこの勝敗優劣の世界であちこちを逃げ回る生き方もできるが、もちろん

    個々人の幸福度、充実度という点では、この価値基準はいくぶんかはやわらげたほうが

    好ましいのはいうまでもない。


     みんな「勝った、負けた」とかんたんにいうが、勝ち負けというのは永久には存在しない。

    なぜなら勝ち負けというのはある時間内でしか決められないもので、時間制限がなかったら

    そんなものは存在し得ない。スポーツなら一定のルールがあるが、ほかの事象の勝ち負けを

    競おうとしたら無数の観点とジャッジがあるわけだから、そんなものは判定できない。

    価値観が無数にあれば、勝ち負けなんて存在しないも同然なのだ。ただある社会には

    ある価値観があってそれによって勝敗が決まるが、ものごとの価値観はいろんな角度から

    すくいとることができるということを忘れないでほしい。社会の価値観なんていつの時代も

    絶対なんてことはありえないので、ほかの価値観でそれをひっくり返すことなんてかんたんだ。

    もしあなたがなんらかの勝ち負けや優劣によって劣等感を抱かされたとしたなら、まず

    その価値観の順位に疑問を呈してみてほしい。


     勝ち負けや優劣なんてじつのところあやふやなもので、そんなことになんの価値があるのか

    と疑問をかければ、すぐにひっくり返ってしまう。ただ社会というのはその価値観の信念で

    石頭のようにこり固まっている場合がほとんどだから、圧倒的なリアリティの前に立ちつくす

    しかないときもあるかもしれないが、結局それは「砂の城」であることを忘れないでほしい。


     勝ち負けはあんがいの虚構の代物ではないのかと容易にわかるが、名誉や賞賛を得たい

    とする心の衝動はどうなのだろうか。われわれはこの心の欲望を引き下げることができる

    だろうか。この欲望は現代では自分そのものになってしまっていないだろうか。


     しかし賞賛や名誉の悲しむべきところは、どんなに名誉を得たところでけっきょくは

    それは人々の頭のなかに一時の興奮をもたらすだけで、すぐに忘れ去られ、永続化すること

    はできないということだ。他人の心の中の賞賛を永久保存することはできない。名誉は

    すっかり忘れ去られ、賞賛は打ち捨てられ、注目はすぐ得られなくなるのがオチだ。

    つまり他人の心の中を自分の思い通りのまま、とどめておくことなんて絶対に不可能なのだ。

    だから名誉や賞賛をアテにして心の満足を得ようとするのは必ず失敗するというわけだ。

    いつか必ず終わりのときがくる。TVのタレントでもある一時は爆発的に人気が出たとしても、

    たいていの人はみんなから忘れられてゆくのが人の世の常というものだ。


     身近なまわりの人との関係においても、勝ったり優れたりすることの評価をあまりアテに

    しないほうがいい。他人の評価なんて操作することはかなり難しいし、自分の優劣価値を

    他人も共有するとは限らないし、だいいち、自分の勝ちを他人に知らせるためにはたえず

    だれかを負け犬に仕立て上げなければならなくなるし、他人を自分の評価の道具にしてしまう

    から、みんなから敬遠されてしまうだろう。


     他人の賞賛や評価というのはじつのところ、頭の中で他人が抱くであろう評価についての、

    虚構にしかすぎない。パスカルやショーペンハウアーが嘆いたところの、またはマルクス・

    アウレーリウスがいっていたように虚構の満足なのである。われわれ現代人はまことにこの

    心のなかの虚構を生きているのである。


     他人が頭の中で抱くであろう自己の虚構を必死にあっちこっちでつつき回してわれわれは

    一喜一憂している。勝ったり負けたりする自己はその中で操り人形のように踊りつづける。

    われわれはその操り人形の自己を見て優越感を感じたり、劣等感にさいなまされたりするの

    である。想像力による自己がわれわれの人生を哀しむべき存在にしてしまっているのではない

    だろうか。    


     けっきょくのところ、われわれが一番欲しているものは名誉でも賞賛でもなく、ただ心の

    満足や平安のみではないだろうか。それを人々は外界の物事を操作して、必死にそれらを

    得ようとする。外界の対象や事物はあまり関係ないのではないだろうか。われわれは外界を

    操作するのではなく、心そのものを操作することによってそれを得られるのではないだろうか。


     すべて心の問題に還元できる。ただ外界を圧倒的で絶対的なものと見なしたものだけが、

    外界の操作に熱中し、そこから心の満足を補填しなければならなくなるのではないだろうか。


    外界や物事が問題なのではなく、心の状態こそが問題なのである――わたしはそう思う。







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